ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

H.G.ウェルズ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

あなたはループする世界の中に居る

こう言うと、ほとんどの人に断固否定されるかもしれないが、神に願えば、何でも即座に叶えられる。
神に願えば叶うということを信じないという人には2通りある。
1つは、神に願ったことがない人だ。
そして、もう1つある。
それは、願いは叶ったが、キャンセルされたのだ。
この2つ目の「願いがキャンセルされる」ことについて述べる。

昔話で、神様が、3つの願いを叶えてくれるというものは、どこの国にもある。
だいたい、同じパターンで、具体例で言えば、こんなものだ。
お爺さんとお婆さんがいて、神様が、願い事を3つだけ、何でも叶えてあげるという。
そこで、お爺さんは「大きなソーセージ」と願うと、大きなソーセージが現れる。
すると、お婆さんは、「3つしか願えないのに、下らないものを願って」と怒り、ソーセージがお爺さんのほっぺたにくっつくよう願うと、その通りに、お爺さんのほっぺたにソーセージがくっついてしまう。
そして、ソーセージはどうやっても取れず、やむなく、3つ目の願いは「ソーセージを取って下さい」になる。
すると、ソーセージは消え去る。
こんなふうにして、大切な3つの願いを使い切ってしまう。
これは、愚かであってはならないという教訓だ。

しかし、これではまだ、実感に乏しいのだ。
そこで、世界最高のSF作家、H.G.ウェルズは『奇跡を起こせる男』という短編で、もっとしっかりとしたことを書いた。
内容は言わないが、上の、お爺さんとお婆さんのお話で言えば、ソーセージに関する一連の出来事が終わったあと、お爺さんとお婆さんは全て忘れてしまうというものだ。

あなたも同じなのだ。
願いは叶ったが、それはキャンセルされ、神の配慮で全て忘れさせられたのだ。
例えば、男であれば、愛しい女性と結ばれるよう祈り、めでたく、結ばれる。
しかし、その後、どうしようもなく不幸なことになり、男は、こんな女と結ばれなければ良かったと思う。
すると、神は「キャンセル可能だ」と言うので、男は願いをキャンセルし、世界は、男がその女性と結ばれるよう神に願う前まで戻り、男も全て忘れる。
ただ、当然ながら、その先がある。
全てを忘れた男は、再び、その女と結ばれることを願うのだ。

さて、では、どうすれば良いか?
良いヒントが、アニメ『涼宮ハルヒ』の伝説の全8話のシリーズ『エンドレスエイト』の中にある(原作小説では『涼宮ハルヒの暴走』に収録)。
キョンやハルヒ達は、同じ年の夏休みを15,532回(638年と110日)繰り返すが、リセットされるごとに記憶が消える。
ところが、記憶は消えるが、微かな印象は残るようで、デジャヴ(既視感)を感じ、不可思議な疲れもある。
結局、キョンが答を見つけない限り、いつまでも繰り返される。
この『エンドレスエイト』は視聴者に大不評で、これのおかげで、それまで好調だったDVDの売上げは激減したと言われる。
だが、この『エンドレスエイト』は、重要なことを教えてくれるのである。
それは、あなたもまた、答を見つけないといけないということだ。

「私は〇〇だ」と心で唱えれば、必ず〇〇になる。
しかし、ある時、なぜか、「私は〇〇だ」と唱えるのが、何か嫌になる。
それは、実は、あなたは本当に〇〇になったのだが、それで散々な目に遭い、結局、叶う前に戻り、全てを忘れたが、やはり、僅かな印象は覚えており、もう願う気にならなくなったのだ。
では、どうすれば良いか?
簡単だ。
自分が〇〇になっても大丈夫なように準備すれば良い。
そうすれば、再び「私は〇〇だ」と唱えたくなるかもしれないし、もっとレベルが上がった〇〇を思いつくはずだ。
いずれにしろ、「私は〇〇だ」は叶うのである。
良い例が、『シンデレラ』だ(『サンドリヨン』『灰かぶり姫』のタイトルになっている場合もある)。
本当は、シンデレラだって、同じことを数え切れないほど繰り返したのだ。
しかし、シンデレラが優しい心を持ち、姉達を許して良くしてあげた時に、物語は、あのよく知られるハッピーエンドになったのだ。








真の自分を知れば超人になる

本当の自分を知ると、全ての潜在力が開き、事実上、超人になる。
アニメ『MADLAX』で、それを象徴する印象深い場面がある。
リメルダ・ユルグは、マドラックス(ヒロイン。17歳)と互角に戦える超人的女性戦闘員で射撃の達人である。
そのリメルダが、すぐそこ(十数メートル先か)に身を晒しているマドラックスを銃撃する。
リメルダの腕なら、いかなる小さな的でも楽々撃ち抜く距離である。
だが、マドラックスには当たらない。
リメルダが当てようとしていないわけではない。本気でマドラックスを殺そうとしているが、マドラックスは、リメルダが連続して撃ってくる弾丸を涼しい顔で交わしてしまうのだ。
少しは焦りを見せながら、リメルダはマドラックスに、「どうしてそんなことが出来るの?」と問う。
すると、マドラックスは「本当の自分を知ったから」と答える。

そんな実話を、これまで何度も書いた。
1つだけ再度書くと、英国の作家コリン・ウィルソンは、19歳の時、人生に絶望し、劇薬の青酸カリが入ったビンのフタを開け、まさに口に含もうとした。
その時、世界がガラリと変わる。
ウィルソンの意識には、崇拝する英国のSF作家H.G.ウェルズの自伝小説『ポリー氏の人生』のポリーの言葉が浮かんだ。
「人生が面白くないなら、変えてしまえばいい」
完全ではなかったかもしれないが、ウィルソンは本当の自分を知ったのだろう。
それ以降、彼の人生は変わる。

では、彼らはなぜ、自分を知ったのか?
それは、死の体験によってである。
マドラックスは脇腹を撃たれて深い傷を負い、数日、生死の境をさ迷った。
そこから回復した時に変わっていたのだ。
コリン・ウィルソンも、死を受け入れたのである。

インドの聖者ラマナ・マハルシも、17歳の時、不意に訪れた死の体験によって、偉大な聖者に生まれ変わった。
そして彼はずっと、「私は誰か」と自分に問えと世界に訴えた。
まさに、彼は、真の自分を知れば、自分が全てであると分かることを示したのだ。

では、我々はどのようにそれをすれば良いのか?
ラマナ・マハルシの方法(「私は誰か」と自分に問う)は、難しいと思われる。まあ、難しいという観念こそが邪魔なのであるが、実際に、成功者は少ない(あるいはいない)と思われる。

1つ、こんな方法がある。
呼吸を出来る限り微かにするのだ。
うまくいけば、数時間で死の体験が出来るかもしれないが、これは危険を伴うので、お勧め出来ない。

そこで、やはり、マントラ(真言)なのである。
気に入ったマントラなら何でも良い。
ただ、普段お勧めしている観世音菩薩の真言「オン・アロリキャ・ソワカ」や「南無観世音菩薩」は、『観音経』によれば、どちらかというと現世利益のマントラである。
唱えれば、確実に恵があるが、真の自己を知るにはどうであろう?
実は、全く問題なく使えると思うが、このマントラが現世利益のためのものであるという観念が強いと、必ずしもうまくいかないかもしれない。
そもそも、まずは、現世利益が大切であり、皆が皆、そこまでのこと(真の自己を知って宇宙と一体化する)は望まないかもしれない。
だが、やはり真の自己を知りたい場合は、例えば、阿弥陀如来真言「オン・アミリタ・テイセイ・カラウン」を唱えると良いかもしれない。
もちろん、「南無阿弥陀仏」でも良い。
そして、真言密教の最高位であった織田隆弘氏は、大日如来真言の中でも、「オンアビラウンケン」を特に推奨されていたようである。
※【密門会ホームページ 】 真言宗の根本真言参照
私個人は、この真言でも、あるいは、「アジマリカン」でも「トホカミエミタメ」でも、全く同じという立場であるが、高度な専門家の意見も尊重する。








人生という映画のシナリオ変更法

人生が映画だというのは、本当に良い譬えだ。
いろんな聖者、賢者、神秘家も、人生や世界を映画に喩えたが、もっとうまく喩えろと言いたい気持ちもある(笑)。

人生、あるいは、世界という映画の主人公は我々一人一人だ。
そして、映画は、初めからシナリオが決まっているのが当たり前だ。
シナリオがないのに映画を作るはずがない。
それは人生映画も同じである。
我々の人生のシナリオは初めから決まっていると考えるべきである。

しかし、映画は、製作途中でシナリオを変えることが絶対に出来ないだろうか?
原則論で言えば出来ないが、実際は、案外に行われているのではないだろうか?
「いやあ、シナリオはこうだけど、こう変えた方が良くはないか?」
といった感じである。
しかし、変えられる範囲には自ずと限度がある。
「3月9日のシーンでは、主演の君は、彼女をハグするシナリオだが、チューまでいってみよう!その方が後の展開に活気が出る」
という場合もあるだろう。
だが、そこで、あなたが、
「いえ、どうせならもっといろいろ!」
と言っても、監督である神様は、
「いや、それはいかん。後のシナリオ変更が大変だ。それに後のお楽しみも取っておかないと・・・」
などと言うのである。

シナリオを変える権限は、監督である神様にある。
しかし、主演役者がシナリオを変えて欲しいと思う場合だってあるだろう。
その場合、やりようによっては、監督(神様)にシナリオを変えてもらうことが出来る。
ただし、一定の範囲でということになるはずだ。
だが、一定の範囲とはいえ、シナリオを変えれば、随分違った映画になる。
チュー出来る相手は2人と決まっているのに、3人に変わればどんなに良いか・・・いや、レベルが低すぎた(笑)。

では、どうすれば、シナリオを変えられるのか?
例えば、お金がなくて、当分の間、家でじっと引きこもるシナリオになっているが、旅行に行くシナリオにしたいと思う。
旅行に行けたら、旅行先で可愛い女の子と出会い、彼女とチューを・・・いや、これはあくまで1つの例題である(笑)。
この場合、例えば、旅行バッグを買えば良い。
そうしたら、監督(神様)も、「しょうがないなあ」と思い、お金がどんと入って来るシナリオにするなど、自然に旅行に行く展開にしてくれるかもしれない。
このように、役者である自分が、シナリオを変える準備をすることが有効であることが、沢山の成功者を演じた役者が保証してくれている。
チン・ニンチュウの『誰でも小さなことで大切な願いをかなえられる』という本では、クリント・イーストウッドがこれで成功し、イーストウッドは駆け出し俳優のバート・レイノルズに教え、レイノルズも成功したことが書かれている。
イーストウッドは名優だけに、直観的にそんなことが分かったのだ。
また、フローレンス・スコーヴェル・シンの本では、沢山の事例が書かれている。
H.G.ウェルズの自伝的小説『ポリー氏の人生』では、ポリーは「人生が気に入られなければ変えてしまえば良い」と言い、英国の作家コリン・ウィルソンは、この言葉を座右の銘として、人生を変えた。

ところで、他に、とっておきのシナリオ変更法がある。
実際の映画ではやっちゃいけないが・・・有効ではある(笑)。
それは・・・主演役者であるあなたが「シナリオを忘れる」ことだ(笑)。
そのために、ずっと、お経や祝詞を唱えたり、マントラを唱えれば、シナリオを思い出さない(笑)。
もう、メチャクチャだ(笑)。
だけどねえ、シナリオを忘れるにしても、監督(神様)への敬いを忘れないことが絶対に大切だ。
だから、お経や祝詞や、真言が良いのだ。
例えば、監督が阿弥陀如来とすれば、「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」と阿弥陀如来の真言を唱える。
尚、阿弥陀如来というのは、人間の概念としては、一仏の仏様だが、実際は、あまりに大きく普遍的な、そして、偉大な存在で、宇宙全体と言って良い。
だから、監督が阿弥陀如来だと思えば阿弥陀如来だ。
ところで、シナリオ変更に親切に動いてくれる存在が観世音菩薩で、阿弥陀如来(監督)に対する観世音菩薩は、助監督とか、ジブリで言えば、宮崎駿監督に対する鈴木敏夫プロデューサーのような関係と思っても良いと思う。
宮崎駿氏と鈴木敏夫氏はとても仲良しだそうだが、阿弥陀如来と観世音菩薩もそうである。
そんなわけで、観世音菩薩の真言「オン、アロリキャ、ソワカ」を唱えても良いし、「般若心経」や「十句観音経」を唱えても良い。
だが、大切なのは、敬う心である。
だから、この通りでなくても、自分なりに誠意を示せば良いのだと思う。
迷うなら、日本人の場合、自分の干支の守り本尊(【Wikipedia】十三仏参照)の仏様や菩薩様の真言を唱えるということが昔から行われている。
あるいは、「十言の神咒(とことのかじり)」といって、天照大神のお名前である「アマテラスオオミカミ」と唱えるものがある。
また、昔から、運命を好転させる「サムハラ」のお札を持ったり、同時に、「サムハラ」と唱えるというやり方もある。
いずれも、敬意を持って行わなければならない。
それらを常に行いながら「これで運命を変えて下さる」と信頼してお任せすれば良いと思う。








人間はエロ小説家

名優ユル・ブリンナーが主演した1973年の映画『ウエストワールド』は、2016年に、3DCGを駆使したテレビドラマシリーズでリメイクされた。
1973年版の方は、コンピューターで管理された「ウエストワールド」というレジャーランドの話だ。
そこには、帝政ローマ、中世ヨーロッパ、アメリカ西部開拓時代などを精巧に模した都市が作られ、その中で、人間そっくりなアンドロイドを相手に、お客様は、王様、女王様、英雄騎士、お姫様、西部劇のヒーロー等になり切ることが出来る。
これは楽しいに決まっている。
西部劇の世界では、どんな貫禄ある凄腕ガンマンが現れて決闘しても、必ず自分が勝つし、その結果、好みの美女もゲット出来るのだからたまらない(笑)。
ただ、ある時、コンピューターのトラブルか何かで異常が発生し、アンドロイド達は負けてくれず(笑)に恐ろしく強く、下手したら確実に殺されるというディストピアに、お客様達は取り残された状態になってしまう・・・。

『トータル・リコール』(1990)以降になると、そんな理想の世界を、物理的にではなく、夢の中や、VR(仮想世界)で実現することが考えられ、異常事態が発生しても物理的な身体は無事だが、今度は、被害は精神に集中することになり、考えようによっては、こっちの方が怖い。

ところで、それなりの長い期間、好きな夢が見れるとなると、あなたは、どんな夢を見たいだろうか?
手塚治虫氏の『アポロの歌』という、当時としては超エロい漫画で、そんなことを、医学博士の手塚治虫氏が描いて見せたが、やっぱり、エロいことがいっぱい起こった(笑)。
あなたも、そんな夢にしたいだろうか?
尚、日本では、御馳走をたらふく食べる夢を見たいと思う人は少ないだろう。
一度や二度くらいなら、誰でも、満足が出来る素晴らしい御馳走がリアルで食べられるからだ。
私は、子供の時、そんな時には、超エロい夢・・・ではなく(笑)、動物の王国(ただし自然な)の中で、百獣の王・・・ではなく、豹とか鷹になって、自由に悠然と過ごしたいと思ったものだった。
王様というのも考えたが、王様が日常、何をするのか知らないので、そんな夢にしても、物語が展開せず、退屈で仕方がない。立派な子供なら、それではと、王様について調べるだろうが、残念ながら、私は立派な子供ではなかった(笑)。

もし、好きな夢が見れるとなると、素晴らしい夢を想像出来る人が、小説家になれる人だと思う。
『神様のメモ帳』という小説では、主人公の鳴海(物語の大半で高校1年生)は、高校を卒業後、小説家になったが、その理由は「探偵助手といったら小説家って相場が決まってる」からだそうだ。彼は、ニート探偵アリス(絶世の美少女だが、見かけは小学生の13歳)の助手だった。
それ以前に、アリスが、探偵と小説家だけが何かが出来ると言っていたが、その「何か」が何だったか私は憶えていない。まあ、人間の秘密に踏み込むことが出来る商売といった意味だとは思う。

で、別に、職業としての小説家になる必要はないが、我々は、小説家でないといけない。
小説家と言うよりは、「ストーリー・ライター」だ。
自分の物語を自分で創造しなければならない。
心理学者の河合隼雄氏と小説家の小川洋子氏が共著で『生きるとは、自分の物語をつくること』という名著を書いているが、河合氏は他の本で、「自分の物語を持っている人は強い。子供でも」といった意味のことを書かれていたが、おそらくそうなのだろう。
エロいことも、物語性がなくては面白くないものだ。
逆に、エロの要素のない物語もつまらない。
そして、自分の物語が作れない人は、あまりうまく引き寄せをやれない。
本を読むにもフィクションとノンフィクションのバランスを取らないといけないが、面白いことに、シェイクスピアやH.G.ウェルスの小説は、この2つ(フィクションとノンフィクション)が絶妙に融合している。まあ、シェイクスピアでは古く感じてしまってリアリティを感じないかもしれないが、ウェルズは読んだ方が良い。
そして、想像力が人生を作ることを、ウェルズは『ポリー氏の人生』で見事に描き、それを読み、それを人生の指標にしたコリン・ウィルソンは、ある時、一夜で世界的作家になった。
自分がストーリー・ライターだということを忘れてはならない。








奇跡の正しい起こし方

イギリスのSF作家、H.G.ウェルズは、コリン・ウィルソンやカート・ヴォネガットらの大作家が最高の賛辞を寄せる文学者だ。
ウェルズの『宇宙戦争(1898)』や『タイムマシン(1895)』は、20世紀に傑作映画が作られているが、それぞれ、2005年、2002年にも映画化されており、さらに、未来の再映画化も十分に考えられる。
タイムマシンの概念を作ったのはウェルズではないかと思うが、他にも、ウェルズは、原爆が無かった時代にその登場を予言した。

ウェルズの短編に『奇跡を起こせる男』(1898)という作品がある。
「奇跡を起こせる男」なんて言葉は日本語になってないなんて文句を言う人もいそうだが、訳者によって、『奇跡を行う男』『奇跡をおこさせる男』など、他にもいろんな日本語版タイトルがある。
原題は“The Man Who Could Work Miracles”だ。
私はこれを中学1年生の時に読んで、非常に面白く印象的だったのを憶えている。
どんな話かと言うと、突然に神のごとき力を得た、30歳の冴えない男の話だ。
彼が最初に起こした奇跡は、当時は石油ランプが使われていた時代だが、その石油ランプを、空中に逆さに浮かせて燃えさせるというものだった。
彼が、そうなれと言えばただちにそれは実現した。
上等の服も、豪華な料理も思いのまま、即座に出現させることが出来た。
ある時、刑事に追い詰められた時には、思わず、刑事に向かって「地獄へ行け」と言ったら、その刑事は消えてしまった。
地獄が本当にあるかどうかはともかく、いつまでもそのままでは悪いので、男が場所を指定して「帰って来い」と言ったら、地獄の炎で焼けたのか、服が焦げた刑事が、その場所に現れた。
現代と比べて、極めて情報が少ない時代の、凡庸なこの男の想像力では、それほど大それたことは考えないと思われたが、最後に、かなりヤバい奇跡を起こしたところ、予想もしなかった事態に怖れをなし、男は、最後の奇跡として、奇跡の力を捨てることと、最初に奇跡を起こした時間に戻るようにした。

奇跡を起こせる人と言えば、映画『トワイライトゾーン/超次元の体験』の中の第3話である『子供の世界(IT'S A GOOD LIFE)』というものがある。
11歳位のアンソニーという少年が、やはり、万能の奇跡の力を持っていた。
それで、家族全員が、アンソニーに怯え、家来のように従っていた。
結局、若い女性教師ヘレンに諭され、アンソニーは奇跡の力を生涯、封印することを誓うが、さあ、どうなることやら。

いずれにしても、奇跡の力なんてものは、普通の人間には無用で、持つと、ロクなことにならないことを示している。
そもそも、奇跡の力というものがあるかとなると、自分が科学的であるとか常識があると思っている人の多くは「ない」と言うだろう。
しかし、新約聖書には、イエス・キリストが多くの奇跡を起こした話があり、キリスト教徒の多くは、それを信じている。
日本にだって、黒住宗忠という、奇跡の力を見せたと言われる神道家がいるし、他にも、話だけなら沢山いるだろう。
いや、私も、奇跡を起こせる人には結構会っているし、私も少々出来る(笑)。
そして、科学者の中にも奇跡を肯定する、あるいは、可能性を肯定する者は、今でも少なくないし、むしろ、増えているようにも思う。
もちろん、科学的に言うなら、「奇跡の定義は」から始まるので面倒であるが。

で、こう決着をつけておく。
イエスにしろ黒住宗忠にしろ、あるいは、誠実に思える奇跡を起こせる他の人達の間でも、奇跡には共通することがある。
まず、奇跡を起こす力は、ごく身近にある。
イエスは天にいる神の力としたが、神には距離は関係ない。
黒住宗忠の場合、絶対神としての天照大神は、外にもいるが、我々と一体でもあるとも言った。
そして、現在の潜在意識の法則や引き寄せの法則では、奇跡でも起こせる万能の力は、潜在意識、あるいは、無意識の中に存在し、誰でも、いつでも、それを使えるのだと言う。
ただ、上の『奇跡を起こせる男』や『子供の世界』には、圧倒的な誤りがある。
それは、奇跡というものは、人間の意思で無理矢理起こすものではなく、神とでも言うべき存在が起こすのだということだ。
それを、イエスは「私の思いではなく、神の思いが実現しますように」と言ったのだし、黒住宗忠は「神に丸ごとまかせれば間違いない」と言ったのだ。
そして、神が味方であることは、彼らを含めた全ての聖人や現代の引き寄せの法則の教師達が保証している。
で、どうすれば、神様が願いを聞いてくれるかと言うと、いろいろやり方はあると思うが、私に関して言えば、1つのやり方以外は難し過ぎて駄目である。
そのやり方は、何度も書いたが、
「私はXXXXである」
と、言葉や心で言うことだ(私はもっぱら心でだが)。
叶わないのは、やり方がどうとかではなく、単に回数が足りないだけで、小さな願いで数千回、大きな願いでも10万回で叶う。
まあ、保証する訳にはいかないが、特殊な事情がある場合を除き(滅多にない)、叶わないことはあり得ないと思う。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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