ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

魔法

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

修行は不要と思う修行

私は、小学生の時には意識しなかったが、中学生くらいになると、自分がまともな方法では生きていけないことを、なんとなく自覚するようになった。
勉強は出来ないし、スポーツとか楽器とかが出来るわけでもない。
それなら、もう超能力しかない(笑)。
超能力とは、精神で物質を支配することだが、それなら、スプーン曲げみたいなことが超能力の代表みたいに感じる。
そうではなく、精神で物質界を支配することを考えたので、一般で言う超能力者ではなく、魔法使い、大師(マスター)、導師のような言い方が正しいのだが、当時はそういった言い方を知らないので、とりあえず魔法使いとした。
さっき述べた通り、その能力は物質世界の支配なので、今で言う引き寄せと同じだ。
伝統的な西洋魔法の定義によれば、魔法とは「精神に自在に変革を起こす」ことであるが、それが実に的確な定義であることはかなり後になって分かった。しかし、直観的には中学生の時に分かったのである。

私が中学生の時に考えた魔法使いになる方法は「常識に反することを考える」ことで、これも正解だった。
これを思いついた時は、躍り上がって喜んだのである。
現在もよく引用される言葉に、昭和の大評論家、竹村健一さんの「日本の常識は世界の非常識」というものがある。平凡な人間でも、これには納得すると思う。
だが、実際は「世界の常識も非常識」なのだ。
逆に、日本の常識の中にも宇宙の常識がある。
よって、目指すべきは非常識ではなく超常識である。
これは、不自然(異常。アブノーマル)ではなく、超自然(スーパーネイチャー)を目指すようなものだ。

しかし、やることは非常に容易い。
超常識や超自然がどこかにあり、それを手に入れなければならないとしたら大変だが、それは自分の中にある。
つまり、魔法使いや超能力者になるのに努力はいらない。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』に、大師(マスター。魔法使いのようなもの)になるのに修行する必要はないと書かれている通りだ。
あの頭ガチガチのデカルトですら、自分の中に神が居ることは認めていたのだが、彼は超常識にならなかったので、「われ思う、ゆえにわれあり」に留まったのだと思う。

魔法があれば現実逃避で良いかというと、それは変な話なのである。
現実を実験場としなければ、何のための魔法かである。
魔法使いは現実に強く、言ってみれば引き寄せが自在である。
私が最初の仕事にセールスマンを選んだのも、一番簡単に魔法の実験が出来るからだ。
それで、性格的には全く向いていなかったが、即座にセールスコンテストで優勝するなど、良い実験成果を収めた。
だがまあ、やはり向いておらず、面白くなかったのですぐに(と言っても2年はダラダラやっていた)辞めた。
私は巨万の富を掴むタイプではなく、月野うさぎ(セーラームーン)のように楽をすることが趣味なので、その線でいった(笑)。

魔法使い、超能力者、引き寄せマスター、大師、導師になる方法は特にない。
あえていえば「魔法使いになる」と決めることである。
中島敦の『名人伝』(『列子』の中に同様の話がある)が、魔法使いになるプロセスみたいなものである。
弓の名人を目指す男が、まずは、小さな点を凝視する修行をする(本当は瞬きをしないことから始める)。
その修行を十分にやれば、それで師と同等になった。
その修行を教えた師も、この弟子が、それほど熱心にやるとは思わなかったのかもしれない。
しかし、師は、自分達など全く及ばない名人がいると言い、弟子のその男は、さっそく、その超名人を訪ねる。
この超名人こそが、超常識、超自然を体現した人で、弓を使わずに空の鳥を落とした。
超名人の弟子になったその男がどんな修行をしたかは書かれていないが、彼もまた超名人になる。
しかし、どんな修行をしたかというのではなく、修行など必要ないことが分かる・・・というか、分からないと、この作品が分かっていない。
彼は自我(=思考=心)を消した・・・正確には、自我が控えるようになったのである。
自我が大人しくなったと言って良いが、別に老人ボケ状態になったのではなく、魔法使いにだって怒りっぽい者やスケベな者もいる。だが、すぐに静まるのである。
その超名人の彼は、「既に、我と彼との別、是と非との分を知らぬ。眼は耳のごとく、耳は鼻のごとく、鼻は口のごとく思われる。」と言う。
思考しないから区別の意味がない。だがまあ、箸と茶碗と湯飲みの区別はするだろうから、全く思考や自我がないわけではない。ここらを極端に解釈する馬鹿が多くて困る。
こんな良いヒントが書かれている。
「彼は呼吸しているかどうか分からない」
別に修行ではないが、そのようにすれば良いのである。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)李陵・山月記 弟子・名人伝(中島敦)
(2)ヒマラヤ聖者の生活探究 第1巻
(3)あなたも金持ちになれる(ジョセフ・マーフィー)
(4)ポリー氏の人生(H・G・ウェルズ)※ウェルズの自伝的小説
(5)誰がかまうもんか?!(ラメッシ・バルセカール)

絡みつく
AIアート1031
「絡みつく」
Kay

やる気にさせたいと思って書いた話

神とは何かというと、ネヴィル・ゴダードによれば、「私は在る」という自覚であるらしい。
その根拠は、旧約聖書で、神がモーセに、「私は『私は在る』という者だ」と言ったことによるのだが、ゴダードは、旧訳聖書をヘブライ語(へブル語)の原典で読めたらしい。
自分でヘブライ語で読めたのではないかもしれないが、ウィリアム・アーネスト・バトラーは、言語学者の様々な解釈を研究した上で、 「私は『私は在る』という者だ」の解釈に疑問を唱えているが、こういうことは疑問がなければむしろ信じることは出来ない。
そして、異なる解釈も、結局は 「私は『私は在る』という者だ」という意味になることが分かれば、信憑性が高まる。

神とは絶対的真理だという方向から探求することも出来る。
これに関しては、ニサルガダッタ・マハラジが、「あなたが確信出来る唯一のことは『私は在る』だけである」と言ったが、では、眠っていて夢を見ていない時は「私は在る」と感じないのだから、私はないのかという疑問が生まれる。
これに関しては、古来から「夢のない眠りにこそ、本当の『私は在る』がある」と言われているが、当然ながら科学的根拠はない。

つまるところ、全て聖典頼みということになる。
ただ、古代仏教の教典を研究した者が、これに究極の真理が書かれていると信じざるを得ないと言うことがあるが、それはどういうことかというと、人間の知を超えた真理が書かれていることを、直観的に感じたり、ある程度は類推したり、帰納的(個々の特殊な事実から普遍的原理を導くこと)に考えたということだろう。

だが、私は、ゴダードが説く教えは、私の子供の時からの経験とかなり一致するという特殊な事情があって、かなり信じている。
また、私が初めてビートルズを聴いた時、英語は得意ではない私が極めて印象的に憶えていた歌詞が"AT YOUR COMMAND"だが、ゴダードが初めて書いた本のタイトルがまさに"AT YOUR COMMAND"だったということも面白い。

そしてもう1つ。
私は上に書かれてあるようなことを知る前に神の存在を理解し、理解した時はかなり高揚したものである。
それはデカルトの『方法序説』によるもので、これ(方法序説、あるいは、デカルトの思想)には欠陥があることは分かっているが、それでも価値がある。
デカルトは究極の真理を探究していたが、それは当然ながら、なかなか見つからなかった。
どれほど正しいと思えることも、疑おうと思えばあっさりと疑えた。疑えるからには真理ではない。
真理とは疑うことが出来ないからだ。
たとえば、母の愛が真理かというと、そんな馬鹿でも疑えることが真理であるはずがない。
だが、デカルトは気付いてしまった(笑)。
疑えるということは、自分の中に真理があるからだと。それが神である。
これを見て私は感動のあまり恍惚としてしまった。
それでデカルトは「疑っている私は確実に存在する」を究極の真理としたが、なぜそれが「われ思う、ゆえにわれあり」という不純なものになったかは不明だ(笑)。

ちなみに、本人は隠していたが、やはりというか、デカルトも魔法研究をしていた(笑)。
それはニュートンも同じであった。
というか、ニュートンは、メインの研究は聖書や魔法で、数学や物理学はついでにやっていたのである。
だから、魔法・・・これは旧約聖書から出ているものだが、それこそが真理なのである。
尚、デカルトの自己評価について述べておこう。
デカルトは、名門校の出身で、その学校の中でも優等であった自分が優秀であることは認めていた。
ただし、自分よりずっと上の者達がいることも分かっていた。実に聡明であると思う。
そして、さらに偉いのは、書物の学問は全て捨てたと宣言していることだ。
さっきも書いたが、デカルトにも欠点はあったが、これほどの人物はそうはいない。
デカルトは、究極の真理の柱を「疑う」と「在る」の2本としたが、「疑う」は、もっと洗練させて「気付き」とすればより完璧だった。
そうすれば、「私は在る」が神であるという古代の英知にたどり着けた。

そんなわけで、私にとっては「私は在る」が神であることは明瞭になった。
後は、「私は在る」の自覚から離れなければ神になるのだが、これは簡単であって難しい。
これに関しては宇宙人に聞いたことがある。
「適度にやれば超人になるが、やり過ぎるとこの世から消える」
なるほど、確かにいろんな賢者も同じことを言っていたと思う。
尚、正確に言うと、その宇宙人は、茶目っ気があったのかもしれないが、私に、存在の自覚を加速させるメソッドを教えてくれたのだ。
その上で「1日3回にしろ。それ以上やると消えるぞ」と言ったのだった。
まあ、それで結局、全くやらなくなるうちに、やり方を忘れてしまった。
いや、思い出せるが(笑)。
だが、そんなことは知らなくていいから、「私は在る」と感じることを、なるべく長くやることである。
それで十分に魔法使いに、超人に近付く。

眼差し
AIアート775
「眼差し」
Kay


◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)方法序説 (角川ソフィア文庫)
(2)方法序説ほか (中公クラシックス)
(3)アイ・アム・ザット~私は在る~ニサルガダッタとの対話
(4)世界はどうしたってあなたの意のまま(ネヴィル・ゴダード)※『AT YOUR COMMAND』翻訳書
(5)ラマナ・マハルシの教え
(6)聖書(フェデリコ・バルバロ)

魔法修行

修行と訓練は違うと思う。
『葬送のフリーレン』というアニメで、フェルンという名の一見、ただの可愛い魔法使いの少女が登場するが、彼女は、他の魔法使い達に、その若さで驚異的な実力があることと共に、そうなるには相当な修行を積んだに違いないことで静かな敬意を受けているように思えた。
フェルンの修行は、幼い頃から始めた、遠くの岩を魔法攻撃で破壊することであったが、おそらく、毎日長時間をかけ、10年以上かかったのかもしれない。
修行とは、そんなふうに、1つのことを長い間繰り返すことだ。当然、その他の訓練もするのだが、訓練はどれほどやろうと、補足のようなものだ。
フェルンはたまたま魔法修行であったが、修行というものは、ある意味、魔法のような力を得る。
魔法とは、精神の変革により物理的な力を超えたあり得ぬことを起こすことだ。
それは、いつの世でも、今でも、当たり前に存在する。
だが、物質的な世の中にあれば、それは忘れられる。

最近知った修行で思い出すのが、大東流合気柔術の達人、佐川幸義の1人の弟子が、佐川幸義が考案した佐川流四股を、寝食を忘れるほどひたすら行い、元々、合気道の高段者であったらしいが、佐川幸義以外には誰も倒せなくなったらしい。ただし、その者も倒す方はさほどでなかったというから、防御専門の達人になったようだ。
これも、1つのことを繰り返す修行で魔法の力を得たようなものだ。佐川流四股は、別に筋力を鍛えることでも、技が上手くなることでもなく、やはり、訓練ではなく修行であると思う。

政木和三さんは、小学校5年生の時、毎日1時間の腹式呼吸を行い、数か月くらいかかったのだと思うが、すっかり超人に、つまり、魔法使いのようなものになった。
仏教のお経を聞いたら、教わったこともないのに意味が分かってしまい、習ったこともないピアノが弾けるようになった。その後は発明も行うようになり、学生にしてとんでもない金持ちになったそうだ。

架空の話であるが、本宮ひろ志さんの古い漫画である『武蔵』で、ただの荒くれものだった武蔵が、木刀で杭を打つだけの修行を1年行ったら、不思議な剣の力を得た話があるが、これも魔法修行のようで私の好きな話だ。
山岡荘八の『春の坂道』(後に『柳生宗矩』に改題)と『徳川家康』を基に制作されたドラマ(NHK大河ドラマ)『春の坂道』でも、少年の時の徳川家光が、柳生新陰流の開祖、柳生宗徳の指導で、同じように、木刀で杭をひたすら打つ修行をする場面がある。

あるアメリカの人気作家は、ヘミングウェイなどの文豪の作品を、ひたすらそのままタイプするという修行をしたらしいが、何のきっかけで始めたのか分からないが、魔法的修行を行った作家であるようだ。
私も、コンピュータープログラミングを始めた時、なかなか上達しなかったが、雑誌に載っていたプログラムをひたすら自宅のパソコンに打ち込むことで自在にプログラミング出来るようになった。私もまた、魔法使い的プログラマーであるわけだ。

このような修行の例は、私はいくらでも上げられる。
そして今は、ニサルガダッタ・マハラジが教えた「存在の感覚にしがみつく修行」をひたすら行い、やがて本物の魔法使いである(笑)。
ついでに行っている、眉間を指先で軽く叩く修行でも十分と思うが・・・。

夕暮れ
AIアート757
「夕暮れ」
Kay


人間は、修行をした人間と修行をしていない人間の2種類しかない。
だが今は、修行をしていない人間が増え、魔法を使えない人間ばかりになってきた。
是非、何か1つ修行をすべきと思う。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)アイ・アム・ザット 私は在る ~ニサルガダッタ・マハラジとの対話~
(2)魔法修行―カバラの秘法伝授
(3)この世に不可能はない(政木和三)
(4)武蔵 第1巻 (本宮ひろ志)
(5)柳生宗矩(1)(山岡荘八)
(6)葬送のフリーレン(Amazon Prime Video)

簡単だが特級の魔法修行

最近、2つのメソッドを行っている。
これまで書いたことがあるかもしれないが、簡単で即座に効果があり、気持ちいいこともあり、暇ならずっとやっていられるので、やっている感じだ。
1つは、これ以上はないほど簡単なことで、眉間(みけん。眉と眉の間)を中指で軽く叩くことだ。
目と眉の距離が非常に近い西洋人顔の場合は、眉と眉の間より、やや上になる。
最も良い場所は、指先を近づけたらムズムズするところだ。
指ではなく、ペン先などを額に近づけたら、特定の場所が何かムズムズするのを、より強く感じるかもしれない。
その場所が最も良いが、分からなければ、とりあえず眉間の辺りで良い。
私は、小学2年生の時、尖ったものを額に近付けると、眉間がムズムズするのが興味深く、ずっとやっていたことがある。
その場所は、ヨガで言うアジュナ・チャクラで、第三の目とも言われる。
私の場合、目を閉じて、そこを中指で軽く30回ほど叩き、目を開けて花のようなきれいなものを見ると、鮮明に見えて驚くことがある。
肉眼の目と共に、霊的な目で見るからであるかもしれない。
毎日やっていると、妖精や天使が見えるようになると思う。鮮明には見えなくても、何か見える感じはするのではないかと思う。
そうやって第三の目(サード・アイ)が活性化してくると、引き寄せ力もぐんと高まる。

もう1つは、「存在の感覚にしがみつくこと」だ。
これは、『アイアムザット』の表現だが、「存在の感覚を意識する」「存在の感覚に注意する」と言った方がぴったりする人もいると思う。
簡単に言えば、「自分が存在するという感じを感じる」ということだ。
自分の何が存在するかだが、本来は意識なのであるが、別に身体でも構わない。
どうもよく分からない場合には、「私は在る(私は存在する)」と心でそっと言ってみても良い。
あるいは、「私は在る」をマントラとして心で唱えても良い。
ニサルガダッタ・マハラジも「私は在る」が最高のマントラだと言っていたらしい。
そして、大切なことは、やっているうちに、やがて、存在の感覚がはっきりしてくることだ。
そうすれば、「私は在る」と唱える必要もなくなる。
やや日数がかかる人もいるだろうが、それでもわずかな期間だ。
たとえ数か月かかろうが、後から考えれば一瞬で、それをやった価値は計り知れない。
そして、存在の感覚が分かるようになるほど、魔法力というか、現実創造力が高まる。つまり、引き寄せ自在になる。
尚、上の、眉間を叩く方法と併用すると、さらに存在の感覚を掴みやすくなると思う。

空き家の妖精
AIアート752
「空き家の妖精」
Kay


ある強力な魔法使いは、師匠から上の2つの方法だけを教わり、それを愚直に実行したらしい。
フリーレンではなかったと思うが(笑)。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)アイ・アム・ザット ~ニサルガダッタ・マハラジとの対話~
(2)チャクラの覚醒と解脱(本山博)
(3)オプティミスト(ヘレン・ケラー)※『Optimism』翻訳書
(4)楽天主義(ヘレン・ケラー) ※『Optimism』翻訳書
(5)想定の『超』法則(ネヴィル・ゴダード) ※『The Power of Awareness』翻訳書
(6)その思いはすでに実現している! (ネヴィル・ゴダード) ※『The Power of Awareness』翻訳書

古い魔法少女はなぜいなくなったのか?

魔法少女アニメは昔から現在まで変わらぬ人気がある。
そもそも魔法少女の起源はギリシャ神話の少女神・・・つまり、アプロディーテ、アテーナ、アルテミス、ペルセポーネ、ヘカテーらであり、神話学の権威カール・ケレーニイが言うように、少女と魔法は相性が良く、昔から人々は、少女の不可思議な生命力に神秘なものを感じていたのである。
だが、私が不思議に思うのは、魔法少女アニメは今も量産されているが、「汎用魔法」を使う魔法少女がいなくなったことだ。
つまり、今の魔法少女は、炎を出したり、凍らせたりといった特定の用途の魔法・・・つまり、特殊魔法は持っているが、何でも出来、どんな用途にでも使える「汎用魔法」を使う魔法少女がいない。いや、いるのかもしれないが、私は知らないし、いたとしても非常に少ないのだろう。
昔は、『魔法使いサリー』や『魔女っ子メグちゃん』といった、呪文1つでどんなことでも出来る魔法少女がいたものだ。

なぜ、汎用魔法を使う魔法少女・・・というか、汎用魔法が登場しなくなったのかというと、時代と共にIQが高くなってきた文明国の人には幼稚過ぎるからであるとも考えられる。
炎を出す魔法や凍らせる魔法、あるいは、空を飛ぶ魔法や瞬間移動するといった特殊魔法は、まだ科学的に説明も出来るが、汎用魔法では非常識過ぎてそれが出来ない。そんなものは、あまりに幼稚であると思われるのだ。

私が小学2年生の時、学校で「欲しいもの」を書かされたが、皆、野球グラブとか人形とかゲーム機といったお金で買えるものを書いていたが、私は魔法の杖と書き、後で私の親が教師に、「あなたの子供は変わっている」というか「幼稚だ」と言われたようであった。
それで、天才の私はハードパワー(国や政治団体の力)を感じたのだった(笑)。
つまり、国を動かす闇の支配者達は国民に、汎用魔法を、幼稚なもの、下らないもの、馬鹿げたものだと子供のうちに教えるよう、学校に指令を出しているのである。
いや、冗談だと思っていただきたい(笑)。

汎用魔法は引き寄せの特級版で、やはり闇の支配者は、凡民に引き寄せの力を持たせたくないのだが、実のところ、その特級の汎用魔法も存在する。
汎用魔法のことが公然と書かれた本に『ヒマラヤ聖者の生活探求』があるが、もちろん、この本は、一般には怪しげなオカルト書とされ、文部科学省推薦図書には決してならない(笑)。
ちなみに、『ヒマラヤ聖者の生活探求』には、汎用魔法はどうやったら使えるのかと書かれているかというと、修行など一切必要なく、誰でも即座に使えるとある。
『列仙伝』『神仙伝』には、汎用魔法を使う仙人達が登場し、これらの仙人達は長い修行を積んだことになっているが、私が思うに、彼らは修行を積んだフリをしているだけだ。やはり、本当は修行は必要ない。
もちろん、『ヒマラヤ聖者の生活探求』や『荘子』『列子』には、汎用魔法の使い方が書かれているが、教科書のように書かれているわけではなく、行間を読まないといけない。しかし、そう、難しいとは思えない。
これらの本により、汎用魔法とまでは言わなくても、自然に引き寄せが出来るくらいにはなるのではないかと思う。

古木
AIアート664
「古木」
Kay


◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)神話学入門(カール・ケレーニイ、カール・グスタフ・ユング)
(2)ギリシアの神話(カール・ケレーニイ)
(3)ヒマラヤ聖者の生活探究 第1巻
(4)解脱の真理 改訂版―ヒマラヤ大師の教え(マード・マクドナルド・ベイン)
(5)荘子(岸陽子訳、徳間文庫)
(6)老子・列子(徳間文庫)
(7)列仙伝・神仙伝 (平凡社ライブラリー
(8)カラー版 魔法使いサリー(横山光輝)
プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
Kay Twitter Home

執筆のご依頼

最新コメント


月別アーカイブ
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ

PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ
タグクラウド
QRコード
QRコード