私は「継続は力」という言葉が好きだが、この言葉の浅い意味しか知らない人が大半である。
つまり、普通の人が知っている「継続は力」は、毎日練習すれば上手くなるとか、毎日鍛えれば強くなるといったものである。
例えば、あるプロゴルフプレーヤーは、コース10回を回るのと同じ量のスイング、ショット、パットを5年間欠かさず毎日行って初優勝したといったものだが、こんな話は分かり易い。
私は、落合博満さんが球団のゼネラルマネージャーだった時、指導を請いに来た若い選手に、5時間ひたすら素振りをさせたという話が好きだが、この選手は重要なことを掴み損ね、選手として成功しなかった。
この場合がそうだが、毎日長期間繰り返すのではなく、5時間という、とんでもなく長い時間繰り返すことでも同じ効果がある。
しかし、これは決して、素振りで使う筋肉を鍛えるとか、スイングが上手くなるというのではなく(もちろん、それらもあるが)、もっと重要な意味がある。
この選手の最後のスイングに対し、落合さんは「今の良かった。それを忘れるな」と言ったらしいが、この選手には、どう良かったのか分からなかったのだろう。
あくまで伝承であるが、柳生宗矩が、子供だった徳川家光に、部屋の中に立てた木の棒の頭を、木刀で毎日叩かせた。
最初は、馬鹿らしく思えて嫌がった家光だが、宗矩は「毎日同じ所を叩けるようになったら鉄の兜を切ることが出来る」と言うので、家光は「ではやってみろ」ということになったが、宗矩は見事、鉄の兜を切って見せた。
このエピソードの真偽は分からないが、この修行法は本物である。
しかし、この修行法も、単に、剣を振り下ろす速さが速くなるとか、振る軌跡が良くなるといったことだけではない。
AIアート48
「目覚め」
Kay
何事も、恐ろしい数を繰り返すことで、思考が消え、心が消え、無になるのである。
そうすれば、心身の鍛錬などというレベルを超えた力が現れる。
以前、『老子』全81章は全て、「心を消す」というただ1つのことを言葉を変えて言っただけと書いたが、心を消せば、真の自分である魂が現れるが、我々の魂は、全知全能の無限の存在で、神そのものである。
継続することで、新しい力を得るのはなく、元々持っていた力を思い出すだけである。
そして、そのための最も易しい方法が、「私は誰か?」と自分に問うことである。
『魔法騎士レイアース』という漫画・アニメで、導師クレフが、ヒロインの3人の14歳の少女達に言う。
「お前達に魔法を授けようとしたが、魔法の方でお前達を選んだ」
この意味は、魔法のごくささやかな呼びかけに対し、少女達は心を消し、無になったということだ。
これが、アニメのオープニングでの、3人の少女達の全裸の場面に象徴されている。
「神様の奇跡が起こる」「お金がある」といったアファーメーションも、野球の素振りと同じで、とんでもない数、あるいは、とんでもない期間繰り返せば、心が消え、魂の力の一部が現れ、願いは叶う。
しかし、全ての力を得るのが「私は誰か?」なのである。
無になることで現れる力について、元々は『列子』の引用と思うが、中島敦の『名人伝』にうまく表現されていると思う。
つまり、普通の人が知っている「継続は力」は、毎日練習すれば上手くなるとか、毎日鍛えれば強くなるといったものである。
例えば、あるプロゴルフプレーヤーは、コース10回を回るのと同じ量のスイング、ショット、パットを5年間欠かさず毎日行って初優勝したといったものだが、こんな話は分かり易い。
私は、落合博満さんが球団のゼネラルマネージャーだった時、指導を請いに来た若い選手に、5時間ひたすら素振りをさせたという話が好きだが、この選手は重要なことを掴み損ね、選手として成功しなかった。
この場合がそうだが、毎日長期間繰り返すのではなく、5時間という、とんでもなく長い時間繰り返すことでも同じ効果がある。
しかし、これは決して、素振りで使う筋肉を鍛えるとか、スイングが上手くなるというのではなく(もちろん、それらもあるが)、もっと重要な意味がある。
この選手の最後のスイングに対し、落合さんは「今の良かった。それを忘れるな」と言ったらしいが、この選手には、どう良かったのか分からなかったのだろう。
あくまで伝承であるが、柳生宗矩が、子供だった徳川家光に、部屋の中に立てた木の棒の頭を、木刀で毎日叩かせた。
最初は、馬鹿らしく思えて嫌がった家光だが、宗矩は「毎日同じ所を叩けるようになったら鉄の兜を切ることが出来る」と言うので、家光は「ではやってみろ」ということになったが、宗矩は見事、鉄の兜を切って見せた。
このエピソードの真偽は分からないが、この修行法は本物である。
しかし、この修行法も、単に、剣を振り下ろす速さが速くなるとか、振る軌跡が良くなるといったことだけではない。
AIアート48
「目覚め」
Kay
何事も、恐ろしい数を繰り返すことで、思考が消え、心が消え、無になるのである。
そうすれば、心身の鍛錬などというレベルを超えた力が現れる。
以前、『老子』全81章は全て、「心を消す」というただ1つのことを言葉を変えて言っただけと書いたが、心を消せば、真の自分である魂が現れるが、我々の魂は、全知全能の無限の存在で、神そのものである。
継続することで、新しい力を得るのはなく、元々持っていた力を思い出すだけである。
そして、そのための最も易しい方法が、「私は誰か?」と自分に問うことである。
『魔法騎士レイアース』という漫画・アニメで、導師クレフが、ヒロインの3人の14歳の少女達に言う。
「お前達に魔法を授けようとしたが、魔法の方でお前達を選んだ」
この意味は、魔法のごくささやかな呼びかけに対し、少女達は心を消し、無になったということだ。
これが、アニメのオープニングでの、3人の少女達の全裸の場面に象徴されている。
「神様の奇跡が起こる」「お金がある」といったアファーメーションも、野球の素振りと同じで、とんでもない数、あるいは、とんでもない期間繰り返せば、心が消え、魂の力の一部が現れ、願いは叶う。
しかし、全ての力を得るのが「私は誰か?」なのである。
無になることで現れる力について、元々は『列子』の引用と思うが、中島敦の『名人伝』にうまく表現されていると思う。