ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

野村克也

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

期待は裏切るためにある

野村克也さんはプロ野球選手として入団した時、選手としては全く期待されておらず、有力選手の練習相手や荷物運びなどで、ある程度若い選手の数が必要だから入れてもらえた・・・と本人は後で分かったらしい。
同じような話として、初代タイガーマスクこと佐山聡さんもそうで、新日本プロレスの入団試験に落ちたが、翌年また受けて受かったのは、その間、みっちりトレーニングして強くなったから・・・ではなく、使い走りをする若手がいなくなったので困ってたからという理由だったそうだ。
一方で、鳴り物入りで入団した甲子園のヒーローや、プロレス入りした相撲や柔道のスター選手が、あっという間に消えてしまったりする。

そこまで華々しい話でなくても、国公立大学では、入試で不合格になった後、補欠合格したなんて話があり、彼らは、最下位成績での入学ということになるが、案外、そんな補欠合格の者というのは成績が良いものらしい。
いや、どんな仕事でも「ついでに採用した」なんてのが、案外に伸びるのである。
一方で、良い成績で入学したり、期待を受けて入社したのが、全然駄目だったりすることもよくある。
いやいや、人間そのものだって、親が産む気もなかったのに、うっかり出来ちゃった子が、後に立派になるものである。

期待されてないのでプレッシャーがないからと言うより、期待する者の妙な、あるいは、汚い思惑なんてものがあると、それが毒になってしまうことが多いのである。
面白いのは、営業として期待されていた者が、自分でこっそりプログラミングの勉強をして、良いプログラマーやシステムエンジニアになるなんてことが多いが、そういうふうに、周囲の期待を裏切る者が伸びるのである。
医者の親から医者になることを期待されているなら、是非、やめた方が良い(笑)。真面目に医者になっても、いいことないって。それより、医者になりたい友達を援助して、病院を継がせれば良い。そしたら、病院も発展する。いいことだらけである。
医者に限らず、親の期待ってのは、裏切るためにあると言って過言ではない。
親の期待というのは、99.9999%間違いなのだ。
「いや、私は、心優しい人になって欲しいだけなんです」なんていうのも同じで、そんな寝言言ってないで、自分が心優しくなれだ。そんな期待をされた子ほど、乱暴で残虐な人間になるものなのだ。
「いや、健康でさえあれば」・・・って、もうやめなさいって。そんなことを言う親は、自分が不摂生で不健康なものである。

そんなわけで、あなたは、親や教師や会社や世間の期待は、大いに裏切らないといけない。
「お前には、この部門の発展を担うことを大いに期待してるぞ」って、担いたくないって(笑)。
そんなの、「わが強盗団はお前の活躍に期待してる」って言うのと同じである。
「お前が東大に入ることをパパは期待してるんだ」って、そんなに東大が好きなら自分で入りなさいである。東大出だってんなら、東大は世界ランキング20位くらいなんだから、トップクラスのハーバードかスタンフォード、あるいは、MITあたりの大学院にでも・・・・
書籍でも、ボケた著者が「君たちが日本の未来を背負うことを期待している」なんて書いていたら、「しょいたかねえよ」と思うのが正常ってものだ。
「君が僕の大事な人になってくれることを・・・」
ええい!気色悪い!(笑)

人に期待するな、されるな・・・が良い人生の基本であると心得、初めから裏切ることだ。
なぜなら、早く裏切らないと、期待はどんどん大きくなって、抜き差しならなくなってしまうことが多いからだ。
「僕と付き合って下さい」って言われたら、ソッコー断ることだ!
そこにいくと、初音ミクファンになることを期待されることは、まあ、ない。よって、ミクさんのファンになるのは良いことだ。
クリプトンだって、ミクさんのファンが増えることを期待してるわけじゃないから、ミクさんは世界のスーパースターなのである。
この原理、知っておくと良い。









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誉めるということの本質

もう10年以上も前、阪神タイガースの監督だった野村克也さんが、指導者に対する講習を受けたりする中で、「人を誉めて育てるということを知らなかった」と言われていたのを印象深く憶えている。
野村さんは、何か貴重なことを学んだということなのだろう。
当時すでに60歳もとおに超えたベテラン監督が何をいまさらという感じであるが、野村さんには思いもよらないことだったのだろう。
野村さんは、選手だった頃、あまり誉められなかったのかもしれない。
しかし、それでも、もしかしたら、野村さんだって選手だった時に、結構誉められていたかもしれないし、それまでにも、自分も選手を誉めたことがあるに違いないと思うのだ。
そうでなければ、野村さんが「誉める」ということを、それほど真剣に考えなかったはずだと思う。

誉めることの大切さはよく聞くと思う。
また、誉めることの難しさが指摘されることもある。
会社の中などで、若い社員が、「あの課長だけには誉められたくない」、「あの部長の誉め方は見え透いている」などともよく言うだろう。
確かにそんな上司はいる。
一方で、誉められると嬉しいと若い社員が感じる上司だっている。
まず、単純には、実力のない上司に誉められても嬉しくないだろうし、「誉めてやるかわりに俺に従え」とか、「駄目な若い連中を誉める俺は立派だ」と自己満足している上司に誉められるのは、やはり勘弁願いたいと思っていることだろう。
誉めるというのは、作為的であってはならず、本当に相手の美点に感動して素直に賞賛するのでなくてはならない。
下心はもちろん、「誉めて伸ばそう」という考え方自体も本当はいけないのだ。
澄んだ目を持ち、相手の良いところを純粋に認め、何の意図もなく出てくる賞賛のみが相手も自分も生かすのである。
ここらを勘違いしている年長者、親、「センセー」がいかに多いことか。
若い女性を、「君は可愛いね」と誉めるのは、下心が全くないということはないかもしれないが、若い男がいくらかの緊張を持って言う場合には、女性もそう悪い気はしないものだ。
しかし、年が上過ぎたり、緊張がない場合は嫌悪しか感じないことが多い。
いや、つまるところは、ある種の緊張があるかどうかの問題かもしれない。

神とは褒め讃えるものであるらしいが、ここらはピンとこない人も多いと思う。
実は私もだ。
神が素晴らしいのは当たり前であり、人間ごときが誉めてどうなるものでもない。
しかし、「神を誉めよ、讃えよ」というのは、世界中、宗教に関係なく、必ずあることである。
ギリシャ神話の神に対する『諸神讃歌』などという多くの詩(ホメーロスの詩をお手本に書かれた讃歌)があるほどだが、この無名の詩人たちが書いた詩が実に素晴らしい。
ある著名な神道家は、神は自分達を誉めさせるために人間を創ったと著書に書かれていた。
それが本当かどうかは分からないが、どうも、神仏を誉めるのは人間の義務であるらしい。

折口信夫の小説『死者の書』で、中将姫をモデルにしたらしい高貴な郎女(若い女)が、初めて阿弥陀如来に逢った時に心から迸(ほとばし)り出た、つまり、自然に沸きあがってきた言葉は、
「なも 阿弥陀ほとけ。あなとうと 阿弥陀ほとけ」
だった。
「なも」は、「南無」で、「帰命します」ということらしいが、帰命とはまた難しい言葉だ。
「帰命」は、辞書では「仏の救いを信じ、身命を投げ出して従うこと」だが、早い話が、最大の敬意と最大の賛辞を表しているのだろう。
「あな」は、喜びや驚き等の感情を強く表す言葉だ。今でも「あな不思議」とか言うだろう。
「とうと」は「貴い」である。
「あなとうと」で、「ああ!なんて貴いのでしょう!」とか、「ああ!素晴らしい!」と言うことなのだろう。
「阿弥陀仏様、あなた様に最大の敬意を表し、身も心も捧げます。なんて貴い!ああ!阿弥陀仏様」
といった感じと思う。

神仏というと分かり難くても、誰だって自然の荘厳な風景を目にしたり、自然の驚異を感じた時には、心が澄み切り、無上の賞賛の気持ちや、ことによっては畏怖(おそれおののくこと)すら感じるだろう。
自然は神の現われであると思えば、神を褒めたたえるというのも、おかしなことではないと思う。

『死者の書』の高貴な郎女・・・やんごとなき美貌の姫は、『阿弥陀経』というお経(の漢訳)を千回写経したという。
『阿弥陀経』とは、阿弥陀如来への讃歌と言える。
あらゆる仏達が、阿弥陀如来を褒めたたえた言葉である。
千回写経という、気の遠くなりそうな行いを通し、郎女は変容を果たしたのだろう。
その彼女に相応しい、気高く至上の美を備えた阿弥陀如来が現れた。
そこから、彼女と阿弥陀ほとけとの合一が始まるのだろう。









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「こわいもの知らず」を取り戻す

「こわいもの知らず」の時代というのは、何をやっても楽しいし、そんな人を見ていると心踊るものだ。
スポーツで言えば、15歳の時の浅田真央さんや、オリックス時代のイチローがそれに近いと思う。
あの頃の浅田さんは、楽しくてスケートをやっていることがはっきり伝わってきて、見ている人達も楽しくさせたと思う。
なぜなら、浅田さんもイチローも、初めはさして期待されておらず、失うものがなくて、文字通り、「何もこわくなかった」からだ。
だが、浅田さんは16歳くらいの頃からは、見ていても、「辛い」としか思えなかった。
イチローは、どういうやり方だったのかは分からないが、マスコミなど、外の声を気にせずにいることができたので、長く、こわいもの知らずでいられたが、やがては、やっぱり楽しそうではなくなってきた。

プロ野球で、大学や社会人で活躍していたり、甲子園の優勝投手や、高校ホームラン記録の更新者となると、初めから期待され、注目されてしまう。
そんな選手達は、みんな最初からつまづき、多くは、大成しないまま消えていく。
田中将大さんが成功したのは、野村克也さんのおかげだろう。
おそらく、野村さは、田中投手に対し、本当にそれほど期待していなかったのかもしれないが、入団した頃は、田中投手をちっとも重く扱っていなかったはずだ。
そもそも、野村さんは、自分がプロ野球球団に入ったのは、優秀な選手達の練習相手に雇われただけで、期待どころか、数年でやめるしかない状態だったそうだ。それは、初めのうちは気楽で楽しかったはずで、野村さんは、そんな時代の良さをよく知っていたのだ。

期待されて入ってくる選手達は、既に栄光を得ている。そんな選手達は、なぜ、やっている本人も、見ている我々も、あまり心躍らないのかというと、そんな選手達は、失う恐れのために奮闘しているからだ。
こういうことなのだ。
期待されておらず、金も栄誉も無い時は、自由を動機にやっている。
しかし、一度、金や栄誉を掴むと、「失敗したら消される」という恐怖を持ってしまい、その恐怖を動機にやっているのだ。
自由が目的であれば、生命力は開き、エネルギーに満ちているが、恐怖の回避が目的であれば、生命力は塞き止められ、エネルギーは枯渇する。
生命エネルギーが足りないと、怪我や病気をするようになり、精神にも躍動感が無くなる。
ミュージシャンなども、いったん成功して人気者になると、「人気がなくなれば消される」という恐怖のために、「うける」曲を創り、歌うようになり、そんな音楽は本当の躍動感がない。
しかし、初音ミクはどれほど人気者になっても、何も恐れない。そして、失うものが無いクリエイター達が次々に新しい曲を創るので、永遠に輝くのである。
初音ミクは、元々がさほど期待されていなかったし、開発会社も、ある程度、初音ミクを手放していたからそうなったのだ。
クリプトン・フューチャー・メディア社が、普通の会社のように、「初音ミクの一切は当社のもの」という態度になれば、ミクもすぐに死んでしまうのである。

自然な状態では、子供には恐怖がないので、生命力に満ちていて、見ていても楽しい。
しかし、大人になれば、「失敗すれば生きていられない」恐怖を知り、身体も心も固くなって老化していく。
だが、老人になって、死をいくらかでも克服すると、また生命力を取り戻し、いわゆる、「子供に返る」。
しかし、死後の世界のことを信じて、死の恐怖を克服するようなことは絶対にない。
あくまで、自然や生命の真理を、頭ではなく、心で感じることによって、あまり死が恐くなくなるのだ。
霊界の研究をやっていたような人の死に際なんて醜いものだ。
しかし、金も名誉もなく、年を取って物欲もなくなった老人であれば、木の葉は枯れて落ちても、また新しい芽が出てくることを美しいと感じるようになり、年を取って死ぬことは、何ら悲惨なことではないことを、自然に分かるようになるのだ。
そんな老人にとって、死後の世界だの、天国だの、極楽浄土だのといったもののことなど、どうでも良いのである。

今は、子供でも、成績の良い優等性は、「優等性でなくなったら僕は不要な存在。もう生きていけない」という恐怖を持たされ、哀れ、子供のうちから恐怖を動機にして生きるようになってしまう。
そんな子供達の生命力は制限をかけられ、若いうちからエネルギーが枯渇し、何をやっても楽しくないし、実際に、何もする気がなくなってしまうのだ。

楽しく、生き生きとしていたければ、自由を目的に生きることだ。
自由は、いくら金や物を得ても得られない。
むしろ、そんなものを多く持てば、それらに縛られてひどく不自由になる。
自由は、精神の囚われを消すことによって得られる。
主義、信念、こだわり、偏愛、個人的嗜好・・・そんなものを捨てれば自由になる。
そのためには、余計な金や物を求めず、栄誉を得ても、そんなものはさっさと捨ててしまうことだ。
そして、一切の権威を認めてはならない。権威こそが恐るべき束縛なのだ。
私はいかなる権威も認めないし、いかなる個人も崇拝しない。
そのようにして、ただ自由と幸福を目的として自然に生きることだ。
そうであれば、生命は花開き、エネルギーに満ちて楽しく生きることができ、何の恐怖もなく死ぬのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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