ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

釈迦

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

親切な宇宙人から聞いた貴重なこと

釈迦について分かっていることは、彼が断食をしたこと。
イエスについて分かってることは、彼が磔になって死んだこと。
そして、それによって、彼らは宇宙生命体であるブッダ、および、キリストになったのだが、ブッダとキリストは同じと思う。
では、なぜ断食と磔でそうなったのかというと、共にそれで思考を消したのである。

それが分かれば、他の情報はいらないし、そもそも他の情報はない。
真相は、内なる知性が教えてくれる。
つまり、釈迦は息を最後の食物として取り入れ、イエスは息を命と共に失った。
ところが、実は、釈迦は、その後で息を失い、イエスはその前に息を取り入れていた。
これで明確になる。
息を吸うことが釈迦で、息を吐くことがイエスだ。
ルドルフ・シュタイナーはしばしば、釈迦とイエスの霊的関係を霊視し、細かい経緯まで書いたが、根本は、吸気が釈迦で呼気がイエスだということだ。

重さがない少女
AIアート246
「重さがない少女」
Kay


釈迦が食物の栄養を全て失った時に息を吸ったように、イエスが槍で貫かれ絶命した時に体内の息が出て行ったように呼吸すれば思考は消える。
そうなれば、ブッダでありキリストである。
これが、私が親切な宇宙人から聞いたことである。








悪霊はやはりいて、その正体は?

私は中学1年生の時からゲーテを読んでいたが、それが良かったかどうかより、もっとちゃんと読んでおけば良かったと思う。
ゲーテは人間性の批判もするが、人間性を、そんな批判すべき低いものに引き落とす何かがあると考えていたと思う。
つまり、彼にもそれが何かは分からなかったのだろうが、見えない何かが、我々人間の性質を、愚かで醜いものに引き下げてしまうのである。
ラルフ・ウォルドー・トラインは、それを一応、「悪霊」の仕業だと表現していたが、あくまで仮にそう呼んだのであり、やはり、何かが人間を劣ったものに変えるので、その何かから自分を防御しなければならないと考えていたと思う。

ジクムント・フロイトは、元々人間は狂っているのであり、それは進化に失敗したからだといったように考えていたし、アーサー・ケストラーも同じで、ケストラーの場合は、人間の脳が進化過程で間違いが起こったのだと考えていたと思う。

だが、彼らの疑問に答は提示されず、ただ人間はロクでもないものであることがはっきりしただけだった。
ところが、ローレンス・スペンサーが、SF小説の形で出版した『エイリアン・インタビュー』で、人間性の欠陥の説明がついてしまったと思う。
細かい部分を省くと、数万年の昔かもしれないが、宇宙人がある目的を持って、人間を劣った存在に引き落とす効果を持つ装置を仕掛け、それが現在も稼働し続けている。
その装置は、何らかの理由で効果が弱くなることがあり、そんな時には人類もかなり高度な文明を築いた。
世界各地のよく似た神話は、宇宙人の話が脚色されたものだ。
そして、その宇宙人の装置の影響を免れる手段は難しいながら存在し、釈迦や老子をはじめ、いくらかの人々はそれを発見したことが『エイリアン・インタビュー』で示唆されている。

月下のニンフ
AIアート109
「月下のニンフ」
Kay


以下は私の考えであるが、釈迦や老子らは、装置の影響から解放される方法を、なんとか人々に教えようとしたが、彼らの教えは変なものに改ざんされてしまっていて、今ではほとんど役に立っていない。
だが、20世紀初頭に、インドにラマナ・マハルシという突出した人物が現れ、「私は誰か?」と自分に問うことで、装置の影響を打ち消すことが出来ることを発見し、人々に教えようとしたが、やはり、彼の教えも、かなり捻じ曲げられ、さらにおかしなものになると思われる。

幸い、私は全体をかなり把握したが、いかんせん、釈迦や老子やラマナ・マハルシのように優秀でない(特別なDNAを持っていないということか?)ので、自分が装置の影響を打ち消すだけで精一杯である。
そして、世の中には、この装置に操られた偽物の教師・教祖がやたら多い。そんな者達が装置の影響をモロに受けつつ、売れる本を書いたり、講演を行って人々を扇動している状況で、まあ、あまり好ましくはない。

だが、思考を消せば、即ち、心を消せば、装置は何も出来ない。
そのための最良の方法が「私は誰か?」と自分に問うことである。
心を完全に消せば、我々の観念でいうところの、完全な存在としての神と同じである。
だが、「私は誰か?」とは問い難い。
なぜなら、心は死にたくはなく、生き続けたいので、そのような、心が死んでしまうことには反発し、それを楽しくないものと感じさせるのだと思う。
そこで、もう少し楽に出来るものも含めて、心を消す方法をここで提示しているのである。








神=仏=道=自然

釈迦やイエスが何を教えたのかということについて、仏教やキリスト教の専門家達がとんでもなく難しいことを言っているが、彼らがそんなに難しいことを教えたはずがないのである。
これは、老子も同じであるが、少し前に『老子』全81章を順番に解説したが、結局、全ての章に同じことが書かれており、それは「道に従え。思考を消せ」だった。
この「道」とは、「自然」である。
そして、釈迦は「仏に従え。思考を消せ」と教えたのだし、イエスは「神に従え。思考を消せ」としか教えていないのである。
よって、自然=道=仏=神であることが分かる。
釈迦、イエス、老子は、必要上から、「仏」「神」「道」という観念を使っただけである。
「神とは自然の法則のことだよ」と言う人は多いが、「自然の法則」という言い方をすれば、また混乱するのである。
単に、「神とは自然だよ」で十分である。

それで言えば、日本では、自然の働きを八百万の神と思っていたのだから、賢い民族だったのだなあと思う。
そして、日本では、それを教えた釈迦やイエスのような聖者はいない。
自然と親しむことで、皆が教えられることなく知っていたのである。
本当に凄いことである。
ただし、日本人は、今は世界で最も愚かな民族になりつつあるかもしれない。
その理由はもちろん、「自然に従え。思考を消せ」を全くしなくなったからだ。

睡眠第一
AIアート87
「睡眠第一」
Kay


自然に従い思考を消す最上の方法というものがあり、それは「私は誰か?」と自分に問うことである。
その他に余計なことを言うべきではない。
言うべきではないが、自然、神、仏、道という同じものには、ある性質がある。
それは「パーフェクト」である。
現代人は、うまくいった時のみ「パーフェクト」と言う。
しかし、自然も神も仏も道も、常にパーフェクトなのである。
よって、全てをパーフェクトと認識する人間が一番神に近く、賢いのである。
それにはどうすれば良いかというと、いつでも「パーフェクト」・・・日本人の場合は日本語で「完璧だ」と断定すれば良いのである。
何が起ころうが「完璧だ」と言う癖をつければ、自然が味方するようになる。
つまり、神が味方するのである。
とはいえ、「神様の奇跡が起こる」「生きている」「お金がある」「なぜか分からないがもてる」「不思議だがお金が入ってくる」も全部、「完璧だ」と同じことを示す言葉である。
何でもいいから1日中唱えていると良い。
うまくいかない人は、唱えずに考えてしまうのである。








天国や極楽浄土はあるか

天国とか極楽浄土があるかというと、ない。
それは確かだ。
では、天国や極楽浄土のことを説いた過去の聖者達が馬鹿だったのかというと、そうではない。
庶民に対しては、その程度の説明しか出来なかったし、ほとんどの聖者だって、死んだらどうなるか、はっきり知っていたわけではない。
では、天国や極楽浄土がないことは悲しいことかというと、それが難しいのだ。
本来であれば、事実は、天国や極楽浄土があるよりずっと良い。
だが、普通の人間は、死ぬと全ての記憶を消されて、この地獄のような地球で、またゼロから人生を繰り返すのだから、何とも悲惨だ。
上で、天国や極楽浄土はないと言ったが、地獄ならある。この世界が地獄だ。

本来の我々は、いつでも好きな時に死ねる。
死ぬためには、首を吊る必要も、心臓をナイフで突き刺す必要も、毒や多量の睡眠薬を飲む必要もない。
単に、肉体から離れれば良いだけだし、そんなに時間が経っていなければ、身体に戻ることも出来る。
だから、「死ぬ」というのではなく、やはり、単に「身体から離れる」だけだ。
そして、本当なら、身体を離れても、記憶が消えることはない。

言い換えれば、我々は、肉体の使用期限が来て機能を失うまで、その肉体に縛り付けられ、離れることが出来ない。
人間の肉体はメンテナンスを十分にすれば200年は持つが、実際は50年くらいでガタが来て、100年持たせるのは難しい。
そして、本来であれば、50年やそこらは若いままでいられるのだが、ずっと早く老化してしまう。
地球以外では、使いたい時だけ使う身体が用意されている場合が多く、その身体は地球人のものよりはるかに高機能だ。
そして、いくつの身体を出入りしても、記憶が消えることは全くない。

白百合
AIアート67
「白百合」
Kay


だが、地球人は、どこかの宇宙人が地球に仕掛けたマインドコントロール装置により、死んで肉体を離れると、記憶を消されて赤ん坊の身体に入れられ、その後も、偽の記憶を植え付けられ、自分を虫けらのような存在と思い、実際、虫けらのように生きる。
それを果てしなく繰り返すのである。
そこから脱却したければ、生きているうちに、本当の自分が、全知全能の無限の魂であることを思い出さなくてはならない。
その方法は、これまでも、釈迦や老子らによって教えられてきたが、その教えは難しく、ほとんどの者が呪いのループを脱出出来ずにいる。
ところが、20世紀初頭に、偶然に「私は誰か?」と自分に問えば、それが出来ることを発見したラマナ・マハルシがそのことを教え、多くの人々が、確かにマハルシの教えに、探し求めていた答があるとは感じたが、最後まで「私は誰か?」と問い続ける者は滅多にいない。
そして、今や、そんな者は皆無になりつつある。
問いさえすれば、天国や極楽浄土に行くよりずっと良いことになるし、まあ、その気になれば、天国や極楽浄土を作ることも出来るのである。








『老子』第59章を一言で言えば「自然に従う」

今回は『老子』第59章である。
この章を一言で言えば「自然に従う」だ。

老荘思想の根本である「道に従う」とは、そもそも「自然に従う」ということなのだから、やはり、この章も、ただ1つの真理を言葉を変えて言っているだけである。
そして、この章では、道に従えば・・・すなわち、自然に従えば無敵であるという、「強さ」を強調したのである。

面白いことに、この章に関しては、岩波文庫の『老子』、徳間書店の『老子・列子』、地湧社の『老子(全)』で、翻訳がまるで別物のように異なる。
さらに、その異なる翻訳に沿って、それぞれ解説しているのだから(『老子(全)』に解説はないが、本文の中に解説が入っている形である)、困ったものであるが、『老子』は、やはり字面に囚われると分からない。
そして、この章はやはり、「自然に従えば無敵である」と書かれているだけであり、些末なことは無視すべきである。
それが分かれば、それぞれの本も個性があって面白いが、私は特に、どの本が好きということもない。

未知なる惑星へ
AIアート6
「未知なる惑星へ」
Kay


そして、自然に従うには、余計な思考をしてはならず、人間の思考の全ては余計な思考であるので、思考してはならない。
思考もまた、自然に起こるものは良く、普通の人間は、その思考を追いかけて余計な思考をするから良くないのである。
自然に思考が起こる・・・それは仕方がないし、必要なことでもある。
釈迦は、自然に起こる思考を「第一の矢」と言い、それは、聖人であっても凡人同様に受けると言ったが、聖人は、それに続く余計な思考である「第二の矢」は受けない。だが、凡人は「第二の矢」を受けることで、すなわち、余計な思考をすることで傷付くと言ったのだ。
ラマナ・マハルシは、思考が起こったら、ただちに、「私は誰か?」と自分に問うて思考を消せと言った。なぜなら、思考は「私」に起こったのであり、「私は誰か?」と問うて、「私」に意識を引き戻せば、思考は消えるのである。
ただし、その場合も「私は誰か?」という思考は残る。
だが、これは良い思考である。
なぜなら、これは、自分が全知全能の無限の魂(=神)であることを忘れている人間が、それを思い出すための思考だからである。

まとめて言えば、こうである。
自然な思考は必ず起こる。
それは聖者も凡人も変わらない。
だが、聖者は、その思考を追いかけず、余計なことを考えない。
一方、凡人は、その思考を追いかけ、余計なことを考える。
これだけが、聖者と凡人の違いである。
ところが、凡人であっても、思考が起こるたび「私は誰か?」と問うなら、思考は消滅し、聖者と同じになる。
さらに良いことに、「私は誰か?」というのは、唯一貴い思考であり、自分が全知全能の無限の魂(=神)であることを思い出させる。
よって、「私は誰か?」と問わずにいられようか?








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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