Facebookは実名で使わなければならない。
この実名で使うところが、責任や信頼につながるという。
そんなところもあるのかもしれないが、あたかも、実名等、世間的事実を公表することで、ネット上に、その人の本当の姿が現れるかのように言うが、それは絶対に間違いだ。
Facebookを、名前だけ登録して使っていると、やれ、「出身校を入れろ」、やれ、「勤務先を入れろ」としつこくうながしてくる。
そんなものをネット上にさらす気はないということもあるが、それよりも、そんなことは私とは何の関係もないから入れないのである。
名前(実名)、出身地、生年月日、通った学校、勤務先・・・それらは、自分というものの静的属性だ。
静的属性は、その人の、ほんのわずかなことしか示さない。
それは、流れる川の1枚の写真、走る動物の1枚の写真、飛ぶ鳥の1枚の写真だ。
そんなものが、川そのもの、動物そのもの、鳥そのものと言えるだろうか?
まさか、そんなことはあるまい。
ところが、現代の人々は、その人の国籍、年齢、学歴、勤務先、身長や年収が分かったら、その人が分かったと思ってしまうのだ。
そんなものは、その人のどうでも良い部分、言ってみれば、古くなって脱ぎ捨てた靴のようなものなのに、その靴をその人だと見なして重要視し、その人そのものを無視するようなものだ。
だが、まずは、自分が、自分自身を、静的属性と同一視しないことだ。
出身地、卒業した学校、勤務先、年収を自分だと思う愚を犯してはならない。
静的な属性を自分と見なすと、10年先の自分が分かってしまう。
それは、無限であるべき自分の未来を限定しまうことなのだ。
Facebookのやり方に従うどころか、むしろ私は、静的な属性を全部捨てよう。
そうすれば、動的な属性は自由自在で無限となるのだ。
静的な属性に囚われると自己を縛ってしまうのである。
デカルトは、確かに静的な属性である形を否定した。
だが、惜しいかな、彼は数学者だったので、概念的で抽象的な思考を重んじ、感覚的な形は真実ではないとして否定したが、宇宙や人体は神が作りたもうた聖なる形として崇めてしまったのだ。
それで、人間や宇宙の静的属性を聖なる絶対のものと考えてしまった。
これは、絶対神を崇めるキリスト教の弊害である。
とはいえ、科学はユダヤ-キリスト教的発想がなければ発達しなかったし、現代の豊かな文明も実現しなかった。
だが、言うまでもなく、弊害も多く出来てしまった。
私はキリストの良さを認めたいが、キリスト教には何の興味もないし、関わることもない。
私は、宇宙も人体も忘れよう。
我々の実体は、形を超越した無限の存在だ。
そして、動的属性である、自分の物語を創るのである。
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そんなところもあるのかもしれないが、あたかも、実名等、世間的事実を公表することで、ネット上に、その人の本当の姿が現れるかのように言うが、それは絶対に間違いだ。
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そんなものをネット上にさらす気はないということもあるが、それよりも、そんなことは私とは何の関係もないから入れないのである。
名前(実名)、出身地、生年月日、通った学校、勤務先・・・それらは、自分というものの静的属性だ。
静的属性は、その人の、ほんのわずかなことしか示さない。
それは、流れる川の1枚の写真、走る動物の1枚の写真、飛ぶ鳥の1枚の写真だ。
そんなものが、川そのもの、動物そのもの、鳥そのものと言えるだろうか?
まさか、そんなことはあるまい。
ところが、現代の人々は、その人の国籍、年齢、学歴、勤務先、身長や年収が分かったら、その人が分かったと思ってしまうのだ。
そんなものは、その人のどうでも良い部分、言ってみれば、古くなって脱ぎ捨てた靴のようなものなのに、その靴をその人だと見なして重要視し、その人そのものを無視するようなものだ。
だが、まずは、自分が、自分自身を、静的属性と同一視しないことだ。
出身地、卒業した学校、勤務先、年収を自分だと思う愚を犯してはならない。
静的な属性を自分と見なすと、10年先の自分が分かってしまう。
それは、無限であるべき自分の未来を限定しまうことなのだ。
Facebookのやり方に従うどころか、むしろ私は、静的な属性を全部捨てよう。
そうすれば、動的な属性は自由自在で無限となるのだ。
静的な属性に囚われると自己を縛ってしまうのである。
デカルトは、確かに静的な属性である形を否定した。
だが、惜しいかな、彼は数学者だったので、概念的で抽象的な思考を重んじ、感覚的な形は真実ではないとして否定したが、宇宙や人体は神が作りたもうた聖なる形として崇めてしまったのだ。
それで、人間や宇宙の静的属性を聖なる絶対のものと考えてしまった。
これは、絶対神を崇めるキリスト教の弊害である。
とはいえ、科学はユダヤ-キリスト教的発想がなければ発達しなかったし、現代の豊かな文明も実現しなかった。
だが、言うまでもなく、弊害も多く出来てしまった。
私はキリストの良さを認めたいが、キリスト教には何の興味もないし、関わることもない。
私は、宇宙も人体も忘れよう。
我々の実体は、形を超越した無限の存在だ。
そして、動的属性である、自分の物語を創るのである。
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