ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

釈迦

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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『老子』第59章を一言で言えば「自然に従う」

今回は『老子』第59章である。
この章を一言で言えば「自然に従う」だ。

老荘思想の根本である「道に従う」とは、そもそも「自然に従う」ということなのだから、やはり、この章も、ただ1つの真理を言葉を変えて言っているだけである。
そして、この章では、道に従えば・・・すなわち、自然に従えば無敵であるという、「強さ」を強調したのである。

面白いことに、この章に関しては、岩波文庫の『老子』、徳間書店の『老子・列子』、地湧社の『老子(全)』で、翻訳がまるで別物のように異なる。
さらに、その異なる翻訳に沿って、それぞれ解説しているのだから(『老子(全)』に解説はないが、本文の中に解説が入っている形である)、困ったものであるが、『老子』は、やはり字面に囚われると分からない。
そして、この章はやはり、「自然に従えば無敵である」と書かれているだけであり、些末なことは無視すべきである。
それが分かれば、それぞれの本も個性があって面白いが、私は特に、どの本が好きということもない。

未知なる惑星へ
AIアート6
「未知なる惑星へ」
Kay


そして、自然に従うには、余計な思考をしてはならず、人間の思考の全ては余計な思考であるので、思考してはならない。
思考もまた、自然に起こるものは良く、普通の人間は、その思考を追いかけて余計な思考をするから良くないのである。
自然に思考が起こる・・・それは仕方がないし、必要なことでもある。
釈迦は、自然に起こる思考を「第一の矢」と言い、それは、聖人であっても凡人同様に受けると言ったが、聖人は、それに続く余計な思考である「第二の矢」は受けない。だが、凡人は「第二の矢」を受けることで、すなわち、余計な思考をすることで傷付くと言ったのだ。
ラマナ・マハルシは、思考が起こったら、ただちに、「私は誰か?」と自分に問うて思考を消せと言った。なぜなら、思考は「私」に起こったのであり、「私は誰か?」と問うて、「私」に意識を引き戻せば、思考は消えるのである。
ただし、その場合も「私は誰か?」という思考は残る。
だが、これは良い思考である。
なぜなら、これは、自分が全知全能の無限の魂(=神)であることを忘れている人間が、それを思い出すための思考だからである。

まとめて言えば、こうである。
自然な思考は必ず起こる。
それは聖者も凡人も変わらない。
だが、聖者は、その思考を追いかけず、余計なことを考えない。
一方、凡人は、その思考を追いかけ、余計なことを考える。
これだけが、聖者と凡人の違いである。
ところが、凡人であっても、思考が起こるたび「私は誰か?」と問うなら、思考は消滅し、聖者と同じになる。
さらに良いことに、「私は誰か?」というのは、唯一貴い思考であり、自分が全知全能の無限の魂(=神)であることを思い出させる。
よって、「私は誰か?」と問わずにいられようか?








『老子』第38章を一言で言えば「認められようなどど思うな」

では、『老子』第38章である。
この章を一言で言えば「認められようなどど思うな」である。

自分を身体や心だと思っているほとんどの人間は、承認欲求が恐ろしく強いので、世間の評判を重要視する。つまり、他者に認められたくて仕方がない。
だが、自分は全知全能の無限の魂だと知っている者は、承認欲求など全くないので、世間の評判など全く気にしない。
ところが、真の自分を知り、他者の承認を求めない者が、自然に誰からも認められるのである。

今も、巷では「自己肯定感を高める」なんて話や本が評判になっていたりする。
愚かしく、嘆かわしいことだ。
なんだかんだ言って、他者の承認がない限り、自己肯定感は得られない。
したがって、そんなものを求める限り、世間の、あるいは、支配者の奴隷になる。

全知全能なら、いったい誰の承認が必要だろうか?
全知全能なら、いったいどうやって自分を否定出来るだろうか?
「私は全知全能ではない」と言うなら、単に、自分が全知全能であることを忘れているだけだ。

なぜ、承認欲求が必要なのかというと、不安だからである。
そして、なぜ不安なのかというと、自分が無力だからと思っているからだ。
では、なぜ自分が無力であると思っているのかというと、肝心なことを忘れているからだ。
その肝心なことを忘れさせたのは、悪の宇宙人が設置したマインドコントロール装置のためである。
よく、庶民は支配者に洗脳されて、自分は無力だと思っているのだと言われる。
だが、支配者だって、自分は無力だと思っているから、強引なことをするのだ。
自分が全知全能だと知っていれば、良いものを庶民から取り上げ、自分が独占しようなどとは思わないものだ。
そして、自分が誰かを知っている者には、支配者だって従うのである。
だから、どれほど好戦的で野蛮な国王も、釈迦に対しては遜ったのだ。
我々も、釈迦のようでなければならない。
それには、自分が本当はブッダ・・・つまり、全知全能の無限の魂であることを思い出せば良い。

我々は既に、自分は、ブッダ(あるいはキリスト)である全知全能の無限の魂であることを知っている。
後は、それを本当に思い出すために「私は誰か?」と自分に問わねばならない。
逆に言えば、やるべきことはそれだけである。
それは刺激的でもなく、何か美しい幻が見えるわけでもないので、やり通せる者は少ない。
それで、ほとんどの死にゆく人は安らかではない。
だが、それさえやっておけば、死は恐ろしくはないのである。
なぜなら、自分は本当は死なないことが実感として分かるからだ。
アルジュナ王子は、それを分かるために、クリシュナ神が語る『バガヴァッド・ギーター』全18章を必要とした。
だが、「私は誰か?」と問う者には、理解は自然にやってくる。

後、元気が出るので、腕振り運動や、佐川流四股をやることをお奨めする。








『老子』第15章を一言で言えば「無になる」

今回は、『老子』第15章である。
この章を一言で言えば、「無になる」である。

老子は、太古の昔はもっといたであろう本当に優れた人間の特徴を、様々にたとえて称賛している。
そこらを、文字の一つ一つについて解読していたら、『老子』の本質から外れてしまう。それでなくても、普通に思われているより、『老子』も改ざんがいろいろ行われている可能性が高いのだから。
で、どんな人間が、聖人、神人と言うに相応しいかを、書かれている文字に囚われずに言えば、それは「無」である人間で、これはつまり、想念を起こさない人間だ。
「いくら聖人でも、人間が全く想念を起こさずにいられるのか?」と言う人がいるが、そこまでこだわる必要はない。
もちろん、聖人も、害にならない程度の、当たり前の自然な想念くらいは起こす。
これに関し、釈迦も、「聖人も感受作用は普通の人と変わらない。だが、聖人は想念を追わない」と言ったのだ。
たとえば、綺麗な花が咲いていれば、聖人も凡人と同じく「きれいだなあ」と喜ぶ。
だが、凡人は、「あっちの花はこっちの花より美しいぞ」「では、こっちの花を摘んで帰ろう」などと、余計なことを考え、止まらなくなる。
聖人にはそれがなく、花を見て「きれいだなあ」で終わり、あるいは、「子供の時に住んでいたところにも同じ花が咲いていた。近所の人は元気かなあ」程度までである。
聖人は、そのようであるからこそ、やらなければならないことは、極めて効率的に行う。
一般には、仕事や雑用をうまくこなすのは、よく考えて行うからだと思われているが、人間はよく考えて何かやると大抵間違うのである。
よく考えて行うのではなく、余計なことを考えず、心静かにやるから最大の成果を上げるのだ。

本当に頭が良いという人がいるなら、それは、余計なことを考えず、いつも心静かな人だ。
そのようであれば、人間は、自然と賢い行いをするのである。

とはいえ、「想念を起こさない」「考えない」「心静かにいる」ことを、「考えて」行うことは難しいというか出来ない。
そこで、賢い人は、今、目の前で起こっていること、今、やっていることだけに意識を集中させる。
これを「今今メソッド」と呼ぶ人がいて、これが引き寄せの最上の方法である。
だが、「今今メソッド」を常に意識してやるのは、もはや修行であり、なかなか難しい。
そこで、それを自然に行えるようになる秘法が「私は誰か?」と問うことである。

「私は誰か?」と問うには、必要なことがあるのだが、それを教える者がいなかったので、皆、駄目だった。
必要なこととは、私が誰かは、まず言葉で知っておかなければならないことだ。
だから、インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジの師は、若い時のマハラジに「あなたは至高の実在である」と教えたのだ。
そして、マハラジは、師のその言葉を忘れなかった。
「至高の実在」は、あくまで翻訳で、本来はもっと馴染みのある言葉だったのだと思う。
『エイリアンインタビュー』では、宇宙人エアルは、人間の魂の本質に最も近い「あなた方の」観念は、やはり「神」だと言ったらしい。
私は、「全知全能の無限者」という言い方が気に入っているが、そこは各自、神のような最上の存在を示す言葉を当てはめれば良い。
だが、一般には、やはり神で良いし、私も、普段は、神と言っている。
つまり、自分が神であると頭で分かった上で「私は誰か?」と問うと、魂でも分かって来るのである。
そうすれば、神の特性である無になり、『老子』第15章で老子が褒め称えている聖人になるのである。








『老子』第9章を一言で言えば「ほどほどに」

今回は、『老子』第9章である。
いつもと同じく、『老子』第9章を一言で言えば「ほどほどに」だ。
「『老子』は難しい」などと言われるが、思想は一貫しており、少しも難しくない。
つまり、どの章も、根本的には同じことが書かれているのだ。
ただ、『老子』は、言葉の1つ1つを見れば、確かに、妙に難しい。
私の勝手な推測だが、『老子』が、そのように、言葉として難しい理由は、次のようではあるまいか。
『老子』は、老子が語ったことを、1人の老子の崇拝者が記憶し、思い出して書き留めたものだと言われる。
その、文章に書いた者が、文学的だったことや、老子への敬いもあって、深みのある表現にしたので、難しくなったのかもしれない。
だが、書かれていることの本質は、本当にシンプルである。
その本質とは、「遜(へりくだ)れ」「頑張り過ぎるな」「執着するな」みたいな、普通に大切だと言われることだ。
ただ、徹底して「遜れ」とか「欲張るな」とも言っていない。
そこらが宗教との違いかもしれない。
たとえば、やる気のある子供が、勉強も運動も1番になろうと頑張っている時に、多少やり過ぎでも、「欲張り過ぎるな」「ほどほどに」と、あまり言うのは良くない。
ただし、あまりに頑張るのはやはり良くないが、その場合も、頭ごなしに「ほどほどにやれ馬鹿」と言うより、いったん、徹底的にやらせるが、やり過ぎは良くないと、自ら悟るように導くのが最上である。
ある漫画で、こんな話があった。
1人の若い女性が、仕事を過度に頑張っていた。好きな仕事だし、一流になりたいのだ。
だが、彼女の頑張りは異常で、ストレスがたまり、なかなか良い成果が出ない。
彼女は、「私はこんなに頑張っているのに、どうしてうまくいかないのか」と嘆き、周囲に当たるようになっていた。かなりマズい状況だ。
彼女には、素晴らしい恋人がいたが、彼に対しても険しい態度で接するようになっていた。
見かねた彼は彼女に言う。
「君がうまくいかない理由は分かっている」
彼女は、イライラしていたこともあり、自分の仕事に関しては素人の彼に何が分かるものかと反発し「デタラメを言わないで!」と激しく言い返す。
すると、度量の大きな人間である彼は、微笑んで「食事くらい、ちゃんとしろ」と言う。
しばらくして彼女は、彼が正しいアドバイスをしてくれたことに気付く。

悪の宇宙人のマインドコントロール装置は、この星で強力に稼働中だ。
それに抗うには、意思の力が必要で、怠惰に流れようとする自分に打ち勝たねばならない。
しかし、それを過度にやっては、かえって駄目なのだ。
例えば、水野南北は、20日の断食をして「少食こそ成功の秘訣」と悟ったが、少食も、やり過ぎると、やっぱり悪くなるのだ。
釈迦は、さらに厳しい断食をしたが、たまたま近くに居た琵琶法師が「張り詰めた弦は切れてしまう」と歌うのを聞き、「やり過ぎは良くない」と気付き、「中道を行くのが良い」と悟った。
やり過ぎは、ストレスをため、心身に異常を起こす恐れがあるが、それよりも、やり過ぎの時の精神状態は、かえって、悪の宇宙人のマインドコントロール装置に捉えられ易いと思われるのである。
人間、多少、緩むことも必要だ。
しかし、緩み過ぎてもいけない。
何ごとも、正しく「ほどほどに」。
『老子』第9章では、「やり過ぎるな」という意味で「ほどほどに」と教えている。

「ほどほどに」ということも、自分で考えてコントロールすることも大切だが、根本的には、常に「私は誰か?」と問うていれば、自ずと行いは正しくなる。
「私は誰か?」は、このように万能の魔法であるが、軽率に使ってはうまくいかない。
ラマナ・マハルシが、「『私は誰か』を呪文にしてはならない」と言ったのは、そんな意味である。
自分は身体や心ではなく、神なのだということを思い出すために「私は誰か?」と問うていることを忘れてはならない。








記憶を保ったまま転生する

全てのホテルがそうであるのかは知らないが、ホテルに宿泊すると、大抵、『新約聖書』と『仏教聖典』が部屋に置かれている。
昔、私は、親友が交通事故で亡くなった日、会社からの帰宅時に、JRが不通になり、帰れなくなった。
そこで、ホテルに泊まったのだが、やることもないので、部屋の机の中にあった『仏教聖典』をパラパラと見ていた。
「はげみ」の第1章の第3節「仏のたとえ」の「三」に、忘れられないことになったオウムの話があった。
このお話は『雑宝蔵経』の中にあるらしい。
非常に短い、こんな話だ。
竹やぶが火事になった時、一羽のオウムが、長年棲家を与えてくれた竹やぶへの恩と、他の動物たちのことを想う自愛の心で、なんとしても火を消そうと決心する。
そこで、オウムは、池に飛び込み、身体を濡らすと、燃え盛る火の上で羽ばたき、水のしぶきを降り注いだ。
それを見て神が言う。
「お前の行いはけなげではあるが、その程度の水で何になるのか?」
だが、オウムの決意は固く、「次の生に及んでもやりとおす」と言う。
感動した神は、オウムと協力して火を消した。

来世に及んでもやるとオウムが言ったことを私は思い出したのだ。
来世でも継続するということは、今生の記憶を持ったまま転生しなくてはならない。
しかし、それが出来た者は、ほぼいない。
だが、『エイリアンインタビュー』を読むと、我々が生まれ変わるごとに記憶が消えるのは、悪の宇宙人が設置した装置の影響であり、本来は、転生で記憶が失われたりはしない。
そのような理由で、地球では、転生の度に記憶がリセットされるので、天才科学者とはいえ、生まれ変わったら、1から学び直さなければならず、そのため、人類の進歩は鈍い。
けれども、自覚的ではない場合が多いが、前世の記憶の一部を持って転生する者がいる。
そうでなければ、モーツァルトのように、習いもしないのに、幼い時からピアノを弾きこなし、名曲を作曲出来ることの説明が出来ない。
また、画期的な大発明をする者は、古代超科学文明の時代のテクノロジーの記憶を持って転生した、あるいは、何かのきっかけで記憶を蘇らせたのだと考えることが出来る。
政木和三さんも、小学生の時、習ったことのないピアノが不意に弾けるようになり、しかも凄い腕前で、自分で作曲した曲をピアノ演奏したCDも出していた(カップリングは、中国の天才音楽家ウー・ルーチンの演奏と歌唱)。
そして、政木さんは、自分の発明の多くが、超古代文明の時代、自分が発明したものを再発明したものだと言われていた。

『エイリアンインタビュー』によれば、釈迦や老子は、悪の宇宙人の装置の影響を脱することに成功し、そのための方法を説いたという。
ただし、釈迦の教えは形骸化し、老子の教えも、原本がいろいろあったり、解釈が難しかったりで、いずれも、現代では分かり難い状況である。
とはいえ、書籍などに、いくらかの貴重な教えを見ることが出来るし、釈迦や老子の教えに触れて、自分もまた過去生の記憶を蘇らせ、悪の宇宙人の装置の影響を脱した者もいるのではないかと思う。
例えば、老子に関して言えば荘子がそうであるし、釈迦の教えに関しては、空海や道元などがそうであると思う。

また、上のオウムのたとえ話のように、何かを来世でも継続してやり続ける決意を持つことも、記憶を保って転生するために、あるいは、過去生での記憶を蘇らせるのに有意義であるかもしれず、それが釈迦の重要な教えであるのかもしれない。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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