ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

魔法

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

魔法は誰でも使える

私は中学1年生の時、ウォルター・アーネスト・バトラー(1987~1977)の『魔法入門』を読み、この著者の魔法の定義が「精神に自在に変革を起こす技術」だということを知ったが、これがかなり衝撃的だった。
つまり、魔法現象を起こすのは精神の力であり、精神操作が出来れば、魔法を使えるという理屈になる。
現代では、ほぼ世代を問わず(相当な高齢の場合は別だが)、「魔法少女」アニメ等により多少の魔法の概念があるが、魔法の原理にまで触れる作品はなかったと思う。
ゲーテの『ファウスト』では、ファウストは悪魔と契約することで、若返るなどの魔法の恩恵は得るが、魔法を使うのはもっぱら悪魔だ。ファウストも魔法の研究はしていたが、成果は芳しくなかったと思う。
ところが、私は、やはり中学1年生の時、H.G.ウェルズの『奇跡を起こせる男』を読んだが、ここでは、万能の魔法の力と人間の意識との関係について示唆するところがあった。
H.G.ウェルズは『宇宙戦争』や『タイムマシン』の作者として知られる歴史的なSF作家であったが、若い頃は科学ジャーナリストとして活躍しており、日本では科学者として紹介されていた。
アメリカを代表する現代作家のカート・ヴォネガットや、イギリスの世界的作家であるコリン・ウィルソンは、ウェルズをSF分野を超え、最高の作家と言っていた。
『ヒューマノイド』(1948)の著者で、私も大好きなSF作家のジャック・ウィリアムスンは、12歳まで学校に行かず、20歳で学校をやめたが、H.G.ウェルズの研究により、コロラド大学ボルダー校から英文学の博士号を得ている。
これほどの作家であるウェルズが『奇跡を起こせる男』で、魔法と言って差し支えない奇跡の力を惜しみなく描写した。
ただ、魔法の使い手が、平凡な30歳の男で発想力が乏しいので、起こす奇跡もぱっとしない。
物を空中に浮かせたり、ローソクに火をつけたり、灰皿を金魚鉢に変えたり、マッチを出現させたり、朝食にアヒルの卵を出したりと、本当にショボいが、それでも、あり得ない奇跡である。
自分に詰め寄ってきた警官を地獄に送ったこともあるが、それは咄嗟にやったことで、その奇跡を起こせる男も、地獄とは本当は何でどんなところかは全く分からない。

中学1年生と言えば、私はとっくに奇跡を起こし慣れていた頃だが、『奇跡を起こせる男』で描かれるような即物的な奇跡はあまり起こしたことがないので、当然、興味を持ってやってみたが、そうしたら、出来るとは思うが、心の奥で制止する力が働くのを感じた。
そんな制止する力が働く理由は、手塚治虫の漫画『ユフラテの樹』を読んでピンときた。
この漫画では、リンゴに似たユフラテの樹の実を食べることで、3人の中学生(男2女1)が、『奇跡を起こせる男』並の力を得る。
ところが、この中の1人の少年が、人を殺してしまうが、奇跡の力を使えば、それは容易い。
私の場合、そんなことが出来ないよう、ストッパーがかかるのだと思えた。
『奇跡を起こせる男』でも『ユフラテの樹』でも、強大なる力を持つには円熟を伴う精神の進歩が必要であることが強く示唆されている。
だが、イエス・キリストも言ったように、奇跡の力は誰でも使える。
その原理は、マイケル・タルボットの『投影された宇宙』に書かれているが、今日で言えば、この世界が、コンピューターゲームのような仮想世界であるとするシミュレーション仮説でかなりはっきり分かると思う。
つまり、奇跡も魔法も可能で、どちらかというと、人間には、それを行使する権利がある。
しかし、そのために必要なこともあるのである。
だが、まずは、上記の作品を読んで、発想を広げておくと良いだろう。
後は、思考を消しさえすれば良いのである。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)タイム・マシン ~ウェルズSF傑作集~(H.G.ウェルズ)※『奇跡を起こせる男』含む
(2)ユフラテの樹(手塚治虫)
(3)ファウスト(一)(ゲーテ)
(4)新約聖書 福音書 (岩波文庫)
(5)投影された宇宙 ホログラフィック・ユニヴァースへの招待(マイケル・タルボット)
(6)この世に不可能はない(政木和三)
(7)トーチェ氏の心の法則(トーチェ夫妻)

待ち合わせ
AIアート1219
「待ち合わせ」
Kay

マジでヤバい魔法の使い方

政木和三さんが超人になったのは、小学3年生の時、腹式呼吸を毎日やることによってだった。
では、腹式呼吸には、そんな凄い効果があるのかというと、そういうわけではないと思う。
腹式呼吸を熱心にやっても、大した成果がない場合が大多数だ。
単に、政木さんは、「腹式呼吸をやればすごくいいことがある」と「設定した」だけなのだと思う。
後に、政木さんは、パラメモリーという記憶力増強装置を発明し、これを使えば、政木さんがやったように毎日1時間も腹式呼吸をしなくても、即座に超人になれると言った。
実際、そうなった人もいたが、そうでない人の方が圧倒的だった。
どういうことかというと、「パラメモリを使えば即座に超人になる」と「設定した」人が、そうなっただけだ。
つまり、やり方など、どうでもいいのだと思う。
昔のカルト宗教で「処女の生き血を飲めば若返る」などと言ってそれをやると本当に効果があったのは、やはり、その宗教のムード的なものによって、そんな設定を作り易かっただけだったと思う。
それこそ、チョコレートを食べればとか、猫に噛まれればとか、本当に何でもいいのである。
私の場合は、中学1年生の時、氷で手を耐えられないほど冷やし「これで魔法力が得られる」と設定したところ、実際、なかなかのことが出来た。内容は、思い出したら、ヤバくて言えないものも多い(笑)。

上杉謙信は、戦に勝つために女断ちをし、実際、生涯、戦で負け知らずだった。
これも、単なる設定であり、そんな無理をする必要はなかった。残念なことだ(笑)。

腕振り運動を毎日2000回やれば億万長者になるという設定でも良い。
こういった身体を動かし、ある程度の根気が必要なものは設定として良いのではないかと思う。
子供の時は、そんな設定をし易いものだ。
私は、小学生の時、黒い紙を持っていたら無敵という設定をしていたが、それにより、学年トップの運動神経を持つと言われる子と帽子取り競技で対決して簡単に勝ち(周囲がざわついたほど意外だったようだ)、走り高跳びでは無敵だった。私は、身体能力は特に秀でているわけではなかったのにである。
テストで百点になるための設定も出来たと思うが、私はカンニングを疑われそうな気がしてやらなかった。しかし、やれば出来たと思うのだ。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)投影された宇宙 ホログラフィック・ユニヴァースへの招待(マイケル・タルボット)
(2)この世に不可能はない(政木和三)
(3)トーチェ氏の心の法則(トーチェ夫妻)

白雪姫
AIアート1218
「白雪姫」
Kay

修行は不要と思う修行

私は、小学生の時には意識しなかったが、中学生くらいになると、自分がまともな方法では生きていけないことを、なんとなく自覚するようになった。
勉強は出来ないし、スポーツとか楽器とかが出来るわけでもない。
それなら、もう超能力しかない(笑)。
超能力とは、精神で物質を支配することだが、それなら、スプーン曲げみたいなことが超能力の代表みたいに感じる。
そうではなく、精神で物質界を支配することを考えたので、一般で言う超能力者ではなく、魔法使い、大師(マスター)、導師のような言い方が正しいのだが、当時はそういった言い方を知らないので、とりあえず魔法使いとした。
さっき述べた通り、その能力は物質世界の支配なので、今で言う引き寄せと同じだ。
伝統的な西洋魔法の定義によれば、魔法とは「精神に自在に変革を起こす」ことであるが、それが実に的確な定義であることはかなり後になって分かった。しかし、直観的には中学生の時に分かったのである。

私が中学生の時に考えた魔法使いになる方法は「常識に反することを考える」ことで、これも正解だった。
これを思いついた時は、躍り上がって喜んだのである。
現在もよく引用される言葉に、昭和の大評論家、竹村健一さんの「日本の常識は世界の非常識」というものがある。平凡な人間でも、これには納得すると思う。
だが、実際は「世界の常識も非常識」なのだ。
逆に、日本の常識の中にも宇宙の常識がある。
よって、目指すべきは非常識ではなく超常識である。
これは、不自然(異常。アブノーマル)ではなく、超自然(スーパーネイチャー)を目指すようなものだ。

しかし、やることは非常に容易い。
超常識や超自然がどこかにあり、それを手に入れなければならないとしたら大変だが、それは自分の中にある。
つまり、魔法使いや超能力者になるのに努力はいらない。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』に、大師(マスター。魔法使いのようなもの)になるのに修行する必要はないと書かれている通りだ。
あの頭ガチガチのデカルトですら、自分の中に神が居ることは認めていたのだが、彼は超常識にならなかったので、「われ思う、ゆえにわれあり」に留まったのだと思う。

魔法があれば現実逃避で良いかというと、それは変な話なのである。
現実を実験場としなければ、何のための魔法かである。
魔法使いは現実に強く、言ってみれば引き寄せが自在である。
私が最初の仕事にセールスマンを選んだのも、一番簡単に魔法の実験が出来るからだ。
それで、性格的には全く向いていなかったが、即座にセールスコンテストで優勝するなど、良い実験成果を収めた。
だがまあ、やはり向いておらず、面白くなかったのですぐに(と言っても2年はダラダラやっていた)辞めた。
私は巨万の富を掴むタイプではなく、月野うさぎ(セーラームーン)のように楽をすることが趣味なので、その線でいった(笑)。

魔法使い、超能力者、引き寄せマスター、大師、導師になる方法は特にない。
あえていえば「魔法使いになる」と決めることである。
中島敦の『名人伝』(『列子』の中に同様の話がある)が、魔法使いになるプロセスみたいなものである。
弓の名人を目指す男が、まずは、小さな点を凝視する修行をする(本当は瞬きをしないことから始める)。
その修行を十分にやれば、それで師と同等になった。
その修行を教えた師も、この弟子が、それほど熱心にやるとは思わなかったのかもしれない。
しかし、師は、自分達など全く及ばない名人がいると言い、弟子のその男は、さっそく、その超名人を訪ねる。
この超名人こそが、超常識、超自然を体現した人で、弓を使わずに空の鳥を落とした。
超名人の弟子になったその男がどんな修行をしたかは書かれていないが、彼もまた超名人になる。
しかし、どんな修行をしたかというのではなく、修行など必要ないことが分かる・・・というか、分からないと、この作品が分かっていない。
彼は自我(=思考=心)を消した・・・正確には、自我が控えるようになったのである。
自我が大人しくなったと言って良いが、別に老人ボケ状態になったのではなく、魔法使いにだって怒りっぽい者やスケベな者もいる。だが、すぐに静まるのである。
その超名人の彼は、「既に、我と彼との別、是と非との分を知らぬ。眼は耳のごとく、耳は鼻のごとく、鼻は口のごとく思われる。」と言う。
思考しないから区別の意味がない。だがまあ、箸と茶碗と湯飲みの区別はするだろうから、全く思考や自我がないわけではない。ここらを極端に解釈する馬鹿が多くて困る。
こんな良いヒントが書かれている。
「彼は呼吸しているかどうか分からない」
別に修行ではないが、そのようにすれば良いのである。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)李陵・山月記 弟子・名人伝(中島敦)
(2)ヒマラヤ聖者の生活探究 第1巻
(3)あなたも金持ちになれる(ジョセフ・マーフィー)
(4)ポリー氏の人生(H・G・ウェルズ)※ウェルズの自伝的小説
(5)誰がかまうもんか?!(ラメッシ・バルセカール)

絡みつく
AIアート1031
「絡みつく」
Kay

やる気にさせたいと思って書いた話

神とは何かというと、ネヴィル・ゴダードによれば、「私は在る」という自覚であるらしい。
その根拠は、旧約聖書で、神がモーセに、「私は『私は在る』という者だ」と言ったことによるのだが、ゴダードは、旧訳聖書をヘブライ語(へブル語)の原典で読めたらしい。
自分でヘブライ語で読めたのではないかもしれないが、ウィリアム・アーネスト・バトラーは、言語学者の様々な解釈を研究した上で、 「私は『私は在る』という者だ」の解釈に疑問を唱えているが、こういうことは疑問がなければむしろ信じることは出来ない。
そして、異なる解釈も、結局は 「私は『私は在る』という者だ」という意味になることが分かれば、信憑性が高まる。

神とは絶対的真理だという方向から探求することも出来る。
これに関しては、ニサルガダッタ・マハラジが、「あなたが確信出来る唯一のことは『私は在る』だけである」と言ったが、では、眠っていて夢を見ていない時は「私は在る」と感じないのだから、私はないのかという疑問が生まれる。
これに関しては、古来から「夢のない眠りにこそ、本当の『私は在る』がある」と言われているが、当然ながら科学的根拠はない。

つまるところ、全て聖典頼みということになる。
ただ、古代仏教の教典を研究した者が、これに究極の真理が書かれていると信じざるを得ないと言うことがあるが、それはどういうことかというと、人間の知を超えた真理が書かれていることを、直観的に感じたり、ある程度は類推したり、帰納的(個々の特殊な事実から普遍的原理を導くこと)に考えたということだろう。

だが、私は、ゴダードが説く教えは、私の子供の時からの経験とかなり一致するという特殊な事情があって、かなり信じている。
また、私が初めてビートルズを聴いた時、英語は得意ではない私が極めて印象的に憶えていた歌詞が"AT YOUR COMMAND"だが、ゴダードが初めて書いた本のタイトルがまさに"AT YOUR COMMAND"だったということも面白い。

そしてもう1つ。
私は上に書かれてあるようなことを知る前に神の存在を理解し、理解した時はかなり高揚したものである。
それはデカルトの『方法序説』によるもので、これ(方法序説、あるいは、デカルトの思想)には欠陥があることは分かっているが、それでも価値がある。
デカルトは究極の真理を探究していたが、それは当然ながら、なかなか見つからなかった。
どれほど正しいと思えることも、疑おうと思えばあっさりと疑えた。疑えるからには真理ではない。
真理とは疑うことが出来ないからだ。
たとえば、母の愛が真理かというと、そんな馬鹿でも疑えることが真理であるはずがない。
だが、デカルトは気付いてしまった(笑)。
疑えるということは、自分の中に真理があるからだと。それが神である。
これを見て私は感動のあまり恍惚としてしまった。
それでデカルトは「疑っている私は確実に存在する」を究極の真理としたが、なぜそれが「われ思う、ゆえにわれあり」という不純なものになったかは不明だ(笑)。

ちなみに、本人は隠していたが、やはりというか、デカルトも魔法研究をしていた(笑)。
それはニュートンも同じであった。
というか、ニュートンは、メインの研究は聖書や魔法で、数学や物理学はついでにやっていたのである。
だから、魔法・・・これは旧約聖書から出ているものだが、それこそが真理なのである。
尚、デカルトの自己評価について述べておこう。
デカルトは、名門校の出身で、その学校の中でも優等であった自分が優秀であることは認めていた。
ただし、自分よりずっと上の者達がいることも分かっていた。実に聡明であると思う。
そして、さらに偉いのは、書物の学問は全て捨てたと宣言していることだ。
さっきも書いたが、デカルトにも欠点はあったが、これほどの人物はそうはいない。
デカルトは、究極の真理の柱を「疑う」と「在る」の2本としたが、「疑う」は、もっと洗練させて「気付き」とすればより完璧だった。
そうすれば、「私は在る」が神であるという古代の英知にたどり着けた。

そんなわけで、私にとっては「私は在る」が神であることは明瞭になった。
後は、「私は在る」の自覚から離れなければ神になるのだが、これは簡単であって難しい。
これに関しては宇宙人に聞いたことがある。
「適度にやれば超人になるが、やり過ぎるとこの世から消える」
なるほど、確かにいろんな賢者も同じことを言っていたと思う。
尚、正確に言うと、その宇宙人は、茶目っ気があったのかもしれないが、私に、存在の自覚を加速させるメソッドを教えてくれたのだ。
その上で「1日3回にしろ。それ以上やると消えるぞ」と言ったのだった。
まあ、それで結局、全くやらなくなるうちに、やり方を忘れてしまった。
いや、思い出せるが(笑)。
だが、そんなことは知らなくていいから、「私は在る」と感じることを、なるべく長くやることである。
それで十分に魔法使いに、超人に近付く。

眼差し
AIアート775
「眼差し」
Kay


◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)方法序説 (角川ソフィア文庫)
(2)方法序説ほか (中公クラシックス)
(3)アイ・アム・ザット~私は在る~ニサルガダッタとの対話
(4)世界はどうしたってあなたの意のまま(ネヴィル・ゴダード)※『AT YOUR COMMAND』翻訳書
(5)ラマナ・マハルシの教え
(6)聖書(フェデリコ・バルバロ)

魔法修行

修行と訓練は違うと思う。
『葬送のフリーレン』というアニメで、フェルンという名の一見、ただの可愛い魔法使いの少女が登場するが、彼女は、他の魔法使い達に、その若さで驚異的な実力があることと共に、そうなるには相当な修行を積んだに違いないことで静かな敬意を受けているように思えた。
フェルンの修行は、幼い頃から始めた、遠くの岩を魔法攻撃で破壊することであったが、おそらく、毎日長時間をかけ、10年以上かかったのかもしれない。
修行とは、そんなふうに、1つのことを長い間繰り返すことだ。当然、その他の訓練もするのだが、訓練はどれほどやろうと、補足のようなものだ。
フェルンはたまたま魔法修行であったが、修行というものは、ある意味、魔法のような力を得る。
魔法とは、精神の変革により物理的な力を超えたあり得ぬことを起こすことだ。
それは、いつの世でも、今でも、当たり前に存在する。
だが、物質的な世の中にあれば、それは忘れられる。

最近知った修行で思い出すのが、大東流合気柔術の達人、佐川幸義の1人の弟子が、佐川幸義が考案した佐川流四股を、寝食を忘れるほどひたすら行い、元々、合気道の高段者であったらしいが、佐川幸義以外には誰も倒せなくなったらしい。ただし、その者も倒す方はさほどでなかったというから、防御専門の達人になったようだ。
これも、1つのことを繰り返す修行で魔法の力を得たようなものだ。佐川流四股は、別に筋力を鍛えることでも、技が上手くなることでもなく、やはり、訓練ではなく修行であると思う。

政木和三さんは、小学校5年生の時、毎日1時間の腹式呼吸を行い、数か月くらいかかったのだと思うが、すっかり超人に、つまり、魔法使いのようなものになった。
仏教のお経を聞いたら、教わったこともないのに意味が分かってしまい、習ったこともないピアノが弾けるようになった。その後は発明も行うようになり、学生にしてとんでもない金持ちになったそうだ。

架空の話であるが、本宮ひろ志さんの古い漫画である『武蔵』で、ただの荒くれものだった武蔵が、木刀で杭を打つだけの修行を1年行ったら、不思議な剣の力を得た話があるが、これも魔法修行のようで私の好きな話だ。
山岡荘八の『春の坂道』(後に『柳生宗矩』に改題)と『徳川家康』を基に制作されたドラマ(NHK大河ドラマ)『春の坂道』でも、少年の時の徳川家光が、柳生新陰流の開祖、柳生宗徳の指導で、同じように、木刀で杭をひたすら打つ修行をする場面がある。

あるアメリカの人気作家は、ヘミングウェイなどの文豪の作品を、ひたすらそのままタイプするという修行をしたらしいが、何のきっかけで始めたのか分からないが、魔法的修行を行った作家であるようだ。
私も、コンピュータープログラミングを始めた時、なかなか上達しなかったが、雑誌に載っていたプログラムをひたすら自宅のパソコンに打ち込むことで自在にプログラミング出来るようになった。私もまた、魔法使い的プログラマーであるわけだ。

このような修行の例は、私はいくらでも上げられる。
そして今は、ニサルガダッタ・マハラジが教えた「存在の感覚にしがみつく修行」をひたすら行い、やがて本物の魔法使いである(笑)。
ついでに行っている、眉間を指先で軽く叩く修行でも十分と思うが・・・。

夕暮れ
AIアート757
「夕暮れ」
Kay


人間は、修行をした人間と修行をしていない人間の2種類しかない。
だが今は、修行をしていない人間が増え、魔法を使えない人間ばかりになってきた。
是非、何か1つ修行をすべきと思う。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)アイ・アム・ザット 私は在る ~ニサルガダッタ・マハラジとの対話~
(2)魔法修行―カバラの秘法伝授
(3)この世に不可能はない(政木和三)
(4)武蔵 第1巻 (本宮ひろ志)
(5)柳生宗矩(1)(山岡荘八)
(6)葬送のフリーレン(Amazon Prime Video)
プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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