ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

1日1食

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

超少食や極端な炭水化物制限には反対

釈迦は王子様だったが、29歳で城を捨てて出家し、超少食の苦行に励んだ。
しかし、修行の結果、35歳で、「こんなことやっちゃ駄目だ」と理解し、極端はいけないと悟った。

釈迦と一緒にして悪いが、私も10年ちょっと前、不意に超少食を始め、短期間で30kgもダイエットした。
それで良い面も確かにあったが、それを何年も続けた結果、損害の方も大きくなった。
しかも、間が悪いことに、超少食を始めて数年の頃、糖質制限ダイエットを知り、「これだ」と思って糖質を徹底制限したら・・・老死しかけた(笑)。いや、冗談ではない。
身体が衰えただけでなく、記憶力や冷静な判断力が、かなりなくなったと思う。
そのままいけば、脳がヤバいことになっていたのではと思う。

世の中には、超少食の菜食・・・凄いのになると不食(全く食べない)で非常に幸せになり、さらには、幸せになった自分が世界平和のための活動をバンバンやってますってラッパを鳴らしている人がいる。
私は別に、彼らのことを疑ってはいないが、信じてもいない。
そして、彼らがそう主張するのは勝手だが、決して真似するなと言いたい。

詳細を知っているわけではないから、名前は挙げないが、ある有名な男性ポップ歌手が、超少食療法で知られる医師に感化され、超少食を実施し、かなり痩せた。
しかし、あくまで私の主観だが、痩せたのに少しも格好良くならず、「貧弱になった」としか思えなかったし、以前はパワフルだった歌声が、ひどい衰え様だった。
それでも、本人は、自分は素晴らしくなったと思っている・・・この気持ちは、経験者としてよく分かる。
ところがある時、彼の身体を検査したところ衰えが酷く、それほどの年齢でないのに、骨年齢が70歳を超えていたという。
私は当然だと思った。

『バガヴァッド・ギーター』で、至高神クリシュナさえ、アルジュナ王子に、
「食べ過ぎてはいけない。しかし、少食過ぎてもいけない」
と言っている。
これは、極端を排し、中道(一方にかたよらない穏当な考え方・やり方)を行くという、釈迦の教えとも一致する。

ただ、これまで大食・美食だった人が、節度ある適切な食事をすることが難しいのも確かで、この場合、ある期間、無理してでも超少食を実践する意味はあると思う。
私がそうだった。
気紛れを起こして、超少食に取り組まなければ、今頃、死ぬか重病患者だ。
人によっては、実際、重病などで胃腸が駄目になって「食べられない身体」になったり、強制的に食を制限される惨めな状態になる場合も多く、そうなる前に、何とかしたいものだと思う。

美味しいものをいっぱい食べながら、運動もせずに痩せる方法が一番有り難いと思うが、もし、そんなものがあっても、手を出せば、後で後悔するのではないかと思う。
それが不自然だからだ。
いかなることでも、不自然なことはやらないことだ。
この世界で幸福になるためには、自然である(ナチュラル)ことが必要で、実際、「自然な」という言葉ほど美しい言葉はない。

ちなみに、私は今でも1日1食である。
ただし、しっかり間食している(笑)。
1日1食なんて言ってる人は、皆そうであると思う。
そして、これは悪いことではなく、むしろ、非常に良いことだ。
というのは、間食をして、食事の時にあまり食べないようにすれば、胃腸は重い負担をかけられず、無理をせずに済むからだ。
1日1回の食事だからと大食いすれば、胃腸に過剰な負担がかかり、やがて異常を起こしかねない。
もちろん、間食に関しても、大相撲のどこかの元横綱のように、お菓子を食べ過ぎて肥満してしまうようではいけない。
コツとしては、しょっちゅう、少しずつ食べることだ。
それも、出来れば、チーズとかナッツが良い。
もちろん、多過ぎなければ、甘いものでも問題ないし、十分な炭水化物は絶対必要だ。個人的には、極端な炭水化物制限を勧める医者は無責任か馬鹿かのどちらかだと思っている。
私も、甘いものが大好きで、特にチョコレートは毎日食べているが、全く害はない。
自分の体形を客観視するため、昨年11月、初音ミクさんライブ「マジカルミライ2021」に行った際、ホテルで写真を撮り、Twitterのプロフィール画像にしてあるが、昔ほどの貧弱さがなくなった。まあ、マッチョではないし、全然マッチョになりたくもないが(笑)。
【リンク】KayのTwitter Home








真面目な大泥棒や大悪童が、警察や教師を向上させる

私は、5年以上、1日1食の菜食を続けているが、それに何か意味があるのかというと、別に何もない。
キリスト教の家庭では、食事の前にお祈りをし、我々だって、およそちゃんとした人なら、「いただきます」くらいは言うと思う。
しかし、そういったことに何か意味があるのかというと、やっぱり何もないのだ。

信仰深い人は、毎日、決まった時間にお祈りしたり、祝詞を上げたり、あるいは、呪文を唱えたりとか、神の像に拝礼するかもしれない。
信仰のない人の中には、それを見て、わざわざ笑ったり、馬鹿にする者もいると思う。
そんな信仰のない者は言うかもしれない。
「そんなことやって、何か意味があるのかい?」
ってね。
答えるなら、意味はない。だから、別に真似しろと言うつもりもない。
「嫌なら、やらなきゃいいじゃない」と言うしかない。
実際、そういったことをやることで良いことでもあるかというと、別に何にもないのだから。

私は、このブログで、念仏を唱えることをよくお薦めするが、念仏に意味があるかというと、それもやはりないのだ。
だから、「南無阿弥陀仏」の念仏でも、「南無観世音菩薩」でも、あるいは、「アーメン」でも、その他のお祈りでも、全て同じである。

ただ私は、超少食になったおかげで、食べ物を丁寧に食べるようになった。
それで思うのだ。
3食以上食べても、大食しても、ステーキや焼肉を食べても構わないが、できれば、丁寧に、できるだけ丁寧に、時間をかけてゆっくり食べることをお薦めしたいとね。

念仏を唱えよと言っても、誰も、阿弥陀如来を見た人はいないだろうし、阿弥陀如来が存在することを証明できる者もいない。
私だって、阿弥陀如来が本当にいると信じているかというと、おそらく、ほとんど信じていないだろう。
だからこそ、念仏を唱えるのである。
そうであれば、私には何の意味もない念仏であっても、阿弥陀如来には意味があるのである。
それはどういう意味だろう?
泥棒がいなければ警察はいらない。
同じように、煩悩にまみれた凡夫がいなければ仏はいらない。
実に、泥棒が警察の職を成り立たせ、仕事と生活を保証してあげているのである。
そして、仏を貴く、有り難いものとしているのは、我々凡夫である。
泥棒が警察を生み出したように、私が仏を生ぜしめたのである。
親鸞は、「阿弥陀如来の誓願(迷える凡夫を救うという誓い)は、親鸞一人のためのものだった」と言ったのである。

だから、私は、泥棒をやるなら、真面目にやれと言いたいのである。
昔、学生運動華やかな頃、東大の教授だった竹内均さんは、朝9時に研究室の閉鎖にやってきた学生達に、
「何だ、こんな時間に来て!私は毎日8時に来ている。君達ももっと真面目にやりなさい」
と、実に奇妙な説教をしたらしい。
泥棒だって、真面目にやるから警察の質が上がるのである。
近頃、警察も学校の教師も、呆れるほど怠慢で逸脱したことばかりやるのは、泥棒が真面目にやっていないからであり、子供達も、真剣な導きが必要な悪童を真面目にやらず、隠れてコソコソ弱い者いじめをするような「良い子」だからだ。
泥棒を志すなら、ルパン三世でもしっかり見て、ポリシーを持ってやることだ。
授業が面白くなければ、すっぽかせ。寄席や落語でも、面白くなければ客は帰るのだ。
少なくとも、授業など無視しろ。そうすることで、教師もレベルを上げるのだ。

腕立伏せも、適当に100回も200回もやっていると、身体は歪んで痛んで駄目になる。
芸術的に大真面目に10回だけやれば、この魂を包むために身体は強くなるのである。
念仏も、いい加減に数多く唱えても、仏は現れない。
しかし、丁寧に、真摯に唱えると、阿弥陀如来だけでなく、他の仏も、観世音菩薩も、勢至菩薩も、天の神々、地の神々も現れて、その者を守るのである。
だから、念仏に何の意味もないし、阿弥陀如来の存在など信じていなくていいから、丁寧に、ゆっくりと、真摯に唱えることだ。
もちろん、天照大神に祈っても良いし、イエスを崇めても良い。
それだって、本当に丁寧にやることだ。
ケーキを食べる時も、猫を撫でる時も、女の子にキスする時(あるいはプロポーズする時)も、ゆっくり丁寧にやることだ。
神仏は内にあり、本当の丁寧さの中に発露するからだ。
難しい本も、1日に1ページ、いや、数行進むつもりで読めば、その数行の中に、本全部を見るのである。
本の中に真理があるのではない。それは、我々の中にあるのだからだ。









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ナッツ類は超優良食品である

私は、朝しか食べない。食べるものは、ナッツ類(アーモンド、クルミ、松の実)とビスケットで、小皿に乗る程度の量を食べる。
なぜビスケットかというと、保存が効くからという理由で選んだ。元々、ビスケットは軍隊用の保存食として始まったとも聞く。
私が食べるビスケットは、シンプルな素材で出来たもので、一袋百円のものでも、十分に品質が良く美味しい。ただ、クリームやチョコレートといったものが付いてさえいなければ、あまり種類にこだわらず、もらい物の高級ビスケットだって食べる。
ビスケットは国や民族の文化のようなもので、十分に注目する価値があり、また、とても興味深いと思う。
イギリスでは、ビスケットもクッキーも硬いタブレットだが、アメリカではビスケットといえばスコーンという、やや硬くて重いパンのようなものであるようだ。

ナッツ類は栄養があり、私がそれなりの体重を保てるのは、これのおかげと思う。
だから、当然、食べ過ぎると太る。
ナッツ類は、食べてから糖に変化する速さを示すGI(グリセミック指数)値が低いので太らないと言われることもあるが、遅くても糖に変わらない訳ではないので、食べ過ぎると太る。
実際、私はこれを食べているので、痩せ過ぎずに済んでいるし、糖分が豊富に得られるので、頭もはっきりするという訳であると思う。

ビスケットは、スーパーやコンビニで買っても十分に間に合うが、ナッツ類は、十分に日持ちするのだから、やや多目に入った業務用のものをAmazonのような通販で買った方が、やはり安くて便利だろう。品質の良い製品が多いようだ。
また、松の実は私も少ししか食べないが、優れた食品で、仙人が愛食するという話もうなづけると思う。

ところで、私は、昨年までは、夜だけの1日1食の菜食とはいえ、それなりの食事をしていたが、今は、上に述べた通り、朝に、ナッツとビスケットしか食べない。
そのようなことを始めてしばらくの間は、朝、これらを食べる時間は、あまりに嬉しい、奇跡とも言える幸福な魔法の時間であった。
しかし、慣れてきたら、さほどでもなくなった。もちろん嬉しいし、美味しいと思うが、それほどの食欲でもなくなり、「今日はあまりお腹が空いていないから」と、いつもの量を食べないこともよくある。
人間というのは、決して食べ物だけから栄養やエネルギーを得ているのではなく、宇宙エネルギーのようなものを取り込んでいると思う。食べ物から作られるエネルギーだけで、この肉体や頭脳を、このように動かすというのは、計算が全く合わないはずだ。
だから、(仮にこう呼ぶが)宇宙エネルギーを十分に取り込むことができれば、何も食べなくても生きていけることだろうし、実際に、そんな人は少ないながらいるはずだ。
ただ、私は、まあ、食べるお金に困っていないし(普通の人よりはるかに安価で済むし)、食べることを1日1回くらいは楽しみたいという気持ちもあるので、あまり、食べずに生きる人になろうとは思っていない。

だが、私は、私のような食事の仕方を薦める気はない。
満腹するまで食べない限り、1日3食、あるいは、2食、ちゃんと美味しいものを食べれば良いと思う。
また、私は食べないが、魚貝類は良い食べ物だし、肉も、多少なら食べると良いと思う。
ただ、私のような食事でも十分なのであり、健康上、何の問題もないということを実証しているのである。
私は、毎年の健康診断はオールA評価の完全な健康体で、朝晩の肉体鍛錬も欠かさない。
だが、大人になれば、間食はしないことをお奨めする。私も全く間食をしない。まあ、少しなら悪くはないと思うがね。
また、飲み物に関しては、無制限という訳にはいかないが、節度を守るなら、あまりこだわらずに飲めば良いだろう。人工甘味料で甘くしたものを飲むくらいなら、しっかり砂糖の入ったものを飲めば良い。私もそうしている。砂糖も、摂り過ぎるのが良くないのであり、適度に摂れば良いものである。
そして、大切なことは、どこに行くにも車を使うようなことをせず、よく歩くことだ。
十分に歩いていれば、特に運動をする必要もないが、1日、5百回くらいは腕振り運動をすれば、肉体的なだけでなく、宇宙エネルギーに満ちてより健康になるだろう。
スリムで健康な肉体を得ることなど、実に容易く、お金など全くかからない。この簡単なことをやらず、お金のかかる不自然なことをやるから、身体だけでなく、心も病むことになるのだと思う。









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晴れた気分になる方法

私が1日1食の完全な菜食主義者だからといって、1日3食食べている人や、肉食の人を、自分より劣るなどとは夢にも思っていない。また、そんな人達が、食事の回数を減らすべきだとか、肉食をやめるべきだとも思わない。
ただ、これまでは、あまりに大食だったり、電車の中とか駅のホームなど、所構わず食べているような人を非難の目で見ていた。しかし、もうそれもやめる。もし、今後、そんな人達を見て、嫌な感情が起これば、ただ、念仏を唱えさせていただくことにする。

ところで、逆に、私が1日1食で、朝に木の実とビスケットを少々食べるだけだと聞くと、私を馬鹿にしたり笑ったりする人が多い。特に、自分の方が私よりずっと優れた人間だと思っている人は、ほとんどがそうなのではないかと思う。確かに、彼らの方が私より立派で有用な人間であるというのは確かであるから、私が能力のことで蔑まれるのは仕方がないが、食事のことで見下されるのは、できればやめて欲しいし、私はつい、憤りを感じたり、やるせない気持ちになっていた。しかし、やはり、これからは、そんな時も、ただ、念仏を唱えさせていただこう。

人は、成功して金持ちになると、会長、社長、CEO、理事長、総長、先生等と呼ばれることを好む。
しかし、昔の話であるが、自己啓発分野で世界的な成功を収めたポール・マイヤーは、職業記入欄に書き込む際、必ず「ザ・セールスマン」と書いたという。
セールスマンは蔑まれることも多いし、そうでなくても、あまり高くは扱われない職業かもしれない。私もセールスマンだったが、いつも犬のように扱われたものだ。そんな時には、とても悔しい思いをしたり、涙を流したこともあったが、やっぱり、仏様や菩薩様に、念仏を唱えさせていただけば良かったなあと思う。

私のようなソフトウェア開発技術者の世界では、上位者をシステムエンジニアと呼び、下っ端をプログラマーと呼ぶことがよくあるものだ。システムエンジニアと呼ばれてふんぞり返り、プログラマーと呼ばれる者を軽んじ、アゴで使うのだ。
だが、人類の歴史の中でも屈指のソフトウェア開発者であるコンピュータ科学者アラン・ケイは、これも以前のことかもしれないが、「ザ・プログラマー」と名乗っていたのである。
尚、プログラマーよりもっと軽視されるのが、コーダーと呼ばれる者だ。人に指図されるままにプログラムコードを書く者のことである。だが、考えてみれば、私も、ただ、顧客に言われるようなプログラムを書いているのであり、また、私が書いているのではなく、書かせていただいているのだ。では、やはり私は自分をコーダーと呼ぼう。
こう考えると、実に心が軽く、こだわりがなくなって、晴れた気分なのである。









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少食と拒食症について

今月末で、私が1日1食の菜食主義者になってから5年が経つことになる。
私の食事の内容は、拒食症と勘違いされるかもしれない。
現在は、食事は朝だけで、食べるのは、ナッツ(アーモンド、クルミ、松の実)と素朴なビスケット、それにドライアンズの実を2つだ。
だが、私は全く拒食症ではなく、いつも空腹だし、食欲は大いにある。
できることなら、昼に、大好きなパスタやオムライスやラーメンなどを大いに食べたいと思うし、食べようと思えば美味しく食べられる。
肉や魚を長く食べなければ、そのようなものは全く食べたくならないという人もいるが、私はそんなことは全くない。今でも、焼肉もステーキも大好きである。しかし、確かに5年間食べていないし、今後も食べないだろう。

さて、拒食症というのは、その反対の過食症と共に、摂食障害の1つである。
拒食症というのは、無理なダイエットから始まることが多いと聞くが、それで言えば、私も、5年前に無理なダイエットを始めたように見えるかもしれない。
だが、私は拒食症になりそうな気配は全く無かった。
拒食症になるのは、次のような人ではないかと思うのだ。

拒食症になる人は、太ることへの嫌悪感や罪悪感、そして、恐怖感を持っているのだと思う。
それは、痩せて美しくありたい、痩せることで愛されたいと強く願っているのだが、逆に、太ったら、自分は醜いし、誰にも愛されないと思っているのだろう。
そして、美しく痩せた自己イメージを愛し、それに合致しない自分がどうしても許せず、憎むのである。
しかし、元を正せば、やはり、痩せて美しくなり、愛され、もてて、良い思いをしたいという欲望があるのではないかと思うのだ。

だが、私はそのようでは全くなかった。
痩せて美しい身体になりたいとは思ったが、その思いはさして強くはなかった。
まして、痩せてモテようとか、自慢しようと思ってもいなかった。まあ、全くないということもなかったのだろうが、ほとんど考えなかったのだ。
水野南北が、食を慎めば幸運に恵まれると言ったのは知っているが、実を言うと、水野南北を知ったのは、1日1食になって少し後のことだった。だから、別に幸運を得るためというのでもなかった。
では、何のためかというと、どうもはっきりしないのだが、仙人にでもなろうと思ったのだろう。
食を断つことで、神秘的な力を得た者の話はいくらか知っていたので、食を極端に少なくすれば、何か不思議なことが起こると思ったのだろう。
そして、魔法の力と引き換えに、空腹の辛さに耐えることは、何か、苦しい楽しさみたいなものがあったように思うのだ。
だが、それとて、仙人になってやろうという欲望ではなく、ある種のロマンであり、遊んでいたようなものだったと思う。
つまり、私は、欲望の成就のために食を慎んだのではないということだ。
「仙人になるという目標が出来て楽しいな」といったようなものだったのだ。
そして、空腹に耐える自分がちょっと好きだというくらいだった。
これで参考になるだろうか?

もう何度も言うし、これはしっかりと理解していただきたいのだが、私は、極端な少食を薦めたことなどは絶対に一度も無いのだ。
無理に1日1食みたいなことはしないで欲しいとも思う。
肉や魚も、適度になら食べれば良いと思う。
優れた聖者の中にも、肉食をする者もいるのだ。
例えば、ニサルガダッタ・マハラジは普段から、少量とはいえ肉食だった。
マード・マクドナルド・ベインは、チキンや卵が大好きで、ヤク(牛とほぼ同じと思う)の肉も好んで食べたが、世界中を渡り歩く彼には、食事を選んでいられない事情もあったし、特にチベットでは、ヤクを食べなければ、他に食べるものがなかったのだ。
私は、自分で獣を殺すなら、大いに肉食をしても良いと思っている。殺すまででなくても、原形から解体するならそれでも良い。
しかし、私は、ニワトリ一羽殺せないし、まして、牛や豚を殺すのは、精神的にも全く無理で、解体すらできないだろう。だから、食べないことにしているのである。それに、今は、他の食べ物がいくらでも手に入る。しかし、肉しかないのであれば、食べるのではないかと思うのだ。
私は、菜食主義者になっても、初めの頃は、会食の際に出されれば魚なら美味しく食べていた。
そして、会食の席では、かなりの量を食べることもあったし、それは楽しかったのである。
だが、今は、本当に一緒に食事をしたい相手としか会食をしないのである。そして、会食をするなら、肉は食べないが、魚なら食べるだろう。そもそも、魚を食べることは良いことであるとすら思っているのだ。

食事というには、可能な限り同じ時間にして、満腹するまで食べて自分を甘やかさなければ、それで十分であると思う。
ただ、本気で仙人を目指す志でもあるのなら、断食や厳しい食の慎みも止めはしない。しかし、その際には、死も覚悟して欲しいと思う。
私は今年は一月近い断食もしたが、実際、死んでも良いと思ってやっていたのである。
そうでないなら、無理はしないことだ。神だって、あなたが楽しく食事をすることを喜ばれると思うのである。
参考程度に、私が普段食べているものを下にご紹介しておく。実に安くて美味しく、また、品質も良くて、気に入っている。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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