ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

集中力

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

これであなたも天才だ

何度も何度も引用したが、植島啓司氏のサイトで見た『幼児化するヒト』の引用である、ポップスターのジョージ・マイケルの言葉が、いよいよ明晰になってきた。
その言葉とは、
「スーパースターをつくる何か特別なものがあるわけじゃない。むしろ、何かが失われているんだ」
である。
その「失われているもの」が分かれば、ミュージシャンを目指して東京に行き、30歳くらいで諦めて戻ってきても、やり直しが効かず、人生を棒に振るなんてことはなくなる。
ミュージシャンは天才の仕事であり、天才でもないのに、そんなことをするものじゃない。

スーパースターというか、天才というものは、別に、大したものじゃない。
ジョージ・マイケルが言う通り、誰もが持っているものを持っていないだけなのだ。
それは何かと言うと、「キョロキョロすると気持ち良くなる機能」だ。
誰だって、集中して仕事や勉強をしなければならない時ほど、別のことに気を取られたり、関係ないことをやりたくなる。しかも、やりたくなるのは、大抵、つまらないことだ。
それを「集中力がない」と言うのだが、それが当たり前なのだ。
ほとんどの人が、すぐにスマホを見たくなるのも、そのせいだ。
これは、狩猟時代、自分の獲物のうさぎに集中して、自分が虎の獲物になることを避けるため、うさぎに集中せず、キョロキョロ周囲を見るようになった時に脳に組み込まれた機能だ。
もっと正確に、どんな機能かというと、キョロキョロすると、脳内に快感物質が出て、気持ち良くなる機能だ。
だから、我々は、集中をしないと気持ちが良いのであり、集中して歩かないといけないのに、歩きながらスマホを見ると気持ち良いのだ。
キョロキョロすると、脳内に快感物質が出るDNAが出来てしまっているのだから、それは避けられない。

そして、スーパースターというか、天才は、「キョロキョロすると脳内に快感物質が出るDNA」が壊れているのだ。
だから、限りなく集中してしまう。
天才はスマホなんか全然見ない。
天才は、集中に努力を要さず、逆に、努力しないとキョロキョロ出来ないのだ。
天才技術者の二コラ・テスラは、学生時代、1日13時間勉強したというが、別に頑張ったわけではなく、集中したら止められないだけだったのだ。

さて、あなたは、「キョロキョロしたら脳内に快感物質が出るDNA」は壊れておらず、すぐによそ事を考え、どうでもいいことをしたがり、スマホをすぐに見る人・・・つまり、天才ではないことが分かるだろう。
腕振り運動を、自分で数を数えながら2000回、すんなりやれるなら天才だ。
関英男博士は、それを簡単に出来たのだ。
集中を深めれば、超能力めいたものも出てくる。
だから、関博士は超能力研究に転身したのだ。
粘り強く、腕振り運動を、自分で数を数えながらやれば、「キョロキョロしたら脳内に快感物質が出るDNA」を、壊しはしないが、抑制出来るようになる。
その易しい方法が、7つのチャクラを1つずつ意識しながら、100ずつカウントすることだ。
7つのチャクラは、ヨハネ黙示録では7つの教会と書かれ、トルストイは「7つの星」の童話を書き、人類の天才エマーソンは「私は7つの星の所有者」と宣言した。
さあ、これであなたも天才である。








猛獣に襲われない人とは

人間の能力の鍵が「集中」であることは、誰でも知っている。
しかし、集中に対する大きな誤解がある。
例えば、誰もが、こんな誤った観念を持っている。

武道の達人が1人で、静かに坐禅を組んでいる。
さすが武道の達人だけあって、完全に集中している。
そこに、あなたは、木刀を持って、そっと近付く。
そして、打ち込むと、武道の達人は、さっと木刀をかわし、流れるようにあなたを押さえ込む。
・・・なんてことはない。
武道の達人だろうが、坐禅に集中していたら、全く武道の素人のあなたにばこーんと叩かれ、下手したら、あなたは莫大な慰謝料を請求されるかもしれない。
もし、木刀をかわされたとしたら、それは、武道の達人が、あなたの接近に気付いており、坐禅への集中を解いて、攻撃に備えていただけのことだ。
そして、さらに言えば、武道の達人は坐禅など組まない。そんなのは、時代劇のフィクションか、あるとしたら下手な武道家の話だろう。

喩えて言えばこうだ。
原始時代の人間が、うさぎを捕まえようと、そっとうさぎに近付いている。
だが、そこでふと、天気が気になり、空を見るついでに周囲を見ると、虎がこっちを見ているのが目に入り、慌てて近くの木に登り、危険を逃れた。
もし、うさぎに集中していたら、虎に殺されていた。

こんなふうに、人間というものは、危険から逃れるために、よそ事を考えたり、周囲に気を取られるように出来ている。
つまり、集中しないように出来ている。

だが、上の武道の達人が、飯屋の可愛い女の子の攻略法を考えていたり、また、うさぎを捕らえようとする原始人が果物を食べながら「これウマ!」とか思いながらうさぎに近付いていると、木刀を持ったあなたや、原始人を狙う虎(虎視眈々とw)に気付かず、木刀で打たれたり、虎の餌食になる。

だから、集中力というのは、考えなくても良い余計なことは考えないようにして、意識を向ける数を減らすことなのだ。
簡単に言えば、スマートフォンを捨て・・・ないまでも、あまり意識しないことだ。
原始人は、猛獣に気をつけつつ、うさぎを狙うことだけやり、武道の達人は、進んで周囲をキョロキョロしながらさっさと小便をすることを、集中というのだ。

だが、こんな話がある。
インドの聖者ラマナ・マハルシが、野外で座って瞑想していると、虎が近付いてきた。
それに気付いた、一緒に瞑想していた弟子が慌てて逃げるが、マハルシは動かない。
この場合、人間としては、弟子の方が正しく感覚が働いたのだ。
しかし、虎は、マハルシの近くを歩くと、去っていった。
これに対し、何かの本で、「虎はマハルシの真我であった」などと書いているが、書いた人は、聖者の言葉を引用しただけで、自分では意味が分かっていなかったと思う。
出来るだけ単純に言うと、虎は、マハルシが生き物だと感じなかったのだ。
マハルシの心は魂に溶け込んで、消えていた。
つまり、マハルシには、周囲を警戒する心そのものがないので、猛獣も彼に危害を加えることはない。
猛獣というものは、目や鼻で獲物を捕らえるのではなく、警戒する心を感知して襲うのだ。
だから、鷹は、高いところを飛びながら、地上の小さな獲物を発見出来るのである。
いかに鷹の目が良くても、目だけで獲物を見つけることは出来ない。

だが、人間の聖者のように、魂に集中して心が消えた者は、動物にも人間にも見えない。
その聖者を普段見ている者には見えるが、見ても変な感じがするのである。
あなたも、魂に集中すれば、一切の危険を寄せ付けない。
そのためには、マハルシは「私は誰か」と問えと言ったが、それでうまくいった人は・・・まあ、確認されているのは、2人か3人といったところだ。
だが、腕振り運動をやれば、それに近付けるのである。








死ぬ気でかかれば強い原理(保存版)

腕振り運動を毎日1万回もやっていたら、私でもなかなかの知恵が出る。
その中で、役に立ちそうなことを述べる。
簡単に高い能力を得て勝つ方法である。

「集中しろ」と言うのは、ある意味、「死ね」ってことなのである。
なぜなら、人間の脳は、死なずに済むために、集中しないように出来ているからである。
どういうことかというと、こうだ。
人間が野獣と共存していた時代(今でもそんな地域があるかもしれないが)、人間が何かに強く集中してしまったら、猛獣が近寄って来ても気付かずに殺されてしまうので、あまり1つのことに集中せずに、周囲に意識を分散させるように出来ているのである。
そして、人類は、20万年の間、ほとんど変わっていない。進化とはゆっくりしたものなのだ。
だから、今だって、人をナイフで刺そうとして、そっと近付いても、気付かれることが多いのである。
刺すなんて物騒なことでなくても、誰かを脅かそうとしてそっと近付いたつもりが相手に気付かれた時、「お前、鋭いなあ」と言ったりするが、それは単に、その相手に集中力がないだけで、本来はそれが普通である。
確かに、脅かし易い「鈍い人」もいるが、そんな人だって、好きなものには集中する。
だが、好きなものに集中している時でも、時々、他所事に気を取られるものである。
それで、「好きなものの一番良いシーンを見逃した」なんてことがよく起こるのだ。
脳は、強い集中を許さない。
それが、原始時代に生き残るために脳に組み込まれた機能で、その機能は今も完全に生きている。

だから、「集中しろ」と言うのは、「猛獣に襲われて死ね」ということで、実際、言われた方は、今や恐怖とは思わないとしても、本当は不快に感じるのである。
だが、人間は、集中すればするほど、能力が高くなるのであり、集中が低ければ、犬にだって出し抜かれるほど能力が落ちる。
「天才は早死にする」というのは、天才はとかく身体が弱いものだというふうに考えられているが、天才は、どちらかというと身体が丈夫なことが多い。
しかし、高い集中力を発揮する天才は、集中している時に周囲に神経がいかないので、殺され易かったのだと思う。

武道で、「命を捨てれば勝つ」という理由が、これで分かる。
死ぬ気でいるなら、脳は意識を分散させる意味を失い、いくらでも集中させてしまうのである。
こんな話がある。
昔、空手の達人が、真剣を持った剣の達人と決闘した。
空手の達人に勝ち目はない。
そこで、空手の達人は、
「よし、死のう。しかし、手足の1本でも残っていれば相打ちに持ち込んでやる」
と思い、命を捨てて突進したが、空手の達人に、その後の記憶がない。
そして、空手の達人が我に返った時、目の前で、剣の達人が伸びていたのである。
これが、命を捨てることで極限の集中を得た人間の神がかった能力なのである。

では、どうやれば、集中し、高い能力・・・果ては超能力や引き寄せの力を発揮出来るのか?
息を止めれば良い。死人は息をしていない。
超記憶学習法であるスーパーラーニングで、息を止めるのは、そうすれば記憶力が上がることを、経験的に知っていたからだが、原理は上の通りである。
ラマナ・マハルシが17歳で悟りを開いたのも、息を止めて死人になりきったからである。
大作詞家の阿久悠さんがヒット曲を作る時は、いつも、息を止める瞑想をしたのである。
他にも、いくらでも事例を上げられる。
あなたは今、凄いことを知った。
人間の脳の仕組みをキャンセルし、集中し、高い能力を発揮するには、息を止めれば良い。
『荘子』にも、そのようなことが書かれた箇所がある。
実は、以前も「息を止めることだけ覚えておいて」と書いたが、覚えている人はいるだろうか?








腕振り運動は自分で数を数えることが大切

腕振り運動をする時は、出来れば静かで邪魔が入らない環境で行う。
宅配便が来れば受け取れば良いし、電話が鳴れば出れば良い(つまらない電話なら「忙しいから」と言ってすぐ切る)が、腕振り運動を行っている間、ずっと気を取られるものはない方が良い。
テレビを見ながら、音楽を聴きながらというのは、腕振り運動の効果を低下・・・おそらく激減させるので、やらない方が良い。
こんな話を思い出す。
昔見たWebサイト(今探したら見つからない)で、命にかかわるものでないが重い病気を抱えている人が、腕振り運動を知って、これで治ることを期待してこれを行うこととした。
そして、(腕振り運動を広めた1人である)関英男博士が、病気を治すためには2000回が必要と言ったことを知り、毎日2000回行うこととしたらしい。
だが、残念なのは、この人は、腕振り運動の数を数えるのが億劫で、2000回分の時間を計り、その時間分の音楽を流し、音楽が終わったところで終了することに決めたらしい。結局、彼は治らなかったようである。
また、これもWebで見たのだが、腕振り運動を広めた功労者でもある、有名な経営コンサルタントであった船井幸雄氏は、朝、テレビのニュースを見ながら腕振り運動をやっていたというが、私は、これはさらに駄目だと思う。船井氏は、非常に苦しい、奇病とも言える難病にかかり、亡くなられてしまった。

腕振り運動は、自分で数を数えることに意味があるのである。
少なくとも、意識を腕振り運動だけに向けるようにしなければならず、外部のものに自主的に意識を向けるなど、もってのほかと私は思う。
腕振り運動に意識を向けると言っても、数を数えないと、どうしてもよそ事を考えてしまうのである。

昔から、ラジオを聴きながら、音楽を聴きながらの「ながら勉強」「ながら仕事」をする人は多く、そんなことをする人達の多くが、それで調子が出たり、効率が上がると主張する。
だが、科学的調査の結果、「ながら」でやると、効率も能力も圧倒的に下がることが証明されている。
また、「ながら」でやると、「自分では効率が上がっている」と錯覚をする脳のメカニズムも解明されているようだ。
私は、そんな研究成果を見なくても、「ながら」でやると能力が下がることは明らかと思う。
私も以前、大好きな初音ミクさんの映像をテレビ画面で見たり、歌を聴きながら腕振り運動を行ったことはあるが、腕振り運動の効果がひどく低下するのを強く感じた。
また、聴いているのが、私が大好きなスメタナの『モルダウ』や、ドヴォルザークの『新世界より』といったクラシック、あるいは、最高の音楽と思っているキース・ジャレットの『ザ・ケルン・コンサート』でも、全く駄目であった。
これは、岡田斗司夫さんの動画で見たが、こんな実験があったらしい。
教室でペーパー試験を受ける人達が、いっさい触らなくても、机の上にスマートフォンを置いているだけで成績が下がったのだが、それは、スマートフォンの電源を切って、机の中やポケットに隠しても同じだった。そして、教室の外にスマートフォンを置いていた人達の成績が一番良かった。
つまり、能力を落としたくなければ、スマートフォンをなるべく遠ざけることだ。
これは、試験の間だけではなく、スマートフォンを見たり触ったりはもちろん、持っているだけでも頭が悪くなるのだと思う。
このように、何かに意識を多く奪われることは、非常に悪いというか、恐ろしいことなのである。

腕振り運動は、そもそも、集中力の訓練という面があるのに、他のものに気を取られて「ながら」でやるのは、滑稽であり、愚かなのではないかと思うし、せっかくやっても効果は激減する。
ところで、数を数えながら、静かな場所で腕振り運動をしていてすら、数が分からなくなることがある。
それほど集中力が低いのである。
仏教の禅には、数息観と言って、呼吸の数を10まで数えながら坐禅をするというものがあるが、これがなかなかうまく数を数えられず、10までのつもりが、気が付いたら50まで数えたりということがよくあるらしい。これも集中力がないのであるが、そんなことがないよう、集中力を高めるのも数息観の目的で、数息観の効果も非常に高いと言われている。
念仏、真言、祝詞なども、集中するためにやるという一面があり、これらを、音楽を聴きながら、テレビを見ながらやるのは馬鹿であるというより、気持ち悪いはずである。
「いや、気持ち悪いことなどない。俺はそうやるのが気持ち良い」と言う人は勝手にやっていただければ良いが、私は、そんな人とは一切関わらない。

腕振り運動で数を数えると言っても、例えば、2000回まで数えるというのは難しいので、100回ごとに、紙に「正」の字の一部ずつを書いたり、出来れば、数取り器を用意して(100回ごとに)カウントするなど、工夫すると良い。
ある人が「100回ごとに指を折っている」と言っていたが、指は真っすぐ伸ばしていないといけない。
この人は、やっぱりテレビを見ながらやっていたらしいが、指を折るのが一番、テレビを楽しむのに都合が良いのだろう。
なんでこんなふうに、集中するのを嫌がるのだろうと、私は憂うつになったが、人間の脳とは、元々、集中をしないように出来ているらしい。目の前のことに集中して、猛獣が来ても気付かないことがないようにという原始時代の必要性から来ているが、我々はもう原始時代から進歩しなくてはならない。

6時57分追記
昨日の私の腕振り運動の回数は8800回だった。








腕振り運動で頭が良くなる

腕振り運動を行うと、確実に頭が良くなる。
統計的なデータみたいなものがあるわけではないが、脳の仕組み的に、そうであると確信している。

今朝の記事で述べたが、ニュージーランドの哲学者ジェームズ・フリンは、2014年のTEDの講演『なぜ我々は祖父母世代よりもIQが高いのか』で、後の世代の人間の方が前の世代の人間よりIQ(知能指数)が高いという調査結果と、その理由の考察を示した。
興味があれば、このブログの、今朝の記事『目が覚めたら王様だったら?』に詳しく書いたので、ご参照願う。

ところが、フリンの研究の後も、人々のIQに関して統計が行われているのだが、何と、IQの伸びは1990年あたりに頭打ちとなり、2010年頃から明確に下がり続けているらしい。
これに関し、岡田斗司夫さんが動画でうまく説明してくれているが、私が見たのは非正規動画(いわゆる「切り抜き」)だったので、岡田さんの話を参考にしつつ新たに(多分もっと良くw)述べる。

頭が良いことを含め、能力が高いというのは「集中力がある」ことだ。
集中するほど、持っている実力を発揮出来るだけでなく、集中する訓練により集中力が高まると、実力も高くなることは、だいたい同意いただけると思う。
つまり、スポーツ、音楽演奏、武道、勉強などで、集中して行う訓練をすればするほど(限度はあるが)、訓練している分野はもちろん、人間として全体的に優秀になっていくのである。
ところが、よく、「この子は集中力がない」などと言われる生徒等がおり、そんな者は、確かに優秀になれない。
だが、学校等で集中力のない生徒や選手がいるのは、指導者の問題なのである。
なぜか?
人間は(特に子供は)、集中力がないのが当たり前であり、有能な指導者のみが、指導している相手に集中をさせることが出来るからである。

人間というのは集中力がない・・・元々、集中するように出来ていない。これは本当だ。
文明なんてものが出来たのは、人類の長い歴史の中で、ごく最近のことである。
だから、今の人類だって、原始時代の名残を色濃く残している。
原始時代、人間は、猛獣の襲撃に備え、常に周囲に意識を向ける必要があり、自分がやっていることに集中することなど出来なかったのだ。
農耕社会の歴史も狩猟時代に比べると短いし、農耕地帯にも野獣はいただろうから、やはり、人間は「集中してはいけなかった」のである。

そんなわけで、人間は本来、集中力がなく、うまく訓練しないと、能力は低いままだ。
だが、集中した方が仕事や戦いのパフォーマンスが上がることが自然に理解され、徐々にだが、人類は集中することを覚え、だんだん能力が高くなってきた。
だが、やはり、その進歩は一般には鈍い。
ところが、特殊なグループの中で、優れた集中の訓練が開発され、そんなところでは、異常に優秀な人間が育ったし、また、生徒をうまく集中に導くことが出来る学校では、多くの生徒を優秀にしてきたのである。
仏教では、特に真言密教では、真言を長時間唱えることで、集中力を磨き、集中力が高度になれば超能力を発揮することも分かっているのだと思う。

だが、テレビやラジオ、あるいは、音楽レコードのプレーヤーが普及することで、それらを見たり聞いたりしながら、勉強や仕事をすることで、人々は集中力を失い、それで、1960年代から、人間のIQの向上が鈍り、1990年くらいには完全に頭打ちとなり、スマートフォンが普及した2010年頃からは、人々のIQは坂を転げ落ちるように低下したのである。
スティーブ・ジョブズが、自分の子供に決してスマートフォンを与えなかったのは、ジョブズには、直観的にそれが分かっていたからだろう。

そんなわけで、集中力を失くし、頭を悪くしたくなければ、スマートフォンをなるべく、見ない、触らないことである。
スマートフォンを見る時間が長い人ほど頭が悪いことは、なんとなく分かると思う。

そして、例えば、一部の密教の教団が行ったように、真言を長時間唱えて、集中力を上げることは、頭を良くする良い方法なのである。
真言でなくても、中村天風が教えたように、常に肛門を引き締めることに意識を向けることで、余計なことに意識が向かず、集中力を高めることが出来る。
超一流数学者の岡潔が毎朝、念仏を1時間唱えていたのは、あくまで信仰のためではあったが、これもまた集中力を磨くのに役立ち、岡潔は数学のみならず、あらゆることで高度な能力を発揮したのだと思う。
しかし、岡潔のように念仏に集中するには、強い信仰が必要で、岡潔の場合は、弁栄という素晴らしい僧に会ったから、そんな信仰を持てたのである。
念仏以外の、真言、お経、祝詞、神仏の名・・・なども、毎日、それなりの時間唱えることは難しく、私も苦労した。
しかし、身体を動かす腕振り運動であれば、私は、多少の根気は要るとしても、かなり気持ち良くやれるのである。

集中力が高まれば、知性などの能力が高まるだけでなく、直観が冴えたり、アイデアが閃くようになる。さらには、特殊な密教的集団では知られていると思うが、神秘的な力が現れ、シンクロニシティ(共時性)が起こったり、超能力が備わったり、世界を支配する力にまでいたる可能性がある。
腕振り運動は、努力、忍耐、克己等の資質を持ち合わせていなくても、集中力を獲得出来る秘法であると思う。
やらなければもったいないと思う。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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