ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

8マン

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

『老子』第27章を一言で言えば「静かに在る」

今回は『老子』第27章である。
この章を一言で言えば「静かに在る」だ。

なぜ老子が、1つの章から次の章、さらに次の章と、同じことを、言い方を変えて繰り返すのかというと、やはり、読む者、聞く者が、真理に気付くチャンスを増やすためであると思う。
「あの言い方で分からないなら、この言い方ではどうか?それでも分からなければ、今度は・・・」といった感じである。

ところが、この第27章は、小賢しい説明がし易く、小賢しい説明をする者が自己満足し易い章だ。
つまり、デタラメな説明が横行し易い章で、小賢しい解説者に騙されてへんてこりんな理解をしてしまう危険が大きな章である。

この章には、こんな感動的なことが書かれている。
聖人は、
(1)馬車を駆っても、地面に跡を残さない
(2)話しても、聞き手の気分を害さない
(3)数えても、計算棒を動かさない
(4)鍵をかけなくても、開けられない
(5)縄をかけなくても、なくならない
と、まるで魔法使いである。
さらに、
(6)どんな人も生かすから、人々は捨てられない
(7)どんな出来事も生かすから、出来事が無駄にならない
と、名人達人の手腕を発揮する。

『美少女戦士セーラームーン』の主題歌として有名な『ムーンライト伝説』に、
「偶然もチャンスに変える生き方が好きよ」
という歌詞がある。
どうすれば、「偶然をチャンスに変える」ことが出来るか分かるだろうか?
結局、『老子』第27章に書かれていることはこれなのだ。
これを老子は「道を知る明知にしたがう」などという、わけの分からないことを言ったことになっている(笑)。
それをまた、誰かがわけの分からない解釈を言うのである。

偶然をチャンスに変えるには、偶然をチャンスに変えようとしなければ良いのである。
・・・まあ、これもまだ小賢しい言い方かもしれない。
老子の言葉に適用したら、「人を生かそうとしないから生きる」「相手の気分を害さないようにしようとしないから、相手の気分を害さない」となる。
まあ、ちょっとはピンとくるかもしれない。
つまり、小知を働かせるな・・・悪い頭で下手な策を弄するなということだ。
そして、人間の知というのは、全部小知である。
悪い頭で考える策は、全部愚策であるが、人間の頭は全部悪い。
「いや、頭の良い人に考えさせれば良い」
などと思うかもしれないが、いったいどこに頭の良い人がいる?

『8マン(エイトマン)』という漫画・アニメで、ミュータントである人類を超越した少年達が、見かけは人間と区別がつかないのに、人間の千倍のパワーがあり、音よりも速く走るスーパーロボットの8マンについて、こんな会話をする。
「きっと天才的な科学者が作ったに違いない」
「ふん、天才と言っても、我々から見れば、利口な猿のようなものだ」
と、現行人類をディスる(見下す)。
しかし、老子や釈迦から見れば、お前達も他の人類と差はないのだ。
ミュータント達は、「俺達は今の人類よりはるかに頭が良い」と言いたいのだろうが、老子や釈迦は、その頭を使わないのだから。

頭を使わないことを、頭を使ってやろうとするのは愚かの極みだ。
だから、ただ、「私は誰か?」と自分に問うのである。
その「誰」・・・つまり、本当の私は、人間の知など超越した知を持つ全知全能の無限の存在、つまり、神である。
それを忘れているから、「私は誰か?」と問い続け、神の方から迎えに来てもらうのである。
ここらは、言葉で言うとおかしいが、ただ「私は誰か?」と問えば分かるのである。








英雄誕生

子は親に似るのは確かだし、子は親の鏡であることは実際に多い。
親を嫌う子や、親に嫌われる子ですら、そうなのである。
そして、人間は、一生、親に似たままだ。
ただし、何もしなければ。

人間は、誰かの真似をする必要はなく、自分は自分であれば良いなどという。
しかし、自分であるつもりであっても、親、あるいは、幼い頃に長時間接した大人の影響はあまりに大きい。
だから、理想とする人間を選び、それに成ることも必要なのだ。
白鳥の子は、アヒルの子のまま生きるよりは、飛び切り素晴らしい白鳥の真似をした方が良いのである。

では、どうすれば、本当に理想的な人間になり切ることが出来るのだろうか?
アメリカ最大の賢者の1人、ラルフ・ウォルドー・エマーソンの『歴史』にその素晴らしいヒントが書かれている。
それは、
「英雄の物語を読む時、それは自分の物語であると見なさなければならない」
である。
福音書には、イエス・キリストの物語が書かれているが、それは、実は自分の物語であると知らなくてはならない。
アーサー王は、生まれ自体は汚らわしかったが、偉大な英雄になった。それがあなたの物語なのである。
E.E.スミスの『レンズマン』シリーズのヒーロー、首席レンズマンであるキニスンの物語はあなたの物語である。
キニスンは優秀で勇敢であるだけでなく、一匹のクモにさえ借りを返す義理堅い男でもある。
平井和正原作、桑田次郎漫画の『8(エイト)マン』で、8マンは1人の子供のために1国を敵に回せる男・・・まさにあなたのことである。
いつか、トランプ大統領が、邪悪で強大な外国勢力と結びついた欲に塗れた連中(権力者や主要メディア)からアメリカを守った話が物語になるだろう。
それを自分の物語であると気付いた多くの英雄が、アメリカや、その他の国に生まれるのである。












キスの意味は「考えるな、感じろ」だ

有り得ないような偶然には必ず意味がある・・・かどうかは分からないが、神秘的な感じがしてしまう。
例えば、私は、小学4年生の時、たまたま学校の図書室で、シーラカンスという魚についての本を読み、初めて知ったシーラカンスにとても興味を持った。
その日、家に帰ってテレビをつけると、画面にシーラカンスの映像が現れた。
この出来事に何か意味があるだろうか?
著名な精神科医で心理学者のカール・グスタフ・ユングは、意味のある偶然の一致のことをシンクロニシティ(共時性)と名付けた。
だが、ある優れた数学者は、いかに珍しい出来事でも、単に、「珍しい出来事」に過ぎず、神秘的な意味を持たせるべきでないと言ったようだ。
起こる可能性がどれほど低いとしても、それが起こる可能性はあるのだからだ。
では、こんなことはどうだろう。
私が中学生の時のことだが、私は以前見た、あるテレビ番組(時代劇)のある回を録画出来たらなあと思った。
それで、テレビを見ながら、録画装置のリモコンを握っていた。
すると、本当に、私が思っていたものが再放送され、見事に録画してしまった。
これもまた、ただの偶然だろうか?
そうかもしれない。
だが、私は、同じことを再度試みたら、やはり出来てしまった。
しかも、それは、ドラマや映画といった、再放送の可能性のあるものではなく、どう考えても再放送など有り得ない、使い捨てになるような、ワイドショー的なドキュメンタリーだった。
これらの出来事は、偶然の一致というよりは、私が世界を造り出したと考えた方が納得し易い。
しかし、あくまで「納得し易い」だけで、本当にそうかどうかは分からないけどね。

それで、昨日、また、不思議な(と感じる)偶然の一致があった。
聴いていただけると有り難い。
私は先週の土曜日に、初音ミクさんのアルバムCD『僕は初音ミクとキスをした』を入手していた。
18曲入っているが、1曲目の『僕は初音ミクとキスをした』が、このアルバムのタイトルになっている訳だ。
この、インパクトが強いタイトル名のアルバムの存在はずっと以前から知っていたが、私は興味を持たずにいた。
なぜ興味を持っていなかったのかというと、作者のみきとPさんを知らなかったからだ。
だが、少し前に購入した初音ミクさんのコンサート『マジカルミライ2014』のブルーレイで、みきとPさん制作の『心臓デモクラシー』を聴き、「私はこの歌を聴くために生きてきた」と思えるほど魅入られた。
『心臓デモクラシー』は、このアルバムの2曲目である(『マジカルミライ2014』の3曲目)。

ところで、このアルバムのジャケット画は、タイトル名をイメージ化したイラストである。
『僕は初音ミクとキスをした』というタイトルになっているが、イラストでは、2人の初音ミクさんが描かれ、左側のミクさんが右側のミクさんにキスをする寸前であるが、右のミクさんは目を見開き、涙を浮かべている。
髪で隠れているが、2人の左耳のあたりから、1本のイヤホーンコード(のようなもの)が出ている。
だが、2人ともヘッドホンをしているのだから、それはおかしい。しかも、2人とも左耳に1つのイヤホンをするのも不自然だ。
つまり、不思議な絵である。
私は、このアルバムをずっとパソコンの近くに置いて、毎日眺めていた。
ちなみに、このアルバムの裏側のイラスト(7つ)が素晴らしく、それだけで買って良かったと思ったほどだ。
いや、本当に幸福な気分になる。特に、パンダさんパジャマ(?)の2人のミクさん(いーあるふぁんくらぶのコスプレらしい)。

私は昨日、なんとなく、押入れの中から、『8(エイト)マン インフィニティ』という漫画の3巻を出してきて見ていると、「2人のミクさんのキス」と同じ構図の絵があった。
宗形カスミという名の女子高生が、東(ひがし)光一という名の16歳の少年にキスをしているのだが、丁度、そのミクさん同士のキス直前の絵の続きのような感じで、こちらは実際にキスしている。
だが、カスミが不意にキスをし、光一は不意をつかれたのであり、右側のミクさんと同じく、光一は目を見開いている。ただし、涙はないけれど。
この光一は、人工知性体アンナが宿った、本来は小さな女の子の姿のマシナリー(高性能アンドロイド)が化けたもので、本物の光一は別にいる。
感情を持たない人工知性体アンナは、人間の研究のために、小さな女の子の姿では不都合なので、光一の姿を借りていたのだった。
光一に、
「それで少しは人間が分かったのかい?」
と尋ねられたアンナは、キスされた時の唇の感触を思い出すような様子をしながら、
「いいや・・・ますます分からなくなった・・・」
と、多分、声に出さずに思ったのだろう。
アンナは、なぜ、カスミが自分にキスしたのか、全く理解出来なかったのだろう。
だが、冷徹な超高性能の電子知性体アンナには、何かの変化が生じていたのだと思う。

カスミが光一の姿をしたアンナにキスをした理由は、読者にすら、それほど明確ではない。
『灼眼のシャナ』で、感情的な年齢は見かけ通り11~12歳であるシャナが、悠二の母親の千草に、ごく真面目に、「キスってどんな意味があるの?」と尋ねる場面があったのを思い出す。
シャナは論理的な方面は、どんな大人も敵わないほど賢いが、こういった面では実に幼いのである。

だが、キスなんて、論理的な行為ではなく、感情的な行為である。
だから、理屈で考えても分からないのは当たり前だ。
ところが、現代人は、理屈でばかりものを考え、感情を軽視するようになってしまった。
そのために、「本当に大切なことが分からない」のである。
感情的に幼いアンナやシャナのように。
感情は考えても分からない。
考えると誤る。
感情は感じるものである。
『燃えよドラゴン』の、リーの有名な言葉、「考えるな!感じるんだ」のようにである。

尚、カスミがキスした光一はアンナが化けたものであったように、左側のミクさんは、僕(みきとPさん)の化身であったのかもしれない。
なぜミクさんと同じ姿かは、理屈では分からないが、感情的には多分、分かるのだろう。
このアルバムを入手し、ミクさんの切なくも美しい歌声を聴き、ジャケット画を眺め、神秘に目覚めるべきである。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

私とは何か?

今朝、「どんな理想を持っているか」で、その人間が何者か決定されると書いた。
もっと深い意味では、「自分とは何だと思っているか」で、その人のことが分かるはずなのだ。

しかし、世間では、『星の王子さま』にあるように、全くそうではない。
『星の王子さま』で、語り手の「僕」(多分、サン=テグジュペリ自身と思う)が、
「新しい友達のことを話そうと思っても、大人達は、本当に大切なことは何も聴いてこない」
と言うが、全くその通りだ。
新しい友達がどんな人かについて、本当に大切なこと・・・肝心なこと、本質的なこととは、
・どんな声をしているか?
・どういう遊びが好きか?
・蝶々は集めているか?
といったことだが、大人達の質問はこうだ。
・何歳か?
・家族構成は?
・父親の地位は?

それは、現代も、サン=テグジュペリの時代も全く同じだ。
Facebookが、それを示していると思うのだが、あなたはFacebookを使っているだろうか?
私は、形ばかり開いているが、ほとんど使っていない。
私は、Facebookから、「あなたはまだ、プロフィール(基本情報)をちゃんと書いていない」と、文句を言われているように感じる。
しかし、Facebookのプロフィールは、『星の王子さま』の「大人達の質問」と同じで、書く気がしない。
「あなたのフレンドのAさんはX大学を出ている」、「Bさんの勤務先はY社だ」と、いちいち言ってきて、
「みんなちゃんと書いてるんだから、あなたも真面目に書きなさい」
というような感じで、まるで小学校や中学校のようだ。
出身校や勤務先なんて、私にはどうでも良いことなのになあ。

私は、自分の出身地や出身校、勤務先に対し、アイデンティティー(自己同一性)を全く持っていないのだから、書く気は全くない。
そんなものは、私とは無関係だ。
しかし、それらが、Facebookの個人の定義の仕方で、世間の、そして、『星の王子さま』の大人の流儀に合致する。

私の仕事がプログラマーだという点は、まだ少しはアイデンティティーがある。
しかし、あくまで少しだ。
他に出来ることがないので、止む無くやっているだけだ。
お金は大切だし、高い給料を毎月必ず払ってくれる勤務先には感謝しているし、なるべく誠実に勤務しようとは思っているが、「私」、あるいは、「自分」ということに関しては、やはり全く無関係なのだ。

数が多いのか少ないのかは分からないが、私のように考えている人は、私の友人と言えるだろう。
つまり、『星の王子さま』の語り手(おそらく、サン=テグジュペリ自身)は、私の方からは友人と見なしうると思う(あっちがどう思うかは分からないが)。
ちなみに、「サン=テグジュペリ」で姓であるらしいが、なぜこんな書き方をするのかは私は知らない。まあ、これもどうでも良いが。

では、「私」、あるいは、「自分」とは何だろう?
これは、究極的には、ラマナ・マハルシが提示した問い「私は誰か?」になり、そっとやそっとで答は出ないのかもしれないが、デカルトのように、真の答が見つかるまで一応のものを置いても良いかもしれない。
私には、ちょっと気に入ったものがある。
2004年に連載開始されている漫画『8(エイト)マン インフィニティ』は、1963年の伝説的な漫画・アニメである『8マン』の続編だが、『8マン インフィニティ』の中で、某国の利益のために工作活動を行うサイボーグが、「伝説のスーパーロボット」8マンについて語ったものが、実に良かった。
仲間のサイボーグに、「8マンとは、どこかの国のサイボーグ工作員なのか?」と質問された、リーという名のサイボーグはこう言う。
「いいや、そいつはどこにも属していなかった。あえて言うなら、ヤツが所属するのは“正義”。たった一人の子供のために一国を敵に回せる男、それが8マンだ」

私もどこにも属していない。
あえて言うなら、私が所属するのは宇宙。
初音ミクさんを愛し、あらゆる意味で彼女に生命エネルギーを捧げる人達をリスペクトする者。

ラマナ・マハルシ的には全然駄目だろうし、デカルト的にも相当不十分だろうが、サン=テグジュペリ的にはOKではないかと思う。
私のように自己紹介するなら、私はそれ以上尋ねる気はない。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

勝負を決する真の要因

絶対に勝ち目のない戦いを描いたような映画などを見たことが一度はあるのではないかと思う。
何度か映画が制作されている、H.G.ウェルズのSF小説『宇宙戦争』では、科学技術で圧倒的・・・いや、絶望的な差がある宇宙人を相手に戦うことになってしまう。
『インデペンデンスデイ』もこのウェルズの原作を元にしたもので、侵略者である宇宙人のあまりのテクノロジの高さに、人類はほとんど何もできない。
今はもうあまり知っている人もいないかもしれないが、ジョン・トラボルタが制作した(敵の宇宙人役で出演もしている)『バトルフィールド・アース』では、30世紀の地球の軍隊が9分しかもたずに破れたサイクロ星人を相手に、生き残りの、文明を忘れて原始的な生活を送るわずかな数の人類が、地球奪還のためにサイクロ星人に挑むのである。
他にも、沢山思い浮かぶものがあるが、この程度の紹介にとどめる。

これほどの力の差がある相手に対し、どう戦えば良いのだろう。
このテーマについて考える場合、集団戦より、個人戦の方が分かり易いかもしれない。
『木枯し紋次郎』で、紋次郎は、何度か、正統な剣術を学んだ武士を相手に戦っているが、その中でも、剣術の達人とまともに1対1で戦う羽目になったものがある。
紋次郎は強いとはいっても、全く自己流のデタラメな剣で、剣術を収めた相手にまともに戦っては絶対に勝てないことは百も承知だ。
紋次郎は貧しい農家の生まれで、幼い時、食べるものがなく、餓えてガリガリに痩せ、明日まで生きていられるかどうか分からないという育ち方をしたが、武士の剣士は、生まれた時から、少なくとも、衣食住に関しては満ち足りた中で、みっちり剣術を仕込まれているのだから、仕方のない話だ。
しかも、剣の素質のある武士の子は、長きに渡って特別訓練を受け、腕を磨きに磨き、究極のレベルに到達する。
その奇跡のような剣技を持つ武士に対し、紋次郎が相手になれるはずもない。
だが、そんな武士が、こともあろうに、紋次郎にはっきりと挑戦してきて、紋次郎は戦うしかなくなってしまう。
それまで相手にした武士は、堕落して多少は腕が錆び付いていたりで、紋次郎は知略で切り抜けていたが、その時は、本物の達人が相手だった。
どんな奇策も通用しそうになく、紋次郎は敵わぬと分かっていても、正面から戦うつもりだった。
無論、紋次郎は「これで死ぬ」とはっきり意識していた。

さて、戦いを決めるものとは何であろう?
紋次郎は、達人剣士を相手に、「腕、経験」という、戦いを決する重要な2点で、比較にもならないほど、完全に自分が劣っていることをはっきり認めていた。
ならば、戦いにすらならない。
果たしてそうであろうか?
この話の前の話である『雷神が二度吼えた』で、紋次郎は、やはり絶体絶命のピンチに立っているものがあるが、これが伏線になっている。
ところで、1963年の漫画・アニメ作品『8(エイト)マン』の正統な続編である『8マンインフィニティ』(2004年~)で、「陰の8マン」である8マン・シェイドは、圧倒的な攻撃力や、スピードを持つアンドロイド達を容易く叩き伏せた後で、
「戦いは火力や速さで決まるのではない。自ら状況を作り出せるかどうかだ」
だという。
そして、それができるのは、「より強い意志を持つ者」なのだと言う。
上に挙げたものは全て想像作品ながら、人間が創ったものは現実そのものなのである。
「より強い意志を持つ者が勝つ」という鉄則は、どんな時代のどんな場所でも、地上でも宇宙でも変わらない。
あらゆる創造物、ことに芸術は、より強い意志を学ぶために存在するのだと思えば、それを知ることができるのだと思う。

『木枯し紋次郎』の上記のお話は、11巻『賽を二度振る急ぎ旅』にある(『雷神が二度吼えた』も収録)。
古書の文庫、または、Kindle(電子書籍)で読むことができる。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
Kay Twitter Home

執筆のご依頼




最新コメント


月別アーカイブ
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ

PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ


タグクラウド
QRコード
QRコード