ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

銀河鉄道の夜

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

どんなふうに死にたいか?

死後の魂だの、死後の世界だのといった話は多いが、自分がどんなふうに死ぬのかを考える人は少ない。
まだ現役選手だった時の新庄剛志さんが、「猫のように1人で死にたい」と言っていたというインタビュー記事を見たことを憶えているが、もしそれが本当なら、それで彼という人間が分かるように思う。
ある有名な空手家が、「畳の上で死ぬのではなく、練習中に崩れるように死にたい」と実際に言っていたテレビ映像を見たが、今考えるとパフォーマンスっぽいと思う。彼は病院のベッドの上で亡くなった。

自分の死に方をイメージすれば自分が分かる。
また、自分の死に方をイメージしている人の人間性が分かる。
まあ、死に方と言うより、どんなふうに死にたいかだろう。
そして、当たり前に考えたって、どんなふうに死にたいかで、運命とか能力とかも決まると思うのである。

そこから考えたら、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』は大変な傑作だと思う。
この作品の中で、どんなふうに死にたいかを語ったのは主人公のジョバンニで、実際の死に様を示したのが、カンパネルラと、12歳の女の子と6歳の男の子の姉弟(しだい)の家庭教師の青年だ。
共に、読めば人生観が変わる・・・と私は思う。

魂は不滅で、死は終わりではないという話があるが、もしそうであるとしても死は重要なものだ。
笹沢佐保さんの時代劇小説『木枯し紋次郎』の中で、紋次郎は「死ぬ時が来れば死ぬだけでござんす」と言っていたと思うが、野垂れ死にが自分の死に方と決めていたようだ。そんな彼には、死が迫っても揺るぎない強さがあった。
彼は、畳の上で死ねる道を選べるチャンスが2度あったが、いずれも、自ら背を向けている。
とはいえ、別に、畳の上で、家族に看取られながら死にたいと思うことは少しも悪いことではない。もしそう思うなら、社会的にも人間的にも立派に生きなければならないし、本当にそう望むなら、そう生きるだろう。

『灼眼のシャナ』(小説・漫画・アニメ)の中で、私がこよなく敬愛する主人公の1人、坂井悠二(高1男子)が、クラスメイトのために残り少ない自分の寿命を削ろうとした時、シャナ(ヒロイン。見た目11~12歳)が「なぜ命を無駄にする?」と言うと、悠二は「無駄にするんじゃない。活かすんだ」と明るい顔で言ったのが印象的だ。
ジョバンニ、カンパネルラ的な死生観と思う。

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(1)銀河鉄道の夜 (280円文庫) (宮沢賢治)
(2)銀河鉄道の夜 ますむらひろし賢治シリーズ
(3)イーハトーヴ交響曲[CD](冨田勲制作。初音ミク主演)
(4)木枯し紋次郎(一)(笹沢佐保)
(5)灼眼のシャナ(高橋 弥七郎著。いとうのいぢイラスト)

ニンフェット
AIアート1640
「ニンフェット」
Kay

深呼吸の凄さが分かる話

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の主人公である少年ジョバンニは、あまり幸福な状態ではなく、辛い日々を送っていたと言って良いだろう。
消息の知れない父。母は病気でほとんど寝ている。経済的に貧しく、ジョバンニは放課後は長時間働かなければならず、唯一の友達であるカンパネルラとも以前のように遊べない。そして、学校ではザネリといういじめっ子の標的にされる。
そのジョバンニが、銀河鉄道でカンパネルラと共に旅をし、いろんな人に会う中で、幸せとは何かについて解答を見出す。
それは、人が幸せになることをすることだった。
人が幸せになることをすると言ったら少し抽象的なので、もっと簡単に言えば、人に親切にすることと言って良いと思う。
そして、それは科学的に正しいことが分かっている。
やや身も蓋もないが、人に親切にすると脳内にオキシトシンという快楽物質が分泌され、快感を感じるのである。幸福感とは言ってしまえば快感だ。オキシトシンは、猫を撫でたり、好きな人と見つめあっても出るが、やはり、それらのことが幸福感を感じさせることが分かる。

だが、ジョバンニの解答が究極の答ではない。
オキシトシンは、人に親切にしたり、猫に触ったりして分泌される、いわば、他者とのつながりで出る脳内快感物質で、これはこれで良いものだが、もっと深い幸福感は「やすらぎ」で、それを感じさせる脳内物質はセロトニンだ。
ただ、今の世の中では、成功、達成、勝利によって感じる快感を求める人が多く、それをもたらす脳内物質はドーパミンだ。なぜ、ドーパミンによって感じる快感を求めるのかというと、それが強烈だからだ。しかし、実際は、成功の快感より、つながりの快感が優り、つながりの快感よりやすらぎの快感が優る。
だから、いくら成功してお金があっても、他者とのつながりややすらぎがなければ、惨めさを感じ不幸なのである。
これを簡単に示すと、

やすらぎ(セロトニン)>つながり(オキシトシン)>成功(ドーパミン)

である。
やすらぎや成功と縁遠いジョバンニが、唯一得られる「つながり」を求めたのは当然である。

ところで、脳内物質の観点から論じられることはあまりないが、引き寄せが起こるのはやすらぎ状態であることは、広く知られていて(引き寄せにおいては)常識的と言って良い。
そして、深呼吸がやすらぎの脳内物質であるセロトニンを分泌させることが分かっているので、深呼吸は最高の快感であると共に、引き寄せ状態に導くのである。
もう、なぜ深呼吸をしないのか理解不能であることが分かると思う。

目覚めの無思考
AIアート498
「目覚めの無思考」
Kay


尚、志賀一雅博士の「よかった・ありがとう呼吸」は、実に、セロトニン、オキシトシン、ドーパミン全てを出す。
「よかった」と思うこと(成功)でドーパミンが、「ありがとう」と思うこと(つながり)でオキシトシン、そして、この呼吸は深呼吸なのでセロトニンが出る。
こんないいもの、学校で教えないなんて、全くひどい話であると思う。
ただ、深呼吸には、オキシトシンといった脳内物質だけではない多くの、そして高度な効果があり、深呼吸のみに集中して行うことにも大きな意味がある。

◆当記事と関連する書籍・メディアのご案内◆
(1)銀河鉄道の夜
(2)精神科医が教える ストレスフリー超大全
(3)神さまの周波数とシンクロする方法(志賀一雅著)
(4)冨田勲イーハトーヴ交響曲(Blu-ray 初音ミク出演)

『銀河鉄道の夜』の残酷な真実

宮沢賢治の代表作『銀河鉄道の夜』の真実を誰も知らない。
だが、それを知って、我々は本気で対応しなければならない。

貧しい家の少年ジョバンニは、ある夜、不意に銀河鉄道の列車に乗る。
すると、ジョバンニが放課後に働く必要があったことから、すっかり会うことがなくなっていた親友のカンパネルラが乗っていた。
2人は、この列車で旅をする。
いろんな人が乗って来た。
変わった人もいたが、皆、概ね、親切な良い人だった。
そして、12歳位の可愛い少女の"かおるこ"とその6歳位の小さな弟、そして、この2人の家庭教師である愛情深い青年が乗って来た。
やがて、列車は目的地に着く。
大きな美しい十字架がある。
皆、降りて行った。
皆、美しい川の前でひざまずき、川の向こうから神々しい人がやってくる。その人はイエス・キリストなのだろうか?
読者は、そこは天国の入り口と信じて疑わなかっただろう。
カンパネルラは、あと少し、ジョバンニと一緒にいたが、やがて、いなくなった。

あの時の風
AIアート77
「あの時の風」
Kay


さあ、あの十字架のあった美しい川のある場所は何だったのだろう?
あそこで、かおるこ達の魂は強制的に回収され、テクノロジーの力で強引に記憶を消され、生まれたばかりの赤ん坊の身体の中に無理矢理押し込められ、何も分からないまま、ゼロから新しい、辛い人生を繰り返させられるのである。
何とも残酷なことだ。
カンパネルラは、ジョバンニと共に列車に残ったが、走り出した列車の中で、カンパネルラは天の川の中の一点を見ていた。
そこには、不気味な真っ暗な穴があった。
ジョバンニは、それを見てぎくっとした。
そして、カンパネルラは消える。
結局、カンパネルラも捕まってしまったのだ。
ジョバンニだけは、まだ生きていたので、身体に戻れたのだ。

これが真実である。
そして、列車の中に、宇宙人が現れ、ジョバンニに対し、お前はこの束縛を脱しなければならないと言い、そのやり方を教えた。
だが、この肝心な部分を読者は誰も覚えていないし、アニメ化する時も省いてしまうのだ。
だが、今はもっと簡単な方法がある。
「私は誰か?」と自分に問い続ければ、自ずと、真の自分を見い出し、カンパネルラやかおるこのような悲惨な運命を免れる。








蜘蛛の巣にかかった蝶を助けるか?

思考停止・・・つまり、考えないことが悪いのではなく、悪い考え方をすること、悪いことを考えることが良くないのである。
たとえば、専制国家では、国民にものを考えさせないから悪いのではなく、専制君主が決めた通りの考え方を国民にさせるから悪いのである。
テレビは、国民の思考を停止させているのではなく、国民が愚かな考え方をするようにさせているのである。

上のように言える理由は簡単で、まず、人間の頭は考えることを止めないからだ。
そして、その思考は、自分で作っているのではなく、強制的、自動的に行われるのである。
頭に、「白人は尊い、黒人は卑しい」と最初に刷り込むと、強制的に、白人が尊く、黒人は卑しいという思考が起こるのである。

性善説と性悪説のこんな論争が有名だ。
溺れている子供がいたら、助けようという気持ちが起こるから、人間の本性は善だというのが性善説だ。
しかし、性悪説では、溺れている子供を助けるのは、何らかの思考が働くからだという。たとえば、助けたら、自分の評判が上がるからとか、逆に、助けなければ、自分の評判が下がるから、あるいは、助けた子供の親から礼をもらおうと考えるからとか、何らかの考えがあって助けるのだという。
実際、日本の話ではないが、溺れている子供を前に、子供の親に対し、「助けてやるから、これだけのお金を払え」と交渉していたという話があり、それは、その国では珍しくないことと見なされるらしい。
納得しない人もいるだろうが、考えない時に、人は正しい行動をする。それは、必ずしも、子供を助けるということではないかもしれない。しかし、助けないということでもない。
いつも助けることが正しいというのではないし、正しくないというのではない。
考えなければ、その時々で正しい行動をするのである。

私は、子供の時、ある問題に悩んだことがあった。
蝶が蜘蛛の巣にかかっているのを助けるかどうかである。
これに対し、2人の年長者が異なることを言った。
1人は、「助けたら、蝶も蜘蛛も生きられる。よって、私は助ける」だった。
私は、これを聞いて感動し、同意した。
しかし、もう1人は、「自然のままにまかせるのが良い。よって、私は助けない」だった。
当然、後者が正しい。
そして、後者は思考しておらず、前者は思考したのだ。考えたから間違えた。
私も、子供の時に、すでにおかしな考え方を、親や学校やテレビに叩き込まれていたのである。

『銀河鉄道の夜』に、蠍(さそり)の後悔の話がある。
イタチに追いかけられた蠍は必死に逃げ、結果、両方、穴に落ちて死んでしまう。
蠍は、黙ってイタチに自分の身体を差し出さなかったことを後悔した。
ジョバンニは、蠍の心が美しいと言うが、それはないだろう。
両方死ぬことになったのは、たまたまだ。
どんな結果になろうが、イタチは追いかけるべきで、蠍は逃げるべきである。
そして、その通りにしたのだから良いのである。
余計なことを考えたのはジョバンニである。蠍が本当に後悔したりなどしない。

溺れている子供がいれば、何も考えなければ、自分の能力で助けられると感じれば勝手に助けるし、男に襲われている女性がいる場合も同様である。

今の日本の学校は、教育者が思考停止しているから、教育の仕方が最悪で、無能な大人が作られてるのだという。
そうではない。教育に関わる者達が悪いことを考えた結果、最悪になり、さらに悪くなっているのである。
アメリカの教育が良いかというと、一時はそう見えたこともあったが、全くそんなことはない。考えに考えた結果、教育格差が広がっただけでなく、良い方に入ったはずの子供も馬鹿になる危険が高くなっているのである。そして、日本の教育のやり方も、案外良い部分もあるのである。

個人に関しても、考えなければうまくいく。
よく取り上げるが、UFO研究家の矢追純一氏は「僕は頭が悪いから考えることを放棄した」と言うが、結果、何もかもうまくいったのである。
本当の意味で頭の良い人間なんていない。
矢追氏は、人間の頭はパソコンみたいなもので、それも、大した性能のパソコンではないと言う。だから、人間は何も出来ないのだから、大きな流れに乗ればうまくいくと言う。
別の言い方をすれば、人間は大したことのないパソコンだから、考えることはスーパーコンピューターに任せれば良い。そして、潜在意識がスーパーコンピューターだ。
もちろん、人間の頭がパソコンで、潜在意識がスーパーコンピューターだというのは単なるたとえで、実際の能力差は、それとは比較にならないほど大きいだろう。

人間は、潜在意識に面倒を見てもらえば、何でもうまくいくのである。
これは、キリスト教で言えば、羊である我々は、羊飼いである神に面倒を見てもらえば良いというのと同じだ。
羊は、ただ、神に、しっかり面倒を見てもらえば良いだけである。
中国出身のアメリカの著名な女性作家で実業家であるチン・ニンチュウは、これに気付いた時、涙が止まらなかったという。

では、どうすれば、神、あるいは、潜在意識に面倒を見てもらえるのか?
荘子は、「是非好悪、思慮分別を捨て、なりゆきにまかせろ」と一貫して述べている。
矢追純一氏やチン・ニンチュウも全く同じであるのだと思う。
考えることを止めることだ。
それには、今を生きることである。
目の前のことに全集中し、過去の後悔や未来の不安を消してしまうことだ。
これが分かるかどうかが、人間としての運命の分かれ道である。
最高の呪文は「今、今、今、・・・」かもしれない。








本当に生きていると言える人間とは

竹宮恵子さんの古い漫画で、あまりよく覚えていないが、こんなお話があった。
一人の少年(青年とも言える年齢)か、この世界で生きることがとても辛く感じていた。
世界は灰色で、人々は誰も生きているように見えなかった。
そんな時、一人の少女を見かけたが、少年は、彼女は生きていると感じ、彼女を追いかける。それは、単に、彼女が好みのタイプだったからとか、そういうのではなく、本当に、彼女に生命の輝きというものを感じたようだった。
まあ、結末は、かなり悲惨だったと思うが(笑)。
ただ、「この世界は生き難い」「誰も生きているように思えない」というのは、十代の若い人にはよくあることだが、これが20代、30代となっても、そのままだと、生涯、ひきこもりのニートになりかねない。
とはいえ、誰もが、いくらかは、そんな感情を持っているのだと思う。
この世界は、どこか偽物っぽく、空虚で、嫌な世界で、夢も希望もなく、こんな世界で生きるのは辛い。ここに居る人々も、血の通った、動いている心臓を持った、人間らしい心を持った存在と感じられない・・・誰でも、多かれ少なかれ、そんな想いを持っているものだろう。

そこで、こんな問題に思い至る。
つまり、自分は本当に生きているのかと。
上の竹宮恵子さんの漫画で言えば、その、おそらくはピュアな心を持った少年に、あなたは生きていると思ってもらえるだろうか?
あの少年は、魔女の少女だけを生きていると感じたのだ。

長谷敏司さんのSF小説・アニメ『BEATLESS』で、15歳の少女、村主オーリガは、「人類はエロとグルメだけで生き延びてきた」みたいなことを言ったが、それはあくまで、友達の遠藤ユカ(14歳)を元気付けるために言っただけで、もちろん、間違いである。
つまり、上の竹宮恵子さんの漫画で言えば、「エロとグルメだけで生きているような人間は本当には生きていない」のである。
そして、現代の人間のほとんどは、エロとグルメだけで生きているので、本当には生きていないのである。
エロとグルメだけで生きている人間は、そもそも人間ではない。

では、どうすれば生きることが出来るのか?
これは重要である。
なぜなら、生きている者だけが神の力を持てるのだからだ。
俗なことを言うなら、生きている者だけが、引き寄せが出来る、つまり、世界を創造出来る。
というわけで、生きよう(笑)。
どうすれば生きられるかは、教えてもらうようなことではない。
ただ、逆向きに言うなら、さっきも述べたように、「エロとグルメだけで生きない」ということだ。
言うまでもないが、エロとグルメを否定するのではない・・・こんなことを言わないと、すぐ、「エロもグルメもあってはならないと言うのですね」と言う馬鹿がいる。嗚呼、面倒臭い(笑)。

正義を指向する者は生きている。
純粋な敬い、憧れを持つ者は生きている。
それが純粋な敬いや憧れであるかどうかは、正義を指向しているかどうかで決まるように思う。
金メダルを狙う者は生きていない。そんな者は、エロとグルメに生きていて、その欲望を利用されているだけだ。
結局のところ、正しい心、美しいハートを求めている者だけが生きているのである。
つまり、『銀河鉄道の夜』の、ジョバンニやカンパネルラのような者が、本当に生きていると言えるのだと思う。

※上で引用した竹宮恵子さんの漫画は『真夏の夜の夢(ミッド・ナイト・ドリーム)』であることが判明。『シルベスターの星から』に収録。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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