ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

銀河パトロール隊

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

ジェネレーションギャップは大きいほど気づき難い

『時をかける少女』は、1934年生まれの作家、筒井康隆さんが1965年頃に書いた短編小説であるが、いまだ映画や漫画になることに、著者本人が驚いているかもしれない。
この作品は今でも当たり前のように出版されているが、「今読んでも違和感がないなあ」と感じるのは、ひょっとしたらかなり年配の人かもしれない。
主人公の芳山和子は中学3年生で、他にも中学生が何人か登場するが、当たり前だが誰もスマートフォンを持っていないし、当然、LINEで連絡を取り合うこともない。SNSなんて概念もない。
当時の人に初音ミクのライブ映像を見せたら、恐るべきロボットだと思うだろう。それを空想したら、ちょっと面白くはある。

しかし、学校の様子はどうだろう?
今は、小学校でもコンピューター室があったりもするのだが、基本的には学校というのは百年以上前から変わっていない。
『時をかける少女』の、初めの1行はこうなのだ。

放課後の校舎は、静かでなにかしらさむざむしい。ときどきどこかの教室のとびらのあけしめされる音がだれもいない廊下にうつろにひびく。

なんとも涼秋を感じさせられるという人も多いと思うが、ここらの様子は今でも同じようなもの・・・あるいは、全く変わらない。
百年前の人が、現代の銀行や空港に来たら、そこがどんな場所なのか理解することができないが、学校だけはすぐに分かるというのは問題だから、学校も変化しないといけないなんて議論が盛んに行われるようになったのもまた、かなり昔のことなのだ。
電子書籍しかないが、『10年後の教室』という本が最近出版されていて、この中で、近未来の進歩した教室と、それに相応しい授業風景、教育内容が意気込みを持って書かれているが、まあ、期待薄といったところかもしれない。

学校だけでなく、会社のオフィスも、いかに変化しているとはいえ、基本的にはそう変わらないような気がする。
「近未来オフィス」に似たような言葉は、おそらく、何十年も前からあるが、昭和30年代の映画の中の「ちょっといい会社」のオフィスの様子を見たら、「俺のとこよりずっといいじゃないか」と思うことも多いかもしれない。いまだ、だらだら何十分も電話をする30代の人も決して少なくはない。そんな人達は、いかにスマートフォンやインターネットを使っていても、旧世代の人間であり、おそらく、現代のITテクノロジを本当には使えていないのである。
「今の人」は電話なんてほとんど使わないし、たとえ使っても、実に簡潔だ。

また、こんな話があった。
60代の女性が、遊びに来ていた小学生の孫に、「テレビのチャンネルを回してみて」と言うと、孫は、その言葉が理解できない。
「チャンネルを回すとはどういう意味なのだろう?」
昔のテレビはリモコンもなく、テレビのところまで行って、電源を入れたり、ボリュームを上げ下げする操作をしなければならなかったが、チャンネルを変えるには、手で回転させるスイッチで行うものが多かったのだ。

こんなことは、10歳の年の差があれば、何かのことで十分に有り得る。
今でもアナログカセットはそのためのデッキもメディアも売っているが、カセットテープを見ても、これは何に使うものか分からない人がいてもおかしくはない。
アメリカの中高生が、音楽CDというものがそろそろ分からなくなったのは10年以上前のことだ。

たった10年の違いで世の中の概念が変わり、明らかなジェネレーションギャップが存在する。
これが数十年なら、大変な違いになり、百年近く経てば、もう別世界だ。
それなら、いかに素晴らしいことが書かれているとはいえ、古典であれば、うかつにそのまま受け取ると、とんでもない誤解をする可能性がある。
新約聖書の福音書を読むと、一見、そう違和感を感じないかもしれない。しかし、それは、読み手が、その内容を勝手に現代的なものや概念に置き換えているからに違いない。
これが、1937年に書かれSF小説『銀河パトロール隊』であれば、まだ、現代との違いに気付くので、可笑しく感じたり、ちょっと間抜けに感じたりするのであるが、聖書や論語やギリシャ神話となると、古過ぎて気付かないことが多いのである。
(もっとも、『銀河パトロール隊』には、現代以上のステルス戦闘機の構想などがあったりして、なかなか面白い)
偉い人には、論語を優れた人生哲学として振りかざす者もいるのだが、実は、孔子が教えた意味は、そんな人が「こうだ」と主張することとは随分違うことも多い・・・いや、実際は「全く違う」のである。
年の差カップルなんてものにしても、年代差が気に障るのは、10歳差くらいの場合で、これが30年違えば、案外に気にならなくなってしまうものらしい。慣れてしまえば、「こんなものだ」と諦めてしまうということもあるが、分からないのでかえって刺激がなくなってしまう・・・まあ、親子みたいなものである。

だから、古典を読む時は、理屈の頭で読めば、自己本位の解釈になってしまい、その真意や貴重なところを得ることができないのだ。
いわゆる、「論語読みの論語知らず」の状態になるが、さっきも述べたが、論語信者の大半はそうであると私は思う。自分勝手な解釈をして悦に入っているというだけだ。
『老子』や『聖書』や『バガヴァッド・ギーター』、『ギリシャ神話』、『古事記』、その他の優れた古典を読む時は、無心で、魂で読まなければ、むしろ、害があるかもしれない。公式な立場の宗教家のほとんどが、仏陀やイエスの教えを全く理解していないというのは確かである。
古い聖典を読んでも、理屈では何も分からないのは当たり前なのだ。
しかし、できるだけ無我になって読めば、行間から霊的な叡智が囁くだろう。

尚、下にご紹介した書籍は、『10年後の教室』は電子書籍だけ。後は、紙の本と電子書籍の両方が存在する。
私は、『時をかける少女』以外は、全て電子書籍で読んでいる。









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馬鹿になる方法

人が凡人の境界を超えたり、平安を得るために必要なことは、「無になることだ」と言っても、それは曖昧で意味の無いものでしかないだろう。
また、『荘子』などの現代語訳によくあるように、「無用に徹す」とか、「無為自然」と言ったところで、これがまた漠然とし過ぎだろう。
これらを、普通の言葉で言うなら、「気楽になりたいなら、馬鹿になれ」ということと思う。
良寛が自分を大愚と称し、親鸞が愚禿(ぐとく。頭を剃った愚か者)を自称したのは、謙遜なんかではなく、「俺って、つくづくそうだな」と呆れた上でのことと思う。
一休は自分を狂雲とも言い、なかなか洒落ているが、格好良過ぎる。「変態ジジイ」あたりが丁度良いと思う。W.B.イェイツは自分を不良老人と言い、70過ぎても美少女を一生懸命口説いていたものだ。まあ、ゲーテほどではなかったが。

しかし、世間の人は皆、自分は他人よりマシな人間、割合に賢い人間だと思っている。
それでは、心はずっと苦しいままで、生命力をすり減らし、あっと言う間に老人になってしまうことは避けられない。
自分を腹の底から愚か者と自覚できることを悟りと言って差し支えないだろう。
表面的に謙遜して、「私は愚か者です」と言う者はいくらでもいる。しかし、そんな者達は、馬鹿にされると激怒し、面目を失うと慌てふためく。本当に自分が馬鹿だと思うなら、猿と言われようが、服を裏返しに着ていようが何ともないはずである。

自分が、宇宙船を止めようとするハエのようなものだと本当に実感できることがあれば良いと思う。
これは、『銀河パトロール隊』という、1937年に書かれたSFの傑作の中にあるもので、人類最高と言ってよい優れた人間であるキニスンが、アリシア星人の訓練を受けた際、アリシア星人の精神攻撃に「抵抗してみろ」と命じられた時に思わず言った(思考した)ことだ。
自分とアリシア星人の力の差をそれほどまでに実感したことは、世間では畏怖される存在である彼をとことん謙虚にする。
たかが人間の間で、有能とか無能、天才とか愚鈍といったところで、大して差はない、いや、何の違いもない。
同じく、善とか悪といったところで、それがいかに強大なものといったところで、大した善でも大した悪でもない。

宇宙に出た宇宙飛行士は、全く違った人間になってしまうという。
地球を見るという体験には、自我を屈服させるだけの大きなものを、その卑小な心に与えるのだろう。
それで、少し目覚めたような人であれば、金に糸目をつけずに、宇宙飛行を体験したがるのではないかと思う。
もっとも、たとえ宇宙人の宇宙船で、どこまでも高く昇ったところで、地上の生活に戻れば、すぐにまた自我に覆われ、元の木阿弥だ。
有名な宇宙飛行士だって、地球に帰還した直後は、どこか人間を超越しているのに、時がたてば、かえって普通の人より欲深で自尊心が強くなってしまっているものだ。

宇宙になんかいかなくて良い。馬鹿になることだ。
しかし、それは、会計士が財務計算をできなくなったり、野球の監督が戦略を立てられなくなることではない。
馬鹿になった会計士は驚くほど有能だし、馬鹿になった監督は超人的な指導力を発揮するのだが、本人は何もしていないと感じているのだ。

念仏を唱えれば、無数の仏や菩薩や神や竜神が守ってくれ、悪魔も恐れて敬うということを信じるといったら、世間では馬鹿としか言いようがないだろう。
まして、その根拠は、親鸞がそう言ったからというなら、まことにめでたい馬鹿である。しかし、「めでたい」は「愛でたい」であり、そんな馬鹿を、仏と仮に称する宇宙の意識は愛でるのだ。
『歎異抄』を読めば、親鸞を信じたい気持ちになるとしたら、なかなかの馬鹿であり、それは実に良いことと思う。
願わくば、余計な評論はいらないから、素直に現代語訳した『歎異抄』の電子書籍が欲しいと思う。本文の数倍ある、「とても賢い」著者の自論を飛ばしながら読むのは煩わしいことであるからだ。









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子供のために良かれと思ってやることは、確実に子供を不幸にする

善悪(あるいは優劣)なんてものは全く信用ならない。
親が、子供のために良かれと思ってやることは、確実に子供を不幸にする。例外など決してない。

『スター・ウォーズ』っていうのは、ジェダイ騎士団と帝国軍の戦いの物語だが、ジェダイが善で帝国軍が悪なんてことがなぜ言えるのだろう?
『レンズマン』シリーズという歴史的なSF大作では、銀河パトロール隊と宇宙海賊ボスコーンとの戦いが描かれているが、このボスコーンという海賊一団の略奪振りは凄い。しかし、銀河パトロール隊最高の戦士である若きレンズマン、キニスンは、疑問を起こしたことがあった。科学力において、自分達パトロール隊より、ボスコーンの方がはるかに上で、彼らのボスの知性や精神力もおそるべき高さだ。彼らを、ただの悪と言えるだろうか?善と言い、悪と言っても、それはただ、文化の違いに過ぎないのではないだろうか?キニスンは銀河パトロール隊最高位の長官ヘインズにそんなことを言ったところ、ヘインズも否定はしなかった。できなかったのだろう。

中島敦の『名人伝』で、真理に目覚め、宇宙そのものとなったような弓の究極の名人は最後に言うのだ。
「目と鼻の違いが分からない。善と悪の違いが分からない」
そんな違いは、元々無いのではないだろうか?
善と悪も、目と鼻と同じく、ただ、使い方が異なるに過ぎず、どちらが優れているという訳ではないのだ。

ある人にとっては、ビートルズは素晴らしいと感じるが、別の人の中には、ただの騒音としか聴こえない人もいる。しかし、どちらが正しいなんてことは言えない。
秋の虫の声を、「嗚呼、面白い」なんて思うのは日本人だけで、特に西洋人には雑音にしか聴こえないものらしい。しかし、どちらの感覚が優れているという訳ではない。
『荘子』は、人間最高の美女の顔だって、魚が見れば驚いて水中に潜り、鳥は空へ逃げ去るが、別に魚や鳥の美的感覚が劣っている訳ではないと、これはまあ喩え話なのであるが、やはり、是非好悪の分別はあてにならないことを示している。

昔、私にある人が、「美空ひばりは最高の天才なんだ」って言うから、私は、「好きな人にとってはそうだが、興味の無い人には何の価値もないのでは?」と言うと、彼は非常に賢い人だったので「その通りだ」と認めた。
ただし、私は決して、美空ひばりの価値を否定する訳ではない。
ところが、別の美空ひばりファンが、「いや、美空ひばりが良くないというなら、そいつはものの価値が分からない馬鹿だ。そいつは間違っているのだ」と言うから、美空ひばりの価値を否定する者もいるのだ。

円空(えんくう)という、お坊さんで天才彫刻家でもあるという人がいて、数多くの木彫りの仏像を造った。
それを我々は貴重品扱いするが、円空が彫った仏像に乗っかって、ボロボロにして遊ぶ子供が実際にいたらしいが、その子供には円空仏は、おもちゃ程度の価値があるということになる。そして、それで良いのではないか?円空だって、そうやって、子供達が仏様に親しめば、それで良いと思うに違いないのだ。
仏像によっては、寺の奥の開かずの間で、さらに堅固な箱の中に厳重にしまいこんで、人々の目に触れさせないというものがあるらしいが、滑稽なことではないだろうか?

我々は、善いことをしたと言って満足し、悪いことをしたと言って後悔する。
しかし、古代の叡智も、現代の神経科学も、人間の行いは、本人の意思によるのではなく、自動的な反応に過ぎないことを教えている。
分かり易く言えば、我々は神のような存在の操り人形、あるいは、ロボットに過ぎない。
何をしても、誇って驕るなかれ、悔やんで泣くなかれである。
「俺がやったんじゃない。神がやったんだ」と開き直れ。
じゃあ、どんな悪いことをしても良いのかと言うと、できやしないさ。
良いことをするロボットに、悪いことはできない。悪いことをするように出来ていないのだ。
ガンジーやマザー・テレサはそんなものなのだ。別に、彼らは偉いから博愛行為をしたんじゃない。そうするしかなかったのだ。
信じないかもしれないが、私に分かる範囲では、人にできる唯一の優れた行為は念仏だ。無論、同じような概念はどこの国にもあるのだろうけど、分かり難いのだ。概ねでは、「神を愛せよ」「神を崇めよ」と言われているが、念仏ほど簡単、確実なものはない。
そして、念仏を唱えてさえいれば、どれも分かるようになるだろう。
親鸞は、全ての経典の中の1つとして浄土三部経があるのではなく、浄土三部経の中に全ての経典があると言ったが、これは別に、浄土三部経が他の経典より優れているという意味ではないので、他宗の方は目くじらを立てる必要はないし、浄土門の方も、自慢をすることではない。
単に、馬鹿でも分かるというか、馬鹿ほど分かるという程度に考えれば良いと思う。

我々にできることは、是非好悪の判断を捨て、自分より高い存在・・・神と言っても、仏と言っても、至高者、宇宙エネルギーと言っても構わないのだけれど、そんなものがあり、それに動かされている者として、一切を受容することだけである。
それを認める合図が念仏であり、聖音オームであり、(特に)詩篇23や91なのである。
いや、そんな屁理屈を言わず、ただ念仏を唱えた方が良いと思う。









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自分を「なんて格好良いのだ!」と思うべきである

あなたは自分の姿に見惚れたことがあるだろうか?
おそらくあると思う。
平凡に見える若者であっても、やはり若いことは素晴らしいことで、よく見れば、誰でも「なかなかのもの」なのだ。

私が少し前から読んでいる、E.E.スミスのSF小説『銀河パトロール隊(レンズマンシリーズの1巻)』で、若きレンズマンのキニスンは、初陣から驚くべき成果を上げて大きな昇進を果たし、選ばれた者だけが着ることを許されるグレーの制服を着た。極めて質素な服であるのだが、それを着た自分を鏡に映して見たキニスンは、「なんて格好良いんだ」と自分で見惚れてしまう。それは外見的には、細いウェストと広い肩幅、その他、鍛え上げた者だけが持つ身体の特徴を細大に引き立たせる機能的な服であるからなのだが、試練を乗り越えた者が身にまとう、不思議な輝きもあったのだろう。

ところで、自分で言うのも何だが、私は、初めて全身が映るような大きな鏡でしげしげと自分を見たのは、二十歳くらいになった時だったのだが、その時、やはり、つい自分の姿の見入ってしまったのだ。
まあ、私はごく平凡な人間で、外見もせいぜいが十分並か、ひょっとしたら、認めたくはないが、それよりも劣るかもしれない。
しかし、それでも、自分に惚れ惚れとしたのである。

仮に、自分の容姿に自信が持てないとしても、いくらか人生経験を積み、苦難を潜り抜けた後では、自分の精神性や行動に、少なくとも何度かは惚れ込むこともあるだろう。
そうでなくてはならない。
それは、他人がつける点数を全く問題としない純粋な自己評価であるが、それで自分を高く評価することは、自分を信頼することであり、それはとても健康なことなのだ。
そして、人の本質というものは、本当に、心酔するしかないほどの素晴らしいものであることは、決して間違いがない。
霊的な目が開けると、どんな人間の・・・それが、凡人どころか蔑み疎まれるような者であっても・・・その中に、眩しい輝きを明らかに感じるようになるのである。釈迦は、どんな人の中にも、仏性を見出し、それを拝したのだという。
それならば、自分の中にだって素晴らしい至宝があり、それは外面すら輝かせており、目が澄んでいれば、必然として自分の美しさに感嘆するのである。
それは、「外見だけ」「自我だけ」に自己満足することでは決してない。
念仏を唱え始める動機というのは、最初は、自分があまりに煩悩にまみれた凡夫であることをどうしようもないほど感じ、また、自分の力では何もできないことを悟り、阿弥陀如来にすがることである。
その想い自体は、死ぬまで続くのだが、奇妙なことに、少しも熱狂することはないのだけれど、まるで、夕陽が沈む時の雄大な山にかかる茜雲を見るように、ただ呆然と自分に見惚れることがある。
そうすれば、心は不動になり、自分と一体になった仏の命の尊さ、有難さに感激するだろう。
それは、いかなる欲望や願いが叶った時とも比べようのない嬉しさだ。
念仏を唱えていれば、そのような時が訪れる。それを少し励みにしながら、ただ念仏を唱えると良いと思う。









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我々はいつも戦いの真っ只中にいる

賢者と称されるに相応しい思想家や本物の芸術家達が、時にためらいがちに、時に堂々と、あるいは、時にさりげなくも当然のように言うのは、戦争が人々の意識を覚醒させること、逆に、平和は大衆の精神を弛緩させ堕落させることだ。
戦争は必要悪なのではないかと疑問を呈する者は、自ら戦争の悲惨さを体験した者にも少なくはない。
現代には、経済戦争、受験戦争、オリンピックやワールド杯サッカーといったスポーツによる代理戦争があると言いたい者がいるかもしれない。
しかし、これらは、ほとんどの場合、人々の心に最悪の作用しか及ぼさない。
欲望を目的とした戦いとはそのようなものである。

だが、現代にだって、本当の戦いはある。
人類あるところ、どこにでも戦いはあるのだ。
例えば、我々に分かり易いところで言えば、いじめに遭っている者、職場などで理不尽な苦しみを強いられている者達だ。
彼らにできる唯一最高のアドバイスは、「戦え」である。
決して、馬鹿で無責任な教育者や政治家や評論家のように、現実の惨(むご)たらしい戦いを覆い隠すことで「無いことにしてしまう」下らない「いじめ対策」などというものに騙されるな。
自ら戦わねば、どうにもならない。誰もあなたのために戦ってはくれない。
ただし、賢く戦うのだ。
馬鹿な戦い方をして負けるのは、誰が悪いわけでもない。自分が愚かだというだけのことなのだ。

E.E.スミスの「レンズマン・シリーズ」で知られる世界的な人気SF小説『銀河パトロール隊』で、初陣を飾った若きレンズマンであるキニスンが、敵について語ることが印象的であった。
敵は、銀河全土の征服を目論む、極悪非道の超エゴイスト達の集団であるが、キニスンは、連中が劣ってはおらず、それどころか、恐るべき優秀であることを認めざるを得なかった。そして、そんな悪の集団を構成する、膨大な数の、個人的欲望を優先する、驚くべきほど実力ある曲者共を完全に支配する悪の首領の力となると、もう畏怖せざるを得ないのである。
そして、キニスンは、何が正義で、何が悪かは、文化の違いに過ぎないのではないかといった意味のことを、上司である長官に述べ、長官の方も、おそらくは、同じ想いを持っているのである。
ただし、もちろん、戦いは放棄しない。連中の好きにさせる訳にはいかない。

だが、なぜ戦うのだろう?
ひょっとしたら、戦いは神が仕組んだものではないだろうかと私は思うことがある。
何のためかというと、進化のためである。
しかし、権威のため国家のためといった、誰かのエゴイズムのために戦ってはいけない。
何が正しいのかは分からないが、「疑うことのできない確信のある自らの正義のために戦う」のである。
非暴力主義のガンジーや、平和主義者のアイシュンタインが、神クリシュナがアルジュナ王子に「部族階級の名誉にかけて戦え」と説くインドの聖典『バガヴァッド・ギーター』を賞賛する謎について考えてみても良いだろう。

得たいの知れない何かに攻められていることを感じるなら、『バガヴァッド・ギーター』を読み、あなたも戦うのだ。
戦いの第一段階は何だろう?
それは、軍備を整えることであり、個人的に言えば、自らを鍛え、磨くことだ。その上で実戦を戦えば知恵を得る。
だが、援軍を得ることを忘れては勝ち目はない。
説明は普段しているので省くが、最も力強い援軍を得る方法は念仏であり、これを忘れない限り、あなたに敗北はない。
法然や親鸞は生涯戦い続けた。彼らは、決して平和に甘んじなかった。だが、彼らは念仏と共にあり、強力に守られてもいたのだ。

トロイア戦争は、神々の王ゼウスの正妻ヘラ、美の女神アプロディーテ、そして、戦いと知恵の女神アテーナが美を競うことから始まる。
ヘラとアプロディーテなら分かるが、なぜ、アテーナまでがそんな争いに加わったのだろう?
ヘラとアプロデーテは、表面的、権威理的な美を表す。
しかし、アテーナは、戦いの中にこそある、真の美を示すのだ。
長く苦しい戦いの後、英雄オデュッセイアに、海神ポセイドンが言う。
「愚かな人間が神の意図を知ろうなどと思うな」
勝利したのはアテーナである。
もし、人類の至宝であるホメーロスの大叙事詩『イーリアス』、『オデュッセイア』を読む機会があれば、よく考えてみて欲しい。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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