ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

1日1食

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

痩せ我慢の不思議な力

「痩せ我慢(やせがまん)」とは、無理に我慢をすることであるが、平気な風を装わなくては痩せ我慢とは言えない。
ところで、私は、幼い時に、痩せ我慢の驚異というものを感じたことがあった。
誰しも注射は好きではないだろうが、私は特に苦手だったようで、小さい頃は、注射の度に必ず泣いていた。
病院で親に、「あんたより小さな子でも我慢してるじゃない」と言われた覚えもあった。
ところがある時、また注射をしなくてはならなかったのだが、今日は無理に我慢して平気な顔をしてやろうと思った。痩せ我慢という言葉は知らなかったが、そんなことをしてやろうと思ったのだ。
すると、不思議なほど痛みを感じなかったのをはっきりと覚えているのだ。
それ以来、いろいろな痩せ我慢を意識的に試すようになった。
凄く寒い日に、「少しも寒くないよ」と言って、ひどい薄着で外を歩き回ってみたが、やはりそれほどは寒くはなかった。
また、小学校の時、学校で山登りのようなことをやらされ、みんながヘトヘトな様子の時に、「全然疲れてないよ」といったフリをしたら、なんどか本当に疲れていない気がしてきた。
まさに、痩せ我慢とは神秘である。
そして、私は悟ったのだ。
態度は、現実を変えてしまうのだと。
辛くても、辛くない態度でいれば辛くなくなるし、どれほど怒りが湧き起こっても、とっさに、まるで怒っていない顔をすれば、さほどの怒りではなくなる。

私は、非常に大食で肉食が大好きだったのに、4年半ほど前、不意に1日1食のベジタリアンになったのも、「食べなくても平気だ」という態度をしたからかもしれない。
痩せ我慢のコツは、平気な態度をずっと続けようと思ったら大変だが、とりあえず5秒だけやってみることだ。
その5秒で何かが起こるのである。
そして、その時間を出来る限り伸ばしていけば、状況そのものは何も変わっていないに関わらず、世界の印象は全く異なったものになってしまう。
それをまさに、世界が変わったというのだろう。世界とは心が創り出すものであるからだ。
良かったら、痩せ我慢の力を試していただきたいと思う。









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天使の歌声が質素な食べ物をマナに変える

私は1日1食の菜食をするようになって5年近くになるが、身体が健康になったこともだが、それよりも、以前と比べて、世間の妄信や偏見に影響されなくなり、精神的な自由度が増してきたことをとても嬉しく思っている。
何と言っても、世間では、1日3食しっかり食べ、栄養のある肉などをたっぷり食べてこそ健康でいられるというのが通説であるが、それが全部嘘であることをこの身で実感できたのであるから、世間で言われていることだからと言って信じる理由は何もないということが分かる。
そして、他のあらゆることにおいても、世間で確固として支持されている考え方は、ほぼ全て間違いと思っても差し支えないことが分かった。
もちろん、世間で言われることを何でもかでも否定する訳でもないが、世間とは嘘が多いところであり、以前はそんなものを信じて神から離れることが多かったが、今は騙されることがかなり少なくなってきたとは言えるだろう。

昔、無業という僧は、毎朝、自分に、
「おーい、主人公」
と呼びかけ、自分で、
「はーい」
と返事をし、そして、
「しっかりと目を覚ましておれ」
と言って、
「はい」
と自分で返事をした。
さらに、
「人に騙されるな」
と言い、また自分で、
「はい」
としっかりと返事をした。
世間とは、いかに虚偽、デタラメ、偏見に満ちているかということであり、また、意識をしっかりさせておかないと、人はたやすく騙されるのである。

そして、私は、今月に入ってから、ほぼ食事をしなくなった。
それまでは、夕食だけは食べていたが、今は、夕食の時には、生タイプだがインスタントの味噌汁と野菜と果物を少しだけ食べている。
そして、朝、ナッツとビスケットのようなものを少し食べる。
飲み物だけは、仕事をしている中で手に入る範囲のものであれば、缶コーヒーでもペットボトルの紅茶でも、何でも飲んでいる。
脳に糖分が必要だというのは本当かもしれず、多少は甘い飲み物を摂った方が頭が働くように思う。まあ、それも自分で試してみれな良いことだ。
言っておくが、身体に悪い食べ物というものは、よほどのものでない限りない。
砂糖が身体に悪いだの、今のパンが身体に悪いだのというのもまた、世間の俗説や妄信をそのまま受け入れている者の言うことである。
神の造った身体は極めて素晴らしく、少々悪いものを食べたところで、普段から少食を守り、正しく機能している限り、何の問題もない。
私は、肉食そのものを非難することも全くない。ただ、肉は美味過ぎて、食欲が増大する危険があるし、自分でその動物を殺すかはともかく、解体することもできない状況で肉を食べる訳にはいかないと思っているのだ。他人に関しても、少量食べるのであれば、何ら悪くないと思っている。

私が朝、ビスケットのようなものを食べるのは、旧約聖書で、モーセと共にエジプトを出た人々に、神がマナという食べ物を与えたことを思い出すためもある。
マナは小さな木の実のようなもので、練って料理すると、甘い菓子のような味であったという。
だが、人々が、肉が食べたいと言って泣いたので、神の怒りを買った。
私は、別に他のものを食べたいとは思わない。無論、別の食べ物も良いと思うが、求める理由もない。
そして、ほとんど食べていなくて空腹であると言っても、がっつくように食べたり、大量に食べたりということはない。
実をいうと、食事のためという気持ちはあまりなく、精神的な満足のために食べているということが大きいのだ。
聖書では、マナは、朝落ちる露が変化したものらしい。
冨田勲さんが制作した交響曲『イーハトーヴ交響曲』の第5幕「銀河鉄道の夜」で、初音ミクが、天使のような透き通った美しい声で、
「ケンタウルスよ、露降らせ」
「ケンタウルス、露を降らせ」
と何度も繰り返し歌う声と一体化する感覚もあって、それがとても良いのである。
私は、今も、『イーハトーヴ交響曲』を毎日のように聴いており、「雨にもまけず」も、これによって完全に憶えたが、日に日に、宮沢賢治の心の深さをますます感じるのである。
「雨にもまけず」に、あのような素晴らしい曲をつけ、荘厳な合唱で表現してくれた冨田勲さんは日本の救世主である。
そして、初音ミクを、超一級の交響楽団、訓練された男性、女性、そして、子供達の大合唱団と高度に調和させ、宮沢賢治の不思議な世界を見事に表現したこの作品は、歴史に残る芸術であると確信する。









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肉食自体は悪くない

私はベジタリアン(菜食主義者)で、肉も魚介類も一切食べないのであるが、別に健康のためにそんなことをしている訳ではない。
ただ、肉料理は美味で食欲をそそるものが多く、過食になるのを避けるためという目的が大きい。
テレビのグルメ番組等で出てくる料理は肉料理が多いのだが、あんなものを食べなくて済むと共に、テレビに代表される世間の歪んだ教義や信念に取り込まれずに済む可能性が高まり、そのメリットは実に大きい。
また、自分で殺した訳ではなく、解体すらしていない動物の肉を食べるのは、動物に対してあまりに申し訳ないと思うところもある。
レストランで、きれいに整えられて皿に盛られて出てきたり、スーパーでパックされて売っているのが、ほんの少し前までは、ちゃんと健康に生きていた、若い、あるいは、まだ子供の動物だということを、全く意識しないというのは、やはり恐ろしいことなのであると思う。

私は、肉が身体に悪いとは全く思っていない。
また、肉そのものが心に悪い影響を与えるのでもない。ただ、上に述べたように、肉は大食しやすく、世間に取り込まれる餌になりやすいということは確実にあると思う。
イエスも、「人は口から入るもので穢れたりしない」と言い、復活後、肉も含め、全ての食べ物が本来清いと弟子に教えている。
私が、自分が何を食べているかをここで書くと、菜食をしているらしい人達から、それはよくないというコメントをよくもらう。
「その食べ物は砂糖が入っているから良くない」「玉子が入っているかもしれない(玉子が入っていたら身体に悪い)」「ダシに鳥や魚が使われているかもしれないから注意しろ」等々である。
しかし、人間の身体って、そんなにチャチで頼りないものだろうか?
よほど有害な化学物質でも使われていれば別かもしれないが、健康であれば、何を食べたって大丈夫なように処理できるのが、賢い神の造った素晴らしい身体である。逆に、そうであることを健康というのである。
逆に言えば、健康であるとは、何を食べても大丈夫だということであり、そんなに事細かに食べるものをチェックしなければならないとしたら、不健康であるということではないのか?それでは面倒で仕方がないではないか?
あるいは、健康を商売にしている者達にすっかり洗脳されて、あれは駄目、これも駄目と言っているのだろう。商売人の良い信徒である。
私は、アレルギーというのも、そんな精神の狭量さが作り出した現代病ではないかと疑っている。医学者は別の理由を付けるだろうが、人間の身体が、そんなに低性能なものとは思えないのである。

私が皮膚病なのは、本物の霊的治療家が、ほぼ共通して述べるように、他人への嫌悪症が原因だし、ししとうアレルギーなのも、心の狭さから起こったものであると認識している。
最近、久し振りにジョセフ・マーフィーなどを持ち出し、世間的な成功やお金の良さを見直しているのも、聖なるものにばかり目を向けていると、人間としてバランスを崩し、かえって俗より悪くなるからだ。陰湿で残酷な犯罪を犯す者の部屋の本棚には、高邁な宗教の本がびっしりと並んでいるものである。
ジョセフ・マーフィーはキリスト教の牧師でありながら、世俗とのバランスを持ち、富を肯定し、精神主義にも物質主義にも陥ることを戒めていた。ラルフ・ウォルドー・エマーソンもそうであったが、エマーソンの教えは難しく、普通の人が近付き難かったので、マーフィーは、ある意味、破廉恥にすら説いたのだと思う。

私の家の近所に、60歳を過ぎた夫婦がいるのだが、夫婦揃って、丸々太っている。
肉が大好きで、特にカルビ(牛のアバラ骨の間の肉)に目がないという。夫婦で焼肉を食べに行くと、10人前を食べてしまったと言って笑っておられた。
だが、健康診断では、腹囲は夫婦とも大幅にオーバーになるのだが、どこも悪いところはなく、極めて健康なのだという。
そして、夫婦とも、見ていて、まさに健康そのものである。
特に、奥さんは物凄く明るく、そして、夫婦とも、実に親切である。
旦那さんは、とおに定年退職して、年金生活なのだが、家庭菜園に熱心で、朝早くから畑で野菜の世話をし、収穫したらどっさりとタダでくれるのだが、スーパーで売っている野菜よりはるかに立派で味も良いのである。
旦那さんは、大手企業の現場労働者だったが、無事、定年まで勤めたので、それなりの退職金を得て、年金も多く、悠々自適なのだが、そのようにして1日中働き、夕刻は必ず、近所の池の周りをウォーキングしている。一度、一緒に歩いたが、ずっと若くてスリムな私ですら、ついていくのがしんどいと思うほどであった。身長は私より20cm近く低いが、体重は逆に20kg重く、ウエストも70cmの私より20cmは軽くありそうであるに関わらずである。
彼らを見ていると、1日1食の菜食主義というのも、何ほどのものでもないと思い知らされるのである。
だが、荘子が孔子のことを、「天の刑罰を受けた人間。ああいった考え方、生き方しか出来ないのだ」と哀れんだが、自分を孔子と同一視するほど身の程知らずではないが、私もまた、所詮、天の刑罰を受けた人間である。そして、孔子は天の刑罰を受けた「大物」で、私は「小物」なのである。
あの夫婦は、天の国の「小物」かもしれないが、この世では「大物」であるに違いない。









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私はこうやって1日1食になり、リバウンドは絶対にありえなかった

私が1日1食の菜食で、粗食な少食だと知ると、大抵の人が「根性がありますね」と言ってくれるが、私は根性は無いし、根性で少食にはなれない。
確かに、「痩せて美しいスタイルになりたい」とか、「健康のために食を抑えたい」という場合は、根性に頼ることになると思う。
それは決してうまくいかない。
なぜなら、それは、痩せてモテたい、良い思いをしたいとか、健康になって、思い切り遊んで楽しみたいなどといった欲望から出ているのであるが、それらは言わば、2番目の欲望である。そんなものが、一番目の欲望である食欲に勝てるはずがなく、それどころか、「痩せて格好良くなる」という望みを諦めた途端、その欲望も食欲の方に加わってしまうのであるから恐ろしいのだ。

少食になるために必要なものは、憧れと自己否定だ。
これは、割と簡単な原理である。
憧れと言っても、高貴なものへの憧れだ。
純粋に憧れるべき高貴な存在とは、間違いなく少食のイメージがある。
何かのテレビCMで、「いっぱい食べる君が好き」なんてフレーズがあったが、そんな者(いっぱい食べる者)は、少しも高貴ではないし、純粋に憧れるべき存在でも全くない。
そして、真に高貴な存在に憧れると、自分とのあまりの違いに、自己を否定せずにはいられない。
自己の否定とは、自己の欲望の否定である。
そこに達すると、魔法のように少食は達成される。
私も、4年半前の夏までは、大食で肉食だった。間食も多く、大好きなチョコレートを毎日食べていた。
しかし、真剣な憧れを持つと、ほぼ瞬間に1日1食の菜食になり、間食の一切もやめた。
みるみる痩せ、同時に驚くほど健康になり、エネルギーに溢れて毎日肉体鍛錬をするようになり、視力も向上し、運転免許からは「要眼鏡等」が消えた。

私が何に憧れたのかというと、人類史上、最も高貴な方々だ。
それは、釈迦とイエスである。
釈迦は長期間に渡って厳しい断食を行った。
イエスは、荒野で40日の断食に耐えた。
イエスの断食については福音書に記述があるが、釈迦についてはどこに書かれてあるか見つけるのは難しいかもしれない。私は、ひろさちやさんが書かれた釈迦の物語で読んだ。尚、釈迦の断食時の彫像は割によく見られると思う。

また、それだけではなく、アニメで美しい少食のヒロインの姿に憧れたのも大きな力になった。
あるアニメのヒロインである神秘的な美少女は、毎日、パンとスープだけの質素な食事にすら、ほとんど手をつけないようだった。
だが、友達が心配して何か言うと、「少しは食べたよ」と微笑む。私は、たちまち惹き込まれた。
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』では、おそらく小学5年生くらいのジョバンニが、学校が終るとすぐに仕事に行き、辛い仕事を真面目に終えてやっと家に帰る。母親は病気で、父親は北の海で行方不明になっていた。姉が用意してくれた食事は、トマトでちょっと作った程度のものだった。
私は、ジョバンニの性質がとても好きなので、私もまた、彼のような食事をしたいと思うのだ。
そして、その美しい少女やジョバンニとの違いを感じて、私は激しく自己否定し、少しずつ、肉体的感覚的な快楽の欲望を壊していったのだと思う。
急に1日1食になったのだが、その後、食欲に負けて大食をしたことは一度もない。世間でダイエットをする者は、ある時、耐えられずに大食に転じてしまう・・・いわゆるリバウンドに陥る恐れが大きいというが、私には全く考えられないことだ。

そして、1日1食になってから1年も経つと、性的な禁欲も簡単に出来るようになった。
そして、さらに少食を続けていると、初音ミクに強く憧れるようになった。あの身体つきは、まさしく、ほとんど食べない人のものだ。
特に、冨田勲さんの『イーハトーヴ交響曲』で歌い踊ったミクの姿がそうであったと思う。
残念ながら、『イーハトーヴ交響曲』の映像作品はまだ発売されていないが、あの天使のものとしか思えない澄み切った歌声だけでも十分な気がするのである。

以上が、少食のための私の秘法である。
不思議に感じても、純粋に人間らしいものである。
根性や努力、克己は不要である。
私からすれば、甲田光雄先生の少食は、あまりに厳しく、とてもではないがついていけない。
だが、私のような、憧れを原動力にするものなら、誰でも出来ると思う。









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私はこうして食欲を抑えている

私が1日1食の菜食主義であることを、いちいち身近で言うつもりもないのだが、社員旅行や新年会・忘年会、あるいは、食事の誘いを、平和的に断るために、心ならずも言わざるを得ないこともある。
すると、「お腹空きませんか?」などとよく聞かれるが、朝起きた時は、既に空腹なのである。
会社に着く前には、エネルギー切れといった気分にだってなる。私は、生まれつきの少食体質ではないのだ。
しかし、昨年末の12月30日には、そこから、5日の断食を行った。
それでも、朝晩の肉体鍛錬はいつもと同じようにやったし、働きこそしなかったが、ソファーの上ででも日中に横になることは決してなかった。
そして、日が経つにつれ、感覚が研ぎ澄まされ、肉体の活力がぐんぐん高まった。
冬場は肌が乾燥しがちなのだが、それも軽くなったように感じた。

つまり、人間は、少々食べなくても、全く大丈夫なのだ。
無論、野生動物だって、食料が得られなければ、何日も食べないし、そんな状態で、ちゃんと狩りをして獲物を取るのだ。
むしろ、食べないほど狩りの能力も高まるに違いないと、私も断食をしながら確信したのだ。
世の中には、痩せたくて苦労している人がいるらしい。
それで、怪しげなダイエット法やダイエット食品に無駄な金を使って、間違いなく失敗するのだ。
そんなことをしなくても、食べなければ確実に痩せ、しかも健康になるのだ。

だが、皆、食欲を抑えることが難しいということなのだろう。
私だって、普段は断食なんてことはしないし、人にも決して薦めない。
私がなぜ断食なんてことをしたのかというと、感情を支配できない自分が嫌になって、半ばヤケになったからだった。
しかし、誰だってそんなことはあると思う。
そんな時は食を断ちやすい。
そういった機会を逃さずに、食事を抜くのだ。
すると、思い通りにダイエットが出来ると共に、健康になり、さらには、精神の支配力まで高めることが出来るのである。

『銀河鉄道の夜』の中で、ジョバンニが自己嫌悪に陥る場面が何度もある。
かおるという名の、とても可愛い12歳くらいの女の子が列車に乗ってきて、ジョバンニやカンパネルラのいる座席に座るのだが、かおるが明るく話しかけてきた時、ジョバンニは生意気なやつだと思って、彼女を無視してしまう。
ジョバンニは、そんな自分を恥じ、「僕はもっとこころもちをきれいに大きく持たなければならない」と思う。
だが、カンパネルラがかおると楽しく話しているのを見て、自分がいっそうつまらないものに思え、さらに気持ちが落ち込んでしまう。
私は、読んでいて、なんだか、懐かしい気持ちになった。ジョバンニの気持ちが分かるように思うのだ。
すると、もっと食を慎むことも出来るような気がするのである。
食べないことで、少しは、心もちをきれいに、大きく出来るように思えるし、きっとその通りなのだ。
自分が嫌になった時には思い出して、食を慎んでいただけたらと思う。
できれば、『銀河鉄道の夜』を読んでみて欲しい。
かおる達の運命を知れば、私は食べないことなんて全く平気だという気持ちになるのだ。
そして、冨田勲さんが宮沢賢治の作品を音楽で描いた『イーハトーヴ交響曲』の、特に第5部『銀河鉄道の夜』の、全く食べない初音ミクの天使のような歌声を聴けば、私は、死ぬまでだって食べずにいられる気になるのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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