『アラビアンナイト』のお話の1つ、『アラジンと魔法のランプ』は、こすれば魔物が現れて願いを叶えてくれる魔法のランプのお話である。
日本には、『一寸法師』の中で、元々、鬼が所有していた「打ち出の小槌(うちでのこづち)」というものを一寸法師が手に入れるが、これは、振ればどんな願いも叶う。
どこの国にでもあるのだと思うが、日本でも、他に、仙人や導師のような存在が、竹の棒や小刀といった、ちょっとした道具をくれて、それを振るとかすれば、どんな願いも叶うといったお話がよくある。
注意していただきたいのは、それらの道具自体に何か特別な力があるのではなく、力自体は人間の中にあり、それを、儀式めいたことで引き出しているだけである。
人間は、儀式や呪文といった形にすることで、力を発揮し易いのである。
中国の倶胝(ぐてい)というお坊さんは、何を聞かれても、指を1本立てるだけであったという。
そして、死ぬ時、「先生に教わった一本指の禅を、一生で使い切れなかった」と言う。
これも、単に、指を一本立てれば、何もかもうまくいくという信念があれば、実際にそうなるというだけのことで、偉い仏教の先生方が解説する難しい意味など何もない。
そして、指を一本立てるという形にすれば、人間は容易く万能の力を発揮出来るのである。
私は、いったいどこで覚えたのかは分からないが、幼い時、右手の中指と人差し指の2本を立て、「エイ!」と言えば、何でも思い通りになるという想いを持っていたが、実際、それは奇跡の力を発揮した。その威力は、今思えば、夢のようであるが、裏切られたことはない。
だが、大人になれば、荘厳であったり、高貴であったりする形や儀式が必要になる。
しかし、逆に言えば、それだけあれば良い。
他のことは、人間は、どうせ続けられない。
お釈迦様も、それが分かっていたから、念仏という簡単なものだけを残した・・・というのが、浄土仏教の教えで、他宗の仏教では反発もあろうが、一休や良寛は、他宗の僧侶でありながら、それを認め、念仏に転向した。
現代の我々の魔法のランプ、打ち出の小槌は、アファーメーション(心を鼓舞する言葉)で、これは、呪文、宣言、確言、自己暗示、唱え言葉、何と呼んでも構わない。
別に、好みであれば、倶胝のように、指を1本立てても良いし、念仏を唱えても、もちろん良い。
江戸時代の農民であった、因幡の源左(いなばのげんざ)という男は、18歳の時、父が亡くなる直前に、「これからは親様(阿弥陀如来のこと)」を頼れと言い、源左はそれを守った。
源左が念仏を唱えたという話はあまり聞かないが、彼の口癖は「ようこそようこそ さてもさても」で、それさえ唱えていれば、何でもうまくいったのだろう。もちろん、苦労はあったが、彼にとっては、それも面白いだけのものであったのだろう。
アファーメーションは、1つでなければ続かない。
その、たった1つの言葉を、常に忘れずに使えば、全てはうまくいき、しかも、使えば使うほど強力になることは、『アラジンの魔法のランプ』や『一寸法師』の、魔法のランプや打ち出の小槌がそうであることは、後日談であるため伝わっていない。
あるいは、ひょっとしたら、アラジンや一寸法師は、魔法のランプや打ち出の小槌のことを忘れて、落ちぶれてしまったかもしれない。
倶胝だって、もし、一本指の禅を忘れてしまったら、やっぱり駄目になっていたが、彼の場合は、そうではなく、一生楽しくやれたようだ。
初音ミクさんの『FREELY TOMORROW』の中の「奇跡は起こる」という言葉も、素晴らしいアファーメーションだ。
マイケル・ジャクソンだって、『Black Or White』の中で、「僕は奇跡を信じる」「今夜、奇跡は起こった」と歌っているが、彼が最後、あまり幸福でなかったのは、あまりに才能があって、アファーメーションを沢山持ち過ぎたからだ。
釈迦、法然、親鸞がよく知っていたように、人間に使えるのは1つだけなのである。
私も、自分のお気に入りの言葉をたった1つ選び、それを常に使っている。使う度に力を増しているので、すぐに無敵になるだろう。
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日本には、『一寸法師』の中で、元々、鬼が所有していた「打ち出の小槌(うちでのこづち)」というものを一寸法師が手に入れるが、これは、振ればどんな願いも叶う。
どこの国にでもあるのだと思うが、日本でも、他に、仙人や導師のような存在が、竹の棒や小刀といった、ちょっとした道具をくれて、それを振るとかすれば、どんな願いも叶うといったお話がよくある。
注意していただきたいのは、それらの道具自体に何か特別な力があるのではなく、力自体は人間の中にあり、それを、儀式めいたことで引き出しているだけである。
人間は、儀式や呪文といった形にすることで、力を発揮し易いのである。
中国の倶胝(ぐてい)というお坊さんは、何を聞かれても、指を1本立てるだけであったという。
そして、死ぬ時、「先生に教わった一本指の禅を、一生で使い切れなかった」と言う。
これも、単に、指を一本立てれば、何もかもうまくいくという信念があれば、実際にそうなるというだけのことで、偉い仏教の先生方が解説する難しい意味など何もない。
そして、指を一本立てるという形にすれば、人間は容易く万能の力を発揮出来るのである。
私は、いったいどこで覚えたのかは分からないが、幼い時、右手の中指と人差し指の2本を立て、「エイ!」と言えば、何でも思い通りになるという想いを持っていたが、実際、それは奇跡の力を発揮した。その威力は、今思えば、夢のようであるが、裏切られたことはない。
だが、大人になれば、荘厳であったり、高貴であったりする形や儀式が必要になる。
しかし、逆に言えば、それだけあれば良い。
他のことは、人間は、どうせ続けられない。
お釈迦様も、それが分かっていたから、念仏という簡単なものだけを残した・・・というのが、浄土仏教の教えで、他宗の仏教では反発もあろうが、一休や良寛は、他宗の僧侶でありながら、それを認め、念仏に転向した。
現代の我々の魔法のランプ、打ち出の小槌は、アファーメーション(心を鼓舞する言葉)で、これは、呪文、宣言、確言、自己暗示、唱え言葉、何と呼んでも構わない。
別に、好みであれば、倶胝のように、指を1本立てても良いし、念仏を唱えても、もちろん良い。
江戸時代の農民であった、因幡の源左(いなばのげんざ)という男は、18歳の時、父が亡くなる直前に、「これからは親様(阿弥陀如来のこと)」を頼れと言い、源左はそれを守った。
源左が念仏を唱えたという話はあまり聞かないが、彼の口癖は「ようこそようこそ さてもさても」で、それさえ唱えていれば、何でもうまくいったのだろう。もちろん、苦労はあったが、彼にとっては、それも面白いだけのものであったのだろう。
アファーメーションは、1つでなければ続かない。
その、たった1つの言葉を、常に忘れずに使えば、全てはうまくいき、しかも、使えば使うほど強力になることは、『アラジンの魔法のランプ』や『一寸法師』の、魔法のランプや打ち出の小槌がそうであることは、後日談であるため伝わっていない。
あるいは、ひょっとしたら、アラジンや一寸法師は、魔法のランプや打ち出の小槌のことを忘れて、落ちぶれてしまったかもしれない。
倶胝だって、もし、一本指の禅を忘れてしまったら、やっぱり駄目になっていたが、彼の場合は、そうではなく、一生楽しくやれたようだ。
初音ミクさんの『FREELY TOMORROW』の中の「奇跡は起こる」という言葉も、素晴らしいアファーメーションだ。
マイケル・ジャクソンだって、『Black Or White』の中で、「僕は奇跡を信じる」「今夜、奇跡は起こった」と歌っているが、彼が最後、あまり幸福でなかったのは、あまりに才能があって、アファーメーションを沢山持ち過ぎたからだ。
釈迦、法然、親鸞がよく知っていたように、人間に使えるのは1つだけなのである。
私も、自分のお気に入りの言葉をたった1つ選び、それを常に使っている。使う度に力を増しているので、すぐに無敵になるだろう。
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