超能力の使い方・・・という言い方は怪しく感じるが、まあ、世界を生成する力の使い方である・・・いや、もっと怪しいかもしれない(笑)。
本当に願うなら実現させる力であるから、引き寄せと同じと言えると思う。
スプーンを曲げる超能力だって、そんな状況を生成する力であり、そんな状況を引き寄せる力と言えるかもしれない。
そんな細かい言い方が面倒なので、単に、超能力とか引き寄せと言うのである。
超能力を使うには、当然ながら、使い方を知り、使う感覚を得ておく必要がある。
丁度、自転車に乗るようなもので、少しも難しくはないのだが、それでも、自転車の乗り方や乗る感覚を得ていないと、全く乗れない。
自転車の場合は、現物がそこにあるので、やり易い。
逆に言えば、自転車の現物がなければ、ほぼ乗れるようにならないし、乗り方を教えることも難しい・・・いや、ほぼ出来ない。
私は、最初から、つまり、幼い時から超能力を使えたが、どう使うか教えるのは難しい・・・いや、自分でも分かっていない。
それで、そのやり方を知りたいとは思っていた。
そのやり方を多少知っておいた方が、簡単に使えるし、大人になると、自然に超能力を使うことが難しくなるので、多少の公式めいたものを知っておいた方が安心なのである。
『ファラオの墓』という竹宮恵子さんの漫画で、16歳の若い王スネフェルが「ものごとは客観視するに限るという」と言うのを見た時、それが社会的教訓であると共に、これが万能の力・・・すなわち超能力に通じるものであると感じた。
(余談だが、『ファラオの墓』で、12歳の超清純派美少女ナイルキアとスネフェルのエッチシーンで、12歳だった私は度肝を抜かれ、「こんなん出版していいのか」と思ったが、この著者は、こんなん普通だということを知らなかった。本当に宇宙法則に通じた人だ)
池田理代子さんの何かの漫画で、賢いお婆さんが「空にある大きな目に見られていると思えば正しいことが出来る」みたいなことを言っていたが、日本でいう「お天道様が見ている」と同じことだが、これも同じことだ。
平井和正さんと桑田次郎さんの漫画『エリート』では、象徴的にだが、神のような存在(宇宙最古の生命体)が、空に浮かぶ巨大な目として描かれていた。その目は、全知全能で、宇宙の支配者であると言って良い。
それで、その後本で読んだ、あらゆる賢者達も、一葉に同じことを言っていることが分かった。
ラマナ・マハルシも、ニサルガダッタ・マハラジも、ヴァーノン・ハワードも、その他の聖者賢者らも、「心の動きを観察しろ」と言う。
しかし、結局、それは無理と結論した。
心が心を、思考が思考を観察することは出来ない。
だが、賢者達が間違えているのではない。表現が難しく、翻訳で齟齬が生じたのだろう。
理屈で説明するのが難しければ、詩的表現に限る。
私は、中学1年生の時、誰かの何かの詩で、「新たな目で見れば全て美しい」と書かれているのを見て、「これだ」と思った。
「新たな目で見る」ことで、その頃には弱くなっていた超能力が復活し、その後も、「新たな目」を思い出すだけで、何でも可能だった。
昨年(2024年)12月に読んだ、ヴァジム・ゼランドの『タフティ・ザ・プリーステス』で、「自分が何をしているかに気付け」と書いていたのが、一番マシな表現・・・「心を観察しろ」という馬鹿げた言い方よりずっと良いのだが、それでも、ふにゃふにゃした抽象的な感じですっきりしない。
それで、結局は、思考を消せば全て解決することが分かった。
コリン・ウィルソンが、T.E.ロレンスの『知恵の七柱』を引用した上で、
「思考のフィルターを通さずに見たら、本当の世界を見ることが出来る」
といったことを書いていたが(本当は、もっと抽象的で分かり難い表現だったが)、これが「新たな目で見る」ことで、賢者達が言う「心を観察する」の真意である。
つまり、思考を消せば全て成し遂げることが出来る。
「新たな目で見ている」状態が、思考が消えた状態、意識が心を観察している状態で、全知全能の状態・・・もしくは、それに近付いた状態だ。
こういうことを理屈で解明しようとしたら、一生かかっても足りないし、実用的には何も出来ない。
さっさと思考を消すに限る。
そのためには、「ナ・ダーム呼吸」のようなものをひたすら実践するだけで良いだろう。
そういえば、瞬間で望む状況を生成することは、超能力とか引き寄せと言うより、魔法と言った方が適切かもしれないが、魔法ときうのは、怪しいと言うよりは、フェアリーテール(おとぎ話)、幼稚といった雰囲気が世間にある。
しかし、まさに、本当の世界は、ある意味幼稚でフェアリーテールなのである。
◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)ファラオの墓(1)(竹宮恵子)
(2)エリート(1)(平井和正、桑田次郎)
(3)タフティ・ザ・プリーステス ~世界が変わる現実創造のメソッド~(ヴァジム・ゼランド)

AIアート1576
「預言者」
Kay
本当に願うなら実現させる力であるから、引き寄せと同じと言えると思う。
スプーンを曲げる超能力だって、そんな状況を生成する力であり、そんな状況を引き寄せる力と言えるかもしれない。
そんな細かい言い方が面倒なので、単に、超能力とか引き寄せと言うのである。
超能力を使うには、当然ながら、使い方を知り、使う感覚を得ておく必要がある。
丁度、自転車に乗るようなもので、少しも難しくはないのだが、それでも、自転車の乗り方や乗る感覚を得ていないと、全く乗れない。
自転車の場合は、現物がそこにあるので、やり易い。
逆に言えば、自転車の現物がなければ、ほぼ乗れるようにならないし、乗り方を教えることも難しい・・・いや、ほぼ出来ない。
私は、最初から、つまり、幼い時から超能力を使えたが、どう使うか教えるのは難しい・・・いや、自分でも分かっていない。
それで、そのやり方を知りたいとは思っていた。
そのやり方を多少知っておいた方が、簡単に使えるし、大人になると、自然に超能力を使うことが難しくなるので、多少の公式めいたものを知っておいた方が安心なのである。
『ファラオの墓』という竹宮恵子さんの漫画で、16歳の若い王スネフェルが「ものごとは客観視するに限るという」と言うのを見た時、それが社会的教訓であると共に、これが万能の力・・・すなわち超能力に通じるものであると感じた。
(余談だが、『ファラオの墓』で、12歳の超清純派美少女ナイルキアとスネフェルのエッチシーンで、12歳だった私は度肝を抜かれ、「こんなん出版していいのか」と思ったが、この著者は、こんなん普通だということを知らなかった。本当に宇宙法則に通じた人だ)
池田理代子さんの何かの漫画で、賢いお婆さんが「空にある大きな目に見られていると思えば正しいことが出来る」みたいなことを言っていたが、日本でいう「お天道様が見ている」と同じことだが、これも同じことだ。
平井和正さんと桑田次郎さんの漫画『エリート』では、象徴的にだが、神のような存在(宇宙最古の生命体)が、空に浮かぶ巨大な目として描かれていた。その目は、全知全能で、宇宙の支配者であると言って良い。
それで、その後本で読んだ、あらゆる賢者達も、一葉に同じことを言っていることが分かった。
ラマナ・マハルシも、ニサルガダッタ・マハラジも、ヴァーノン・ハワードも、その他の聖者賢者らも、「心の動きを観察しろ」と言う。
しかし、結局、それは無理と結論した。
心が心を、思考が思考を観察することは出来ない。
だが、賢者達が間違えているのではない。表現が難しく、翻訳で齟齬が生じたのだろう。
理屈で説明するのが難しければ、詩的表現に限る。
私は、中学1年生の時、誰かの何かの詩で、「新たな目で見れば全て美しい」と書かれているのを見て、「これだ」と思った。
「新たな目で見る」ことで、その頃には弱くなっていた超能力が復活し、その後も、「新たな目」を思い出すだけで、何でも可能だった。
昨年(2024年)12月に読んだ、ヴァジム・ゼランドの『タフティ・ザ・プリーステス』で、「自分が何をしているかに気付け」と書いていたのが、一番マシな表現・・・「心を観察しろ」という馬鹿げた言い方よりずっと良いのだが、それでも、ふにゃふにゃした抽象的な感じですっきりしない。
それで、結局は、思考を消せば全て解決することが分かった。
コリン・ウィルソンが、T.E.ロレンスの『知恵の七柱』を引用した上で、
「思考のフィルターを通さずに見たら、本当の世界を見ることが出来る」
といったことを書いていたが(本当は、もっと抽象的で分かり難い表現だったが)、これが「新たな目で見る」ことで、賢者達が言う「心を観察する」の真意である。
つまり、思考を消せば全て成し遂げることが出来る。
「新たな目で見ている」状態が、思考が消えた状態、意識が心を観察している状態で、全知全能の状態・・・もしくは、それに近付いた状態だ。
こういうことを理屈で解明しようとしたら、一生かかっても足りないし、実用的には何も出来ない。
さっさと思考を消すに限る。
そのためには、「ナ・ダーム呼吸」のようなものをひたすら実践するだけで良いだろう。
そういえば、瞬間で望む状況を生成することは、超能力とか引き寄せと言うより、魔法と言った方が適切かもしれないが、魔法ときうのは、怪しいと言うよりは、フェアリーテール(おとぎ話)、幼稚といった雰囲気が世間にある。
しかし、まさに、本当の世界は、ある意味幼稚でフェアリーテールなのである。
◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)ファラオの墓(1)(竹宮恵子)
(2)エリート(1)(平井和正、桑田次郎)
(3)タフティ・ザ・プリーステス ~世界が変わる現実創造のメソッド~(ヴァジム・ゼランド)

AIアート1576
「預言者」
Kay