ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

阿弥陀

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

真のルールブック

我々は、人のルールと宇宙のルールの制約を受けている。
だが、人のルールは複雑化する一方だ。
学校や会社には、おかしなルールが沢山あって明文化されているだろう。
教育委員会は、教育委員会が決めたルールを、全ての学校の教員達、生徒達に絶対に守らせようとするが、学校は学校で独自に決めたルールを教員や生徒に、何があっても(地球が爆発しても?)守らせようとする。
また、学校の中にも、クラスのルール、それぞれの部活のルール、校内委員会のルール・・・等がある。
会社には会社独自のルールがあって、経営者は社員達がそれを絶対に守るよう強制する。
また、買収された会社は、その会社のルールに優先し、親会社のルールを守るよう、親会社に強制されるが、その会社のルール自体にも社員は従わないといけない。
また、会社が守らなければならない会社法とかなんとか法(J-SOX法とか)が沢山あり、経営者から社員まで、それが守られるようにしなければならない。
もはや、ルールを守るのが精一杯でビジネスに励んでいる場合ではないほどだ。

法律、法令、条令がそれぞれどう違うか、私には分からないが、とにかく、その全部を守らないといけないが、もはや、誰も、その一部も知らないし、知っているものでも、条文の内容は日本語で書かれているに関わらず、日本人が読んでも意味不明だ。そもそも、法律の専門家が、1つの条文に対し、全く違った見解を持っていることは全然珍しくないのだから、弁護士や法学の研究者でない我々に分からないのは当たり前だ。それをどう守れというのか・・・?
しかも、馬鹿馬鹿しい法律、法令、条令が、どんどん増え続けているのである。

アメリカの作家、カート・ヴォネガットは言っていたものだ。
「私が知っている地球上のルールは1つだけだ。人に優しくしろ」
イエスは、十のルール、すなわち、モーセの十戒を守れと言ったが、その中で一番重要なのは、「神を愛しなさい」で、2番が「隣人を愛しなさい」だと述べた。また、十戒以外は、当たり前にやれば良いという態度だったと思う。

宇宙のルールというのは、「自然にやれ」であり、覚えずとも、考えずとも、生命の中に組み込まれているので、「自然に」分かることである。
それを人語に翻訳すれば、「神を愛しなさい」になり、これは自然や生命を愛し、敬いなさいということで、これが真の人のルールだ。
さらにそれを、子供にも分かる万民向けに言えば、「人に優しく」「隣人を愛しなさい」になるのだろう。

「南無阿弥陀仏」という念仏は、宇宙のルールに従うための人のルールを表したものだ。
今どき、「西方極楽浄土に阿弥陀如来という仏様がいて・・・」というのを強調するのは馬鹿である。
阿弥陀とは、インドの言葉でアミターバ、あるいは、アミターユスで、それを、音だけ真似たのが阿弥陀だ。
アミターバとは、無限の光を持つ者、アミターユスとは、無限の寿命を持つ者で、つまり、宇宙全体に普遍的に存在する、無限の叡智と力と考えて良いと思う。
すなわち、宇宙のルールを支配する至高の存在を象徴的に形や名前で表したのが阿弥陀如来なのであると言って良いだろう。
「南無阿弥陀仏」とは、「至高の存在に全てまかせる」という意味で、そうであれば、宇宙のルールにも、真の人のルールにも従うようになるのである。
こう考えれば、宗教的な意味ではなく、人は、念仏だけで生きていけるのである。
私が持っているルールブックは『歎異抄』だけである。









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阿弥陀如来の実在

阿弥陀如来というのは、仏教の仏様で、無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経という経典(浄土三部経)の中で、釈迦は、「私も阿弥陀如来が最高の仏だと言うし、全ての仏がそう言っている」と述べている。
ところで、ここが重要なのであるが、阿弥陀如来は実際に存在する。もちろん、大仏像に見られる姿ではないかもしれないし、阿弥陀如来の国土である極楽浄土も、絵に描かれたようなものではないかもしれない。それらは、人々が、イメージを持ちやすくするために仮に制作したものと言えるだろう。しかし、別に、それらが、本当の姿だと思ってもらっても差し支えないと思う。なぜなら、人間は、頭で認識しようとする限り、所詮、自分の持つ観念でしか理解できないのであるから、あるレベルを超えたものは、人間の知性では本当には理解できない。ならば、とりあえず、自分の納得できる形で捉えれば良い。そもそも、人間の知性で理解できるものなど、極めて僅かなことだ。

世界的な電波工学の権威だった関英男博士は、神様は宇宙の彼方にある巨大コンピューターであり、その構造を描写してみせたが、そういった理解をしたい人には良いものだと思う。しかし、やはり人間の知性の範囲での理解であるのだから、制約は大きい。
だから、矛盾点があるのは当たり前であるのに、その矛盾点を突いて批判する者というのは、人間の知性の限界を知らないのだ。自分の知性が何でも理解できると思っている傲慢な馬鹿であると言える。

ごく普通の社会生活においても、「俺に分かるように説明しろ」と言うのは、傲慢で馬鹿な年寄りであることはご存知と思う。そんなことを言うようになったら、年は若くても老人である。
例えば、アインシュタインは、相対性理論を説明するのに、「美女と過ごす1時間は短いが、暑いストーブの上に座っている10分は長い」といったような説明をしたという話がある。賢い人なら、「ああ、俺に理解できるのはこの範囲なんだな」と納得するが、他方では、「それと、重力の増大、空間の歪みがどう関係あるのか、俺に分かるように説明しろ」と言う馬鹿もいるようなものである。

だが、人間が、その小さな知性を超えることができれば、一瞬で全てを理解することができる。阿弥陀如来の実在も分かるようになる。
知性を超えるというのは、必ずしも、学問を積んだ結果ではなく、むしろ、学問を積めば積むほど迷うことが多い。逆に、全く学問がなく、文字も読めない人が、簡単に人間の知性を超えることもある。
岡潔という、日本を代表する数学者は、道元の『正法眼蔵』を、意味が全く分からないならがら、20年も座右の書として読み続けたが、ある日突然、一瞬で、その内容が全て理解できたという。彼が、知性を超えた、ある意味、学問を捨てた瞬間に、宇宙の叡智が彼の中に飛び込んできたのだ。だが、そもそも、意味が全く分からないのに、この書を座右の書にした時点で、頭では分からなかったのだろうが、深奥の心では既に悟っていたのだ。道元もこの『正法眼蔵』で述べていた通り、人は既に悟っているのだ。

古代インドの天才的な僧であった龍樹(りゅうじゅ。ナーガールジュナ)も、阿弥陀如来の実在を述べていたが、彼に優る釈迦も深い瞑想の中で、阿弥陀如来という名が示す巨大な実在を感じていたのだろう。
それは、人々や世界を救うあるもの(人間の卑小な表現では、システムとかエネルギーとでも言うしかない)で、人間が使う言葉で、最も適切なものを探せば、「大生命」とでもいうことになるだろう。
プラトーンが言うように、人が完全という概念を持つことができるのは、人が内部で完全に通じているからであり、それが阿弥陀如来であると言っても良い。
経典によれば、阿弥陀如来は元は人間であったと言われる。しかし、地球の人間であるかどうかは分からないし、1つの比喩であるかもしれない。だが、理屈を超えて無心に感じれば、経典の話は実に自然に魂の中に飛び込んでくる。
そして、阿弥陀如来のことを、いつかは、地球人類も聞くだろうが、その時、人間は、あまりに限定された小さな知性しか持っていないので、何も分からない。だが、人知を超えた大きな存在を認め、それに意識を向けるなら、阿弥陀如来の無限の力は、その者の周囲に満ちるが、それは、無窮の存在である阿弥陀如来にとっては、あまりに容易い。それなのに、人の方でその力を受け入れないのだ。
マーブル教会の牧師で、世界的な精神指導者であったノーマン.V.ピールは、「なぜ神の力を求めないのか?」と言ったが、実際、人が不幸である理由は何もない。
そして、阿弥陀如来の助けを得るには、ただ意識を向ければいいのであり、愚かな地球人類に分かるような方法として、ただ、その名を呼ぶようにと釈迦は教えたのだ。それが、「南無阿弥陀仏」という念仏である。親鸞が言うように、これが地上での、最上最高の誦文(呪文)である。
釈迦は、人間がいかに愚かになっても、このくらいはできると思い、阿弥陀如来の代理でそれを人間に教えたのだ。
念仏を唱えれば、たとえ文字を読めない無学の者であっても、人間の知性を超えてしまうことができる。むしろ、科学などの幻想の観念に凝り固まっていない素朴な人間の方が簡単にそれをすることができる。
それは、ある意味、無限の力の起動スイッチである。使うか使わないかは、それぞれの自由であるのかもしれないし、使う人、使わない人がいるのもまた、元々仕組まれたことかもしれない。だから、使いたくない人には、無理に勧める必要はなく、黙っているべきかもしれない。









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念仏を唱えるようになれば人生勝ったも同じである

念仏を自発的に唱えるようになれば、もう大丈夫であると思う。
それは、喜んで唱えるというものでなくても良い。たとえ嫌々でも、毎日続くようなら、現世も来世も保障されたようなものだと思うのだ。
ただ、人に強制されて唱えるのでは駄目だ。あなたも、他人に薦めるのは良いが、押し付けてはならない。
どうしても、念仏を唱えることができない人はいるが、それはそれで仕方がない。
そんな人は、今生では、念仏を唱える縁がないのかもしれない。

では、どんな人が念仏を唱えるようになるのだろう?
アメリカの光明思想家ヴァーノン・ハワードは、「人生にうんざりした時がチャンスなのだ」と著書に書いていたが、確かにそうだ。
しかし、ではその時、具体的に何をすれば良いのかを、ハワードは明確に述べていない。
ハワードは、自己観察をせよとはよく書いているが、我々凡人に、そんなことが続けられるだろうか?
私にはできなかった。

人生にうんざりする・・・とは、人生は全く思い通りにならず、自分には何の力もないと悟ることである。
また、自分にもうんざりするなら、それも本当は喜ばしいことだ。
自分とは、実際には、うんざりするしかないシロモノだからだ。
欲望、虚栄心、傲慢、自己中心的な考え方・・・我々の心には、そんなものが溢れかえっているが、それを自分の力で消すことは決してできない。
それに気付き、受け入れることができるかどうかが、運命を決めるのだ。

自分の無力と、どうしようもない汚れを本当に悟れば、もう神仏に頼るしかなくなる。
そんな時、「南無阿弥陀仏」と唱えれば、それが、阿弥陀如来に全て任せますという意思表示になる。
すると、阿弥陀如来はその声や思念を必ずキャッチし、決してその者を見捨てることはない。それは、過去の偉大な聖者達が、経典を徹底的に研究した上で、絶対に間違いないことだと保障しているのだから、安心して良いと思う。
その聖者達とは、インドの龍樹(りゅうじゅ。ナーガールジュナ)や、中国の善導といった、人間を超えた驚異的な天才達である。
彼らは、頭脳も恐ろしいほどに優れていたが、それよりも、今日の人間には無い霊覚とも言える大変な直感力があった。真の直感は膨大な理論にはるかに勝るのである。
そして、我が国の法然や親鸞といった、やはり、大変な秀才である上に、長く厳しい修行をした聖賢達も、善導らの経典の解釈書を深く研究し、その通りであることを確信した上で、自信を持って人々に教えを説いたのだ。
法然や親鸞の書いたもの、あるいは、彼らについて正しく書かれたものを見れば、彼らが本当に信頼できる、稀に見る真に徳の高い人物であることが分かるはずだ。
それが分かれば、疑うことは何もないと思う。









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神仏に全部任せてしまう方法

願いや望みを持つことは良いことだ。
たとえば、どこかの大学に入学したいとか、音楽家になりたいとか、良い事業家になって、社員の生活を豊かにしてやりたい等である。
しかし、1億円欲しいとかいった願いは、よほど若い時を除けば良くない。それならば、部長や課長になろうと思う方がまだ感心である。
ところで、願いを持った時、悟りを開いた賢い人の態度は、結果については、神仏に全て任せてしまうことだ。
いかに望んでも、それが叶うかどうかは分からない。自分の力でどうなるものでもない。なぜなら、ものごとが成る要因は、人が考えるよりはるかに複雑で神秘的だからだ。終末は神のみぞ知るである。

だが、悲観するには及ばない。
なぜなら、頭で考えた願いが叶うことが、必ずしもあなたを幸福にしたり、本当の喜びをもたらとは限らず、むしろ、願いが叶うことがあなたを不幸にするかもしれない。いや、心の願いが叶うことの大半は不幸なことなのだ。
アメリカのSFテレビドラマ『宇宙大作戦(スタートレック)』で、バルカン星人のミスター・スポックが、訳あって、女性を巡って決闘をしたことがあった。破れたスポックは、相手の男にこう警告する。
「いかに望んだものであっても、手に入れてしまえばさほどでもなくなる」
脚本家は、人生経験と知恵のある人なのだろう。
しかし、スポックの表現はまだ控え目に過ぎるのだ。
実際は、願いが叶った後は、詐欺にでも遭ったような気になるのだ。
なぜなら、思い描いていた楽しい状況とはほど遠いからである。もし、楽しいとしても、ほんの一瞬だ。
そして、思い描いた時にそれほど楽しかったのなら、わざわざ落胆するために、それを得ようなどと思わない方が良かったのだ。
だが、人間は馬鹿なので、がっかりしない限り、そんなことを学ばないのだ。
だから、それが分かるように、何度かは願いを叶えてみることも必要だし、神仏は、そんな人生のレッスンに手を貸してくれる。

ところが、願いを持っても、なりゆきを神仏に任せ切ってしまえば、決してがっかりさせられることはない。
結果は、おそらく、あなたが心で望んだものとは異なるだろう。
金メダルを望んだが、神は入賞も果たさせてくれないかもしれない。しかし、神仏の思し召しを受け入れるなら、あなたは、真に満足し、心は平安になるのだ。
望みを持ち、結果を完全に神仏に任せる・・・この感覚を得た者が真の勝利者なのだ。

心に何かの望みが起こった時、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え、阿弥陀如来に全て任せてしまうことだ。
限りない慈悲心を持つ阿弥陀如来は、決して悪いようにはなさらないだろう。
昔、因幡の源左(いなばのげんざ)という男がいた。念仏によって悟りを開いた妙好人であるが、全く学のない、一介の農民に過ぎなかった。
その彼が、まだ仏智に目覚める前のことだ。
ある日、彼は草を刈り、4つの束を牛に背負わせたが、可愛がっている牛を気遣い、残りの1束は自分で背負った。
しかし、重くて運べなくなった時、すまないと思いながら、背負っていた1束の草も牛に背負わせたら、牛は全く平気だし、自分はいっぺんに楽になった。
源左は、これが、阿弥陀如来に任せるということだと悟った。
ラマナ・マハルシも言ったものだ。
「全ては神の至高の力が動かす。汽車に乗ってまで、自分の小さな荷物を頭に乗せて苦労する必要があろうか?荷物を降ろして安心しなさい」
我々は、念仏を唱えることで、仏に全て任せてしまえば、嬉しいこと、楽しいことばかりである。そのことを知らずに死んでしまう者がなんと多いことだろう。









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どんな時に現世利益が与えられるのか?

神仏が現世利益をもたらすかと言うと、確実にそうであるということは、おそらく誰でも経験的に分かると思う。
不誠実で自己中心的な者が少しの間良い思いをすることはあっても、それが長続きすることは決してなく、必ず天罰としか言えないような報いを受けている。
逆に、向上心を持って愚直に努力したり、陰日なたの無い行いをする者は、初めのうちこそ、軽んじられたり、損な役回りになって悔しい思いもするが、やがては、それなりに報いられることは、絶対的に間違いがない。
だが、本人は良いと思ってやっていても、残念なことに、その者の了見が狭く、大きな目で見れば、調和を乱し、誰かを苦しめたりしていれば、原因不明の体調の悪化に苦しんだり、事故に遭ったり、不運で怪我をしたり、あるいは、家族や恋人とのトラブルが起こったりするのである。
そのような様子を、静かで公平な目で見るなら、この世に神仏は必ずおり、一切は神仏が動かしているということは、疑いようがないのである。
野球の王貞治さんが駆け出しの頃、彼を指導した人が、「これほど努力する青年が成功しないなら、この世に神も仏もない」と言ったという話を見たことがあるが、王さんほどではなくても、愚直な努力が報われなかったという話など1つもない。

とはいえ、王さんのように、目標に向かって真摯に努力ができる者もいれば、そうではない者もいる。
また、誰しも、卑しい意地悪な人間になりたい訳ではないはずだが、どうしても、弱い者いじめをしたり、不誠実なことをしてしまう性向を持った者もいる。
いや、こういった人達の方が実際ははるかに多いに違いない。
そして、こんな人達は、自分の力でも、あるいは、いかなる素晴らしい教育者の手によっても、決して性根が治ったり、改心して良い人になったり、猛省して努力家になったりなどしない。
誰にもそんな力はない。そんなことができるのは神仏だけである。

洗礼のヨハネは、「悔い改めよ」と言ったが、それを聞いて悔い改めた人は、おそらく、1人もいなかったのだ。
それで、イエスは偉大な奇跡を行って見せたが、彼の高弟である12使徒達さえ、心を変えることができず、イエスは嘆いたのだ。
日蓮もまた、悔い改めを説き、法華経に従って生きることを教えたが、誰もそんなことはできなかったのは明らかなように思う。
だが、阿弥陀如来だけは、世の大部分の人がそうであることを見抜き、ただ自分の名を呼べば救ってやろうと約束した。そして、人類を救えるのは阿弥陀の教えだけだという釈迦の言葉を、自らを省みても、「それしかない」と否応なく受け入れ、法然や親鸞は、ただ、阿弥陀仏の名を呼ぶ、「南無阿弥陀仏」の念仏を行うことだけを教えたのである。

最初に述べた、必ず天罰を受けるような行いをしていたとしても、念仏を唱えれば、天罰を免れ、恵みを得られるのだが、ほとんどの人は念仏を唱えようとは思わない。
ただ、悪辣な行いをせずにいられない自分の穢れた心を素直に見ることができれば、もう念仏以外に救われる道はないということがはっきり分かる。

『レイアース』という、ちょっと名作のアニメ作品がある。
異世界の魔法使い達が地球を侵略に来るのだが、地球上には、3人の女子中学生達だけが残され、彼女達は、軍隊でも太刀打ちできないような相手を敵に回して戦うことになってしまう。
この3人の少女達は、自分は良い人間でありたいと思っていた。それで、たとえ苦しい思いをしても、そうであるよう考え、行動してきた。
そして、戦いが始まっても、彼女達は、自分の正義を貫こうとする。しかし、そんな彼女達に、地球の魔神達は手を貸さない。
しかし、少女達が、自分の想う善や正義は、自己中心的で、自分を慰めるだけのものでしかなかったことに気付き、自分の心を素直に見つめ、その心を魔神達に晒した時に、魔神達は少女達と一体化し、自分達の全てを少女達に与え切る。
念仏も全く同じと思う。虚栄心を捨て、自分が浅ましい凡夫であると理解し、自分には他に何もできないことを悟って、阿弥陀如来に一切を任せた時に、既に救われていることを知るのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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