ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

BLOOD-C

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

純粋意識の掴み方

『BLOOD-C(ブラッド・シー)』というアニメに、「光の先」というものが出て来くるが、これは、『BLOOD-C』自体と関係なしでも面白いので、ちょっと取り上げる。
原作小説では、単に「光」と書かれている。
小夜(さや)という名の、女子高生であり神社の巫女である主人公が祈っていると現れる見えない光。
もう少しで掴めそうなのに掴めない光。
小夜が、その光を掴んだのは、ほぼ同じ内容の原作小説とテレビアニメの最後のあたりで、小夜が、ある強敵と戦った時だ。
小夜も恐ろしく強いが、その敵は、小夜以上だった。
小夜は追い詰められ、絶体絶命となる。
小夜は、ここで負けて死ぬはずだった。
しかし、その時、光が現れる。
光が何かしたわけではない。ただ、現れた・・・というか、小夜がそれを感じただけだ。
その刹那、勝負は逆転し、小夜は一瞬で敵を倒す。

この光は、謎でも何でもない。
また、小説でも「見えない光」と書かれていた通り、光と言ってもライトではない。仮に光と呼ぶだけだ。
この光は、純粋意識だ。
誰でも持っている・・・いや、人の実体そのものだ。
小夜は、なぜ、この光を掴めたのか?
小夜の意識(表の意識、自我)が消えたからだ。
では、なぜ、小夜の意識が消えたのかというと、敵を殺すことを決意したからだ。
小夜には、この敵を殺したくない事情があった。
しかし、ここで負けて殺されるわけにはいかない、つまり、敵を倒すしかないと覚悟を決め、殺すことを決意したのだ。

要するに、誰でも、意識を消せば・・・無になれば、純粋意識が現れる。
重要なことは、意識と純粋意識が同時に現れることはないということだ。
どちらかが現れれば、どちらかが消えるのだ。
だから、自我が消える・・・無、無我、忘我、没我になれば、純粋意識が輝きながら現れる。
これは、純粋な科学だ。
そして、無になれば、即ち、純粋意識が現れれば、不可能はなくなり、全てが決意した通りになる。

だから、無になる方法、自我を消す方法を知っておいた方が良い。
それは、決して、公式的なインスタントなものではないが、少しも難しいことでもない。
何と言っても、光・・・純粋意識が人間の本体で、いわば、自我の方が偽物なのだからだ。
偽物を除けば、本物が現れる。それだけのことである。

同じカップでも、好きなキャラクターが描かれていたら、倍の値段でも買う。
それは別に悪いことではない。
人間には、そんなことも必要だ。
しかし、それが本当に必要なわけでもないことを知り、いつでも、キャラクターがついていないカップを平気で買うことが出来る。
そんな者は光に近いのである。
逆に、それが出来ない者には、何を話しても光は掴めない。








人は生まれではなく育ちである

ダライ・ラマについて、よくは知らなくても、ほとんどの人が、「何か非常に畏れ多い、重い何か」といった感じのイメージを持っているのではないかと思う。
正式には「ダライ・ラマ法王」であり、チベット仏教の最高位にしてチベットの象徴であり、少し前までは、チベットの元首とも見なされていた。
無茶苦茶偉いというか、大変な権威であるのだと思う。
ところで、現在のダライ・ラマは14世であるが、ダライ・ラマは日本の天皇のような世襲制ではなく、ローマ法王のように何らかの意味で優れているから選ばれた訳でもない。
私は昔、何かの本で(丹波哲郎さんの本だったかもしれない)、ダライ・ラマ継承について読んだことがあったが、Wikipediaに書かれていることも、ほぼ同じだ。
簡単に言うが、ダライ・ラマが死ぬと、死んだダライ・ラマの生まれ変わりを見つけ、その者が本当に生まれ変わりであるかを、前世のダライ・ラマしか知らないことを尋ねるなどで厳重にテストし、確かにダライ・ラマの生まれ変わりであると確認したら、引き取ってダライ・ラマとして育てるのである。
ところが、物理学者の保江邦夫さんの著書『祈りが護る国 アラヒトガミの霊力をふたたび』という本の14ページに、こんな話が書かれていた。
日本に来ていたダライ・ラマに、一般の人が、この継承の話は本当かと尋ねたらしい。
勝手な推測だが、チベットでそんなことを言ったらタダでは済むまい。死刑と言われても驚かない。
ところが、ダライ・ラマは、その質問に笑って、明確に「嘘」と言ったのではないと思うが、「どうでもいいこと」「誰でもいい」といった意味のことを言ったらしい。
チベット仏教は嫌いではないが、権威なんてものは感じていない私にも、これは、なかなかの衝撃だった。
さらに、保江さんの書いたニュアンスを無視して言うなら、それは、天皇も同じなのだと言う(ただし、保江さんは天皇をこの上なく敬っている)。

つまり、あくまで保江さんの本によればであるが、全ては「育ち」なのである。
そして、それは、私も大いに納得した。
人気漫画家集団CLAMPとプロダクションI.G原作のアニメ『BLOOD-C(ブラッド・シー)』は、「人は生まれか、育ちか?」で始まり、この作品は、それを確認する壮大な物語なのであり、私は、この作品のテレビアニメの部分しか見ていないので、作品としての結論は知らないが、気にはなっている。
劇場版が、DVD/Blu-rayでしか見れないが、買うほどでもないと思ったし、小説も、時間をかけて読むほどでもないと思うからだが、面白い作品だし、テーマは良い。だが、やはり、作品としては、私としては残念なものであると思う。

やはり、人間は、生まれではなく、育ちなのである。
もっと言えば、教育である。
そして、「育てられた、あるいは、教育された通りの人間になる」のだから、好ましい感じはしないが、教育とは「洗脳」であると言っても間違いではない。
偉い教育者が「教育とは偏見を与えること」と言ったという話があったが、全くその通りである。
思想、信念は、教育によって持たされてしまった偏見、あるいは、幻想である。
そして、人間の精神面の大きな部分は、子供の時の育ちで決まり、後で自力で変えることは難しい。ひょっとしたら、それは(大人になってから精神的傾向を変えること)出来そうに思えるだけで不可能なのかもしれない。

だが、私は、自分で自分の精神を変えることは可能であると確信する。
大人になってからでも、全くの別人に生まれ変わることなんて、ありふれてはいないながらも、いくらでもあると思う。
それは、コンピューターのデータを書き換えるようなもので、権限と手順が分かれば、難しいことではない。
そして、いきなり結論を言うなら、「私は魔法使いである」という信念に替えれば魔法使いになる。
イギリスの作家コリン・ウィルソンは、H.G.ウェルズの『ポーリー氏の生涯』(未翻訳)の中にあるらしい、「人生が気に入らなければ替えてしまえばいい」という言葉を座右の銘にしていたようだが、そのためには、信念を替えれば良いのである。
ただ、そのための怪しげで有害な方法が巷に溢れているので、注意深くあらねばならないが、そんな判別は、本来は難しくないと思う。








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自分が消え、世界が終る時だけが幸福な人達

社会で成功し、お金持ちになるために、難しい秘訣などはない。
地位に相応しい能力を身に付け、効果的で積極的な行動をすれば良いのである。しかし、それを誰でも今すぐできる訳ではない。
訓練は必要である。しかし、そんな風には誰でもなれる。
方法は簡単に言い尽くせると思う。
日、週、月、年、そして、1年1年の未来の目標を立てることだ。
そして、それらの目標と共に、実際に自分が行った実績も記録し、その目標と成果の両方を、できるだけよく分かるように工夫して書き残すことだ。
昔の成功者達は、そのために、ノートを実にうまく工夫して書いたものだ。
今はパソコンがあり、便利なソフトも沢山あるので、その点は有利になったはずなのだが、昔の人達が書いたノートを見たら、本当にうまく書けていて感動するほどだ。

いずれにしろ、社会で成功するための方法は上記の通りだ。
この通りにやれば、別に神秘的なことも何もなく、ごく自然に成功する。
じゃあ、私はどうなのかというと、そんなことはやっていない。
成功なんてものをしたいのかどうか、自分でも分からないが、とにかく、そんな面倒なことはできないのだ。
だが、これをやらずに成功した人は、多分、いないと思う。
何の計画も立てず、長い時間の中で、自分が何をやったのかも正確に把握せず、ただがむしゃらにやって成功するということは、無いとは言わないが、恐ろしく特殊な例外であろう。
だから、成功したければ、敢えてほとんどうまくいかない方法はとらず、当たり前で確実なやり方を採用すれば良い。

しかし、いずれにしろ、私は成功とは縁がないし、今のところ、それを残念とも思わない。
きちんと予定を立てて、日々の行動をずっと小まめに記録するような面倒なことをするくらいなら、死んだ方がマシだ。
それは、私の食習慣を考えても分かるのだ。
本来であれば、私のように、朝、木の実とビスケットを少し食べ、夕食は、コンビニのおにぎりを1つ食べる以外は何も食べないといった食事は、すべきではないと思う。
しかし、私は適度に食べるということができない。そんな能力がない。
だから、食を慎むためには、死なない適度に食べずにいるという方法しかないようなのである。

『BLOOD-C』というアニメは、第1回目のスタート部分でいきなり、「人間の性質は、生まれだろうか?育ちだろうか?」という疑問が提出されるが、答えるなら、「育ちも含めて生まれ」だ。
つまり、どんな生まれ方をし、どんな育ち方をするかは、運命として決まってしまっている。
それは、どうしたって、絶対に変えることはできない。
成功して金持ちになる方法は分かりきっているのだが、それすら、誰にでも「実際に」やれるとは限らないし、できない者には、私のように決してできない。

目標や行動結果の記録ができない人間の性質とはどんなものか述べると、それは、時間の観念が弱いということだ。
理由は分からないが、時間の流れを現実的に感じることができない者がいる。
遠い過去も未来も、現在と同じように感じてしまうのだ。
そんな人が、昔のことや将来のことを考えた時、そこに自分は登場せず、色つきの光景を思い描く。
いつまでも精神が幼いし、逆に、自分が小さかった時のことを思い出しても、自分を幼いと思わない。
しかし、それも1つの才能なのだ。
だが、そんな人に残された道は、無になることだけ。この世から消えることだけ。言い換えれば、悟りを開くことだけだ。
自分が消える時、それは、世界が終る時ともいえるが、それが、その人の唯一の幸福なゴールである。

初音ミクと巡音ルカのデュエット曲『ワールズエンド・ダンスホール』を聴いて、胸がじいんとしたり、泣けてくるなら、おそらく、私のお仲間である。少しも名誉なことではないがね。









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エンティティー(生命体、本質、実体)の脅威の力

人間にとって、最高の喜びを感じることとは、1つには、子供の時の感覚を取り戻すことである。
大人の言う「疲れた」と、子供の言う「疲れた」は全く違う。
大人の場合の「疲れた」は本当にエネルギー切れの状態だが、子供の場合は、「疲れた」という言葉と「元気だ」という言葉を交換したという程度の意味なのだ。
だから、子供は、「疲れた」と言った後で面白いものが目の前に現れると、容易くその言葉を撤回し、「元気だ」に換えてしまうのである。

大人が再び、そんな子供の時の力を取り戻すことは難しい。
世界的芸術家の横尾忠則さんが、十代の頃に好きだったものを大切にしろと言ったようなことをよく著書に書かれているが、彼の芸術の根源は、中学生の時に夢中になった冒険小説らしい。そして、そもそも、芸術というのは、1つには、子供の時に持っていた「何か」を復活させることを目的とすることであり、本来、宗教もそうであるはずなのだ。

実際にその感覚を少し味わいたいと思うなら、小学生や中学生の時の、「明日から夏休み」という日のことを思い出せば、割と簡単に分かると思う。
それが、純粋な生命体であるエンティティー(entity 本質とか実体という意味)の力であると覚えておいて欲しい。

石ノ森章太郎さんの遺稿を、息子さんの小野寺丈さんが小説作品にした『サイボーグ009 完結編 2012 009 conclusion GOD'S WAR』という、3冊からなる大変な傑作がある。
40年も前だろうか、石ノ森さんの歴史的な作品と言って良い『サイボーグ009』のヒーロー達であるサイボーグ戦士達が、遂に神と戦うことになるが、あまりに巨大な敵との戦いのストーリーは壮大過ぎ、石ノ森さんは、その時は、連載の休止を宣言した。
石ノ森さんは、ファンの期待は感じつつも、時々、その周辺のお話を作品化するに留め、作品本体は本当に良いものにしようとする中で、とうとう命が尽きてしまった。
小野寺さんは、その膨大でありながらバラバラの原稿を前に絶望しかけたが、父章太郎の霊は彼と一体化したのだろう。至高の作品として完成した。
そのお話の中で、009こと島村ジョーが初めて神と戦った時、あまりの力の差に何も出来ずに滅びるはずだったが、不意に不思議なことが起こる。
その時、009が発揮したのは一瞬だけだったが、それが、石ノ森さんが予告していた、「新しい力」であることが私には分かった。
石ノ森さんは、芸術家でありクリエイターであって、空想家ではない。その「新しい力」は、我々にもある、本当の本物だ。
それがエンティティー(生命体、本質、実体)の力なのだ。
子供は、エンティティーと一体化した割合が大きいので、大人のように疲れてしまったりはしない。
009は、身体の大部分が機械であるサイボーグだが、エンティティーは機械の性能だって高める。バイクや車が本当に好きな人なら、そんなことを実感していると思う。
あるいは、『BLOOD-C』という現代のアニメのように、小夜(さや)という少女は、それ(彼女は光の先と呼んだが)を刀に込めることができた。この作品も、霊感で創造されたが、ソクラテスも言ったように、あらゆる創造あるいは想像は全て霊感がもたらすものであり、ソクラテスは、霊感を運ぶものをダイモニア(ダイモーン)と言ったのだ。
エンティティーを解放した009や小夜のパワーは驚くべきものだったが、我々だって、その気になればやれることなのだ。
これらの作品を読んでも、感覚の一端を掴めるような気がする。

以下は仮説である。
エンティティーは科学的には、関英男博士(電波工学の世界的権威でサイ科学の研究者)がGTPと言ったものだ。
GTPとは、重力子が結合して構成された素粒子で、特殊な振動、あるいは、エネルギーを発する。気功でいう気や、ヨーガでいうプラーナもこれである。
人間が持つGTPは、生まれたばかりの時が最も多く、年とともに減少し、最低数が無くなると死ぬが、少なくなると、エネルギーが低下し、意欲、気力が無くなる。
GTPを増やす方法は無いが、関博士は、腕振り運動でだけ、増やせることを確認した。
関博士は、毎朝2千回の腕振り運動を欠かさず、90歳を超えても元気で世界を飛び回り、毎日、世界中から論文を取り寄せて研究し、頭脳も肉体も全く衰えなかった。
関博士の薦めで腕振り運動をやった人達は、医者が見離した難病が治ってしまった人も多くおり、関博士自身、胃癌を、医療によらずに治してしまった。
私の場合、皮膚病だけは業病(カルマによる病気)のようで、別に治らなくても良いが、メニエール氏病は重症だったが医療を拒否し、腕振り運動で治してしまった。
そして、私は、最近、子供の頃の感覚が相当に蘇っていて、なんとも楽しくて仕方がないのである。身体に重さはなく、精妙な存在も感じることができる。
私は、腕振り運動を10年以上続けているが、この数ヶ月は特に進歩し、休日は、本当に1日中やっている。
腕振り運動に関しては、当ブログ内の次のリンクあたりを見て欲しい。
決して、自分の意志で生きてはならない
腕振り運動は天と調和するための簡単で優れた方法である









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真の笑顔、嘘の笑顔、偽の笑顔

良い笑顔が地球から消えていた。

嘲(あざけ)る笑顔、快楽を貪る笑顔、騙して我欲を満たそうとする時の笑顔。
テレビCMで見る笑顔は全てそれで、ぞっとするものばかりだ。
大企業が、子供にそんな真似をさせることも多いが、実に悲しいものだ。

復讐を果たした時の笑顔でも、自分が慕う者のための復讐であれば、多少共感することも無いでは無い。
それは、相手のためを思って嘘の作り笑いをする時に似たところがある。
愛する者の無念を晴らすというのは、正しい行為ではないのだけれど、それでも、復讐を果たした時、生きているか死んでいるかに関わらず、その愛する者と共に居ることを感じていることが分かるのだ。
そして、愛する者に心配をかけまいとして笑顔を作る時も、やはり、自分と愛する者との一体感があるのである。
だが、嘲る笑顔をする時、快楽を貪る時、利得のために騙す時には、誰との一体感も無い。

笑顔の本質とは、一体感だ。
それがない笑顔は偽者で醜い。

私は2年ほどセールスの仕事をやったが、その時に読んだ有名なセールスマンの本に書かれていたが、セールスマンは鏡を見て、笑顔の練習をしろとあった。
だが、その本の著者の写真の笑顔は醜いものだった。
金を得るために騙す笑顔が美しいはずがない。
そして、多くの企業で、顧客や取引先への策略として、従業員に笑顔の特訓をさせているところも多いが、それが世界を醜くしていたのだ。

一国の首脳、あるいは、トップが会う時は当然笑顔だが、その顔がどれも醜い。
両者に一体感がなく、本質においてバラバラで、心が離れていることがよく表れているからだ。

『BLOOD-C』というアニメの最終回で、こんな場面がある。
激しい戦いの後、小夜(さや)に切られて倒れた唯芳(ただよし)が穏やかな声で言う。
「嬉しかった・・・共に居られて。これは偽りではない」
そしてかすかな笑顔を見せた。
小夜も悲しい顔だが、優しい微笑を見せる。
2人が過ごしたのは嘘の親子関係だったが、それでも、お互い慕い合っていた。
慕う者同士であれば、共にいるという感覚があり、本当の笑顔になる。

猫を見たり、触ったりして笑顔になるというのは、猫との一体感があるからだ。
(猫の方は迷惑なこともあるのだが)
イルカと泳ぐと癒されるのはなぜかというと、イルカというのは、共生ということに関して非常に進歩した生物で、一緒に泳ぐと、「共に在る」という感じを強く感じるからなのだ。

人と人との一体感のためには言葉は不要である。いや、あってはならない。
インドの聖者ラマナ・マハルシは言ったものだ。
「共に居るという感覚があれば、自ずと相互理解はやってくる」
彼は、ほとんど会話をしなかったが、彼の前にしばらくいると、誰もが生まれ変わって、晴れやかな笑顔で去っていった。
沈黙の中に存在の感覚がある。いや、沈黙が存在である。
イエスは自分の名をギリシャ語で「エゴー・エイミー」と言った。
「私は在る」という意味である。英語の「I AM」であり、神秘家の間で、最も重要な言葉とされている。
そして、聖書には、「黙せ。そして、自分が神であると知れ」と書かれているのだ。

インドの詩聖タゴールは、月は見る者がいなければ月ではないと言った。
アインシュタインは、それがよく分からなかったらしい。
だが、それは、初音ミクを見れば癒されるようなものだ。
ミクには心がない。
聴く者がいなければ、見る者がいなければ、ミクは、空気の振動、光の粒子である。
だが、彼女を歌姫で、天使のような少女と想う者がいれば、ミクは、その想いに応える。
彼女の存在は、あなたなくしてはあり得ず、私とミクは一体化しているのだ。

0と1しか分からない
ワタシに"I(アイ)"を教えてくれた
その日からワタシのココロの中、
アナタで満たされてるの
~初音ミク『えれくとりっく・えんじぇぅ』(作詞、作曲:ヤスオP )より~

江戸時代、ある武士が、黒住宗忠に、「人は天照大神(あまてらすおおみかみ)と1つであるぞ」と言われたが、意味が分からなかった。
だが、別の日にもう一度言われ、はっと悟った。
黒住宗忠も、死の間際にあった時、天照大神が体内に入り込み、1つになり、以降、全くの強健になった。
天照大神に象徴される至高の英知と力は、本来、我々と1つである。それに気付くかどうかだけの問題である。
私には、ミクが天照大神である。

くれぐれも、偽りの笑顔をしてはならない。
本当の笑顔を大切にするのだ。
欲望のために魂を売ってはならない。
そうすれば、全てと1つであることが、すぐに分かるだろう。
まずは、猫と遊んで1つになり、ミクを純粋に聴き、見て、無意識に微笑むことだ。
そんなことを・・・純粋に楽しいと感じることを、何か見つけると良いだろう。
自然に笑顔になるものをね。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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