ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

阿弥陀如来

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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最も霊験あらたかな真言

念仏の不思議な話を少しする。
江戸末期から昭和初期にかけ、農民や職人、商人などの間に、妙好人(みょうこうじん)と呼ばれる不思議な人々が現れた。
いや、とりあえず妙好人と呼んでいるだけで、本当に、そのまま「妙に好ましい人」くらいの意味しかない。
実際、妙好人は、ごく普通のただの庶民で、それどころか、まさに、「ど庶民」なのだが、実は、並の人間ではなかった。
悟りを開いた仏陀のような人々なのだが、なぜ、彼らがそうなったのかというと、おそらく、ただ念仏を唱えたのだ。
ほとんどの場合、妙好人は、ただの人間として生き、ただの人間として死ぬが、時として、人々の尊い模範となったり、騒乱が起こった時等には聖者の本性を見せることもあった。
彼らは、本当に仏陀だった。
そして、彼らはただ、念仏を唱えることによって、そうなったとしか思えない。
念仏には、そんな力が確かにあるのである。

ところで、念仏の「南無阿弥陀仏」というのは、純粋な日本語ではない。
「南無」は、ナーマスというサンスクリット語の音写(音だけ真似ること)で、「阿弥陀仏」は、やはりサンスクリット語のアミターバの音写だ。
「南無」は「なむ」と言ったり「なも」と言ったりするが、元々は「ナーマス」なのだから、どちらでも良い。
「南無阿弥陀仏」は、「阿弥陀如来(アミターバ)に帰依する(ナーマス)」という意味だが、帰依とは、「頼みとして、その力にすがる」という意味で、早い話が、全面的な信頼を意味する。
この意味だけで、念仏は最高最上の真言なのだと思われ、これを唱えて悪くなるはずがない。
イエスだって、神を全面的に信用しろと教えたのだし、江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠も、「まること」の教えといって、神様にまるごと全部まかせろと言ったのである。
ただ、イエスや黒住宗忠は、念仏のように、それを簡単に収める言葉を示さなかったのである。

ところが、念仏は、葬式に使われるようになり、何だか葬式のイメージになってしまった。
それもあって、私は、どちらかというと、阿弥陀如来の真言である「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」を唱えているが、これも本当は念仏と全く同じである。
そして、この真言が、私にとって、昔から霊験あらたか・・・と言ったら笑われることもあるかもしれないが、全く霊験あらたかで、いつもうまくいっていたのである。
「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」は、「オン、アミリタ、テイゼイ、カラウン」と「テイゼイ」のところで濁っても良い・・・と言うより、正確なサンスクリット語では「テージェ」であり、それで言えば「テイゼイ」の方が近いが、どちらでも同じである。
さっきも言ったが、私は、念仏も阿弥陀如来真言も全く同じだと思っている。

ところで、阿弥陀如来の根本真言というものがあり、古来、これこそ、最も霊験あらたかと言われてきた。
どんな真言かというと、「アムリタ」という言葉を十回繰り返すもので「十甘露陀羅尼(じゅううかんろだらに)」と言う。
アムリタとは、「甘露(文字通り、甘い露)」という意味で、陀羅尼は真言のことである。
阿弥陀如来真言の「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」の「アミリタ」が、正確なサンスクリット語で「アムリタ」なのであり、「アムリタ」という真言もまた「アミリタ」でも構わない。
ところで、アニメ『ツバサクロニクル』の映画である『劇場版ツバサ・クロニクル 鳥カゴの国の姫君』という、わずか35分だが、素晴らしい映画があるのだが、この映画の主題歌が『アムリタ』で、まさに、阿弥陀如来の根本真言と思える素晴らしい曲である。
芸術的音楽家である、かの香織さんが作詞作曲した名曲で、本当にただならぬ聖歌のような歌で、「アムリタ」の意味を完全に表現している。
「アムリタ」を真言とし、十回と言わず、数多く何度でも繰り返し唱えると、かならずや霊験があると思う。
さっきも言ったが、古来から、唱えれば幸せになれると考えられてきた、最も霊験あらたかな真言なのである。
私も、念仏、阿弥陀如来真言と共に、この十甘露陀羅尼「アムリタ」を愛用している。
阿弥陀如来の真言、偉大なりきである。








真言の威力実践編

真言について、日本人に馴染み深いものについて、参考までに、私の実践体験を交えて述べる。
真言は、
・阿弥陀如来真言
・観世音菩薩真言
・般若心経の呪文
・弥勒菩薩真言
である。

◆阿弥陀如来真言
法華経よりも古い経典である華厳経(けごんきょう)に、既に、阿弥陀如来の名を唱えることの効能が書かれている。
その経典では、阿弥陀(原語ではアミターバ)の名を唱えよとあるだけである。
奈良時代の伝説の人物である中将姫(ちゅうじょうひめ。747~775)が、阿弥陀経を写経し、念仏を唱えていたと伝えられているが、当時は「南無阿弥陀仏」という念仏はなく、中国語の阿弥陀経に倣い「アミタホトケ」と唱えていたのだろうと想像される。
浄土三部経の中の観無量寿経にも、釈迦は阿弥陀如来を「アミタと呼べ」と言ったと書かれている。
阿弥陀如来の真言は「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」または「オン、アミリタ、テイゼイ、カラウン」であるが、サンスクリットの原語から言えば、「オン、アミリタ、テイゼイ、カラウン」の方が近い。しかし、いずれで唱えても構わない。
私は、「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」で唱えている。
他にも、「南無阿弥陀仏」「アミターバ」と唱えても良いと思われる。
阿弥陀如来は万能の仏と考えて良く、また、いかなる罪も許し救う慈悲深い仏である。
私は、数年のニート生活の後、性格的に最も向かないと思われるセールスマンになったが、中岡俊哉氏の本を見て、阿弥陀如来真言「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」を唱え始めた。
それほど熱心に唱えていたわけではないが、それなりには唱えた。
すると、皆が親切にしてくれ、仕事を助けてくれたおかげで、私には困難なはずの仕事も苦労なくうまくいき、同時に、二十歳の彼女や、十代の非常に可愛い女の子の友達が次々に出来た。
その後、『歎異抄』を読み、念仏の力も知ったが、念仏もまた真言であり、「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」と変わらないと思う。

◆観世音菩薩真言
織田隆弘氏の本を読み、観世音菩薩の真言である、「オン、アロリキャ、ソワカ」や「南無観世音菩薩」の真言を唱えるようになった。
観世音菩薩は、身近に居て救ってくれる、人間の現実問題の面倒を見てくれる菩薩として知られている。
唱えていると、抱えていた問題が自然に消え、何もかもうまくいくようであった。
観世音菩薩は、西洋では、東洋のマリアと呼ばれるほど、慈悲深い存在として知られているが、まさに、そのイメージ通りと感じられる。

◆般若心経の呪文
紀野一義氏の『「般若心経」を読む』を読み、これはもう、般若心経の呪文を唱えるべきと思った。
「ギャテイ、ギャテイ、ハラギャテイ、ハラソウギャテイ、ボウジ、ソワカ」(中国語)
でも、
「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」(サンスクリット語)
でも、いずれでも良い。
私は、紀野氏の本に書かれていたサンスクリット語版を覚え、これを唱えている。
発明家で、能力開発研究家の中山正和氏の本をよく読んでいたが、中山氏も、般若心経を著書でよく薦めておられ、この呪文を唱える意義も書かれていた。
唱えていれば、自然に幸運が舞い込むように思われるし、驚くほど、インスピレーションが湧くことを感じる。

◆弥勒菩薩真言
京都の広隆寺にある、「宝冠弥勒」と呼ばれる「弥勒菩薩半跏思惟像」は、海外のVIPもひそかにお参りに来る霊験あらたかな仏である。
この質素な像が、1951年(昭和26年)、国宝第一号に指定されてからの日本の発展は凄く、日本は予想外の早さで主権を取り戻し(それまではアメリカの占領国であった)、以降、奇跡の復興を遂げた。
五島勉氏の『未来仏ミロクの指は何をさしているか』には、破損したこの「宝冠弥勒」の指を修復した名工が、「南無弥勒仏」と唱えて良いかと尋ねると、弥勒像は、それで良いと答えてくれたという。
弥勒菩薩の真言は「オン、マイタレイヤ、ソワカ」とシンプルで、サンスクリット語で「オーン、マイトレーヤ、スヴァーハー」と唱えても良いと思う。
もちろん、「南無弥勒菩薩」という最も知られた真言でも良いし、五島氏の本にある通り「南無弥勒仏」でも良い。
私は、あまり唱えることはないのだが、唱えれば大きな恵があったように思う。

以上、何かの参考になればと思う。








真言が神秘力を起こす仕組み

文豪の小説でも、しばしば指摘されているが、記憶と最も深く結びつく感覚は、意外に嗅覚だ。
もし、子供の時の一時期でも、焼き芋の匂いに包まれて生活した時期があれば、何十年経っても、焼き芋の匂いを嗅ぐと、その頃の精神状態が蘇り、非常に懐かしく思う。
他の感覚でも、そんなことはあるが、嗅覚が一番、感情的な記憶想起の力が強い。
私は最近、久々に、アイス・デオドラント(冷感制汗)スプレーを使ったが、そのスプレーの匂いで、初音ミクさんのコンサート「マジカルミライ」の光景を鮮明に思い出す。
私は、汗っかきなので、マジカルミライ会場で密着する可能性が高い若いお嬢さん方に不快感を与えてはいけないと、大変に気を使い、初めて「マジカルミライ」に行った2016年から必需品としているからである。

歳を取って元気を取り戻したい時、自分が若くて元気だった時に人気があった歌手の歌を聴くと、かなり気分が高揚するのも確かと思うが、匂いや香りに関わるものの方が感情に働きかけるので、効果的なのである。
二十歳の若者が、ジャスミンの香りのお香をたびたび使っていれば、50歳になっても60歳になっても、ジャスミンのお香の香りに接すれば、若い時の肯定的な感覚が蘇ることだろう。

一人の人間の一生の記憶に関しては、この通り、香りが強い記憶になっているが、これが、人類の歴史となるとどうだろう?
『荘子』では、人類が最も優れていた時代は古代ではなかったのかと記されている。なぜかというと、自他内外の区別を一切しなかったからだ。
つまり、自己が宇宙そのものという、今日でいえば、悟り、あるいは、解脱と呼ばれる状態にあったのだから、深い英知を誰もが備えていたのである。
一説によれば、古代の文明は、機械文明とは違う意味で高度で、人工生命体すら作り出すことが出来たと言われている。
荘子は、そんな時代から後は、自他を区別するようにはなったが、区別はしても優劣をつけなかった時代は、現代よりずっと人間は高度であったと言うが、そのはずだと私も思う。
その時代には、神の名、そして、それに関連した真言が作られていた。
神の名には、説明は省くが、古代の叡智への回帰の意味もあったのである。
ギリシャ神話、インド神話(『マハーバーラタ』など)、エジプト神話などは、紀元数世紀に成立したと見なされるが、紀元前300年以上前のアリストテレスが既に、ギリシャ神話の神について著作で言及しており、神話の起源そのものは、いずれももっと古い。
また、ギリシャ神話、旧約聖書、古事記の内容に似た部分が多く、すでに何らかの文化交流があったと思われるが、それは、言語学的に見ても言葉の中に、その痕跡が認められる。
学問的な詳細はともかく、神や仏の名、そして、それらと深く関係する真言は、古代の影響を受け、それは、人類の深い記憶に残されている。
カール・グスタフ・ユング、あるいは、ルドルフ・シュタイナーも、神話が人類の深い記憶(霊体にまで及ぶかもしれない)に存在し、神話を読んだり、神話のシンボルに接することで、古代の記憶を刺激することを示したが、もっと奥深くにあるのが、神や仏の名や真言である。

現代の人間も、神や仏の名、あるいは、古い真言を唱えることで、宇宙の心と通じた賢い時代の英知を呼び起こすことが出来る。
特に、仏教の真言というのは、神仏を称賛する言葉であり、生命力に溢れ、これを唱えることの利益は非常に大きい。
賢くなるだけでなく、古代の人類が持っていた超能力めいたものまで復活させることは、それを成し遂げた者はあまり言わないが、そうであったという証拠は多いはずである。

ところで、1つ言っておくと、阿弥陀如来という仏・・・インドの原語ではアミターバ(同時にアミタ―ユスとも言うが、アミタ―ユスは別の仏という説がある)は、徹底して駄目な人間のための最強の仏であるとみなされている。
その考え方は、法然、親鸞で確定したものとなったが、元々、そのような傾向があったのである。
人間的に最低で、昔の神であれば、見捨てる、罰する対象の欠陥人間の欠点を、ものともしないのが阿弥陀如来である。
それは、特に、親鸞の教えを記したと言われる『歎異抄』に鮮明で、まさに、まるで駄目な人間である我々の希望である。
そんなわけで、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えることは、もちろん良いが、念仏は、あまりに葬式のイメージがあり、病室や手術室で念仏なんか唱えていたら叩き出されかねない。
それで、阿弥陀如来真言「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン(あるいは、オン、アミリタ、テイゼイ、カラウン)」を唱えるか、簡単なので、阿弥陀如来の元の名前、アミターバを唱えると良い。
特に、あらゆる点で駄目駄目な人間は。
「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」は、いったん覚えてしまえば、リズムが良く、楽しく唱えられる。
心の中で、静かに、丁寧に唱え、出来るだけ数多く唱えることが大切だ。
そうすれば、あらゆる利益が切りもなく訪れると思う。
それは、観世音菩薩の真言「オン、アロリキャ、ソワカ」も同じだが、「南無観世音菩薩」に悪いイメージはないので、これも唱え易い。
ただ、観世音菩薩の元の名は「アヴァローキテーシュヴァラ」と難しいが、この名にピンと来るなら唱えると良いだろう。








絶大なる力

凄い美人や、凄く強い格闘家、凄く美しく踊る舞踊家、凄い豪華絢爛な宮廷・・・などを見て、物凄く感激したとする。しかし、それがどんなものであったかを言葉で伝えようとしても、ほとんど何も伝わらない。
また、たとえ世界一の画家が絵で示そうとしても、浦島太郎の歌のように「絵にも描けない美しさ」ということになってしまう。
聖書やコーランでは、神を褒め称えるが、「凄いんだぞ」「偉いんだぞ」と言うだけで、細かいことは言わない。言葉で言うことは出来ないからだ。
だから、いかな聖書画家でも、神様の姿を絵にする者はさすがにいない。
一方、ギリシャ神話の画家では、ゼウスやアテナなアポロンなどの神の姿を描き、それらの絵が称賛されることもあるが、本物の神の美や優雅さや気高さはけた違い・・・どころではないはずだ。
同じことが、仏教画の、仏や菩薩の絵についても言える。

西洋では、そういったことが、善や理性や、それらの進歩に対する、大きな障りになっている。
つまり、ちょっと美人の大スターを見たら興奮して称賛し、また、巨悪と呼ばれる存在が現れたら恐れてしまう。
あなた方が信仰、崇拝する神の美しさは、それどころではないし、巨悪といったところで、たかが人間のはずが、信仰深い人でも、そんな人間の悪(例えば、ディープ・ステート)に圧倒されてしまうのだ。
だから、民衆のマインドはその程度と知っている支配者は、容易く民衆を操ることが出来るのである。

ところが、仏教の『浄土三部経』の1つ、『観無量寿経』を読んで驚くのは、何と、阿弥陀如来の強大さや、阿弥陀如来の国である極楽浄土の美を、表現出来ていることである。
そのために、特殊な方法を使っているが、著者は凄まじく頭が良いのだろう。
ただ、このお経は、もしかしたら、浄土宗や浄土真宗の人は、お葬式や法要で聞いたことがあるかもしれないが、お坊様が読むような中国語の真似では、全く意味が分からない。
そこで、現代語訳を読めば良いのだが、最初は、あまりに気宇壮大な記述に呆れてしまうことだろう。
大乗仏教の仏典全般に、そんな傾向があり、たとえば、法華経にも、そんなところ(気宇壮大に感じるところ)が多い。

アメリカのスーパーヒーロー『スーパーマン』のアニメは、かなり素晴らしいものが1943年に作られ、映画は、現在も新作が作られ続けている。
特にアニメのスーパーマンは、お話を面白くする都合上、スーパーマンがピンチになることもあるが、それでも、強過ぎると感じるだろう。
しかし、人々は、いくらスーパーマンが強くても、神様と比べたら、象とアリの差どころですらないという発想を持てない。神様を絵や文章で描くことが出来ないので、全く見たことも聞いたこともないからだ。
『バガヴァッド・ギーター』では、神クリシュナは、アルジュナ王子の願いに応じて、アルジュナに姿を見せたが、アルジュナはクリシュナの姿のほんの少しを認識しただけで、恐怖で震え上がってしまった。
ほんの一部を見ただけとはいえ、アルジュナにとっては、今後は、この世のいかなる凄いものも、ちっぽけに見えるはずである。
だが、ほとんど全ての人は、ほんのわずかでも神様の姿を見ることが出来ないので、そうはならない。
しかし、『観無量寿経』を熱心に読めば、もしかしたら、アルジュナ以上の衝撃を感じることが出来るかもしれない。
保証の限りではないが。

あるいは、「南無阿弥陀仏」という念仏や、「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン(原音は、オーン、アムリタ、テージェ、ハラ、フーン)」という阿弥陀如来真言を唱えれば、心の中に、阿弥陀如来(アミターバ)の姿や力が浮かぶのかもしれない。
『観無量寿経』を読めば、さらにそうなるかもしれない。
最近、私は、『魔王学院の不適合者』というアニメを見ているが、ヒーローのアノス・ヴォルディゴードの強さに惚れ惚れとしている。
従来のアニメヒーローとは一線を画す強さで、それを自然に・・・と言うのもおかしいが、美しく描くことに成功していると思う。
私は別に、浄土宗や浄土真宗の信者ではないが、このアノスの力すら、阿弥陀如来に比べれば小さなものだということが分かるのである。
それが、念仏や阿弥陀如来真言(どちらも真言で結局は同じだが)の力である。
よって、真言がますます定着すれば、この世に恐いものは1つもなくなる。
これは別に、阿弥陀如来真言に限らず、優れた真言であれば同じである。
アノスが味方になっても世界征服くらいは容易いが、それとは比較にならない力が味方である。
この世界は、そう思ったらそうなる仕組みになっている。
そして、結局、人間は、安心や安らぎが欲しいのである。
そうであるなら、真言を唱えることが勧められる。
ついでに、忍耐があれば、『観無量寿経』を読むことをお勧めする。
これ(観無量寿経)が、シミュレーテッド・リアリティを描いているとすれば、さらにまた興味深いが。








真言を唱えると何もしなくてもよくなる

真言を唱えると、何もしなくてよくなる件について。
これも、古代からの聖賢達の教えの一致する点だ。
真言の根は、心の深い部分・・・潜在意識のさらに奥にある、集合無意識や超意識にある。
よって、真言を唱えれば唱えるほど、意思は、意識の深いところに潜っていく。
そこは、我々が現実世界と呼ぶ幻想(今流には仮想世界)を生み出す創造の場である。
その深い意識の場は、少しあの世に似ていて、思ったことが速やかに実現する世界だ。
ただ、初めてそこに行った時はもちろん、何かの拍子でたまに訪れるだけでは(誰でもたまにある)、手も足も出ず、何も創造出来ない。
しかし、逆に言えば、その意識の深い部分に慣れてしまえば、現実を容易く生み出せるようになる。
慣れ次第ではあるが、初心者でも、ある程度の現実を作れるようになれる。
たとえて言えば、池や湖の深いところで活動することに慣れてしまえば、水の表面での活動は簡単過ぎて、何もしなくても思う通りになる感覚と同じである。

真言を唱えると、自分では何もしていないつもりなのに、全てが思うようになる原理は上に述べた通りである。
神話のシンボルや、昔話の神や英雄の名が、集合無意識、あるいは、超意識に存在していることは、C.G.ユングも、多くの人を観察する中で確認していた。
ユングは、そこに辿り着くいろいろな方法を考えたが、真言(マントラ)については、それほど重視しなかったのは、彼の意外な見逃しのように思える。
古代ギリシャ語やサンスクリット語の神の名や真言がそこにあるのだから、それを数多く繰り返し心で唱えれば、超意識と共鳴し合うことは少しも不思議ではない。
よって、あなたも、古代からある、由緒正しき真言や神の名を唱えるべきである。
どの言葉が良いかは、単に試せば良く、もし、良くない言葉であれば、唱えているうちに嫌な感じがするだろう。
龍樹(りゅうじゅ。ナーガールジュナ)という2世紀のインドの僧で、真言密教の祖師とも浄土真宗の祖師とも言われる天才仏教僧は、『華厳経』の中で、十の仏の名を唱えることで高い境地に至ると書いているが、特に、阿弥陀如来について詳しく取り上げ、その名を唱えるよう勧めている。
阿弥陀如来は、インドの言葉でアミターバ、あるいは、アミタ―ユスであり、もちろん、この通りに唱えても良いが、現代から見れば、かなり以前から、「南無阿弥陀仏」の念仏や、真言「オン・アミリタ・テイセイ・カラウン」と唱えられてきたので、これらの言葉も、確として超意識界に高いエネルギー体として存在するので、これらの言葉を心で唱えれば、良い効果があるに決まっている。
ただし、丁寧に、静かに、ゆっくりと、心で唱えるべきである。
でなければ、超意識の中の波動の高いこれらの言葉と共鳴し難い。
しかし、これらの言葉を、心で、静かに、ゆっくり、丁寧に唱えれば、確実に共鳴するだろう。
すると、実際の話として、世界は意のままなのである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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