堀江貴文さんがゼロ高等学校というものを作るようだ。
川上量生さんが作ったN高等学校の二番煎じ感は否めないが、ポリシーは異なるのだろう。
しかし、N高等学校に比べ、小規模感は感じざるを得ないし、学費はやや高い。
N高等学校もゼロ高等学校も、「従来の高校では不可能な本当に主体的、創造的、実際的な若者を育てる」というもので、これは、従来の高校と言うか、学校がロクでもないものであることから必要とされるのだ・・・と言うことなのだろう。
私は、N高等学校が出来た時、実際、良い学校が出来たと思ったが、ずっと何か引っかかってはいた。
つまり、「良い学校なんて必要なの?」という疑問があったのだ。
実際、N高等学校は良過ぎる。
そんな良いもの、ガキに与えてどうすんだい・・・という想いが強くなってきたのだ。
どうも、川上量生さんや堀江貴文さんのような頭の良い人達に、私のような頭の悪い者は騙され易くていけないとマジで思う。
高校を含め、日本の学校はロクでもない。
それは間違いない。
しかし、全て悪い訳ではない。
それに、悪いから良いという面は大きい。
若者は、ある程度、ロクでもない体制、ロクでもない教師の中で鍛えられる必要があるんじゃないか?
社会に出たら、学校どころではないロクでもないものはもちろん、ぶっ飛んだ悪はいくらでもあり、それらに無関係で生きることは不可能だ。
嫌でも悪と対峙し、戦うかどうかはともかく「交渉しなければならない」のだ。
そのために、学校や教師を反面教師とし、悪とうまくやっていくための訓練をしておかないといけないのではないか?
そして、悪い学校に行ったから駄目になる訳ではない。
もし、悪い学校に行ったから駄目になったと言うなら、そんな「弱っちいやつ」は世の中でやっていけないし、言ってみれば「そんなやつ必要ない」。
今、素晴らしい活躍をしている人達もみんな、ロクでもない学校で鍛えられた者達ではないのか?
N高等学校では、素晴らしいプログラミング教育が行われていると言う。
しかし、プログラミングに教育なんか必要ない。
今の素晴らしいプログラマー達は、教育されたのではなく、自分で学んだのだ。
DTM/ボカロ講座って・・・そんなもの教育されて良いクリエイターになれると本当に思っているのか?
アスカやハルヒではないが、「バッカじゃない?!」と本当に思ってしまうのだ。
Learning over Education(教育より学び)
MITメディアラボ所長の伊藤穣一さんが言ったことで知られる言葉だ。
「教育」は与えられるもの、「学び」は自分でするもの。
教育は必要ないのである。
もし、子供達に作ってやれるとしたら、「学ぶ」ための環境だが、それをユートピアのようなものにしてはいけない。
今の学校でいいんだ。
形骸化した権威を守る教育委員会と学校、保身にしか興味がないのにプライドの高い教師。
そんなものとうまくやっていき、自分を守り、何とか好きなことをやる。
それこそが、N高等学校のように「すっばらしい」教育を与えて若者達を甘やかすより、ずっと良いことなのである。
それに、学校にだって良いところはあるだろう?
素晴らしい教師だって・・・まあ、いるかもしれない(笑)。
教師も含め、仲間達とぶつかり合って鍛えなくてどうすんだい?
その結果、引きこもるなら、それも1つの手だが、そこから1人で歩き出す方法を知っておく必要があるのだ。
「学校のせいで自殺した」なんて子供もいるだろう。
もちろん、それは学校や教師の罪であり、責任どころか、刑事罰に問わなければならない場合もあるのかもしれない。
食品会社の食品が腐っていたら罰せられるのが当たり前のように。
しかし、自殺した子供達には、何か根本的に与え損ねた生きるコツがあるのではないかと思う。
子供達が持っておくべきもの、それは、呪文である。
「絶対、大丈夫だ」といった、常に自分に言い聞かせる言葉である。
これがないから、子供に限らず、人間は、頭の中のマイナスの想いにやられてしまう。
だから、子供だろうが、大人だろうが、それが老人だろうが、呪文を常に唱えるべきである。
信じることが出来るなら「南無阿弥陀仏」でも「南無妙法蓮華経」でも良いが、宗教に騙されないよう、一人でやる必要がある・・・ような気はする。
子供達には、「絶対、大丈夫」という呪文を教え、思い出したら唱えるよう勧めれば良い。
後は、ケセラセラ(「なるようになる」という意味の俗語)だ。
そして、大人であるあなたも、「絶対、大丈夫」や、「全て順調だ」という呪文を何か1つ選び、それを使うことだ。
地獄で光線銃を撃ちまくるように。
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川上量生さんが作ったN高等学校の二番煎じ感は否めないが、ポリシーは異なるのだろう。
しかし、N高等学校に比べ、小規模感は感じざるを得ないし、学費はやや高い。
N高等学校もゼロ高等学校も、「従来の高校では不可能な本当に主体的、創造的、実際的な若者を育てる」というもので、これは、従来の高校と言うか、学校がロクでもないものであることから必要とされるのだ・・・と言うことなのだろう。
私は、N高等学校が出来た時、実際、良い学校が出来たと思ったが、ずっと何か引っかかってはいた。
つまり、「良い学校なんて必要なの?」という疑問があったのだ。
実際、N高等学校は良過ぎる。
そんな良いもの、ガキに与えてどうすんだい・・・という想いが強くなってきたのだ。
どうも、川上量生さんや堀江貴文さんのような頭の良い人達に、私のような頭の悪い者は騙され易くていけないとマジで思う。
高校を含め、日本の学校はロクでもない。
それは間違いない。
しかし、全て悪い訳ではない。
それに、悪いから良いという面は大きい。
若者は、ある程度、ロクでもない体制、ロクでもない教師の中で鍛えられる必要があるんじゃないか?
社会に出たら、学校どころではないロクでもないものはもちろん、ぶっ飛んだ悪はいくらでもあり、それらに無関係で生きることは不可能だ。
嫌でも悪と対峙し、戦うかどうかはともかく「交渉しなければならない」のだ。
そのために、学校や教師を反面教師とし、悪とうまくやっていくための訓練をしておかないといけないのではないか?
そして、悪い学校に行ったから駄目になる訳ではない。
もし、悪い学校に行ったから駄目になったと言うなら、そんな「弱っちいやつ」は世の中でやっていけないし、言ってみれば「そんなやつ必要ない」。
今、素晴らしい活躍をしている人達もみんな、ロクでもない学校で鍛えられた者達ではないのか?
N高等学校では、素晴らしいプログラミング教育が行われていると言う。
しかし、プログラミングに教育なんか必要ない。
今の素晴らしいプログラマー達は、教育されたのではなく、自分で学んだのだ。
DTM/ボカロ講座って・・・そんなもの教育されて良いクリエイターになれると本当に思っているのか?
アスカやハルヒではないが、「バッカじゃない?!」と本当に思ってしまうのだ。
Learning over Education(教育より学び)
MITメディアラボ所長の伊藤穣一さんが言ったことで知られる言葉だ。
「教育」は与えられるもの、「学び」は自分でするもの。
教育は必要ないのである。
もし、子供達に作ってやれるとしたら、「学ぶ」ための環境だが、それをユートピアのようなものにしてはいけない。
今の学校でいいんだ。
形骸化した権威を守る教育委員会と学校、保身にしか興味がないのにプライドの高い教師。
そんなものとうまくやっていき、自分を守り、何とか好きなことをやる。
それこそが、N高等学校のように「すっばらしい」教育を与えて若者達を甘やかすより、ずっと良いことなのである。
それに、学校にだって良いところはあるだろう?
素晴らしい教師だって・・・まあ、いるかもしれない(笑)。
教師も含め、仲間達とぶつかり合って鍛えなくてどうすんだい?
その結果、引きこもるなら、それも1つの手だが、そこから1人で歩き出す方法を知っておく必要があるのだ。
「学校のせいで自殺した」なんて子供もいるだろう。
もちろん、それは学校や教師の罪であり、責任どころか、刑事罰に問わなければならない場合もあるのかもしれない。
食品会社の食品が腐っていたら罰せられるのが当たり前のように。
しかし、自殺した子供達には、何か根本的に与え損ねた生きるコツがあるのではないかと思う。
子供達が持っておくべきもの、それは、呪文である。
「絶対、大丈夫だ」といった、常に自分に言い聞かせる言葉である。
これがないから、子供に限らず、人間は、頭の中のマイナスの想いにやられてしまう。
だから、子供だろうが、大人だろうが、それが老人だろうが、呪文を常に唱えるべきである。
信じることが出来るなら「南無阿弥陀仏」でも「南無妙法蓮華経」でも良いが、宗教に騙されないよう、一人でやる必要がある・・・ような気はする。
子供達には、「絶対、大丈夫」という呪文を教え、思い出したら唱えるよう勧めれば良い。
後は、ケセラセラ(「なるようになる」という意味の俗語)だ。
そして、大人であるあなたも、「絶対、大丈夫」や、「全て順調だ」という呪文を何か1つ選び、それを使うことだ。
地獄で光線銃を撃ちまくるように。
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