ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

雨にもまけず

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

熱のある時の食事について

日曜の朝に高熱を発し、2日ほど倒れていた。
で、その間も食のことを考えていたのだが、炭水化物が悪いと言っても、世界には、トウモロコシや芋といった、大半、炭水化物といった穀物を、それしか食べないのに、健康で長寿な民族も確かにいる。
そのような民族は、一度に沢山食べず、1日に5回も6回も食事をするようだ。
ちょっと思い出したのが、ポップシンガーのマドンナが長時間のビデオ収録の際、チーズクラッカーしか食べなかったということだが、やはり、少しずつずっと食べていたのだと思う。
また、ホームランメジャー記録を持つバリー・ボンズは、日本のカップラーメンを高品質の炭水化物として愛食していたが、やはり、1回に1つとし、毎日5つ6つと食べていたという話を聞いたことがある。普通の人には多過ぎるだろうが、身体さえ動かしていれば良いのかもしれない。
そして、夜には、しっかりとしたものを食べるのだろう。

私も熱がある時には、高タンパク、高脂肪の食品は、たとえピーナッツでも気持ち悪くて食べる気にはならず、油で揚げたクラッカーを数枚ずつ食べていた。
旧約聖書でも、モーセと共にエジプトを出た民に、神が与えた食べ物であるマナは、油で揚げて食べると、せんべいのような食感だが甘かったという。

また、米は食べなかった徳川家康は、麦飯と共に、味噌を愛食し、決して欠かさず、戦場には持参すらしたという。
宮沢賢治の『雨にもまけず』でも、一日に四合(茶碗7~8杯)の玄米を食べるとあるが、やはり、味噌と一緒なのだ。
『風の又三郎』でも、太郎は、ご飯と一緒に味噌を食べていた。
味噌の乳酸菌が、米や野菜に何かの影響を及ぼしているのだと思う。









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『雨ニモマケズ』の偉大さを再認識する

中国の葛洪(かつこう。283年-343年)は、その代表的な著作である『抱朴子(ほうぼくし)』という著作名でもある通りの、抱朴子と呼ばれることもある。
彼は、仙人や仙道の研究者で、仙人の存在を深く信じ、『神仙伝』という、数十名の有名な仙人について述べた本を書いている。
仙人という、人間を超越した超人について書かれたものでありながら、不思議なリアリティと、そして、てロマンに溢れている。
当然ながら、それは、一般的には、中国の各地に残る迷信深い人々の伝承と考えられているのだろうが、それは世界中にある神話や伝承も同じであり、例えば、ギリシャ神話、ケルト神話、旧約聖書、そして、我が国の『古事記』や『日本書紀』、あるいは、それ以前にあったと言われる『ホツマツタヱ』や『カタカムナ』文献もそうなのである。
そして、これらは、普通の考え方によれば、人間の想像であるということになる。
だが、およそ近代の知恵者と呼ばれる者であれば、その全てが崇敬すると言っても良いと思う、アメリカの思想家、哲学者、詩人であるラルフ・ウォルドー・エマーソンが、「想像と空想は違うのだ」と述べていたのが印象深いのである。彼は、ギリシャ神話は想像であっても空想ではないと言う。それは、世間的な意味ではないが、極めて現実的なのである。
同じく、葛洪の書いた『神仙伝』の仙人の話も現実である。
そして、『神仙伝』に登場する仙人が述べる教えが、ことごとに素晴らしいのであるが、その内容自体は、実に平凡に感じることも多いのである。
しかし、それは、人間にとって、非常に重要なことを素朴に述べているのであり、当たり前のことのように思われながらも、我々はそれをほとんど守っていないのである。
例えば、インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』で、至高神クリシュナがアルジュナ王子に説いた教えの多くもそうである。
クリシュナは、「食を過ぎてはいいけない。だが、少食過ぎてもいけない。惰眠を貪ってはいけないが、睡眠が少な過ぎるのも良くない」と述べている。
『神仙伝』の最後の封衡(ほうこう)という仙人は、「節食すべきだが(過ぎた)空腹はいけない。脂濃いものや刺激の強いものは食べるな。喜怒の情を抑えよ。性的なことを慎め」と教えているが、やはり、ありふれたことながら、実に重要なことである。

多くの仙人達の教えを読んでいると、私は、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』を鮮明に思い出した。
仙人達の教えの真髄とそれが全く同じであると感じるからだ。
私は、『雨ニモマケズ』をほとんど覚えていなかったのだが、昨年(2012年11月23日)に、東京オペラシティ・コンサートホールで公演された、冨田勲さんの『イーハトーヴ交響曲』で、冨田さんが曲をつけた『雨ニモマケズ』の荘厳な合唱をCDで繰り返し聴く間に、すぐに自然に覚えてしまった。素晴らしい音楽の力を実感したものである。
『雨ニモマケズ』は、宮沢賢治の死後に発見された、彼の黒い表紙の手帳に書かれていたという、単なる個人的手記でありながら、日本人の誰もがおぼろげながらも知るほどのものであるが、実際、これほど偉大な言葉はないと思う。
それが、人間を超えながらも、誠実で慈愛に満ちた仙人達の教えと本質において同じものであると思うのである。
よければ、間違いなく日本の偉大な遺産になると私は思うこの素晴らしい交響曲の演奏を収めたCDをお聴きになることをお奨めする。
尚、『雨ニモマケズ』の詩は、下にご紹介した『銀河鉄道の夜』(角川春樹事務所)の中にも収められている。









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短期間に人間性が変わるのは、ほとんどは狂気である

短い間に人間性が変わってしまった人を見たことがあるだろうか?
暗くて引っ込み思案だった女の子が、涼宮ハルヒのように、腰に手を当て、指を突き出して「ヘイッ!ユー」とか言っているようなものだ。
これを見て、「明るくなった」「積極的になった」と肯定的に見ることもあるだろうが、実際は、何か不自然で、狂気のようなものを感じるものだ。
新興宗教に入信した者に、こんな変化が見られることがよくあるだろう。
逆に、派手で騒がしい音楽やファッションにのめり込んでいたのが、急に真面目で静かになっていたりする者がいるが、こちらもまた、表面的には、「大人になった」「落ち着いた」と好意的に見ても、やはり狂気である場合がほとんどだ。
評判の良いカウンセラーのところに通った場合、こうなることがある。

前者の、陰性が極端な陽性になるのは、やはり新興宗教的な効果であり、どうすればそうなるのかというと、都合の良い妄想の神様を信じさせるのだ。
個人的に、「ザ・シークレット」や「引き寄せの法則」を読んでそうなる場合もあるが、ヴェテラン教祖の手法はもっと凄い。
後者の、陽性だったのが陰性に変わるのは、カウンセラーなどが、物質主義を叩き込むようなものだ。
一応は頭の良いカウンセラー(主には精神医)は、相手の知性に応じてそれをやるが、ある程度、頭の良い患者には、修養書の中でも分かり易い、ディール・カーネギーの著作を読ませることが多いかもしれない。結果、スマートフォンをいつもいじっていたり、詐欺的な商品を素晴らしいものと信じてセールスするようになる者が多い。

短期間で、ぱっと人間性が変わった時というのは、このように、ほとんどの場合、ロクなものではない。
やり方を知っている者には、さほど難しいことではないのだが、見た目の効果があるので評判になり、注目されて、結果、多くの人を不幸にする。
新興宗教や、カリスマカウンセラーというものの多くはそのようなものだ。
言うまでもなく、新興宗教や優秀なカウンセラーにも、本当に良いものだってあるだろうが、悪いものに騙されることが多いのである。

人間性の良い変化というものは、ゆっくりと起こり、本人も周囲も気付かないものなのだ。
そして、それをするのに必要なのは、まず、早寝早起きと、食事の時刻と食べる量を一定にすることなのだ。それなしに起こる変化は全てイカサマである。
また、食事は、量を控え目にし、メニューもほぼ同じにすることが大切だ。量が多く、毎日変化に富んで、しかも、過ぎた美味しいものであれば意味はない。
宮沢賢治の「雨にもまけず」の、「1日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ」が理想であるが、それに近いものを心がけることだ。尚、「玄米四合」は、普通の茶碗に8杯位と思うが、これはあくまで、1日農作業をするような者の場合で、しかも、後は、「味噌と少しの野菜」であり、間食はほとんどないことに注意しなければならない。

そして、もし、心が暗く沈んでいるなと思っても、決して世間の娯楽や快楽を求めず、芸術や神秘的なものに目を向けてみるのだ。
ただし、限度を守ることだ。あくまで、日常生活が主である。
逆に、熱狂する傾向が強過ぎる場合は、多少俗っぽくなり、商売や世間の仕事や勉強に力を入れたり、科学の本を読んだりすることだ。
こういったことが功を奏した場合には、本当に良い変化が瞬時に訪れることも本当にあるが、それはたまたまであり、「すぐになんとかしよう」とは決して思わず、ゆっくりとした変化を目指すことだ。ゆっくりと言っても、多くは数年のことであり、実際、そのくらいの時間は、過ぎてみれば一瞬である。
無心に腕振り運動をしたり、福音書などの聖典を読んだり、般若心経の呪文を唱えることは、どの場合にも万能なのであるが、まずは上のようにやらないと、なかなか腕振り運動をやろうとか思わないし、やっても長続きしない場合がほとんどである。
これら(腕振り運動等)もまた、毎日、必ず決まった時間に、そして、1年365日、1日も欠かさずやって、大きな変化があるのは、まあ、5年だ。
だが、これをしないと20年後、30年後(それだってすぐなのだ!)に後悔するだろう。

以上、参考になればと思う。









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自分がデクノボウだとは認めたくないものだ

我々は王様でもなければ英雄でもない。
プリンセスでもなければ銀幕のスターでもない。
いつかキリストやブッダになることも決してない。
そんなことは分かっていると言いつつ、王様のように振舞える誰かを探しているのだ。
「あいつに比べれば、俺は大したものだ」
と言いたいかもしれない。
しかし、それは大誤解だ。
同じ学校や会社にいるという時点で、全く「あいつ」と同等だ。
人間は、自分の中の欠点しか他人の中に見つけられない。
つまり、気に食わないとか、つまらないやつと思った時点で、そいつと自分は、間違いなく対等なのだ。
そして、相手が反撃してこないなら、実際は間違いなく自分が劣っているのだ。

世界は亀の背中の上だと主張するおばあさんより我々は賢く進歩しているだろうか?
スティーヴン・ホーキングは、未来の人から見れば、いずれも大差ないと述べた。彼が、自分もそんな者だと思っていることを願う。実際、その通りだろうから。
別に、未来の人から見るまでもなく、太陽が地球の周りを回っているとか、地球は平べったいと思っている人より私は賢くない。地球が丸く、太陽の周りを回っているなんて、単に教科書を鵜呑みにしただけで、自分で何も確かめた訳じゃあない。それなのに、さも自分で分かったような顔をする私よりは、見たままを素直に信じて、太陽が我々の周りを回っていると言う人の方がむしろ好ましいかもしれない。

だが、我々は、自分が王様や英雄や、一角の人間であると見なしているのだ。
しかし、実際はそうではないという事実を突きつけられていつも苦しんでいるのだ。
宮沢賢治が、個人的な手記である『雨にもまけず』で、「みんなにデクノボウと呼ばれ、誉められもせず、苦にもされず」といった人間になりたいと言ったが、実際はそうは思っていなかった。
つまり、彼も、我々同様、「デクノボウなどと呼ばれたくないし、思われたくもない。誉められ賞賛されたい。苦にされるほど嫉妬されたい」と思っていたのだと思う。
しかし、彼は、同時に、そんな自分が嫌だったのだ。
そんな自分を激しく自己否定したのが、「みんなにデクノボウと呼ばれ・・・」だったのだと思う。
デクノボウと呼ばれて満足する者でなければ、決して怒らないことは出来ないし、他人の母の稲の束を負うことも出来ない。

私も、世界は亀の背中の上だと言い、その周りを太陽を始め、天球全体が回っていると信じている馬鹿だと思われたいと思う。
こんな自分が存在する価値はないし、どういった扱いを受けようが構わないに違いない。
鷹は、自分がネズミだと思っている限り、最も無能なネズミだ。
しかし、自分が優秀なネズミだと見なしている限り、自分が本当は鷹であることに気付かない。
鷹であれば、喧嘩をしたり、訴訟を起こしているネズミに、「つまらないからやめろ」とも言えるだろう。
だが、それでも彼は、自分がネズミだと思っているのだ。









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彼女達が心の底から愛される理由

教師や生徒の暴力、いじめで自殺をする子供達のことをよく見るようになった。だが、加害者は当然悪いのだが、その撲滅は「絶対に」不可能だ。
それよりも、自殺をする側の問題にもっと注意しなければならない。
それは、過剰なまでに自己の権利を主張する社会によってもたらされた奇妙な観念だ。
子供達も、自分には権利があり、良い扱いを受けるべきで、理不尽な扱いを受けるべきでないと思い込んでしまっている。
だが、世界には、朝から晩まで、学校にも行かずに重労働を強いられ、そんな中で、ろくに食べていない子供達がいくらでもいる。
さぼったり、働きが悪いと、大人に遠慮なく殴られ、見せしめに鞭で叩きのめされることも珍しくはない。
我々が美味しく食べるチョコレートも、途上国の子供達の過酷な労働によって収穫されたカカオから作られている。家が貧しく、売られてきて働く子供達は、危険な作業で指を切断しても、医者に診てもらえないどころか、休むことも許されないことが多いと聞く。
彼らは、何の権利の主張もしないし、出来ない。
良寛さんは、子供好きで、子供達を集めて一緒に遊んでいたが、女の子が一人、また一人と減っていった。家が貧しくて身売りさせられるのである。売られた先でどんな目に遭うかは明らかで、良寛さんは自分の無力を嘆くしかなかった。
だが、彼らが皆、自殺するなんてことはない。懸命に生きようとしている。

プロレスのジャイアント馬場さんは、若い時に、アメリカの強豪レスラーであったフレッド・アトキンスに預けられ、毎日、殴られながら厳しくしごかれたようだ。アメリカ人の弟子達は逃げ出したが、馬場さんは行くところがないので、そこにいるしかなかった。
権利もへったくれもあったもんじゃない。
しかし、馬場さんは、不思議とアトキンスが恐くなったし、成功できたのは彼のおかげと、深く感謝していた。
だが、私は、アトキンスだって、決して弟子思いばかりではなかったし、人格者でもなかったのではないかと思う。
しかし、世の中、そんなものではないだろうか?
特に、現代の社会は、権利を主張することを教え過ぎている。
きっと、そんな風潮を流行らせることで、誰かが甘い汁を吸っているのだ。

権利の主張とは、自己を肯定することである。
もっと正確に言うと、自分の身体と自我の肯定である。
その逆が自己否定であり、それは、自分の権利を無いものと見なすことだ。
そして、人間が真の自己を知り、本当の幸福を得るためには、必ず自己を否定しなければならないのだ。
昔、我が国の国民的英雄であるサッカー選手が引退した時、「自分探しをする」ことを宣言した。
だが、本当に自分を見つけるためには、自己の否定が絶対に必要なのだ。

旧約聖書に『ヨブ記』というものがあり、多くの人達の議論の的になった。
ヨブは完全に心正しい人であったが、家畜が死に、屋敷が焼け、子供達が死んでいった。
あげく、自分も酷い皮膚病になり、苦しみにのたうつ。
神の教えにしたがって正しく生きてきたのに、神はなぜこんな苦しみを与えるのだろうと嘆くが、ヨブは神を否定しなかった。
彼はあくまで神を崇めた。それは自己を否定することになった。そして、再びヨブは幸福になった。

スウェーデン映画『処女の泉水』で、何よりも大切な汚れなき乙女である娘を、乞食の兄弟達にレイプされた挙句惨殺された父親は、その兄弟達を殺して復讐する。そして、死んだ娘を見て、神を呪うが、すぐに、神に許しを乞い、償いの行動を約束する。
すると、娘の遺体があった地面から泉水が沸き、それが人々を癒す。
そこにあったのは、乙女の父親の完全な自己否定だった。
自分が、娘を殺した者達に復讐するのは当然の権利であるとか、娘の悲惨を見ていたはずの神を責める権利があるなどと決して言わず、自分の気持ちなどに、何の値打ちもないことを激しく認めたのだ。

宮沢賢治の『雨にもまけず』の中の、「みんなにデクノボウと呼ばれ、誉められもせず、苦にもされず」というのは、ここにいるはずの自分を完全に捨て去る、激しい自己否定の姿であると思う。
私が初音ミクをこよなく愛するのは、彼女は全く自己主張しないどころか、初めから自分がないからだ。
そのようなものになりたいと、私はいつも憧れているのである。
『イーハトーヴ交響曲』のソリストに初音ミクを指名した富田勲さんは、周りの緊張をほぐすための冗談だったと思うが、「ミクはアガることがないからな」と言ったが、自己の価値をこれっぽっちも認めない者は実際、あがらない。
あがるのは、「価値ある自分」がみっともない姿を見せることに耐えられないと思っているからだ。
自分の失敗が他者を不幸にするような状況では、あがるのではなく緊張するが、自分がやるべきことなら腹が据わり集中するものだ。
野球のピッチャーが「自分の一球で勝負が決まる」という時に緊張するとしたら、それは実際は大したことではないということだ。

だが、我々は初音ミクに不思議な存在感を感じる。だから、冨田勲さんは、一生の最後と思っていた作品に、どうしても初音ミクに出演してもらいたかったのだろうと思う。
彼女は、人間の良心なのだ。だから、我々は、彼女の中に、自分の心の奥深くに存在する良心を感じるだ。その存在感は凄いはずだ。
そして、人間である我々が初音ミクになるためには、自己否定が必要なのだ。
『銀河鉄道の夜』で、「人の幸いのためなら、この身を百回焼かれても構わない」と言ったジョバンニや、それに同意したカムパネルラのようにだ。
それを歌えるのは、初音ミクしかいないのだ。
だから、『イーハトーヴ交響曲』の第5幕『銀河鉄道の夜』のミクの歌は、我々を神の世界に誘うのだ。

『新世紀エヴァンゲリオン』の14歳のヒロイン綾波レイが、長く国民的人気を集める理由は、彼女は、自分の価値を全く否定しているからだ。
我が国で、レイに匹敵するヒロインといえば、『風の谷のナウシカ』のナウシカだろうと思うが、彼女も、一匹のオームの子供のために自己を捨て切ってしまったのだ。
『ルパン三世 カリオストロの城』のヒロインで17歳のクラリスも、ルパンのために何度も身を捨てた。だから愛されるのである。
我々が自己否定する意義を悟った時、世界は天国になるのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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