ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

閑吟集

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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狂気なき正義は無能。芸術は狂気だ。

あなたが、うまくいかなかったのは、狂気がなかったからかもしれない。
成功して金持ちになれなかったのも、モテなかったのも、優勝出来なかったのも、絵が上手くならなかったのも、結婚出来なかったのも、プログラミングが出来るようになれなかったのも、漫画家になれなかったのも、注文を取れなかったのも、彼を落とせなかったのも・・・狂気がなかったからに違いないのだ。
室町時代の小歌の歌謡集として有名な『閑吟集(かんぎんしゅう)』の中にある1つの歌の、このフレーズを一度は聞いたことがあると思う。
「何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ」
(何になろうか、まじめくさって、人間の一生なんて夢でしかない。ひたすら狂え。)
昔のNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』で、伊達政宗の父、伊達輝宗は、19歳の政宗に言う。
「わしには天下は取れなかったが、お前ならと思う。お前には、恐ろしさ、狂おしさがある」
つまり、現代的に言えば、政宗には、狂気の極みがある・・・つまり、徹底的に狂っている、ぶっ飛んでいるといった感じだ。
まじめくさった…保身に気を使う人間に大きなことは出来ない。

まあ、上に書いたようなことは、分からないわけではないと思うのではないだろうか?
だが、「では、どうやれば狂えるか」に関し、「狂い方が書かれた教科書はどこですか?」と言う、どうしようもない者が多いのだ。
教科書を否定してこそ狂いなのに(笑)。

『涼宮ハルヒの憂鬱』(谷川流著)で、高校1年生になった美少女、涼宮ハルヒが、入学式の後の、クラスでの自己紹介で言った言葉がよく知られている。
「ただの人間には興味がありません。この中に、宇宙人、未来人、超能力者、異世界人がいたら、私のところに来なさい」
なぜ、覚えられているかというと、ハルヒがぶっ飛んでいる…つまり、狂気を持っているからだ。
狂気を持った者は魅力的で、本当は皆、こんなふうに狂いたいのだ。だが、まじめくさって、面白くない人生を送ってしまうのである。

言うまでもなく、狂気にはリスクがある。
下手な狂気の果ては刑務所か精神病院と相場が決まっている。まあ、昔のように、いきなり消されることは少ないが(笑)。
小さく狂っただけで、つまはじき者、仲間外れ、弾圧の標的だ。
それを恐れて、皆、まじめくさるのだ。
確かに、狂気に飲まれてはならない。
溢れる狂気を持つなら、自分を捨て、命を捨てないといけない。でなければ、大物か小物かの違いはあるが、本質的にはヒトラーやスターリンだ。彼らは大きな狂気を持っていたが、その狂気に飲まれてしまった。
自分を握ったまま、命を握ったまま、大きな狂気を持ったので、狂気に負け、狂気に食われてしまったのだ。
自分を握っている、命を握っているとは、欲望に憑りつかれているということだ。
政木和三さんは私に、「人を超えたければ、欲望をぽーんと捨てなさい」と言った。
より丁寧に言うなら、「欲望をぽーんと捨てて狂いなさい」だ。
欲望を捨てても、狂いがなければ幽霊だ。
狂いがあっても、欲望を握っていたら独裁者にしかなれない。
パスカルの『パンセ』の中の有名な言葉、
「カなき正義は無能であり、正義なき力は圧制である」
の「力」は「狂気」と言い換えた方が現実的である。すなわち、
「狂気なき正義は無能であり、正義なき狂気は圧制である」
とした方が、真理が明瞭になる。
力とは狂気である。
スティーヴンソンの傑作『ジキル博士とハイド氏』は、世間で言われるような二重人格の悲劇ではない。
ハイド氏が正義なき狂気、ジキル博士は狂気なき正義だ。両方、良くない・・・そんな理解がないと、何のためにスティーヴンソンがこれを書いたのか分からない。

そして、正義とは、自分を捨てること、命を捨てることであることを、口だけ達者な文化人には分からない。

芸術は爆発?
岡本太郎の、なんというセンスのなさ。
芸術とは狂気だ。
命を捨てて狂うことが芸術だ。
岡本太郎を立てるなら、命を捨てて狂うことが爆発だが・・・やっぱり、ものごとはちゃんと分かるように言わないといけない。
まあ、コロンブスの卵と同じで、後から言うのは易しいが(笑)。

『臨済録』の、「仏に逢うては仏を斬る」がぶっ飛んでいて、とても良い。こんな感じだ。
禅も、その根本の仏教も、本当は、よく狂っていて、ぶっ飛んでいるのである。
でなければ、人を殺させないし、ましてや、生かすことは出来ない・・・一休の真似だが(笑)。
狂いの師匠に弟子入りしようなんてやつは駄目だ。
自分が狂いの開祖たらねばならない。








楽しく格好良く狂うために必要なこと

今朝もご紹介したが、閑吟集(1518)という歌謡集に、こんな有名な歌がある。
「なにせうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ」
(真面目くさってどうするんだ。この世はただの夢だ。ただ狂えば良い」
世捨て人が作った刹那的な歌謡集らしいが、世捨て人って、それほど特殊ではないし、皆さんの中にも沢山いるだろう。
私もある意味、世捨て人だ(笑)。

そこで、世捨て人としては、狂わねばならないのだが、これが案外、難しいかもしれない。
皆、真面目だからね。
なかなかちゃんと狂えないのだ。

そこで、こんな話を思い出した。
私の昔の知り合いのIT企業の社長の話だ。
ある時、久々に一緒に夕食を食べた時、彼が、こんな話をした。
彼が住んでいたマンションの隣の部屋に、バリバリのヤクザさんが越してきたらしい。
その社長さんは、「エラいことになった」と思ったが、とりあえず、なるたけ顔を合わせないよう注意していたが、ある時、お誘いが来てしまった(笑)。
「うちに飲みに来い」って。
断る訳にもいかず、恐々としながらお邪魔したようだ。
ところが、このヤクザさんが、メチャいい人だった!
その社長さんを礼儀正しくもてなしながら、明るく、銀行強盗をやった時の話などをしてくれたらしい(笑)。
延々と続く悪いことの自慢話。しかし、そこには、実話にしかない迫力、リアリティがあった。
それを聞いていた社長さんは、羨ましくなったそうだ。
つまり、「自分には、このように人様に自慢出来る話など1つもない」と再認識した訳である。
もちろん、その社長さんだって、法を犯し、人様にひどい迷惑をかけたことを称賛する気はない。
しかし、ずっと善人のまま、人目を気にして生きてきた、このカタブツの社長さんには、何か感じるものがあったのだろう。
ビートたけしさんの本などを見れば、彼が若い頃、いかにゴンタクレで、いろいろやらかしたかが書かれてあり、その中には、良識に反することも少なくない。
けれども、今の、ただ、贅沢する金や虚栄心のために目立つことをしたがるYouTuberらとは全然違うところがある。

格好良く狂うためには、まず、ハングリーでなくてはならない。
つまり、何も持たないところに身を落とし、なりふり構っていられない状態になることだ。
そして、ただ1つの何かをがむしゃらに求めることだ。
『キレキャリオン』(ポリスピカデリー feat.初音ミク)のように、
「二つ目を捨てろ 予想外になれ」
であることだ。
予想出来るようなことなんか、しちゃ駄目なのだ。ネコに噛みつくネズミでないといけない。

コリン・ウィルソンが『至高体験』の中で書いていたが、「天才とは所詮、内なる衝動」だ。
そして、内なる衝動を起こすためには、ハングリーでなくてはならない。
一番良くないのが、好きな訳でもないことで満たされることだ。
貧しかった時代は、そこいらに、ハングリーで不良な若者が沢山いて、彼らはイケていた。
ぬるま湯男子は、どうしたって駄目なんじゃないかなあ。いや、女子も。













当ブログ著者、KayのAI書。
特に、初めて実践的AIに挑む人や、機械学習・ディープラーニングに取り組んだが挫折した人の役に立てるように書きました。
意味が分からない専門用語や、専門家特有の冗長で回りくどい説明で混乱させるよりは、正確でないと批判されることを恐れず、シンプルで普通の言葉で分かるように書きました。
誰でも分かる足し算や掛け算をAIに教えることで、AI開発ツールの使い方をマスターし、「モンティ・ホール問題」など、興味深く感じるテーマで、楽しく、実用AIを作れるようにしたつもりです。

世界は巧妙な劇だと見破った小学生

室町時代の1518年に作られたらしい歌謡集である『閑吟集』の中の歌の、

何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ

という一節をご存知の方は多いと思う。
意味は、
「真面目くさってどうするんだ。どうせ一生は夢なのだ。ただ狂え」
といったものだが、作者がどこまで本気でそう思っていたのかは分からない。

だが、この世が夢幻であると、直接に言った人や、それを匂わせることを言った人は、ほとんど無数に居て、その中には、優秀な人、尊敬される人、業績のある人、多くの共感を勝ち得た人(早い話が人気者)も沢山いる。
古代インド哲学であれば、ひょっとしたら、世界が夢とか幻であるというのがスタンダードかもしれない。

ところで、世界が夢であっても、それは個人の夢ではなく、沢山の人が一緒の夢の中にいるという考え方もある。
それは、劇に喩えられることがある。
チームで劇をしているのだが、あまりに熱心に演じるあまり、自分達が劇をやっているということを忘れてしまい、それが本当の自分の人生だと思い込んでしまうというものだ。
無論、我々が知っているような劇場での劇であれば、あまりそんなことは起こりそうにないが、高度なテクノロジーを駆使し、あまりに現実そっくりなセットの中で劇を行えば、そんなこともあり得るかもしれない。
今の劇場では難しいと言ったが、「本当に泣く演技」というのは、劇場でもテレビドラマでもあるらしいし、私が見た文楽の中で、役者が涙混じりにむせび泣く声でセリフを言ったのはまさに迫真の演技であったが、あの役者は、登場人物になりきってしまっていたのかもしれない。

私が小学4年生の時、あまり楽しくないお稽古事からの帰り、不意に、「世界は劇なんだなあ」というアイデアが浮かんだ・・・というより、見破ったと言った方が良いかもしれない。
これは、想像力が貧困だったからと思うが、世界は沼のようなもので、その表面に浮かぶ気泡が一人一人の人間で、その気泡の主が夢を見ているというところまで考えを進めた。
すると、この世界が嘘っぽく思えてくる。
そして、こうも思うのだ。
自分は、この人生をリアルだと感じているが、実は、他の人は、私に、そう信じさせるために演技をして騙しているのではないかと。
他の人は、一皮むけば、宇宙人か妖怪か何かではないかと。
まあ、そんなお話もあるのだと知ったのは後のことであるが、ひょっとしたら、そのようなお話を聞いたことがあったのを、自分では忘れていると思っていただけかもしれない。
ところが、この世界が劇であると分かると、いろいろ無茶をするようになった(笑)。
学校帰り、知らない道をどんどん進んでいくが、「自分が知っているあの道に出る」と思えば、全くその通りになった。
さらに、来たこともない道を歩きながら、あの子・・・つまり、クラスの一番の美少女に出会うと思うと、やっぱり彼女が向こうからやってきて、明るく挨拶してくれた。
どうせなら、「君、ちょっと静かなところに行こうじゃないか」とでも言えば良かったのだが、まあ、そこらは小学生らしい節度があったのだろう(?)。
天体望遠鏡が欲しいと思うと、それまでは知らなかった従兄とかいう人が、立派な反射式天体望遠鏡をくれたし、それで土星を見たいと思うと、天文の知識は全くなかったが、夜空の星を見て「あれが土星」と決めて天体望遠鏡で見たら、やはり環っかがあって、土星であった。
ただ、無茶をするとしても控え目であった。
あまり変なことをすると、思わぬ反動が来るという恐れもあったからで、見かけ上は私も、普通の人らしくしていた。
12歳の時には、時間跳躍のやり方が分かったが、どうもヤバいという気がしたら、やり方が分からなくなった。
UFOも呼ばなかった。どうも、面倒なことになりそうだったからだ。
つくづく、モメ事が嫌いらしい(笑)。

こんな話がある。
ある人が猫を飼っていて、とても可愛がっていたが死んでしまい、その人は大変に悲しんだ。
ところが、しばらくしたら、間違いなく、その猫が歩いているのを見かけ、追いかけたが見失った。
その世、その人は、夢で、あの猫が、「はい、ペット役ご苦労様、いい演技だったよ」と言われているのを見た。
猫との生活を思い出すと、なるほど合点が行くのだった。











当ブログオーナー、KayのAI書。
AI、機械学習、ディープラーニングの本と言いましても、格好をつけた小難しいことは言いません。
普通の言葉で、普通に分かるテーマでAIを語りますが、実際に自分でAIを作れるようになるための実践書です。
ほぼ全ての問題の、シミュレーションとデータ作成が出来るExcelマクロを無料ダウンロード出来ます。
本に書いてあるNNC(本書で採用したソニーの無料のWindows用高機能AIアプリ)のモデルや設定を変えて(簡単に出来ます)、いろいろ遊んでみて下さい。
また、「AIには、こんなことも出来ないのか」「AIは人間に出来ないこんなことが出来てしまうのか」といったことに驚いて下さい。

9割いい加減に、だが、1割は生真面目に

私は、アニメは、萌えキャラが登場するものしか見ない。
いや、萌えキャラしか見ない。
どういうことかというと、萌えキャラが出ていると、その作品は、作り物っぽくなる・・・もっと言えば、嘘っぽくなる。
アニメは、非現実的でなくてはならない。

ウィリアム・バトラー・イェイツ(ノーベル賞を受賞した、「20世紀最大の詩人」と言われるアイルランドの詩人・作家)は、
「良い役者は自分が泣いたりしない。ハムレットもリア王も陽気だ」
と詩作の中で言っている。
つまり、シェイクスピアの作品なんて、全部、浮世離れしているから良いのである。
リア王のお話も、お伽噺のようなもので、幕が引けば、リア王も笑顔を振りまき、可愛い末娘役の子に萌えているかもしれない。
『燃えよドラゴン』でも、ブルース・リー演じる武道家リーは、
「良い戦いとは、少人数で演じる劇に似ている」
と言っていたのが面白い。
つまり、どこか醒めた、どこか傍観者的な態度が必要なのであると思う。

イーロン・マスクも、ニック・ボストロムも、この世界はシミュレーテッド・リアリティ・・・超高性能コンピューターが作り出す仮想世界・・・早い話が、作り物であると断言している。
『投影された宇宙』では、著者マイケル・タルボットは、主に量子物理学の立場から、この世界はやはり実体ではない、見せかけのものであると説く。
古代インド哲学では、この宇宙が幻影であるというのは、よく知られている。
室町時代の歌謡集である『閑吟集』の有名な唄、
「何しようぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂え」
(そんなに真面目くさってどうする。人生は夢だ。ただ狂え)
の通りと言って良いだろう。

ただ、『天使のささやき』の中で、植島啓司氏が、良い心構えを語っていたのを覚えている。
つまり、「9割いい加減に、しかし、1割は生真面目に」だ。
悲劇の王を演じるリア王も、9割陽気だが、1割は真面目にやっているし、リーは、9割お遊戯でも、1割は真面目に戦っている。
私の好きな言葉、「神を信頼しろ。だがラクダはつないでおけ」も同じ意味だ。
今朝も書いたが、「安心しろ。だが控え目に」「安心しろ、だが欲張るな」である。
そして、念仏を唱えるのが一番である。









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オタクよりキチガイでありたい

オタクという言葉は、肯定的な意味に使われることも多くなったが、やっぱりどこか、ドンヨリしてキモい感じがする。
そもそも、オタクは「お宅」から来ていて、家に閉じこもった感があり、積極性・・・ましてや、攻撃性に欠ける。
やはり、本当に好きなものに対しては、アグレッシブ(攻撃的、侵略的)でなければならない。

そこで、差別用語として忌み嫌われることがあるが、「キチガイ」の方がよほど良いと思う。
キチガイ・・・そうだ、狂気こそ最高の友ではないだろうか?
テクノロジーオタクでは革命を起こせないが、テクノロジーキチガイなら、何かやらかしそうな気がする。
車オタクは単なる車マニアだが、カーキチならレーサーになれるかもしれない・・・と言うか、少なくとも、その気が感じられるのである。

私は、プログラミングオタク・・・程度ではあったかもしれないが、プログラミングキチガイではなかった。
実際、プログラミングキチガイには敵わない。

何のキチガイにもなれない・・・つまり、狂気を持って生きられない人生に何の意味があるだろう?
『閑吟集』という、昔の庶民の歌集だったものに、「何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ」(真面目くさってどうする? 人生は夢だ、ただ狂え)とあるが、全くその通りではないかね?
「20世紀最大の詩人」W.B.イェイツは、老人になっても安らぎを拒否し、不良老人として狂い続けた。
だから、死の寸前にも凄い詩を書いた。
我々若いモンが、そんなアイルランドの爺さんに負けてはならない。

まあ、狂うにも元気が要る。
元気のない狂人なんて、ただのオタクだ(笑)。
リリカルなのはのように、全力全開で狂わなければならない。
出来るだけ人様に迷惑をかけないように・・・ね(笑)。

夢を叶えるのはキチガイだけなのだ。
夢の途中で、前のめりに果てることこそが最高の夢ではないか?
それは、死ぬまで自分でいたってことだからね。
「あいつはキチガイだ」
そう言われなくて何の人生ぞ。
人生はどうせ夢だし、世界は幻想だ。
狂わずにいられようか?









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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