ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

魔法

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

チート技が一番簡単

超能力の使い方・・・という言い方は怪しく感じるが、まあ、世界を生成する力の使い方である・・・いや、もっと怪しいかもしれない(笑)。
本当に願うなら実現させる力であるから、引き寄せと同じと言えると思う。
スプーンを曲げる超能力だって、そんな状況を生成する力であり、そんな状況を引き寄せる力と言えるかもしれない。
そんな細かい言い方が面倒なので、単に、超能力とか引き寄せと言うのである。

超能力を使うには、当然ながら、使い方を知り、使う感覚を得ておく必要がある。
丁度、自転車に乗るようなもので、少しも難しくはないのだが、それでも、自転車の乗り方や乗る感覚を得ていないと、全く乗れない。
自転車の場合は、現物がそこにあるので、やり易い。
逆に言えば、自転車の現物がなければ、ほぼ乗れるようにならないし、乗り方を教えることも難しい・・・いや、ほぼ出来ない。

私は、最初から、つまり、幼い時から超能力を使えたが、どう使うか教えるのは難しい・・・いや、自分でも分かっていない。
それで、そのやり方を知りたいとは思っていた。
そのやり方を多少知っておいた方が、簡単に使えるし、大人になると、自然に超能力を使うことが難しくなるので、多少の公式めいたものを知っておいた方が安心なのである。

『ファラオの墓』という竹宮恵子さんの漫画で、16歳の若い王スネフェルが「ものごとは客観視するに限るという」と言うのを見た時、それが社会的教訓であると共に、これが万能の力・・・すなわち超能力に通じるものであると感じた。
(余談だが、『ファラオの墓』で、12歳の超清純派美少女ナイルキアとスネフェルのエッチシーンで、12歳だった私は度肝を抜かれ、「こんなん出版していいのか」と思ったが、この著者は、こんなん普通だということを知らなかった。本当に宇宙法則に通じた人だ)
池田理代子さんの何かの漫画で、賢いお婆さんが「空にある大きな目に見られていると思えば正しいことが出来る」みたいなことを言っていたが、日本でいう「お天道様が見ている」と同じことだが、これも同じことだ。
平井和正さんと桑田次郎さんの漫画『エリート』では、象徴的にだが、神のような存在(宇宙最古の生命体)が、空に浮かぶ巨大な目として描かれていた。その目は、全知全能で、宇宙の支配者であると言って良い。

それで、その後本で読んだ、あらゆる賢者達も、一葉に同じことを言っていることが分かった。
ラマナ・マハルシも、ニサルガダッタ・マハラジも、ヴァーノン・ハワードも、その他の聖者賢者らも、「心の動きを観察しろ」と言う。
しかし、結局、それは無理と結論した。
心が心を、思考が思考を観察することは出来ない。
だが、賢者達が間違えているのではない。表現が難しく、翻訳で齟齬が生じたのだろう。

理屈で説明するのが難しければ、詩的表現に限る。
私は、中学1年生の時、誰かの何かの詩で、「新たな目で見れば全て美しい」と書かれているのを見て、「これだ」と思った。
「新たな目で見る」ことで、その頃には弱くなっていた超能力が復活し、その後も、「新たな目」を思い出すだけで、何でも可能だった。
昨年(2024年)12月に読んだ、ヴァジム・ゼランドの『タフティ・ザ・プリーステス』で、「自分が何をしているかに気付け」と書いていたのが、一番マシな表現・・・「心を観察しろ」という馬鹿げた言い方よりずっと良いのだが、それでも、ふにゃふにゃした抽象的な感じですっきりしない。

それで、結局は、思考を消せば全て解決することが分かった。
コリン・ウィルソンが、T.E.ロレンスの『知恵の七柱』を引用した上で、
「思考のフィルターを通さずに見たら、本当の世界を見ることが出来る」
といったことを書いていたが(本当は、もっと抽象的で分かり難い表現だったが)、これが「新たな目で見る」ことで、賢者達が言う「心を観察する」の真意である。
つまり、思考を消せば全て成し遂げることが出来る。
「新たな目で見ている」状態が、思考が消えた状態、意識が心を観察している状態で、全知全能の状態・・・もしくは、それに近付いた状態だ。
こういうことを理屈で解明しようとしたら、一生かかっても足りないし、実用的には何も出来ない。
さっさと思考を消すに限る。
そのためには、「ナ・ダーム呼吸」のようなものをひたすら実践するだけで良いだろう。

そういえば、瞬間で望む状況を生成することは、超能力とか引き寄せと言うより、魔法と言った方が適切かもしれないが、魔法ときうのは、怪しいと言うよりは、フェアリーテール(おとぎ話)、幼稚といった雰囲気が世間にある。
しかし、まさに、本当の世界は、ある意味幼稚でフェアリーテールなのである。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)ファラオの墓(1)(竹宮恵子)
(2)エリート(1)(平井和正、桑田次郎)
(3)タフティ・ザ・プリーステス ~世界が変わる現実創造のメソッド~(ヴァジム・ゼランド)

預言者
AIアート1576
「預言者」
Kay

納得し易い魔法習得法

現実を魔法のように変える方法があるかというと、もともと、人間はそれが出来る。
だが、重い重りを足に鎖で付けられた奴隷と同じように、我々の力が制限されているだけだ。
それは、夢の中でも同じだが、夢の中の方がやや制限が緩い。

夢と現実に違いはなく、上で述べたように、創造力の制限が、夢の方がやや弱いという違いに過ぎない。
ラマナ・マハルシは、夢と現実に違いはないと言ったが、江戸川乱歩やバシャールは、夢の方が制限が緩いという意味で、「夢の方がより本当」と言ったのだと思う。

想像力が高ければ、現実でも、イメージした世界が現れるが、そこまでの想像力を持った人間は滅多にいない。
そこで、夢の中でイメージして、想像力を高めるのである。
別に、本当に眠って夢を見るまでもなく、夢の中の世界にいると思って、世界を動かしてみる。
現実ではイメージが難しいことも、夢の中と思えば、簡単にイメージ出来る。
なぜかというと、夢の中では、呆然、漠然、曖昧で良いからだ。
好みのタイプの美男や美女を作り出し、楽しく遊ぶと良い。
現実だと、たとえ想像でも、そんなことをしたら、奥さんや旦那に悪いとか、美男美女とお城で暮らすとしても、年老いた親やニートの子供はどうしようとか考えてしまうが、まさか夢の中では、そんなことは考えまい。
イスラム教の一派では、信心深い男が死んだら、清純な超絶美少女が72人とか100人とか与えられるらしいが、それを現実でイメージしたら、罪悪感というか面倒臭さが(笑)半端ない。しかし、夢の中では何の問題もない。
現実で、莫大な富をイメージし難いのは、お金に対する固定観念が強過ぎるからで、夢の中では、何兆円持っていようが何ともないだろう。夢なのだから(笑)。

そんなことばかりしていたら、妄想家になったり、狂気にとりつかれたりするかというと、そうかもしれない。
だから、その前に、心の制限を壊し、現実を自在に創造出来るようにならなければならない。
だが、妄想家になる者なんて、よっぽど心が病んでいる者なのだと思う。
まあ、夢の中でも、ある程度の道徳や品位を心がければ、おかしなことにはならない。
逆に言えば、現実だって、道徳や品位を忘れてしまったら狂人になる。
夢の中で創造活動をしていたら、少しずつ、現実でも同じようなことが出来るようになり、いずれ、夢と現実が融合する・・・あるいは、両者を超えた世界に移行する。それを、天国とか、極楽浄土とか、エデンとか言うのだろうと思う。
初歩的なところで言えば、夢の中で、毎日、大きな岩を持ち上げていたら、現実でも出来るようになったという話がある。昔の寺院では、そんなことは普通だったのだと思う。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)バシャール(BASHAR)・ペーパーバック1
(2)ラマナ・マハルシの教え(山尾三省訳)
(3)江戸川乱歩傑作選(新潮文庫)
(4)時の輪 ~古代メキシコのシャーマンたちの生と死と宇宙への思索~(カルロス・カスタネダ)

花畑の妖精
AIアート1307
「花畑の妖精」※アート作品
Kay

魔法は誰でも使える

私は中学1年生の時、ウォルター・アーネスト・バトラー(1987~1977)の『魔法入門』を読み、この著者の魔法の定義が「精神に自在に変革を起こす技術」だということを知ったが、これがかなり衝撃的だった。
つまり、魔法現象を起こすのは精神の力であり、精神操作が出来れば、魔法を使えるという理屈になる。
現代では、ほぼ世代を問わず(相当な高齢の場合は別だが)、「魔法少女」アニメ等により多少の魔法の概念があるが、魔法の原理にまで触れる作品はなかったと思う。
ゲーテの『ファウスト』では、ファウストは悪魔と契約することで、若返るなどの魔法の恩恵は得るが、魔法を使うのはもっぱら悪魔だ。ファウストも魔法の研究はしていたが、成果は芳しくなかったと思う。
ところが、私は、やはり中学1年生の時、H.G.ウェルズの『奇跡を起こせる男』を読んだが、ここでは、万能の魔法の力と人間の意識との関係について示唆するところがあった。
H.G.ウェルズは『宇宙戦争』や『タイムマシン』の作者として知られる歴史的なSF作家であったが、若い頃は科学ジャーナリストとして活躍しており、日本では科学者として紹介されていた。
アメリカを代表する現代作家のカート・ヴォネガットや、イギリスの世界的作家であるコリン・ウィルソンは、ウェルズをSF分野を超え、最高の作家と言っていた。
『ヒューマノイド』(1948)の著者で、私も大好きなSF作家のジャック・ウィリアムスンは、12歳まで学校に行かず、20歳で学校をやめたが、H.G.ウェルズの研究により、コロラド大学ボルダー校から英文学の博士号を得ている。
これほどの作家であるウェルズが『奇跡を起こせる男』で、魔法と言って差し支えない奇跡の力を惜しみなく描写した。
ただ、魔法の使い手が、平凡な30歳の男で発想力が乏しいので、起こす奇跡もぱっとしない。
物を空中に浮かせたり、ローソクに火をつけたり、灰皿を金魚鉢に変えたり、マッチを出現させたり、朝食にアヒルの卵を出したりと、本当にショボいが、それでも、あり得ない奇跡である。
自分に詰め寄ってきた警官を地獄に送ったこともあるが、それは咄嗟にやったことで、その奇跡を起こせる男も、地獄とは本当は何でどんなところかは全く分からない。

中学1年生と言えば、私はとっくに奇跡を起こし慣れていた頃だが、『奇跡を起こせる男』で描かれるような即物的な奇跡はあまり起こしたことがないので、当然、興味を持ってやってみたが、そうしたら、出来るとは思うが、心の奥で制止する力が働くのを感じた。
そんな制止する力が働く理由は、手塚治虫の漫画『ユフラテの樹』を読んでピンときた。
この漫画では、リンゴに似たユフラテの樹の実を食べることで、3人の中学生(男2女1)が、『奇跡を起こせる男』並の力を得る。
ところが、この中の1人の少年が、人を殺してしまうが、奇跡の力を使えば、それは容易い。
私の場合、そんなことが出来ないよう、ストッパーがかかるのだと思えた。
『奇跡を起こせる男』でも『ユフラテの樹』でも、強大なる力を持つには円熟を伴う精神の進歩が必要であることが強く示唆されている。
だが、イエス・キリストも言ったように、奇跡の力は誰でも使える。
その原理は、マイケル・タルボットの『投影された宇宙』に書かれているが、今日で言えば、この世界が、コンピューターゲームのような仮想世界であるとするシミュレーション仮説でかなりはっきり分かると思う。
つまり、奇跡も魔法も可能で、どちらかというと、人間には、それを行使する権利がある。
しかし、そのために必要なこともあるのである。
だが、まずは、上記の作品を読んで、発想を広げておくと良いだろう。
後は、思考を消しさえすれば良いのである。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)タイム・マシン ~ウェルズSF傑作集~(H.G.ウェルズ)※『奇跡を起こせる男』含む
(2)ユフラテの樹(手塚治虫)
(3)ファウスト(一)(ゲーテ)
(4)新約聖書 福音書 (岩波文庫)
(5)投影された宇宙 ホログラフィック・ユニヴァースへの招待(マイケル・タルボット)
(6)この世に不可能はない(政木和三)
(7)トーチェ氏の心の法則(トーチェ夫妻)

待ち合わせ
AIアート1219
「待ち合わせ」
Kay

マジでヤバい魔法の使い方

政木和三さんが超人になったのは、小学3年生の時、腹式呼吸を毎日やることによってだった。
では、腹式呼吸には、そんな凄い効果があるのかというと、そういうわけではないと思う。
腹式呼吸を熱心にやっても、大した成果がない場合が大多数だ。
単に、政木さんは、「腹式呼吸をやればすごくいいことがある」と「設定した」だけなのだと思う。
後に、政木さんは、パラメモリーという記憶力増強装置を発明し、これを使えば、政木さんがやったように毎日1時間も腹式呼吸をしなくても、即座に超人になれると言った。
実際、そうなった人もいたが、そうでない人の方が圧倒的だった。
どういうことかというと、「パラメモリを使えば即座に超人になる」と「設定した」人が、そうなっただけだ。
つまり、やり方など、どうでもいいのだと思う。
昔のカルト宗教で「処女の生き血を飲めば若返る」などと言ってそれをやると本当に効果があったのは、やはり、その宗教のムード的なものによって、そんな設定を作り易かっただけだったと思う。
それこそ、チョコレートを食べればとか、猫に噛まれればとか、本当に何でもいいのである。
私の場合は、中学1年生の時、氷で手を耐えられないほど冷やし「これで魔法力が得られる」と設定したところ、実際、なかなかのことが出来た。内容は、思い出したら、ヤバくて言えないものも多い(笑)。

上杉謙信は、戦に勝つために女断ちをし、実際、生涯、戦で負け知らずだった。
これも、単なる設定であり、そんな無理をする必要はなかった。残念なことだ(笑)。

腕振り運動を毎日2000回やれば億万長者になるという設定でも良い。
こういった身体を動かし、ある程度の根気が必要なものは設定として良いのではないかと思う。
子供の時は、そんな設定をし易いものだ。
私は、小学生の時、黒い紙を持っていたら無敵という設定をしていたが、それにより、学年トップの運動神経を持つと言われる子と帽子取り競技で対決して簡単に勝ち(周囲がざわついたほど意外だったようだ)、走り高跳びでは無敵だった。私は、身体能力は特に秀でているわけではなかったのにである。
テストで百点になるための設定も出来たと思うが、私はカンニングを疑われそうな気がしてやらなかった。しかし、やれば出来たと思うのだ。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)投影された宇宙 ホログラフィック・ユニヴァースへの招待(マイケル・タルボット)
(2)この世に不可能はない(政木和三)
(3)トーチェ氏の心の法則(トーチェ夫妻)

白雪姫
AIアート1218
「白雪姫」
Kay

修行は不要と思う修行

私は、小学生の時には意識しなかったが、中学生くらいになると、自分がまともな方法では生きていけないことを、なんとなく自覚するようになった。
勉強は出来ないし、スポーツとか楽器とかが出来るわけでもない。
それなら、もう超能力しかない(笑)。
超能力とは、精神で物質を支配することだが、それなら、スプーン曲げみたいなことが超能力の代表みたいに感じる。
そうではなく、精神で物質界を支配することを考えたので、一般で言う超能力者ではなく、魔法使い、大師(マスター)、導師のような言い方が正しいのだが、当時はそういった言い方を知らないので、とりあえず魔法使いとした。
さっき述べた通り、その能力は物質世界の支配なので、今で言う引き寄せと同じだ。
伝統的な西洋魔法の定義によれば、魔法とは「精神に自在に変革を起こす」ことであるが、それが実に的確な定義であることはかなり後になって分かった。しかし、直観的には中学生の時に分かったのである。

私が中学生の時に考えた魔法使いになる方法は「常識に反することを考える」ことで、これも正解だった。
これを思いついた時は、躍り上がって喜んだのである。
現在もよく引用される言葉に、昭和の大評論家、竹村健一さんの「日本の常識は世界の非常識」というものがある。平凡な人間でも、これには納得すると思う。
だが、実際は「世界の常識も非常識」なのだ。
逆に、日本の常識の中にも宇宙の常識がある。
よって、目指すべきは非常識ではなく超常識である。
これは、不自然(異常。アブノーマル)ではなく、超自然(スーパーネイチャー)を目指すようなものだ。

しかし、やることは非常に容易い。
超常識や超自然がどこかにあり、それを手に入れなければならないとしたら大変だが、それは自分の中にある。
つまり、魔法使いや超能力者になるのに努力はいらない。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』に、大師(マスター。魔法使いのようなもの)になるのに修行する必要はないと書かれている通りだ。
あの頭ガチガチのデカルトですら、自分の中に神が居ることは認めていたのだが、彼は超常識にならなかったので、「われ思う、ゆえにわれあり」に留まったのだと思う。

魔法があれば現実逃避で良いかというと、それは変な話なのである。
現実を実験場としなければ、何のための魔法かである。
魔法使いは現実に強く、言ってみれば引き寄せが自在である。
私が最初の仕事にセールスマンを選んだのも、一番簡単に魔法の実験が出来るからだ。
それで、性格的には全く向いていなかったが、即座にセールスコンテストで優勝するなど、良い実験成果を収めた。
だがまあ、やはり向いておらず、面白くなかったのですぐに(と言っても2年はダラダラやっていた)辞めた。
私は巨万の富を掴むタイプではなく、月野うさぎ(セーラームーン)のように楽をすることが趣味なので、その線でいった(笑)。

魔法使い、超能力者、引き寄せマスター、大師、導師になる方法は特にない。
あえていえば「魔法使いになる」と決めることである。
中島敦の『名人伝』(『列子』の中に同様の話がある)が、魔法使いになるプロセスみたいなものである。
弓の名人を目指す男が、まずは、小さな点を凝視する修行をする(本当は瞬きをしないことから始める)。
その修行を十分にやれば、それで師と同等になった。
その修行を教えた師も、この弟子が、それほど熱心にやるとは思わなかったのかもしれない。
しかし、師は、自分達など全く及ばない名人がいると言い、弟子のその男は、さっそく、その超名人を訪ねる。
この超名人こそが、超常識、超自然を体現した人で、弓を使わずに空の鳥を落とした。
超名人の弟子になったその男がどんな修行をしたかは書かれていないが、彼もまた超名人になる。
しかし、どんな修行をしたかというのではなく、修行など必要ないことが分かる・・・というか、分からないと、この作品が分かっていない。
彼は自我(=思考=心)を消した・・・正確には、自我が控えるようになったのである。
自我が大人しくなったと言って良いが、別に老人ボケ状態になったのではなく、魔法使いにだって怒りっぽい者やスケベな者もいる。だが、すぐに静まるのである。
その超名人の彼は、「既に、我と彼との別、是と非との分を知らぬ。眼は耳のごとく、耳は鼻のごとく、鼻は口のごとく思われる。」と言う。
思考しないから区別の意味がない。だがまあ、箸と茶碗と湯飲みの区別はするだろうから、全く思考や自我がないわけではない。ここらを極端に解釈する馬鹿が多くて困る。
こんな良いヒントが書かれている。
「彼は呼吸しているかどうか分からない」
別に修行ではないが、そのようにすれば良いのである。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)李陵・山月記 弟子・名人伝(中島敦)
(2)ヒマラヤ聖者の生活探究 第1巻
(3)あなたも金持ちになれる(ジョセフ・マーフィー)
(4)ポリー氏の人生(H・G・ウェルズ)※ウェルズの自伝的小説
(5)誰がかまうもんか?!(ラメッシ・バルセカール)

絡みつく
AIアート1031
「絡みつく」
Kay

プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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