『BLOOD-C(ブラッド・シー)』というアニメに、「光の先」というものが出て来くるが、これは、『BLOOD-C』自体と関係なしでも面白いので、ちょっと取り上げる。
原作小説では、単に「光」と書かれている。
小夜(さや)という名の、女子高生であり神社の巫女である主人公が祈っていると現れる見えない光。
もう少しで掴めそうなのに掴めない光。
小夜が、その光を掴んだのは、ほぼ同じ内容の原作小説とテレビアニメの最後のあたりで、小夜が、ある強敵と戦った時だ。
小夜も恐ろしく強いが、その敵は、小夜以上だった。
小夜は追い詰められ、絶体絶命となる。
小夜は、ここで負けて死ぬはずだった。
しかし、その時、光が現れる。
光が何かしたわけではない。ただ、現れた・・・というか、小夜がそれを感じただけだ。
その刹那、勝負は逆転し、小夜は一瞬で敵を倒す。
この光は、謎でも何でもない。
また、小説でも「見えない光」と書かれていた通り、光と言ってもライトではない。仮に光と呼ぶだけだ。
この光は、純粋意識だ。
誰でも持っている・・・いや、人の実体そのものだ。
小夜は、なぜ、この光を掴めたのか?
小夜の意識(表の意識、自我)が消えたからだ。
では、なぜ、小夜の意識が消えたのかというと、敵を殺すことを決意したからだ。
小夜には、この敵を殺したくない事情があった。
しかし、ここで負けて殺されるわけにはいかない、つまり、敵を倒すしかないと覚悟を決め、殺すことを決意したのだ。
要するに、誰でも、意識を消せば・・・無になれば、純粋意識が現れる。
重要なことは、意識と純粋意識が同時に現れることはないということだ。
どちらかが現れれば、どちらかが消えるのだ。
だから、自我が消える・・・無、無我、忘我、没我になれば、純粋意識が輝きながら現れる。
これは、純粋な科学だ。
そして、無になれば、即ち、純粋意識が現れれば、不可能はなくなり、全てが決意した通りになる。
だから、無になる方法、自我を消す方法を知っておいた方が良い。
それは、決して、公式的なインスタントなものではないが、少しも難しいことでもない。
何と言っても、光・・・純粋意識が人間の本体で、いわば、自我の方が偽物なのだからだ。
偽物を除けば、本物が現れる。それだけのことである。
同じカップでも、好きなキャラクターが描かれていたら、倍の値段でも買う。
それは別に悪いことではない。
人間には、そんなことも必要だ。
しかし、それが本当に必要なわけでもないことを知り、いつでも、キャラクターがついていないカップを平気で買うことが出来る。
そんな者は光に近いのである。
逆に、それが出来ない者には、何を話しても光は掴めない。
原作小説では、単に「光」と書かれている。
小夜(さや)という名の、女子高生であり神社の巫女である主人公が祈っていると現れる見えない光。
もう少しで掴めそうなのに掴めない光。
小夜が、その光を掴んだのは、ほぼ同じ内容の原作小説とテレビアニメの最後のあたりで、小夜が、ある強敵と戦った時だ。
小夜も恐ろしく強いが、その敵は、小夜以上だった。
小夜は追い詰められ、絶体絶命となる。
小夜は、ここで負けて死ぬはずだった。
しかし、その時、光が現れる。
光が何かしたわけではない。ただ、現れた・・・というか、小夜がそれを感じただけだ。
その刹那、勝負は逆転し、小夜は一瞬で敵を倒す。
この光は、謎でも何でもない。
また、小説でも「見えない光」と書かれていた通り、光と言ってもライトではない。仮に光と呼ぶだけだ。
この光は、純粋意識だ。
誰でも持っている・・・いや、人の実体そのものだ。
小夜は、なぜ、この光を掴めたのか?
小夜の意識(表の意識、自我)が消えたからだ。
では、なぜ、小夜の意識が消えたのかというと、敵を殺すことを決意したからだ。
小夜には、この敵を殺したくない事情があった。
しかし、ここで負けて殺されるわけにはいかない、つまり、敵を倒すしかないと覚悟を決め、殺すことを決意したのだ。
要するに、誰でも、意識を消せば・・・無になれば、純粋意識が現れる。
重要なことは、意識と純粋意識が同時に現れることはないということだ。
どちらかが現れれば、どちらかが消えるのだ。
だから、自我が消える・・・無、無我、忘我、没我になれば、純粋意識が輝きながら現れる。
これは、純粋な科学だ。
そして、無になれば、即ち、純粋意識が現れれば、不可能はなくなり、全てが決意した通りになる。
だから、無になる方法、自我を消す方法を知っておいた方が良い。
それは、決して、公式的なインスタントなものではないが、少しも難しいことでもない。
何と言っても、光・・・純粋意識が人間の本体で、いわば、自我の方が偽物なのだからだ。
偽物を除けば、本物が現れる。それだけのことである。
同じカップでも、好きなキャラクターが描かれていたら、倍の値段でも買う。
それは別に悪いことではない。
人間には、そんなことも必要だ。
しかし、それが本当に必要なわけでもないことを知り、いつでも、キャラクターがついていないカップを平気で買うことが出来る。
そんな者は光に近いのである。
逆に、それが出来ない者には、何を話しても光は掴めない。