本来、日本は、天皇陛下が護ってくれる国で、一般庶民が祝詞や祓詞を唱える必要がなかったというより、庶民が、そのような高貴な真似をするのは、身の程知らずかもしれない。
だが、天皇の力が弱まったというよりは、元々がそうだったが、現在は過去にないほど、支配層の徳が著しく低下し、庶民も穢れてしまった。
そのため、天皇の力で日本は維持されているが、庶民の幸福を守るには必ずしも十分でなくなったのかもしれない。
しかし、大昔にそれを見越していたかのように、聖徳太子は中国から仏教の経典を取り寄せて布教を行い、仏教は神道と融合していったが、仏教は、庶民自ら霊的に向上する教えである。
ただ、仏教や、その源流であるヴェーダ哲学でも分かっていたことだが、人々の心があまりに暗くなり、ヴェーダでは、神の名を唱えるナーマスマラナ、仏教では念仏以外には、人々が救われる道がなくなった。
ナーマスマラナと念仏は、神の名を唱えるか、仏の名を唱えるかの違いだけで、同じである。
もちろん、日本の神の名を唱えるのも良いことであるが、最初に述べた通り、日本は天皇が護ってくれる国だったので、庶民に、高貴な神の名を唱える伝統がない。
それで、庶民は、慣れ親しんでいる念仏がやりやすいが、実を言うと、神の名を唱えようが、仏の名を唱えようが、行き着く先は同じなのである。
念仏の代表的なものは、「南無阿弥陀仏」の念仏であるが、『法華経』の25章『観音経』にある通り、「南無観世音菩薩」などと唱えるのも馴染みがあり、霊験あらたかと思う。
ところで、阿弥陀仏の念仏、観世音菩薩の念仏について、ちょっと知っておいた方が良いことがある。
経典には、あくまで、「阿弥陀仏の名を唱えよ」「観世音菩薩の名を唱えよ」と書かれているのであり、「南無阿弥陀仏」や「南無観世音菩薩」という唱え方は、後から決めたもので、そのように唱えよとは経典に書かれていない。
そして、阿弥陀仏の名は、インドでの元々の名前であるアミターバを中国で音写されたもので、それが、日本に入ってきている。
アミターバは「無量の光」という意味で、実際、阿弥陀仏には、「無量光仏」「無辺光仏」という名もある。
また、アミターバには、アミタ―ユスという別名もあり、アミタ―ユスは「無量の寿命」という意味であることから、やはり、「無量寿仏」という名も、阿弥陀仏の別名とされている。
アミターバとアミタ―ユスの共通の「アミタ(無量の)」を音写して阿弥陀としたらしいが、それならなぜ、「アミタ」ではなく「アミダ」なのか分からないが、それはこだわる必要はないだろう。
阿弥陀で定着すれば、これが、阿弥陀仏の名で間違いない。
一方、阿弥陀仏と反対のような経緯で付けられた名前が観世音菩薩である。
観世音菩薩は、インドでの元々の名は、アヴァローキテーシュヴァラなのであるが、この名の意味が「音を観る者」という意味であることから、中国で観世音菩薩と名付けられ、それが日本に入って来た。
なぜ、アヴァローキテーシュヴァラの音写の名にならなかったのかというと、単に、この名が長くて難しいからだろう。
それで、意訳である観世音菩薩という名になった。
ところが、玄奘三蔵は、アヴァローキテーシュヴァラを観自在菩薩と訳し、般若心経の中でも、こちらの訳を使った。
観自在菩薩とは、「自在に観る」という意味で、むしろ、こちらの方が正しい訳にも思える。
発明家で、能力開発のスペシャリストであった中山正和氏は、観自在菩薩の名の方を採用し、この「観自在(自在に観る)」という意味を重要視した。
とはいえ、観世音菩薩、観自在菩薩、いずれもよく知られているので、どちらを採用しても良い。
ただ、念仏として唱える時は、観世音菩薩の方が良いかもしれない。
それで、正しい念仏はむしろ、阿弥陀仏の場合、「阿弥陀仏」「阿弥陀」、観世音菩薩の場合、「観世音菩薩」「観世音」になると思う。
しかし、定着していることなので、「南無阿弥陀仏」「南無観世音菩薩」で、全く問題ない。
ただ、私は、「阿弥陀仏」「観世音菩薩」と唱える。
元々は私は、阿弥陀仏の真言である「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」をずっと唱えてきて、それで一切がうまくいったし、観世音菩薩の真言「オン、アロリキャ、ソワカ」も唱えてきた。
実感として、これらの真言は、現世利益に強い気もするが、実際には、「阿弥陀仏」「観世音菩薩」と唱えるのと違いはないと思う。
いかなる悪がやってこようが、阿弥陀仏や観世音菩薩の力に全く対抗出来るはずがない。
阿弥陀仏は宇宙最強であるし、観世音菩薩も、本来は、高位の仏であったのだが、庶民を救うために、わざわざ菩薩の位に下りてきてくれたのであるし、『観無量寿経』を見ても分かる通り、阿弥陀仏とすら、それほどの差はないのである。
そして、実を言えば、阿弥陀仏と言い、観世音菩薩と言い、その他の神仏の名と言い、名前は実体である力と等しいのである。
そのことが、ナームデーヴ(ナーマデーヴァ)の『聖なる名前の哲学』で説かれているが、深遠なので、理解が難しい。
ただ、我々は、その名が、神仏そのものであることを知り、その名を唱えるべきである。
その他には、やるべきことは何もない。
だが、天皇の力が弱まったというよりは、元々がそうだったが、現在は過去にないほど、支配層の徳が著しく低下し、庶民も穢れてしまった。
そのため、天皇の力で日本は維持されているが、庶民の幸福を守るには必ずしも十分でなくなったのかもしれない。
しかし、大昔にそれを見越していたかのように、聖徳太子は中国から仏教の経典を取り寄せて布教を行い、仏教は神道と融合していったが、仏教は、庶民自ら霊的に向上する教えである。
ただ、仏教や、その源流であるヴェーダ哲学でも分かっていたことだが、人々の心があまりに暗くなり、ヴェーダでは、神の名を唱えるナーマスマラナ、仏教では念仏以外には、人々が救われる道がなくなった。
ナーマスマラナと念仏は、神の名を唱えるか、仏の名を唱えるかの違いだけで、同じである。
もちろん、日本の神の名を唱えるのも良いことであるが、最初に述べた通り、日本は天皇が護ってくれる国だったので、庶民に、高貴な神の名を唱える伝統がない。
それで、庶民は、慣れ親しんでいる念仏がやりやすいが、実を言うと、神の名を唱えようが、仏の名を唱えようが、行き着く先は同じなのである。
念仏の代表的なものは、「南無阿弥陀仏」の念仏であるが、『法華経』の25章『観音経』にある通り、「南無観世音菩薩」などと唱えるのも馴染みがあり、霊験あらたかと思う。
ところで、阿弥陀仏の念仏、観世音菩薩の念仏について、ちょっと知っておいた方が良いことがある。
経典には、あくまで、「阿弥陀仏の名を唱えよ」「観世音菩薩の名を唱えよ」と書かれているのであり、「南無阿弥陀仏」や「南無観世音菩薩」という唱え方は、後から決めたもので、そのように唱えよとは経典に書かれていない。
そして、阿弥陀仏の名は、インドでの元々の名前であるアミターバを中国で音写されたもので、それが、日本に入ってきている。
アミターバは「無量の光」という意味で、実際、阿弥陀仏には、「無量光仏」「無辺光仏」という名もある。
また、アミターバには、アミタ―ユスという別名もあり、アミタ―ユスは「無量の寿命」という意味であることから、やはり、「無量寿仏」という名も、阿弥陀仏の別名とされている。
アミターバとアミタ―ユスの共通の「アミタ(無量の)」を音写して阿弥陀としたらしいが、それならなぜ、「アミタ」ではなく「アミダ」なのか分からないが、それはこだわる必要はないだろう。
阿弥陀で定着すれば、これが、阿弥陀仏の名で間違いない。
一方、阿弥陀仏と反対のような経緯で付けられた名前が観世音菩薩である。
観世音菩薩は、インドでの元々の名は、アヴァローキテーシュヴァラなのであるが、この名の意味が「音を観る者」という意味であることから、中国で観世音菩薩と名付けられ、それが日本に入って来た。
なぜ、アヴァローキテーシュヴァラの音写の名にならなかったのかというと、単に、この名が長くて難しいからだろう。
それで、意訳である観世音菩薩という名になった。
ところが、玄奘三蔵は、アヴァローキテーシュヴァラを観自在菩薩と訳し、般若心経の中でも、こちらの訳を使った。
観自在菩薩とは、「自在に観る」という意味で、むしろ、こちらの方が正しい訳にも思える。
発明家で、能力開発のスペシャリストであった中山正和氏は、観自在菩薩の名の方を採用し、この「観自在(自在に観る)」という意味を重要視した。
とはいえ、観世音菩薩、観自在菩薩、いずれもよく知られているので、どちらを採用しても良い。
ただ、念仏として唱える時は、観世音菩薩の方が良いかもしれない。
それで、正しい念仏はむしろ、阿弥陀仏の場合、「阿弥陀仏」「阿弥陀」、観世音菩薩の場合、「観世音菩薩」「観世音」になると思う。
しかし、定着していることなので、「南無阿弥陀仏」「南無観世音菩薩」で、全く問題ない。
ただ、私は、「阿弥陀仏」「観世音菩薩」と唱える。
元々は私は、阿弥陀仏の真言である「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」をずっと唱えてきて、それで一切がうまくいったし、観世音菩薩の真言「オン、アロリキャ、ソワカ」も唱えてきた。
実感として、これらの真言は、現世利益に強い気もするが、実際には、「阿弥陀仏」「観世音菩薩」と唱えるのと違いはないと思う。
いかなる悪がやってこようが、阿弥陀仏や観世音菩薩の力に全く対抗出来るはずがない。
阿弥陀仏は宇宙最強であるし、観世音菩薩も、本来は、高位の仏であったのだが、庶民を救うために、わざわざ菩薩の位に下りてきてくれたのであるし、『観無量寿経』を見ても分かる通り、阿弥陀仏とすら、それほどの差はないのである。
そして、実を言えば、阿弥陀仏と言い、観世音菩薩と言い、その他の神仏の名と言い、名前は実体である力と等しいのである。
そのことが、ナームデーヴ(ナーマデーヴァ)の『聖なる名前の哲学』で説かれているが、深遠なので、理解が難しい。
ただ、我々は、その名が、神仏そのものであることを知り、その名を唱えるべきである。
その他には、やるべきことは何もない。

