ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

阿弥陀仏

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

霊験の高い仏・菩薩の名

本来、日本は、天皇陛下が護ってくれる国で、一般庶民が祝詞や祓詞を唱える必要がなかったというより、庶民が、そのような高貴な真似をするのは、身の程知らずかもしれない。
だが、天皇の力が弱まったというよりは、元々がそうだったが、現在は過去にないほど、支配層の徳が著しく低下し、庶民も穢れてしまった。
そのため、天皇の力で日本は維持されているが、庶民の幸福を守るには必ずしも十分でなくなったのかもしれない。
しかし、大昔にそれを見越していたかのように、聖徳太子は中国から仏教の経典を取り寄せて布教を行い、仏教は神道と融合していったが、仏教は、庶民自ら霊的に向上する教えである。
ただ、仏教や、その源流であるヴェーダ哲学でも分かっていたことだが、人々の心があまりに暗くなり、ヴェーダでは、神の名を唱えるナーマスマラナ、仏教では念仏以外には、人々が救われる道がなくなった。
ナーマスマラナと念仏は、神の名を唱えるか、仏の名を唱えるかの違いだけで、同じである。
もちろん、日本の神の名を唱えるのも良いことであるが、最初に述べた通り、日本は天皇が護ってくれる国だったので、庶民に、高貴な神の名を唱える伝統がない。
それで、庶民は、慣れ親しんでいる念仏がやりやすいが、実を言うと、神の名を唱えようが、仏の名を唱えようが、行き着く先は同じなのである。

念仏の代表的なものは、「南無阿弥陀仏」の念仏であるが、『法華経』の25章『観音経』にある通り、「南無観世音菩薩」などと唱えるのも馴染みがあり、霊験あらたかと思う。
ところで、阿弥陀仏の念仏、観世音菩薩の念仏について、ちょっと知っておいた方が良いことがある。
経典には、あくまで、「阿弥陀仏の名を唱えよ」「観世音菩薩の名を唱えよ」と書かれているのであり、「南無阿弥陀仏」や「南無観世音菩薩」という唱え方は、後から決めたもので、そのように唱えよとは経典に書かれていない。
そして、阿弥陀仏の名は、インドでの元々の名前であるアミターバを中国で音写されたもので、それが、日本に入ってきている。
アミターバは「無量の光」という意味で、実際、阿弥陀仏には、「無量光仏」「無辺光仏」という名もある。
また、アミターバには、アミタ―ユスという別名もあり、アミタ―ユスは「無量の寿命」という意味であることから、やはり、「無量寿仏」という名も、阿弥陀仏の別名とされている。
アミターバとアミタ―ユスの共通の「アミタ(無量の)」を音写して阿弥陀としたらしいが、それならなぜ、「アミタ」ではなく「アミダ」なのか分からないが、それはこだわる必要はないだろう。
阿弥陀で定着すれば、これが、阿弥陀仏の名で間違いない。
一方、阿弥陀仏と反対のような経緯で付けられた名前が観世音菩薩である。
観世音菩薩は、インドでの元々の名は、アヴァローキテーシュヴァラなのであるが、この名の意味が「音を観る者」という意味であることから、中国で観世音菩薩と名付けられ、それが日本に入って来た。
なぜ、アヴァローキテーシュヴァラの音写の名にならなかったのかというと、単に、この名が長くて難しいからだろう。
それで、意訳である観世音菩薩という名になった。
ところが、玄奘三蔵は、アヴァローキテーシュヴァラを観自在菩薩と訳し、般若心経の中でも、こちらの訳を使った。
観自在菩薩とは、「自在に観る」という意味で、むしろ、こちらの方が正しい訳にも思える。
発明家で、能力開発のスペシャリストであった中山正和氏は、観自在菩薩の名の方を採用し、この「観自在(自在に観る)」という意味を重要視した。
とはいえ、観世音菩薩、観自在菩薩、いずれもよく知られているので、どちらを採用しても良い。
ただ、念仏として唱える時は、観世音菩薩の方が良いかもしれない。

それで、正しい念仏はむしろ、阿弥陀仏の場合、「阿弥陀仏」「阿弥陀」、観世音菩薩の場合、「観世音菩薩」「観世音」になると思う。
しかし、定着していることなので、「南無阿弥陀仏」「南無観世音菩薩」で、全く問題ない。
ただ、私は、「阿弥陀仏」「観世音菩薩」と唱える。
元々は私は、阿弥陀仏の真言である「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」をずっと唱えてきて、それで一切がうまくいったし、観世音菩薩の真言「オン、アロリキャ、ソワカ」も唱えてきた。
実感として、これらの真言は、現世利益に強い気もするが、実際には、「阿弥陀仏」「観世音菩薩」と唱えるのと違いはないと思う。

いかなる悪がやってこようが、阿弥陀仏や観世音菩薩の力に全く対抗出来るはずがない。
阿弥陀仏は宇宙最強であるし、観世音菩薩も、本来は、高位の仏であったのだが、庶民を救うために、わざわざ菩薩の位に下りてきてくれたのであるし、『観無量寿経』を見ても分かる通り、阿弥陀仏とすら、それほどの差はないのである。
そして、実を言えば、阿弥陀仏と言い、観世音菩薩と言い、その他の神仏の名と言い、名前は実体である力と等しいのである。
そのことが、ナームデーヴ(ナーマデーヴァ)の『聖なる名前の哲学』で説かれているが、深遠なので、理解が難しい。
ただ、我々は、その名が、神仏そのものであることを知り、その名を唱えるべきである。
その他には、やるべきことは何もない。








アダムとイブの失敗を取り返す念仏

旧約聖書のアダムとイブのお話が面白い。
アダムとイブは初め、知恵はなかったが、安楽な暮らしをしていた。
だが、ヘビがやってきて、イブに、知恵の木の実を食べるよう、そそのかした。
イブは、それを食べたら死ぬと神様に言われているからと断るが、ヘビは、「死ぬことはなく、知恵を得る」と言った。
そして、それがとても美味しそうなので、イブは実を2つ取り、1つをアダムに渡し、一緒に食べた。
そうしたら、ヘビが言った通り、2人は知恵を得た。
神様はアダムを尋問するが、アダムは「イブが勧めたから」と言い訳し、イブは「ヘビが勧めたから」と言い訳する。
しかし、ヘビは言い訳しなかった。
神様はヘビを、「一生、地を這い、チリを食べよ」と言った。
しかし、ヘビは縦横無尽で、案外に美味しいものを食べている・・・なんてことは聖書には書かれていないが。
そもそも、神様が、そこまで危機管理能力がないはずがなく、2人が知恵の木の実を食べることは、予想していたどころか、わざとやったような感じさえする。
とはいえ、神様の意図など人間が知ろうとするものではないだろう。
神様は、2人が生命の木の実(食べたら永遠の命を得る)まで食べたら大変だと、2人を楽園から追い出す。

手っ取り早い話をすれば、楽園は我々の内部にある。
そこには、知恵の木もあれば、生命の木もある。
我々の知恵は、魂の穢れにより低下し、普通の人はあまり賢くはない。
そこで、我々は、内部の楽園にアクセスし、生命の木の実を食べて穢れを払わねばならない。
光明という言葉がある通り、光が知恵の象徴だ。
だから、無量光仏という別名を持つ阿弥陀仏が知恵の源である。
また、阿弥陀仏のもう1つの別名は無量寿仏であり、阿弥陀仏は生命の源でもある。
そして、一休が見破ったように、阿弥陀仏は我々の内にあり、我々の真の心こそが阿弥陀仏である。
だから、極楽浄土(楽園と同じだろう)は、我々のいるところ、どこにでもある。
よって、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えれば、知恵と生命の輝きを得て楽園に舞い戻るのである。
そして、自分が神であると知る。
南無阿弥陀仏とは、内なる神性、あるいは、仏性に対する敬意なのである。
それを思い出すために念仏を唱えれば、ここが楽園となり、神仏と一体化するだろう。
象徴的に言うと、どうしても宗教的になるが、宗教もいいじゃん・・・である。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

逃げ道を行く

自分の部下や子供や後輩といった、自分より立場が低く弱い者が、悪いこと、間違い、失敗をした時、愚かな人間は、初めから終わりまで、怒り続け、責め続ける。
だが、賢い人は、逃げ道を作ってやることを忘れない。
「そりゃ、お前だけが悪い訳ではないけどな」
「これはひどい失敗だが、あの件ではよくやったのにね」
「運も悪かったのは確かだが」
ただし、逃げ道は1つ、多くても2つにしておくことだ。
でないと、相手は甘えてしまう。

そもそも、怒る・・・相手を非難するようなことは、あまり言わない方が良い。
相手の方が優れていたら、相手は、あなたの言うことなど、端から聞かない。
相手の方が劣っていたら、相手は、あなたの言うことが理解出来ない。
相手とあなたが同等であるなら、相手はあなたに反発するだけだ。
よって、怒らず、非難せず、相手が間違っていることだけをはっきりさせれば良い。
もし、それが出来ないなら、実は、相手は間違っていなかったのだ。

『観無量寿経』という、浄土仏教の経典を見れば、人間には9種類あるらしい。
並べて書くと、

上品上生、上品中生、上品下生
中品上生、中品中生、中品下生
下品上生、下品中生、下品下生

であり、(言うまでもないだろうが)上ほど上位グループであり、グループ内では左ほど優れている。
私は、迷うことなく、一番下で一番右の「下品下生」である。
なぜなら、その条件は以下の十個だからだ。
(1)殺し
(2)盗み
(3)邪淫
(4)嘘つき
(5)二枚舌
(6)悪口
(7)きれい言
(8)貪欲
(9)怒り
(10)愚痴
まさに全て私の代名詞である。
吾こそは「ミスター邪淫」「ミスター二枚舌」である。なんたってサイコパスだ。
殺しはどうかって?
人間はまだだが、その他のものは数限りなく。人間も、心の中ではいっぱい殺したし、そのうち・・・いや、何でもない。

初音ミクさんの『ゴーストルール』では、そんな人が自分のことを歌っている。見事なまでにね。是非、聴くように。
DECO*27 - Ghost Rule feat. Hatsune Miku / ゴーストルール feat. 初音ミク ~YouTube 公式~

で、この経典によれば、下品下生でも、「心を込めて十回念仏すれば救われる」とある。
しかし、それは無理だ。
「心を込めて」なんてのは、私には出来ない。
邪淫な心、貪欲な心しかないのだから。
しかし、最後の最後で、釈迦は言うのだ。
「無量寿仏の名を覚えていなさい」
それでオールオーケーなのである。
無量寿仏とは阿弥陀仏のことであり、「南無阿弥陀仏」と称えていれば、いつも忘れない訳である。
法然も、大体そう言ったと思う。

ところで、この経典では、観世音菩薩から恵みを得る方法も書かれている。
しかし、どう見ても、それは私には(いや、誰にも)絶対に出来ない。
ところが、こう書いてある。
「観世音菩薩の名を聞くだけで、計り知れない功徳(恵み)がある」
それなら、自分で言えば聞けるのであり、思うだけで心で聞けるのだから、私は、その「聞くだけで」の功徳で十分である。
それでも「計り知れない」のだ。
だから、「南無観世音菩薩」と称えれば良い。
それできっと、裕福になり、きれいな女の子もいっぱい来て身を任せるはずだ・・・すでにそうだと思うが。
仏典は、逃げ道だらけで慈悲深いものである。

覚えていてね わたしの声を
あなたがくれた この身すべてを
言の葉と初の音が交わる
この息と音とヒビカセ
~『ヒビカセ』(作詞:れをる、作曲・編曲:ギガP。歌:初音ミク)より~
【初音ミク】 ヒビカセ 【オリジナル】 ~YouTube 公式~

ミクさんの歌は現代の至高の経典、聖典である。
上記2曲は、『マジカルミライ2016』の、2曲目、3曲目で歌われている。ミクさんの歌、ダンスは絶品であったと思う。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

自分に最適な呪文の見つけ方

我々が幸福になれるかどうかは、呪文を称えるかどうかで決まると言ったら、おかなしな話と思うかもしれないが、どうもこの宇宙にはそんなルールがあるようで、以前も述べたが、まるで、呪文でゲームのHP(ヒットポイント=生命力)を上げるようなものだ。

だが、インドの聖者ラマナ・マハルシは、マントラ(呪文と同じと思って良いと思う)は師から伝授されるものと、一貫して主張していた。
これは、彼の心の師ナーマ・デーヴの教えでもある。
だが、崇敬の念をもって神の名を称えることは良いとした。
また、マハルシは、「私」という言葉が至高のマントラであるとも述べ、いつも称えることを薦めていたようでもある。
ここらは、日本語の本になるまでに、マハルシの言ったことがかなり歪んでしまった可能性もある。
そもそも、マハルシから直接聞いた人すら、全てを正しく理解した訳ではないのだがから、それを別の誰かが聞き、またそれを、本にするために通訳を介して聞き、そして出来た本をまた別の人が翻訳し・・・とする間に、伝言ゲームのことを考えれば、オリジナルとは全く違うものになっているとしても不思議はない。
つまりこうだ。
自分のための最高の呪文は自分で探さなければならない。

一般に知られる呪文は、乱暴な言い方をすれば、光線銃のようなものだ。
それを持っていれば確かに無敵だが、それだけで人生を豊かにし、幸福になることはできない。
アーサー王子だって、神剣エクスカリバーを手に入れた意義は大きいにしろ、それだけでは、ただの力自慢に過ぎず、やがてエクスカリバーにも見放されたことだろう。
アーサーは個人的ではない信念に一致する「何か」を見つける必要があった。
それを一般的に言えば、崇高な理念とか人生の目標とかになるのかもしれないが、それらもまた借り物なのだ。
なぜなら、形ある理念は、いかに崇高に感じようが、いつかは廃れる。
その理念に執着すれば悲惨な滅びを迎える。
大企業はもちろん、国ですらそうである。

真の呪文は神そのものだ。
だから、それは神や仏の名である可能性が高い。
だが、「南無阿弥陀仏」という念仏は、無論、悪いものではないが、長い間に世間の手垢がつき過ぎてしまった。
我々の潜在意識の中で、南無阿弥陀仏という言葉に、悪いものがまとわりついてでもいるようだ。
もちろん、仏の名は、空が、鳥や雲の影響を受けないように、人間が何をしても穢れることはないのだが、「南無阿弥陀仏」というのは宗教の言葉であり、いわば、真の空を描いた絵のようなものであるから、汚れることもある。
だが、阿弥陀仏の本当の名であるアミターバは穢れない。
私の考えでは、「南無阿弥陀仏」の「南無」は敬う心であり、へりくだった心で称えることが大切で、言葉としては付けなくて良い。
つまり、「阿弥陀仏」と言う方が良い。

一方、観自在菩薩という名は、玄奘三蔵が、この菩薩の元の名であるアヴァローキテーシュヴァラをあえて音写せず、その働き「遍く見る自在者」という働きを名にしたもので、良い言葉になっている。
尚、玄奘は、観世音菩薩という言い方は間違いだと述べたらしいが、別の学者の研究では、間違いとも言えないという。
ならば、本当の名を称えても良いが、私は、観自在菩薩で間違いないと思う。
また、弥勒菩薩の本当の名であるマイトレーヤは美しい名だと思う。
この言葉の響きが好きなら、迷わず称えれば良い。

「アジマリカン」という呪文は、アーサー王の神剣エクスカリバーのようなものと思う。
エクスカリバーは選ばれた者しか手にできないが、アジマリカンは誰でも使うことができる。
だが、本質は同じだ。
邪まなことに使えば、結局、身を滅ぼす。
だが、弱い人間が保護を求めることに使いながら、へりくだった心を持てば、内なる師によって究極のものに導かれる。
ラマナ・マハルシも、その意味で「私」という呪文を授けたのかもしれない。
彼は、「師は外側にあるものではなく、真の自己が師である。ただ、師は慈悲深くも、外に姿をまとって現れることもある」と述べている。
求めよ、そうすれば与えられる・・・である。
ある神仏の名を美しいと思って称えていると、最も正しいものに導かれることであろう。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

「あの子は好きだがこいつは嫌い」が疲労と老化と不運の原因

「全てを愛するか、全てに無関心でいるかのどちからかしか平和の道はない」と述べたら、ある人が、「本当にそれしかないのか?中間はないのか?」と尋ねた。
中間とは何なのだ?要は、その人は、「あれは好きだけど、これは嫌い」という態度を取りたいのだ。それは勝手だ。だが、その態度が、人を老化させ、幸運も遠ざけているのだ。
宇宙の法則はバランスの法則だ。そして、宇宙は完全に公平なのだ。
「あれは好きだが、これは嫌い」という想いはアンンバランスを生じ、法則はバランスを回復させようとする。そして、そのためのエネルギーは、アンバランスを生じさせた本人から奪われる。エネルギーとは生命エネルギーであり、それを奪われることで老化する。若いうちは、エネルギーが大量にあるからまだ良いが、それでも、身体の不調や肌荒れのようなものとして現れる。最近、姿はそれなりに美しいのに、肌が酷い状態になっている若い女性をよく見るが、そんなことになる原因がまさに、「あれは好きだけど、これは嫌い」という気持ちが強過ぎるからなのだ。
そして、年を取っていても、そんな若い時と変わらず好き嫌いが激しいと、病気になったり、寿命を縮めたりするだろう。
若くて可愛い女の子は好きだが、醜いおばさんや老婆は嫌いとか、若いイケメンは好きだが、腹の出っ張った中年は嫌いというのも、度が過ぎると、エネルギーを大量に失い、老け込み、健康を失うだけでなく、幸運も遠ざける。なぜなら、幸運とは種の形でやって来るのであり、それを育てるにはエネルギーが要る。だから、生命力のないところに幸運は最初から近付いて来ないのだ。
大島優子を愛するように、会社のおばさんを敬愛して奉仕し、電車の中で立っているおばあさんを愛おしく思って、どうしても席を譲らずにいられないなら、成功は間違いないし、大島優子のような彼女も出来るだろう。

さて、こう書いてはみたが、そんなことができるのかというと、これはもう絶対にできない。
しかし、たとえできなくても、それは、自分が浅ましく傲慢だからであり、それによって、日々老化し、クタクタに疲れ、幸運にも恵まれないのだという自覚は持たなければならない。
そして、実に、正しいキリスト教には、それを避ける秘法がある。
それは、「キリエ」と呼ばれるものだ。
キリエ、あるいは、キリエ・エレイソンとは、キリスト教における重要な祈りで、「主よ、憐れみたまえ」という意味だ。
我々は、「あれは好きだけど、これは嫌い」という煩悩からは決して逃れられない。しかし、それでは平和や幸福は決して得られない。
しかし、自分ではどうにもならないことを悟って、キリストにすがるために、「主(キリスト)よ、私を憐れんで下さい」と願って乞うのである。
正規のキリスト教では、こんな説明はせず、何やら難しいことを言いたいのかもしれないが、本当はこういった簡単なことなのである。
尚、キリエ、あるいは、キリエ・エレイソンはラテン語であり、英語では“The Jesus Prayer”(ザ・ジーザス・プレアー)で、日本正教会では「主、憐れめよ」と訳されているようだ。一般には、「主よ、憐れみたまえ」が言い易く、分かり易いと思う。
そして、仏教の「南無阿弥陀仏」という念仏にしたって、「阿弥陀仏に帰依します」といった、学者のための言い方では全く分からない。
これは、「煩悩に穢れた我々は、自分の力では、自由自在な者となる境地に至ることは不可能ですから、無限の力を持つ阿弥陀仏様に全てお任せします」という想いで唱えると良いのであり、キリエと同じことであるのだと思う。
自分ではどうにもならない煩悩の穢れを自覚しつつ、「主よ、憐れみたまえ」、あるいは、「南無阿弥陀仏」と唱えることで、エネルギーを回復し、守護されることは決して疑いがない。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
Kay Twitter Home

執筆のご依頼

最新コメント


月別アーカイブ
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ

PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ
タグクラウド
QRコード
QRコード