ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

魔法少女リリカルなのは

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

イロモノのヒーローに救われる

身体に良い食事や健康ノウハウ、肉体トレーニングについて書かれた本は膨大と言って良いほど出ているが、それぞれで書いてあることはかなり違う。
昨日も書いたが、「炭水化物は摂ってはならない」というのと、「炭水化物は摂らないといけない」といった、真逆(逆を強調した俗語)のことを書いてあることは珍しくもない。
それは、「他と同じことを書いていては売れない」という出版上の都合もあるのだろう。
そして、どれも、自分の主張は、「科学的」で、「実績豊富」だと言う。
だが、科学の通説なんてしょっちゅうひっくり返っている。
また、実績なんて、10の成功の裏に20の失敗はあるだろうし、相撲に喩えれば、5勝10敗ならマシで、1勝14敗の1勝だけをアピールしているのかもしれない。
「一例を上げれば」と言う時は、一例しかないといったものである。

果物は食べてはならないと書かれている本は多い。
果物は糖分が非常に多く含まれているからというのがその理由である。
ところが、ブラジルのグレイシー柔術で知られるグレイシー一族の食事は果物中心で、しかも、恐ろしい量を食べるらしい。
グレイシー柔術は、ある時期までは無敗を誇り(ヒクソン・グレイシーは無敗)、プロレス等のプロ格闘技のトップ選手達を軽く破ってしまうことで有名だった。
そして、グレイシー一族の男達が健康、強靭であるだけでなく、ファミリーの女性達は皆、いつまでも若くて美人だという。

こうなると、本当に、どれが正しいか分からず、本の読者達は混乱し、迷い続けることになる。
昨日は、「自己判断」以外に方法はないと書いたが、もっと言えば、「自分が良いと思うものが良い」のである。
いわゆる、「信念の魔術」である。
科学的には、どう考えても良いはずのないことをしているのに、健康で長寿というのは珍しくもない。
以前、テレビで見たが、ある民族は、挽いた(粉にした)トウモロコシ以外、一切食べないのだが、皆、健康で、村の若者達が、経験のないクロスカントリーの大会に出たら、専門のアスリート達と競って優勝を争ってしまうほどで、しかも、長寿で、いつまでも若いという。
「炭水化物は身体に悪いから、芋類は食べるな」と断言する、とても偉い医学者もいるが、やはり、ある民族は、1種類の芋しか食べないが、その民族も長寿で知られている。彼らが食べているのは、別段、特殊な芋ではないと思う。

こういったものを見ると思い出すのは、江戸末期の神道家、黒住宗忠が好きで、よく講和の際に話した「梯子仙人」の話だ。
嘘つきの男と、純粋無垢な若者がいて、嘘つきがその若者に、デタラメの仙人になる方法を教えるが、若者が大喜びで感謝しながらその通りにやったら、たちまち仙人になってしまうというものだ。
つまり、「イワシの頭も信心から」であり、信念を持つことが正しいことになってしまうのだ。

問題は、信念を作る方法だ。
合氣道家の藤平光一氏は、毎朝鏡を見て「お前は信念が強くなる」と自分に言うそうだが、まあ、それでうまくいく人は少ないと思う。
藤平氏は、「合氣道」の「氣」の文字にこだわる。決して、「合気道」とは書かない。
しかし、師の植芝盛平や、植芝の別の弟子達はそうではない。
そして、藤平氏の本を見れば分かると思うが、彼は大変な独断家で、それは、彼自身は強い信念を持っていることも示している。
彼の本を有益にしようと思えば、よほど注意深い態度が必要で、普通は有害と思う。

信念なんて、何かに憧れて持つしかないのではないだろうか?
それは、他人から見れば、案外に馬鹿げたものだ。
私は、5年以上前は大変な大食家で、体重は95kgはあったが、『魔法少女リリカルなのは』のヒロインの一人で、金髪の美少女フェイト・テスサロッサがほとんど食べないのを見て、私も、「それが良い」と思って、自然に食べなくなり、あっという間に60kgになってしまった。
つまり、フェイトにメロメロだったという訳だ。
そして、今は、初音ミクと木枯し紋次郎にメロメロなので、そこから何でもできるのである。
ヒーローとは良いものである。
ただし、自分だけのヒーローでなければならない。
初音ミクも木枯し紋次郎も、世間とか大衆から見れば、イロモノ、カウンターカルチャー(対抗文化)、サブカルチャー(反主流、下位文化)である。
つまり、一頃のロックのようなものだ。
そんな中に本物のヒーローがいるのである。









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魔法のランプに願うべき唯一のこと

アラジンの魔法のランプの物語ような、魔法の力で願いを叶えてもらえることになった人のお話は世界中にあるだろう。
大方の人と同じく、私も、小学生の時、学校で、そんなものを手に入れたら何を願うかなんてことを聞かれたりしたが、ほとんどの子は、お金さえあれば叶うようなことを言うし、あるいは、「世界中の人達が幸せになるよう」なんていった、優越感に浸るために、どこかで聞きかじったきれいごとを言う子もいたような気がする。
つまるところ、みんな願い事なんて持っていなかったということだ。
では、素直に、「別に何もありません」と言ったら教師に怒られる始末だ。
『魔法少女リリカルなのはA's(エース)』というアニメでは、小学3年生のハヤテという名の少女は、どんな命令も聞くという強力な魔導師4人を得るが、天涯孤独だったハヤテは、家族ができたと言って大喜びし、魔導師達を実の家族のように大切にし、魔導師達に「ご主人様、ご命令を」と言われても、「別に何もいらないから、あなた達は普通にしていればいい」と言うのみである。
ところがハヤテは不治の病だったのだが、魔導師達はハヤテの命を救うための危険な戦いに自主的に挑み、ハヤテはハヤテで魔導師達を救おうとするという素敵な展開になる。
巷に溢れる願望達成術で、強欲な願いを叶えようとする者達が恥じ入るような話であるが、では、自分がそんな立場になったら何を願うだろうか?
身の丈に合わない金や地位を得ると必ず破滅することは疑いない。
こればっかりは、どんな魔法でもどうにもならない。
それさえ分かっていれば、魔法の力は実際に我が内にあるのだから、何を望んでも良いし、それは叶うだろう。
では、金や地位が欲しいとなったら、それに相応しい精神を持てば良いのだから、それが得られるように鍛えられる試練に導かれれば良いことになる。
スーパーモデルやプロサッカー選手になりたいというなら、本当に素質があれば、やはり冒険の旅が始まるのだし、単に、妄想や見栄でそういった望みを持っただけなら、自分はその器でないことを思い知ることになるだけだ。

上流階級や、特別な人間のことは分からないが、普通の人間であれば、やりがいのある仕事と、それを遂行する能力があれば幸せだし、それが得られるような試練に導かれれば良いのであるが、それは確実に可能だろう。
何と言っても、人間の内には万能の力があるのだからね。
ところが、恋愛だとか、事業の展開のようなことに関しては、何が起こるのか分からないから楽しいのだから、つまるところは、冒険をするための精神力と武器があれば良いだけのことだと分かる。
そして、それは叶う。
本当の能力は自発的な行動でのみ身に付くが、人間とは切羽詰った状況にならなければ動かないものだ。
それならば、願うべきことは、切羽詰った状況に追い込まれることだ。
しかし、試験で良い成績を取るとか、良い学校に入学するとか、好条件の就職というのは、切羽詰った状況を避けるためにやることなのだ。
それらも、必要な範囲で適度にやるのは良いが、そんなものに血道を上げていれば、確実に虚しく哀れな人生が待っている。
人間は本当の意味で楽しい人生を送らないといけないので、そんな道を進む者に対しては、警告となる状況が起こる。
病気になったり、ウツになったり、家族関係や人間関係が破綻したりといったことだ。
それでも目覚めない人間が多くなれば、ひょっとしたら、天変地異や突然変異の危険なウイルスが発生したりするのかもしれない。

ヘレン・ケラーも言ったように、人生とは、恐れを知らない冒険か無かのどちらかだ。
それならば、得るべきものは勇気だけということになる。
勇気を得るには、楽天的でなければならない。
そのための、スーフィー(イスラム神秘主義)の至高の格言が、「神を信頼しろ。だが、駱駝はつないでおけ」である。
あるいは、「なるようにしかならないが、なるようにはなる」、「明日は明日の風が吹く」といったものもあるだろう。
勇気を得るために参考になる本を下にご紹介しておく。









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改善するよりも全部壊してやり直す~その優れたやり方~

重要な話なので、最初はちょっとややこしいことも書くが、よければ読んで欲しい。
あなたの力を数百倍化するのだからだ。

リストラと言ったら、解雇、つまり、クビのことだと思われているが、本来の意味は、再構築を意味するリストラクチャリングの略語だ。
確かに、企業の再構築という意味のリストラでは、不採算部門を閉鎖、または、縮小することが多く、その際、従業員を解雇することが多い。しかし、日本ではそのことだけに注目して、リストラ=解雇になってしまった。
日本の会社では、実際には今だって終身雇用が多いので、事業縮小のために整理解雇するというのがショッキングだったのかもしれない。
ところで、リストラクチャリングと共によく使われる経営用語に、リエンジニアリングというものがある。
リエンジニアリングは、再設計という意味だが、やはり企業経営においては、リストラクチャリングと同じく、再構築を意味する。
では、リストラクチャリングとリエンジニアリングの違いは何かというと、リストラクチャリングはあくまで改善なのだが、リエンジニアリングは、「全部ぶっ壊して最初からやり直す」ことである。
圧倒的効果が高いのは、リエンジニアリングである。

あなたも、行き詰った時は、全部壊してやり直すリエンジニアリングを考えると良い。
このことを忘れなければ、あなたは他人の数百倍の人物になれる。
以下に、もう少し説明する。

実は、最近、デカルトの『方法序説』をよくご紹介していたので、自分でも読み直してみたのだが、案外忘れていることに愕然とした。
いや、きっと、しっかりと読み込んでいなかったのだ。
私は、社会人を始めて、セールスやサラ金の回収といった仕事をやった後で総務課の社員になったのだが、その頃、『方法序説』を常に手元において読み返していた。
180円で買った角川文庫のもので、今はもう絶版になっているものだ。
厚みがとても薄い本だ(126ページ。ただし、文字が小さい)。
しかし、おそらく4回くらいしか読んでいない。
せめて20回は読むべきだったかもしれない。

この『方法序説』の中で、デカルトは、家は、改修するよりも、一度壊して建て直した方が良い家になり、街も整備するよりはいったん全部潰して造り直した方がはるかに良い街になると書かれていた。
まさに、リストラクチャリングに対するリエンジニアリングの優位を説いたものだ。
そして、家の建て直しの際、元の家に使われていた材料を再利用するのは良いことだという。
これは、忘れ勝ちではあるが、素晴らしい注意点だ。
我々も、自己を新しくやり直す際は、全部壊すとしても、以前の自分を構築していた材料は使っても良いのである。
言い換えれば、材料まで捨てる必要はない。
無論、良い材料と悪い材料を選別する必要はあるだろう。

三鷹光器を創業した中村義一さんは、小学校も出てない超一流エンジニアだが、中村さんの著作『お金は宇宙から降ってくる』の中に、こんな話がある。
三鷹光器では、入社試験でデッサンを描かせるが、消しゴムで消しながら描く人より、最初から描き直す人の方が優秀であるという。
また、社員に設計図を描かせる時も、消しゴムで何度も消すようなことをさせず、一から描き直させるという。
中村さんは、昔の作家というのは、しっちゅう、原稿用紙を丸めて全部捨てたものだという。
これらの話の意味は、上の、リエンジニアリングとリストラクチャリングから考えれば明らかと思う。
今の作家は、ワープロで修正しながら書くのが容易なので、超傑作が生まれないのかもしれない。

「新しい自分を始めるために、今までの自分を終らせる!」
テレビアニメ『魔法少女リリカルなのは』、およびその劇場版映画、『魔法少女リリカルなのは The MOVIE 1st』の、感動的な場面での、フェイト・テスタロッサ(9歳の魔導師の少女)の言葉である。
これまでの自分の全存在が否定されて、精神的にも崩壊寸前だった9歳の金髪の美少女フェイトは、新しい自分を始めることを決意して生まれ変わる。
だが、これまでに身につけた魔法の力、そして、本当は美しい情愛という美点は持ち越したのである。









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夕陽やカラスや頬を撫でる風と一緒に帰りたい

知っている人はよく知っていても、知らない人は全く知らないことだが、アメリカ合衆国の公式のモットー(標語)は「我々は神を信じる(In God We Trust)」である。
これは、1956年にアメリカの公式なモットーとなったが、南北戦争(1861-1865)の時には既に知られており、1864年に2セント硬貨に表記され、現在は、アメリカの全ての硬貨、紙幣にそう書かれていると思う。

だが、アメリカにだって、イギリスのスティーブン・ホーキング博士のように、「神は存在しない」と言う人もいるだろうし、確かに、個人の信条の自由という意味では、アメリカのこのモットーも問題視されることもあるようだ。
しかし、モットーにこそしないが、古代から、至高の賢者達が言い続けてきたのは、「神を信じろ」どころではない。
それは、「あるのは神だけだ」なのである。
よく、英語のGODに日本語の神を当てたのは間違いだとか、キリスト教の一神教の神と、日本のような多神教の神は異なるものであると言う者がいるが、それは表面的なことにとらわれているからであり、GODも神も同じである。
江戸末期の神道家、黒住宗忠が天照大神と言った時は、それは日本の神話の女神であると共に、唯一の根源神のことを指していたことは明らかである。
このように、多神教においては、数多の神々は、根本神の働きを示しているのである。

日本のかつての国家神道においては、天皇は神であると定められ、後にそれが批判されることもあるが、天皇は確かに神である。ただ、誰もが神なのである。そして、やはり、天皇は、我々の内にある神の姿を示して見せてくれる存在であるのだと思う。

アニメ『エル・カザド』で、「エリスは神の子では・・・ない」という、語り手役のブルーアイズの言葉が印象的だった。
エリスという少女は、生命科学によって生み出された人工生命体だったからだ。
それを知った時、エリスは、「私は人間じゃなかったんだね」と言うが、ナディーはそれを否定する。
当然ながら、エリスも神の子であり、それが人間であるというなら人間である。
『魔法少女リリカルなのは A's』では、魔法の力で造られた4人の騎士が敵として現れた時、同じく魔法の力で造られた存在である魔導師の少女フェイトは、自分も人間でないことに動揺するが、リンディ・ハラオウンは同情ではなく、フェイトはれっきとした人間であると断言する。そして、リンディはフェイトを正式に養女にする。犯罪者として捕らえられたフェイトを初めて見た時から、リンディはフェイトを気に入っていたようだ。
画家で講演家の足立幸子さんは、漫画家は意識が開けていて、その作品を見た子供達の意識が進化してきていると講演で言われていたが、実際、漫画やアニメでは、こんな話は多い。
例えば、CLAMPの『カードキャプターさくら』や『ちょびっツ』、永井豪さんの『キューティーハニー』では、人に造られた者達が、全く自然に、普通の人間と同じに扱われる。

日本では、昔から、工場のロボットに名前をつけて親しんできたので、ロボット達もそれに応えて良い働きをし、日本を豊かにしたのだろう。
しかし、海外の多くの国は、ロボットにフランケンシュタインのイメージがあるので、ロボット導入がうまくいかなかったと、渡辺昇一さんの昔の著書『日はまだ昇る』に書かれていたが、今は、日本でも、ロボットを奴隷のように思っているから、産業も悪い方向に行くのだろう。
別にロボットを賛美せよと言うのではない。
ただ、ロボットも神の表れであり、それが良い結果を生もうが、そうでなかろうが、運命として受け入れ、それを我々が愛そうが、憎んで壊そうが、それもまた運命なのである。
初音ミクは、まさに神の表れであり、人間そのものであるが、多くの人は、彼女を自分より高いものとして、自然に天使のように感じている。
人間もまた天使に進化するのであり、本質においては両者に違いはない。

『ヒマラヤ聖者の生活探求』第5巻に書かれているが(この5巻を単独で読んでも差し支えなく、非常に有意義である)、著者であるアメリカのベアード.T.スポールディングがロンドンのF.L.ロースンを訪れた時、彼らの前で、馬車が横転し、その馬車から降りていた御者の上に、積荷の岩が落下するという悲惨な事故が起こった。
すると、ロースンは静かに、「神の他に何もない。ただ神だけがある」と唱え、そして、御者は何事もなかったように起き上がった。
無論、この話が本当のことだという証拠はないが、私には別段、不思議なこととは思えない。このブログでも何度か書いたが、似たようなことは何度も実際にあったからだ。

神を信じていたかつてのアメリカは良いところが多かったように思う。
父親は強く、不屈で、家族は彼を頼り、平和を得ていた。アメリカの父親のイメージは素晴らしいものだった。
そりゃ、アメリカの父親にも欠点はあったが、何事にも受容性があり、神への不信が起こるという理由で子供達を厳しく躾け、貧しい者には施しをした。
アメリカの父親は神を信じ、頼っていた。ジョージ・ワシントンが神を頼ってアメリカを独立させたのだからだ。
だが、豊かさの中で、人々は欲望ばかり発達させ、食欲と性欲に溺れて神を見失ったのだろう。イエスが言った通り、人は2人の主人に仕えることは出来ない。
人々は、イエスが拒んだ欲望を叶えてくれるサタンを主人にしたのだろう。
そして、今や、日本人もそれと変わらない。
日本人はかつて、自然の中に神を感じ、それと親しんできた。
子供達は、遊びから帰る時に照らしてくれる夕陽や赤く染まってたなびく雲の中に、カラスが飛ぶ姿に、頬を撫でる風に、当たり前のように親しい神を感じ、安心していたのだ。
しかし、今や、子供達は夜遅くまで塾の中にいて将来の安楽を目指し、大人は身体的快楽をどこまでも求め、空を見ずにスマートフォンを凝視し、すっかり神から離れた。
それで不満と不安の中で、自分の場所を確保することだけに必死になっているのである。
とりあえずは、不要なものを求めず、頬を撫でる風に帰ってきて欲しいと願うことは難しいことではあるまいと思う。

頬なでる柔らかな風が
そっと寄り添ってくれる
思いを告げる勇気をあつめ
空を見上げて言葉をつむいで
~初音ミク『星のカケラ』(作詞、作曲:平沢栄司 )より(※初音ミクの最初の歌と言われている)~









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我流でも引け目なんか感じるな

竹宮恵子さんの漫画作品『変奏曲』だったと思うが(昔読んだのだが、今は私の家に本が無い)、ある名門の音楽学校で、入学試験を受けたエドアルド・ソルティーという少年のことで物議を醸していた。教師達は、彼の演奏が抜群であることは認めたが、弾き方がデタラメにしか見えなかった。実は、彼の演奏は独学だった。
そんなことが可能かどうかは分からないが、パガティーニという実在したヴァイオリニストは、あまりの上手さに、彼は悪魔に魂を売って演奏技術を得たと言われたくらいだったが、彼の演奏も独学だったと言われる。風説だとは思うが、彼がどれくらい恐るべき腕前だったかという話にこんなものがある。パガティーニが公演中、ヴァイオリンの弦が1本切れたが、パガティーニは平気で引き続けた。続いて2本目が切れたが、それでも変わらない。すると、なんと3本目まで切れてしまう。しかし、パガティーニは1本の弦だけで、見事に演奏を終えたという。
『フラッシュダンス』というアメリカ映画でも、アレックスという若い女性は、名門のダンサー養成所への入学を希望するが、受験者の大半はクラシックバレエのしっかりとした基礎のある者ばかりだった。しかし、彼女は、そのような経験の無い独学のダンサーで、日頃ダンスの腕を磨いているのは夜のバーだった。
立派な基礎訓練というものは、ある種の運が無い者には無縁な場合が多く、こういったお話には、心ときめくものがある。

一方、アニメ『魔法少女リリカルなのは A's』の中で、達人的な騎士シグナムは、魔導師の少女フェイト・テスタロッサとの戦いで圧倒的勝利を収め、悠然としていたが、ザフィーラは何かに気付いていた。そして、シグナムはザフィーラに対し、実は、フェイトに一太刀を浴びていたことを告白する。シグナムは、自分が勝てたのは、持っていた武器の威力の差だと言い、もし、武器が同じなら苦しかったことを認めた。
そして、シグナムは、フェイトについて言う。「綺麗な太刀筋だった。きっと、良い師に学んだのだろう」
正直、私は、あまり良い気持ちではなかった。私は、何に関しても、優れた師に学ぶ機会はなかったからだ。この感情は、一種のひがみ根性と言えるかもしれない。
だが、アインシュタインも岡本太郎も独学ではあったが、本は読んだだろうし、瞬間的になら優れた人物から何かを学んだことはあったはずだ。
私も、数度しか会わなかったが、政木和三さんと話した時に、貴重なことを聞いたことをよく憶えている。

私と同様、多くのコンピュータプログラマは、ほとんど独学の場合が多いと思う。
しかし、この世界には、ブライアン・カーニハンの『プログラム書法』や、『ソフトウェア作法』、そして、新しい『プログラミング作法』という素晴らしい教本がある。
あまりに素晴らしいので、読むとすっかり愉快になってしまうような本だ。
とはいえ、これらの本に書かれているのはあくまで基礎である。
基礎は大事であるが、その上に独自のスタイルを構築しなければ、どんなことでも一人前にはならないだろう。
そして、基礎、応用に限らず、最も良い師は自然である。
迷った時は、自然を謙虚に観察すれば、必ずヒントが得られるものだ。
私は以前、dbMAGIC(今はMAGIC)という開発ツールの腕前を磨き、多くの企業から指導依頼を受けたが、開発の仕方そのものは本に書かれている。しかし、私は、本に書かれていないが効果的な開発方法を編み出していたので求められたのだ。しかし、そのヒントは、ある優秀なdbMAGICの開発者の処に足しげく通い、彼の技を参考にしたものだった。
私は、今はマイクロソフトのAccessをよく使う。これは、素人の道具のように言われるが、やはり、本には書かれていないオリジナルの手法がなければ力を発揮しない。それは、決して自己中心的な偏った技法ではない。大袈裟に言えば、宮本武蔵の剣法は独自のものではあるが、実は、最も自然の流れに沿った普遍的なものだというのと同じだ。武蔵の極意はあらゆるものに通じるし、岡本太郎に関しても同じである。
Accessは簡単だと馬鹿にする者も多いが、それは、ギターやオカリナを、誰でも音が出せるから簡単だというのと変わらない。
Accessより簡単だと言われる桐(管理工学研究所のデータベースソフト)も、名人の手にかかれば素晴らしい開発ツールであり、実際に、これで素晴らしいシステムを開発している人もいる。
どんな世界だって、基礎の上に立った、オリジナルの技を編み出した者が道を究める。
そして、いつまでも師の元で学んでいては、決して師を超えないばかりか、やがて落ちぶれるだろう。だから、昔から、師の下を離れた後で師に挑んで負かすことを、師に対する最高の「恩返し」と言うのである。彼は、師と同じ道を歩み、その世界そのものを発展させたのだからだ。負けた師が本物なら、非常に喜んでいるだろうし、弟子も、自分と同時に師が勝ったことを理解しているのだ。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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