ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

願望の実現

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
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[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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2つの心理学研究を組み合わせた簡単な成功法

人間は無我になった時に願ったことは何でも叶う。
だが、無我とは心の働きが止まった状態だから、心の働きである「願う」ことが出来ないという矛盾に気付く。
そこで、「無我だが願いが有る」あるいは、「願いは有るが無我である」状態にしないといけない。
次のような感じだ。
ギターが上手に弾けるようになることを願い、ギターの練習を始め、やがて熱中すると、それは無我の状態だ。
この時、心は消え、「ギターが上手になりたい」という願いは起こらいが、「ギターが上手になりたい」という願いは残っている、つまり、有る。

こういったプロセスを簡単に起こすには、ブルガリアのコリン・ローズの加速学習と、フランスのルソー研究所のシャルル・ボードワンのボードワン法を組み合わせて行う。
これは、何度も書いたし、個人的なことなので略すが、子供の時からあり得ない奇跡を何度も明確に起こした私が考えても納得出来るものである。
やり方は至極簡単だ。
息を吸って止め、願う・・・これだけである。
大作詞家だった阿久悠氏はイメージして願ったらしいが、彼の願いは、作った曲がヒットすることで、いつもやっていることだからイメージし易い。
つまり、成功体験のあることはイメージし易いのだ。
しかし、誰しも、初めてやることはイメージし難い。
だから、普通は、言葉を使う。
とはいえ、長い言葉や、思考を起こす言葉は無我になることを妨げるので良くない。
そこで、まず、願いを決める。
例えば、結婚、就職、昇給などを、可能な範囲で具体的に決める。
結婚なら、こんな人と結婚したいとかで、就職なら、IT企業にプログラマーとして・・・などである。
そして、その願いを、短い言葉で代用する。
結婚、就職、昇給・・・どんなことでも、「成功」という言葉で代用出来る。
好みによっては、「成った」でも良い。
病気が治ることが願いであれば「治った」が適当かもしれないし、「健康」がぴったりくる場合もあるだろう。
願いが決まったら、上で述べたように、息を吸って止める。
そして、心の中で、この言葉・・・例えば「成功」とゆっくりと唱える。
一度だけ「成功」と唱えるのが良い人もいれば、「成功、成功、・・・」と、ゆっくり繰り返す方が好きな人がいるので、好きな方でやれば良い。その都度、変えたって構わない。
行った後は、少しの間で良いから、このことについて考えず、忘れる。
これを、間を置いて、好きなだけ行うと良い。

尚、普段も、なるべく無でいる方が願いが叶い易い。
せっかく良いことを願ったのに、あまりにロクでもないことを考えたり、言ったりすれば、願いが叶わないことがある。
だから、普段は、真言や念仏、あるいは、聖書の言葉を唱えたり、中村天風が言ったように、常時、肛門を引き締めるのである。
常に、そのようにすることは難しいが、なるべく長く行うことを心掛ける。

だが、基本は「息を吸って止める」で、これだけ憶えておくと良い。
そして普段、なるべく、真言を唱えたり、念仏を唱えたり、「私を強くして下さる方によって、私はどんなことでも出来る」といった聖書の言葉や、「神様の奇跡が起こる」などと唱えたり、肛門を引き締めるのである。好きなものを1つやると良いだろう。








願いが叶う時間は0.1%

願いが叶う祈りには2つあり、1つは、とにかく長時間祈ることで、もう1つは、無になって祈ることだが、この場合は、一瞬で叶う。
しかし、実は、この2つは同じで、長時間祈っている人は、99.9%の時間は、祈りが叶わない状態なのだが、たまたま0.1%、つまり、一瞬だけ、祈りが叶う状態になる。その、祈りが叶う状態というのが、他でもない、無になっていることだ。
だから、無になる方法が分かれば、祈りはすぐに叶う。
だけど、それが難しい。
子供がよく、簡単に願いを叶えることがあるが、実際は、そんなことは滅多にあることではない。
その原理は、願いが強いのに邪心がないので、願いの力で無になってしまうということだ。
大人の場合は、どうしても邪心があったり、感情が強いので、なかなか無になれない。
子供の場合は、邪心もだが、感情が案外弱いのだ。

病気の子供が治るように祈る母親や、逆に、病気の親が元気になるようにと祈る清らかな乙女であれば、いずれも邪心はないかもしれないが、やはり、感情が強過ぎるのだ。
感情の正体はエゴだ。
つまり、どれほど清らかに見える祈りだって、エゴである場合がほとんどだ。上で述べた、親の病気の回復を願う清浄な乙女といったところで、その願いは、やはりエゴなのである。

稲盛和夫氏は、決断の際、「私心ありかなきか」と考え、私心がないと分かったらやると言うが、私心がないということはエゴがないということで、エゴがなければ無であるから、その決断によって期待されることは実現する。つまり、願いは叶う。
しかし、エゴとか私心がないはずがないじゃないか(笑)。
たとえ稲盛氏には出来ても、普通の人には無理である。

他にも、酒で酔っぱらっている時とか、麻薬でハイになっている時とか、無になる状況についていろいろ考えたが、いずれも、有効な場合がほんの少しあるだけのことで、そのほんの少しの有効性がクローズアップされて、多くの人が、酒や麻薬で大失敗をした(笑)。
芸術家の多く(アメリカでは極めて多い)が、マリファナやLSDといった(日本以外では合法である国も多い)麻薬を勧めるが、実際は、ほとんどの場合は、メリットよりデメリットが多いのである。
そりゃ、麻薬で、自我(エゴ)を圧倒する無意識のイメージを体験している時はエゴが吹っ飛ぶが、無意識のあらゆるイメージが出現する・・・たとえば、目の前でゴジラがダンスしている状況で、真面目な祈りが出来るはずがない。

まあ、だから、諦めて長時間祈るしかない。
「神様の奇跡が起こる」と1日中唱えたホームレスのように。
彼は、たまたま2週間後に無になり、自由とか健康を得るための手っ取り早い手段と無意識が判断したのか、宝くじで1憶円当たり、その後、もう一度やったら、やっぱり1憶円当たった(事実である)。
もっと楽な方法は、大作詞家の阿久悠さんのように、息を吸って止めて祈ることだ。吸って止めると、無に近付くことは、何となく分かっていて、昔から、秘術とか様々な訓練や学習で利用されてきた。
息を吸って止める。そして祈る。
それで、少なくとも、実現の確率はかなり上がるのである。








想いの量の問題

この世界の仕組みは、昔から言われるように「思考は現実化する」だ。
だから、「願いを叶えたければ、願いが叶った状態をイメージしろ」とよく言われるし、それで間違っていない。
例えば、1億円のことを考えると、直ちに、一億円を引き寄せる。
しかし、なぜ、ほとんどの人が願いが叶わないのかというと、想う量が足りないだけだ。
そりゃ、精神の優れた人なら、一度願い、忘れたら、引き寄せっぱなしの状態になる。
けれども、普通の人なら、願ったことを打ち消すことを考えるので、ずっと思っていないと引き寄せが続かない。
1日に2~3分を、数日イメージした程度では、頭の中に存在するマイナス思考が、願いが叶ったイメージを打ち消してしまい、引き寄せは起こらない。
だから、1憶円欲しいなら、ずーっと、1億円のことを考えていないといけないが、誰も、十分に考えないのだ。
そして、ずーっと考えることが出来ない願いは、その人に相応しくないのである。
1憶円必要な人間って、そんなにいないからね。

想いの量と願望実現について、私は、有名なプロレスラーだったジャイアント馬場さんが本に書かれていたことを、いつも思い出したいと思っている。
馬場さんの憧れの的だった、バディ・ロジャースというアメリカのプロレスラーがいた。
馬場さんが「最高のプロレスラー」と断言する、プロレスで最も成功したプロレスラーだ。
ロジャースは、全米中、どこで試合をしても、会場は超満員だったが、特にロジャースは、女性客の大量動員に成功した初のプロレスラーだったかもしれない。
全米中のプロモーター達が皆、競って、ロジャースの機嫌を取りつつ、高いギャラを提示して、自分のテリトリーに呼びたがる。
プロレスラーとして、これほど良いことはない。プロレスは、スポーツでも格闘技でもなく、ショーなのであるから、人気がなければお話にならない。
そして、アメリカで活躍していた馬場さんは、きっと、ロジャースに学ぶことで、大人気レスラーになり、ついには、世界チャンピオンのロジャースと挑戦者、馬場さんの対戦が、全米一のドル箱カードになり、馬場さんも儲けまくった。日本では伝説の人物である力道山も、馬場さんと比べれば実際は小物だった。
で、ロジャースはなぜ成功したかというと、馬場さんは、「彼はずっと考えていた」と言う。
プロレスラー達は、電車やバスで集団移動することが多い。
その中で、仲の良いレスラー同士、酒を飲んだり、雑談したり、ゲームをしたりして暇をつぶす。
しかし、ロジャースだけは、そんなものに参加せず、1人でずっとプロレスのことを考えていたのである。
馬場さんは、「ずっと考えている者とそうでない者では、そりゃ差がつく」と、当たり前のことを言うが、その当たり前を誰もやらない。
ところで、馬場さんは、自分が大スターになっても、控室では常に小さくなって、先輩レスラーを立てていたので、アメリカのレスラー達にも大変に好かれていたらしい。
もちろん、馬場さんがアメリカに来たばかりの、右も左も分からない時に、親身になって世話を焼いてくれたレスラーには恩義があるだろうが、そうでないレスラーもいたはずだ。
馬場さんが、大人しかったのは、案外、1人でじっと考えたかったからではないかと思う。

あなたも、欲しいものがあったら、なるべくずっと考えることだ。考える量が大きいほど早く叶う。
考え方なんて別にない。
1憶円欲しければ、心の中で、ずっと「1憶円」と言ってたって構わない。
画家になりたければ、「私は画家だ」と心の中で唱えると良い。
自分の好きなやり方でやれば良いと思う。
ジョセフ・マーフィーの『マーフィー 世界一かんたんな自己実現法』で、マーフィーは、講演で、
「『私は〇〇だ』と言えば、そうなる」
というシンプルな原理を示すと、ある男性が、「やってみよう」と思い、
「私は裕福だ。私は幸せだ。私は最高の気分だ」
と、いつでもどこでも、出来るだけ唱えるようになった。それで、人生を大きく変えたようだ。
想いの量が大切なのである。
ちなみに、ジャイアント馬場さんは敬虔なクリスチャンだったので、想いの力について、普通の日本人とは違う発想があったのかもしれないと思う。
それで、ロジャースの特異性に気付けたのだと私は思うのである。
尚、上記の馬場さんの話が、どの本に載っていたかは私は覚えていない。








常識を消せば超能力は発現する

神仏に、願いが叶うことをお祈りをした時、どんな人の願いが叶うのだろうか?
それは、祈る人が、祈りを捧げる神仏について、
「どれだけ大きな力を持っているか?」
「どれだけ自分を愛してくれているか?」
と考えているかで決まる。
「愛してくれているか」について言えば、こんな問題がある。
特に、イスラム教徒がそうで、キリスト教徒やユダヤ教徒もだが、彼らは、神様に対して「天上にいる気難しくて怖い老人」というイメージを持っている。
彼ら(イスラム教徒など)にとって神様は、自分が悪いことをしたり、神が決めた掟を守らなかったり、神への供え物を怠ったら罰を与える恐ろしい存在だ。
しかし、どうしたって、人間は悪いことをするのだし、なかなか掟を守れないし、供え物をするのも面倒臭い。
それで、人間は、罪の意識を持ったり、自分は神に愛される資格がないなどと思ってしまうのである。
そういったところを権力者が利用して人民を支配することについてはよく分かっているが、そのことは今回は触れない。
本題はあくまで、どうすれば願いが叶うかだ。
上に述べたような気難しい神を信仰している者の願いは、あまり叶わない。
どうしても、そんな恐い神様が自分の願いを叶えてくれるとは思えないからだ。

ところが、仏教の仏は、本来、決して人間を罰しない。
特に、阿弥陀如来はそうで、どんな悪人でも慈悲をかけ、全面的な愛を注ぐのである。
だが、やはり多くの人々は、仏だって、悪い人は罰すると思い込んでびくびくしているのである。これは、親が子を、権力者が人民を支配するために、そう思い込ませたからだ。
だが親鸞は、「阿弥陀仏は、掟を守れず、善いことが出来ず、悪いことをしてしまう我々凡人を哀れんで救ってくれるのだから、我々駄目人間でも全然OKなんだ」と言ったのである。
それは非常に正しい。
なぜなら、理解は難しいのだが、実のところ、自分の心が仏で、それゆえ心は無限の力を持っているのだからだ。
自分の心が仏であるということが分かり難ければ、心の中の深いところに仏がいると思えば良い。
そして、阿弥陀仏に関して言えば、「南無阿弥陀仏」とか「阿弥陀仏」と唱えれば、即ち、念仏を唱えれば、心の中の阿弥陀仏が表に出てくるのである。
つまり、表面の心が悪くても、内なる仏は全く関係なく、無限の愛と力に満ちている。
これは、宗教というよりは、心の科学で、未来の科学であり、宇宙科学である。
現在は、精神科学や量子物理学が、ようやくその入り口に達した程度だが、いずれ明晰に分かるようになるだろう。

そして、どれだけ簡単に速く願いが叶うかは、祈る神仏が、どれほど大きな力を持っていると考えているかで決まる。
多くの人は、案外に神仏の力を見くびっているものだ。
イエスは「神に出来ないことはない」と何度も言い、『観無量寿経』では、阿弥陀仏や観世音菩薩が、想像を絶するという言葉では全然足りないほど凄い存在であることを壮大に語っている。
また、『観音経』(『法華経』25章)では、観世音菩薩の偉大さ、観世音菩薩が持つ力の大きさ凄さを、釈迦が大いに語ってくれている。
仏教の経典は、宇宙人が書いたと思われるほど(もちろん、人間のために、比喩的・象徴的に書かれているが)、思考の限界を叩き壊し、イメージが無限に広がるよう工夫されている。
それは、数ある経典の中でも、特に『法華経』や『浄土三部経』について言えるが、超能力というのは、世間的常識を壊せば(あるいは消せば)出てくるのだから、これらの経典を熱心に読めば超能力だって得られる。
中国の『荘子』は、『法華経』や『浄土三部経』ほどの破壊力(常識の破壊力)はないが、その分、分かり易い。とはいえ、『荘子』でも、なかなかついていける人は少ないのだが。

確かに、こういう俗っぽい言い方はどうかとも思うが、超能力を得たければ『法華経』(『観音経』だけでも良い)や『浄土三部経』(『観無量寿経』だけでも良い)を読むと良い根拠はこうである。
そして、超能力(極めて広い意味で願望達成能力も含む)を発するコマンドが真言である。
『観無量寿経』や『観音経』で言えば、「南無阿弥陀仏」や「南無観世音菩薩」がそうである(「阿弥陀仏」「観世音菩薩」でも良い)。
もちろん、経典を読まなくても、集合無意識の中にパワーが充満しているので、真言を唱えるだけで十分である。
ただ、若干、力の出方が弱いだけである。
そして、昔と違い、経典が簡単に手に入る時代なのだし、我々は支配者に思想統制や情報統制を強力にされているので(早い話が重い洗脳を受けているので)、万全を尽くした方が良いかもしれない。








真言で願いが叶う愉快なカラクリ

例外はあるが、願った以上のものを得ることは、ほとんどない。
しかし、願えば、何かは得られるものである。人間の心の力を軽く見てはならない。
だが、願ったより少ししか得られないので、得た気にならないだけなのだ。

簡単に言えば、例えば、3憶円願って、うまくいって8千万円得られる。
だが、たった8百万円ということもあり、それだと、何も得た気にならない。
しかし、3憶円願ったから8百万円が手に入ったのである。もっと少ししか願わなければ、あるいは、何も願っていなければ、8百万円失ったかもしれない。
なら、最初から百億円ほど願っておけば良かったのだ。
二十歳のお嫁さんを願ったが、なんとか30歳直前のギリギリ20代のお嫁さんがもらえた・・・そんなものである(笑)。
なら、15歳の天使のようなお嫁さんを願っていれば、結果、「二十歳か…ちょい歳だが、まあ、負けとこ」ということになる(笑)。
ところで、実際に、「愛があれば、彼氏の年収は一千万円程度でいいワ」と言う、慎み深い(笑)二十歳の女性がいたが、出来た彼氏は自分では「年収400万円」と言ったが、実は200万円位だった。まあ、それでも、働いている彼氏が出来たのだから、そう嫌でもなかったようだが。
ところが、「やっぱり年収1憶円くらいは…」とマジ顔で言う、やはり二十歳くらいの女性は、数年後、ベンツの新車を乗り回していた。年収1憶円とは言わないまでも、かなり高収入の旦那を得たようである。

だが、決して、欲張れと言うのではない。
この世界での成功の秘訣は、やっぱり「欲張らない」ことなのだ。
上の、金持ちの男と結婚した若い女性は、欲望をギラギラとさせ、血走った目で「1憶円よ!旦那は絶対年収1憶円の男!」と思っていたわけではない。
「あんまり欲張らず、年収は1憶円くらいで良いから、優しくて面白い人がいいの」と、本気で思っていたのであり、本人は本当に、自分は慎み深い方だと思っているのだ。

このようなことを、私は政木和三さんに教わった。
政木さんは、「私はお金なんてちっとも欲しくないんです。でも毎年1憶円入って来るものは仕方がない」と思っていて、あれほどの人だから、本当に1憶円入ってきたのだが、彼は、本当は、4千億円入るはずだったと思っているのである。
また、これは政木さんに小声で教わった(近くに奥さんがいた)のだが、「私に身をまかせる女が百人いると思っているから」女性に不自由はしていない様子で、こちらは、本当に百人とはいかないだろうし、政木さんも、もう80歳くらいだったから、5、6人かな・・・知らんけど(笑)。
このように、「大きな目標でも慎み深く」求めなければならない。

だが、重要なことが1つある。
それは、「1憶円でいいわ」なんて精神状態になれる人は、器が大きな人で、普通はなかなかそうはいかないということだ。
そんな器を持てる最上にして、ほぼ唯一の方法が真言なのである。
他の方法だってあるかもしれないが、まず続かない。
しかし、真言なら、短く、リズムがある、尊い言葉を唱えるだけであるから、唱える数が多い少ないの違いはあっても、ほんの少しの希望と根気があれば続けられるのである。
その希望を見い出すためには、親鸞の『三帖和讃』の中の『浄土和讃』の中の、『現世利益和讃』15首を読むと良いかもしれない。
ここでの真言は、「南無阿弥陀仏」の念仏であるが、他の優れた真言でも同じと考えて良いと思う。
特に、念仏や、阿弥陀如来真言を唱える人は、そのまま受け取ると良いだろう。
他にも、『法華経』の第25章『観音経』には、観世音菩薩の名を真言として唱えれば、大きな利益があると記されている。
観世音菩薩の名とは、文字通り、名(観世音菩薩、あるいは、アヴァローキテーシュヴァラー)でも、その真言、「南無観世音菩薩」「オン、アロリキャ、ソワカ」「オーン、アーロリク、スヴァーハー」の、どれでも良いのである。
また、他の真言を唱える人も、十分な数を唱えるなら、やはり、心の器が広がり、常識人には大き過ぎるものも、慎み深くさらっと求めるようになれる。
そうすれば、かなりの願いが叶うのである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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