昔、手塚治虫さんの漫画『アラバスター』を読んだが、印象深い部分があった。
アラバスターというのは、ある怪人の自称だったと思う。
アラバスターは、元は有名なスポーツ選手で、大きな名声を得ていたが、黒人であることが原因で、ある間違いが起こり、刑務所に入れられるという身に転落してしまう。
その刑務所での話だ。
アラバスターが入れられていた独房の電灯に、蛾が引き寄せられて飛び回るのを見て、アラバスターは、ピーナッツだったか石の粒だったか、あるいは、もっと別のものだったかは忘れたが、それを指で弾いて蛾にぶつけようとした。
もちろん、そんなに簡単に当たるわけはないが、とにかく暇でやることがなかったので(テレビもラジオもなく、当時はインターネットそのものがなかった)、ずっとやっていたら、たまに当たることもあった。
当たったところで、蛾に致命傷を与えることはなく、蛾は飛び続けたが、ある時、それが命中した途端、蛾が粉々になってしまった。
興味を惹かれ、アラバスターが、延々と蛾への指鉄砲攻撃を続けると、極めて稀にだが、やはり、蛾が木っ端みじんになってしまうことがあった。
そして、それは、特殊なタイミングでの攻撃で起こることをアラバスターは感覚的に掴み、ついに、自由にそれを起こすことが出来るようになった。
さらに、アラバスターは、このつぶて攻撃に磨きをかけ、拳銃を含め、あらゆる武器に勝てるまでになった。
ピーナッツのようなもので、そのような現象を起こせるかは分からないが、ある程度は、共振、共鳴、同調などを扱う非線形科学で考察出来るかもしれない。
例えば、人間が全力で押そうがビクともしない重い鐘を片手で、それほどの力ではなくても、あるタイミングで繰り返し押し続けると、鐘が大きく揺れたりする。
また、沢山の自動車が安全に走行出来るよう作られた頑強な橋なのに、その上を人間が足並みを揃えて行進したら、その橋がぐらんぐらんと揺れ出して、遂には、崩壊してしまうといったことが実際に起こることがある。
このように、特別なタイミングで同調すると、予想も出来ないことが起こる。
そんな現象を研究するのが、非線形科学というものらしい。
上で、アラバスターは、紙に何かを書きながら論理的に、蛾を粉々にするタイミングを掴んだのではない。
仮に、そんなことが出来るとしても、計算で突き止めるのは非常に大変だろう。
だが、人間の直観は、大型コンピューターでも解析不能なことを突き止めてしまうことがあるに違いない。
例えば、水が流れて自然に出来る渦は、法則性そのものはあるかもしれないが、その法則は非常に複雑で、複雑系科学とかカオス理論などと呼ばれているが、この分野の解明は、コンピューターの発達に負うところが大きい。つまり、コンピューターでシミュレーションを行って、初めて、理論があることが推測され、そこから、知的考察を開始するのである。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、水の渦を見て、これには法則性があると直観し研究していたことがあるが、ダ・ヴィンチの直観は現代のコンピューターに優っていたのかもしれない。
凄い美人が、どうにも冴えない男と恋に落ちるのを見て、普通の人は、「蓼(タデ)食う虫も好き好き(人の好みは説明出来ないの意)」とか言ったりする。
しかし、その美女を陥落させる何らかの法則があるが、それがカオス的に複雑なため、誰も気付かないだけなのかもしれない。
そして、この冴えない男は、直観的に、この美女を落とせて当たり前の法則を知り、それに則って攻めたのかもしれない。
だが、その法則は、単純なナンパテクニックなどとは全く異なる、高度で複雑なものであるに違いない(ナンパテクニックは、実際はほとんど成功しない)。
この世界の因果率は非常に複雑であるため、人間には、全ては偶然に起こっているとしか見えないが、実は、あらゆることが、厳密な法則の上に必然的に起こっているのである。
仏教の根本的な教えも、そうなのだと思う。
量子物理学には、不確定性原理という、確定不能な現象という考え方があるが、確定出来ないと言っても、本当に決まっていないかどうかは分からないし、実際、これまでは確定不能と思われていたものを確定することが出来るということが分かったこともある。
そして、実際には、方法さえあれば、全てが確定可能なのかもしれない。
科学やコンピューターでは分からなくても、人間の直観には分かることがあり、それを味方にした人間の話は多い。
そして、それは、人間が、無になった状態、つまり、無我、忘我、没我の状態でし起こらない。
それを起こり易くする方法が、強く思い、それから、ぼーっとすることだ。
この場合、強く思うとは、強く決意することである。
何かをはっきりと決意し、それから、ぼーっとすれば、どうすれば良いか分かったり、適切なことが適切なタイミングで起こったりする。
ぼーっとするには、薄目になるのが手っ取り早い。
要するに、何を成し遂げるかを決心し、それから、ぼーっとするのである。
アラバスターというのは、ある怪人の自称だったと思う。
アラバスターは、元は有名なスポーツ選手で、大きな名声を得ていたが、黒人であることが原因で、ある間違いが起こり、刑務所に入れられるという身に転落してしまう。
その刑務所での話だ。
アラバスターが入れられていた独房の電灯に、蛾が引き寄せられて飛び回るのを見て、アラバスターは、ピーナッツだったか石の粒だったか、あるいは、もっと別のものだったかは忘れたが、それを指で弾いて蛾にぶつけようとした。
もちろん、そんなに簡単に当たるわけはないが、とにかく暇でやることがなかったので(テレビもラジオもなく、当時はインターネットそのものがなかった)、ずっとやっていたら、たまに当たることもあった。
当たったところで、蛾に致命傷を与えることはなく、蛾は飛び続けたが、ある時、それが命中した途端、蛾が粉々になってしまった。
興味を惹かれ、アラバスターが、延々と蛾への指鉄砲攻撃を続けると、極めて稀にだが、やはり、蛾が木っ端みじんになってしまうことがあった。
そして、それは、特殊なタイミングでの攻撃で起こることをアラバスターは感覚的に掴み、ついに、自由にそれを起こすことが出来るようになった。
さらに、アラバスターは、このつぶて攻撃に磨きをかけ、拳銃を含め、あらゆる武器に勝てるまでになった。
ピーナッツのようなもので、そのような現象を起こせるかは分からないが、ある程度は、共振、共鳴、同調などを扱う非線形科学で考察出来るかもしれない。
例えば、人間が全力で押そうがビクともしない重い鐘を片手で、それほどの力ではなくても、あるタイミングで繰り返し押し続けると、鐘が大きく揺れたりする。
また、沢山の自動車が安全に走行出来るよう作られた頑強な橋なのに、その上を人間が足並みを揃えて行進したら、その橋がぐらんぐらんと揺れ出して、遂には、崩壊してしまうといったことが実際に起こることがある。
このように、特別なタイミングで同調すると、予想も出来ないことが起こる。
そんな現象を研究するのが、非線形科学というものらしい。
上で、アラバスターは、紙に何かを書きながら論理的に、蛾を粉々にするタイミングを掴んだのではない。
仮に、そんなことが出来るとしても、計算で突き止めるのは非常に大変だろう。
だが、人間の直観は、大型コンピューターでも解析不能なことを突き止めてしまうことがあるに違いない。
例えば、水が流れて自然に出来る渦は、法則性そのものはあるかもしれないが、その法則は非常に複雑で、複雑系科学とかカオス理論などと呼ばれているが、この分野の解明は、コンピューターの発達に負うところが大きい。つまり、コンピューターでシミュレーションを行って、初めて、理論があることが推測され、そこから、知的考察を開始するのである。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、水の渦を見て、これには法則性があると直観し研究していたことがあるが、ダ・ヴィンチの直観は現代のコンピューターに優っていたのかもしれない。
凄い美人が、どうにも冴えない男と恋に落ちるのを見て、普通の人は、「蓼(タデ)食う虫も好き好き(人の好みは説明出来ないの意)」とか言ったりする。
しかし、その美女を陥落させる何らかの法則があるが、それがカオス的に複雑なため、誰も気付かないだけなのかもしれない。
そして、この冴えない男は、直観的に、この美女を落とせて当たり前の法則を知り、それに則って攻めたのかもしれない。
だが、その法則は、単純なナンパテクニックなどとは全く異なる、高度で複雑なものであるに違いない(ナンパテクニックは、実際はほとんど成功しない)。
この世界の因果率は非常に複雑であるため、人間には、全ては偶然に起こっているとしか見えないが、実は、あらゆることが、厳密な法則の上に必然的に起こっているのである。
仏教の根本的な教えも、そうなのだと思う。
量子物理学には、不確定性原理という、確定不能な現象という考え方があるが、確定出来ないと言っても、本当に決まっていないかどうかは分からないし、実際、これまでは確定不能と思われていたものを確定することが出来るということが分かったこともある。
そして、実際には、方法さえあれば、全てが確定可能なのかもしれない。
科学やコンピューターでは分からなくても、人間の直観には分かることがあり、それを味方にした人間の話は多い。
そして、それは、人間が、無になった状態、つまり、無我、忘我、没我の状態でし起こらない。
それを起こり易くする方法が、強く思い、それから、ぼーっとすることだ。
この場合、強く思うとは、強く決意することである。
何かをはっきりと決意し、それから、ぼーっとすれば、どうすれば良いか分かったり、適切なことが適切なタイミングで起こったりする。
ぼーっとするには、薄目になるのが手っ取り早い。
要するに、何を成し遂げるかを決心し、それから、ぼーっとするのである。