ニュースを見た人もいると思うが、60歳の男性2人が、新生児だった時に病院で取り違えられて、それぞれ、生みの親の処とは異なる家庭で育ったことが数年前に分かり、病院を訴えて病院の賠償責任を認めさせた。
これを見た私の感想は、まず、60年前の病院が今も存続していることに少し感動したことと、当時の医師、看護師等のほとんどは、もう亡くなっているんだろうなということだった。
だが、もし、私が同じように、本当の親は別にいることが分かったとしても、私に関して言えば、多少驚く程度だと思う。
そして、もし私を他の子と取り違えた人がいたとしても、私はその人の責任を追及しようとは思わない。
それは別に、「育った家庭が素晴らしかったので、この親やきょうだいに会わせてくれてありがたいと思う」とかいったような意味ではない。
単に、それが私の運命だったということだ。
そうであるなら、どうしたって、そうなることは避けられなかったのだ。
取り違えた人は、そんな運命を定めた神の道具だったに過ぎない。

誰だって、一度くらいは、自分は本当は違う家の子かもしれないと、本気か軽い冗談かは別として、考えたことはあると思う。
友達同士や、あるいは、家族の間でも、そんな話の一度や二度はしているはずだ。
私もそうだったし、なんとなく憶えているだけでも何度もある。
そして、私の親戚の60歳を過ぎた男性だが、30歳くらいで結婚する時、「実はお前の本当の親は別にいる」と教えられたという人が実際にいる。何かの事情で、彼が赤ん坊の時に、彼が育った家に引き取られたのだそうだ。彼は、その時は嘆いたようだが、その後は普通に生活している。
そんな話を聞いたのは、私が子供の時のことだが、そのことを印象深く憶えている私が、「私の本当の親が別にいると知っても、さしたることはない」と思っているのだ。

産みの親とは違う親に育てられたという人は沢山いる。
精神分析学者の岸田秀さんの本で読んだが、あるオリンピックメダリストは、やはり、産みの親ではない親に育てられたのだが、「私は有名になって、本当の母親を探すためにメダルを取った」と言い、そして、実際に本当の親を探し当てたらしい。
そんなふうに、積極的に、場合によっては相当な苦労をして、自分の本当の親を見つけたという人も多いと思う。
しかし、本当の親を見つけた後、一緒に住むどころか、極めて親密になるということも少ないものらしい。
「分かればそれで良い」というものなのだそうだ。

私は、「これは自分の子」、「あれは他人の子」という想いが少ないほど良いと思うのだ。
同じように、自分の親も、他の人の親も同じだ。
子供は全てわが子で、年配者は全てわが親だと良いと思う。
江戸時代には、多くの庶民が、長屋という、1つの建物の中で同居していたようだ。
それは、時代劇で見るような、一つ一つの家庭が、今のアパートのようにしっかり区切られたものではなく、ふすま1枚で隔ててあるだけという雰囲気だったらしい。
同じ長屋の子供達は、自然、一緒にいることが多く、きょうだいのようになり、大人達も、どの子供達ともすっかり馴染みになる。
そんな中では、自分の子と他人の子の区別が希薄になるばかりか、どれが自分の本当の子か分からないというのも、別に珍しいことではなかったらしく、もしかしたら、それが普通だったのかもしれない。
そして、食事の時には、そこにいる子供達にご飯を食べさせるのが当たり前だったようだ。
素晴らしいことじゃないか?
きっと食べ物も、余っている家が足りない家に回すということが普通に行われたのだと思うのだ。
そんな家で育った者は、自分の本当の親も、他のおじさんやおばさんも区別なく、皆、自分の父親、自分の母親であると思う。
そして、年長者にとって、年少者は皆、自分の子、弟、妹だ。
結婚してなくたって親になれ、実のきょうだいがなくても、兄にも姉にも、そして、弟や妹になれるのだ。
それは実に良いことに違いない。

少し話を変えるが、実はこれも同じことと思う。
自分が本当は罪を犯していないのに犯罪者にされた冤罪を晴らせぬまま人生を終える人も、世界中にいくらでもいる。
中には、無実でありながら処刑された人だって沢山いるはずだ。
だが、私は、頭で考える限りは、ある犯罪者が全くの他人であっても、その犯罪者が罪を犯した責任は私にもあるのだと感じるのだ。
もし私が、無実の罪で死刑になるとしたら、こう言うと思う。
「信じてもらえなかったようですが、私は被害者を殺していません。本当に殺した人は別にいます。それが、その可能性が無いとは言えませんが、何らかの理由で私の精神が錯乱しているのでない限りは、私が知る事実であります。しかし、私が犯人にされてしまったのは運命であり、私はこの運命を受け入れる。それに、論理的根拠は示せないが、真犯人が罪を犯した責任が私に全くないとは思っていません。これらの理由により、私は、自分がやった訳ではない殺人の罪を、甘んじて受け入れるのです」









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