小椋桂さん作詞作曲の歌『また旅支度』は、このタイトルだけでも味わい深い想いがするが、この歌の最後の部分、「どこにあるのか 安らぎの場所 なぜ また旅支度」というところが、極めて印象的だ。
旅は辛く苦しいものであるが、やめられないものであるらしい。
西部劇『南から来た用心棒』(原題:アリゾナ・コルト)で、流れ者のギャンブラーで銃も凄腕のアリゾナ・コルトは、ある街で英雄となり、心惹かれた美女にも慕われるが、最後は未練なく馬で旅立つ。
アニメ『エル・カザド』で、苦難の旅を続けてきた2人の少女、ナディとエリスは、ある老夫婦に出会い、しばらく彼らの家にいる間、老夫婦は彼女達を実の娘のように優しくしてくれた。そして、老夫婦は少女達がずっとここにいること、つまり、本当の娘になってくれることを願い、彼女達も、それを楽しいことのように感じたが、やはり、旅立ってしまう。そして、老夫婦も、それが仕方がないことだと理解していたようだ。
時代劇小説『木枯し紋次郎』および、その続編の『帰ってきた紋次郎』シリーズの全21冊の中で、一生、旅をするしかない定めの紋次郎も、3度、安住の地を見つけたことがあり、それは、紋次郎にとって、奇跡的なほど快適で幸福に思える場所だった。
紋次郎自身、そこに居続けたいと感じてはいたのだが、やはりいつも最後は旅立ってしまう。
その時の紋次郎は鳥かごから出た野生の鳥のようで、読んでいる方も、安住する紋次郎は紋次郎でないと感じるはずである。
これらは、創作作品であるとはいえ、そういったところが極めて自然で、それが本当のことであるとはっきりと感じるのである。
それを、最初に挙げた、小椋桂さんの『また旅支度』の歌が見事に描いている。
なにかのハードボイルドな漫画で見たことがあるが、ある裕福な家のお嬢さんが、苦闘の人生を生きる男を見て、「人間は安定を求めた時に生きるのをやめるのですね」と確信して語る場面を覚えている。読んだのは子供の時だったし、たまたま見た古い雑誌に載っていたもので、ストーリーなんてさっぱり分からないながら、そのセリフだけを印象深く覚えているのだ。
旅は、観光ではないのだから、楽しいことはあまりなく、むしろ、苦しいことの方が多い。
周りは知らない人ばかりだし、彼らがどんな人間か分からず、好意を持たれていない場合も多い。
そもそも、安住している人々はよそ者を嫌う。
その土地のどこに何があるか知らないし、食料など、生活必需品がうまく手に入らないことも珍しくはない(昔であれば極めて困難だ)。
不便な地で途方に暮れることもあるし、争いになれば、有利なことなんてまずない。
それでも、旅の味を覚えれば、やめられないものに違いない。
人間は、安楽であれば、肛門が開いていく。
苦難、危険があれば、生きるために、無意識に肛門を締める。
ヨガの大家達は、若さとは肛門の締める力が強いことに他ならないと言う。
肛門を締める頻度が高いほど、エネルギーを得て、若くなり、強くなる。
それを、意識せずにやれるのが旅なのだろう。
多くの人は旅をしていない。
だが、苦しいことが多い人生ほど、旅に似て来る。
そもそも、人生は旅であるのらしい。
有名な歌をネタにしたある歌に、「人生は川じゃない、沼だ」というのがあったが、安住すれば、沼になるのだ。
苦しいことでもなければ、肛門を締める修行もなかなか出来ないものだ。
だが、常に肛門が締まるようになれば、腹に気が満ち、いかなる苦難にも打ち勝つ力が出来ている。
そうなれば、むしろ、苦難がないと退屈でつまらない。
生きるのをやめないため、自然の気と交流するため、力をつけて喜ぶため、未知の冒険に嬉々として挑む自分であることを試すため、苦難こそ友なのである。
SFテレビドラマ『Xファイル』で、FBI長官がこんなことを言う。
「友は身近に。しかし、敵はもっと身近に置くものだよ」
敵こそ、真の友である。
心(小我)にとって敵である苦難こそ、純粋な心(大我)にとって、かけがえのない友である。
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旅は辛く苦しいものであるが、やめられないものであるらしい。
西部劇『南から来た用心棒』(原題:アリゾナ・コルト)で、流れ者のギャンブラーで銃も凄腕のアリゾナ・コルトは、ある街で英雄となり、心惹かれた美女にも慕われるが、最後は未練なく馬で旅立つ。
アニメ『エル・カザド』で、苦難の旅を続けてきた2人の少女、ナディとエリスは、ある老夫婦に出会い、しばらく彼らの家にいる間、老夫婦は彼女達を実の娘のように優しくしてくれた。そして、老夫婦は少女達がずっとここにいること、つまり、本当の娘になってくれることを願い、彼女達も、それを楽しいことのように感じたが、やはり、旅立ってしまう。そして、老夫婦も、それが仕方がないことだと理解していたようだ。
時代劇小説『木枯し紋次郎』および、その続編の『帰ってきた紋次郎』シリーズの全21冊の中で、一生、旅をするしかない定めの紋次郎も、3度、安住の地を見つけたことがあり、それは、紋次郎にとって、奇跡的なほど快適で幸福に思える場所だった。
紋次郎自身、そこに居続けたいと感じてはいたのだが、やはりいつも最後は旅立ってしまう。
その時の紋次郎は鳥かごから出た野生の鳥のようで、読んでいる方も、安住する紋次郎は紋次郎でないと感じるはずである。
これらは、創作作品であるとはいえ、そういったところが極めて自然で、それが本当のことであるとはっきりと感じるのである。
それを、最初に挙げた、小椋桂さんの『また旅支度』の歌が見事に描いている。
なにかのハードボイルドな漫画で見たことがあるが、ある裕福な家のお嬢さんが、苦闘の人生を生きる男を見て、「人間は安定を求めた時に生きるのをやめるのですね」と確信して語る場面を覚えている。読んだのは子供の時だったし、たまたま見た古い雑誌に載っていたもので、ストーリーなんてさっぱり分からないながら、そのセリフだけを印象深く覚えているのだ。
旅は、観光ではないのだから、楽しいことはあまりなく、むしろ、苦しいことの方が多い。
周りは知らない人ばかりだし、彼らがどんな人間か分からず、好意を持たれていない場合も多い。
そもそも、安住している人々はよそ者を嫌う。
その土地のどこに何があるか知らないし、食料など、生活必需品がうまく手に入らないことも珍しくはない(昔であれば極めて困難だ)。
不便な地で途方に暮れることもあるし、争いになれば、有利なことなんてまずない。
それでも、旅の味を覚えれば、やめられないものに違いない。
人間は、安楽であれば、肛門が開いていく。
苦難、危険があれば、生きるために、無意識に肛門を締める。
ヨガの大家達は、若さとは肛門の締める力が強いことに他ならないと言う。
肛門を締める頻度が高いほど、エネルギーを得て、若くなり、強くなる。
それを、意識せずにやれるのが旅なのだろう。
多くの人は旅をしていない。
だが、苦しいことが多い人生ほど、旅に似て来る。
そもそも、人生は旅であるのらしい。
有名な歌をネタにしたある歌に、「人生は川じゃない、沼だ」というのがあったが、安住すれば、沼になるのだ。
苦しいことでもなければ、肛門を締める修行もなかなか出来ないものだ。
だが、常に肛門が締まるようになれば、腹に気が満ち、いかなる苦難にも打ち勝つ力が出来ている。
そうなれば、むしろ、苦難がないと退屈でつまらない。
生きるのをやめないため、自然の気と交流するため、力をつけて喜ぶため、未知の冒険に嬉々として挑む自分であることを試すため、苦難こそ友なのである。
SFテレビドラマ『Xファイル』で、FBI長官がこんなことを言う。
「友は身近に。しかし、敵はもっと身近に置くものだよ」
敵こそ、真の友である。
心(小我)にとって敵である苦難こそ、純粋な心(大我)にとって、かけがえのない友である。
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