ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

道元

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

タイムリープのための心構え

タイムリープ(過去や未来の自分に乗り移ること)をするということは、今の世界の人々を捨てるということである。
つまり、今の世界の、自分の親、子、兄弟姉妹、友人、恋人などに、二度と永遠に会わないということだ。
そりゃ、数日とか、数か月程度のタイムリープなら、同じような人に会える可能性は高い。
しかし、似てはいても、全く別人である可能性があるし、似た人間すらいない場合もある。
ずっと前の時代に戻ったら、元の世界の恋人や夫や妻と同じような人間が存在するのに、違う人と恋人になったり、違う人と結婚する場合もある。
まあ、今とは別の人と結婚したくてタイムリープすることもあるのだろうが。

あえてタイムリープする場合は、それなりの長い時間を戻ることが多いだろうから、やはり、今の世界の人間とは、永遠に会わないことを受け入れる必要がある。
とはいえ、今の世界の人間に、サヨナラの挨拶をするようでは駄目だ。
そんな気持ちの場合、タイムリープは難しい。
そして、実際、惜別の念を持つ必要はない。
どの人も、実際に存在するわけではなく、自分が作り出した幻想に過ぎないのだから。
タイムリープに必要な条件であるが、ある程度、思考(=心)が消えると、なんとなくそんなことが分かり、分かれる寂しさや悲しさは、全くとは言わないが、さして感じないものである。

湖で会う美少女
AIアート128
「湖で会う美少女」
Kay


いずれにしても、死んだら、タイムリープするか転生するのである。
それなら、意図的にタイムリープすることで、別の世界に移動しても記憶を保持出来るよう訓練しておくと良い。
記憶は次の世界での大きな力になる。
逆に言えば記憶を失くしてタイムリープや転生をしたら、ゼロからのスタートで、思い通りの人生にするには、幸運に恵まれたり、試練に耐える必要があるが、多くの場合、あまり楽しい人生にはならない。

「私は誰か?」と自分に問うて思考(=心)を消せば、この世界の特定のものを特別視することが少なくなる。
なかなかそれが出来ず、執着を絶てない場合は、まだ、自分のレベルが「私は誰か?」と問う段階でない場合があり、その場合は、「私は何も考えない」「私は何も信じない」「私は何も愛さない」といった世界コマンドを唱えれば、だんだんと執着がなくなり、希望いっぱいでタイムリープ出来ると思う。

道元の『正法眼蔵』を読むと、道元は確実にタイムリープを行ったのだと思う。
あの賢さ、洞察力は驚異的であったが、タイムリープを行ったのだとすると、少しは合点がいくのである。
他にも、タイムリープを有利に、楽しいものにする助言があるが、また次回以降述べよう。








天に承認されたと感じたアファーメーションスタイル

昨日、このブログで、J.E.アディントンの著書『奇跡の時は今』の中で、イエスが使った古代ヘブライ語には時間の観念がなく、イエスの教えは全て現在形で表現されると書かれていることを述べた。
このことは、新しい物理学が、この世界に、実際には、時間というものは存在しないと教えていることと一致しているが、こういったこと(時間は存在しない)に留意してこそ、引き寄せが可能になることも説明した。
その中で、イエスが人々に教えた「主の祈り」の正しい形について、少し述べた。

すると、本日の午前中だが、2001年のアニメ『サイボーグ009 THE CYBORG SOLDIER』の中の22話を見たら、キリスト教の教会の中の場面があり、その中で牧師が、「主の祈り」を唱え始めたのだ。
共時性(シンクロニシティ)である。私の理解が正しいことを天が教えてくれたのだと思う。
その「主の祈り」は、普通のものであり、だいたい、次のようであった。

御名があがめられますように。
御国がきますように。
みこころが天に行われるとおり、 地にも行われますように。

これは、イエスの真意としては、

御名があがめられています。
御国がきているのです。
みこころが天に行われるとおり、 地にも行われています。

ということになる。
「主の祈り」が、上の前のもののように、未来に起こることのように伝えられているのは、まずいことであるかもしれない。
今、既にそうなっているとイエスは教えたのであるはずだからだ。

それが証されるイエスの教えがある。
「願い事があれば、それは既に叶えられたと思いなさい。そうすれば叶う」
これも、もっと正しく言えば、
「願い事があれば、叶っていると思いなさい。そうすれば、もう叶っている」
となる。
イエスのこの教えが引き寄せの精髄であると記した引き寄せの有名な書は、チャールズ・ハアネルの『ザ・マスター・キー』や、他にもあるが、そのあたりが明確でないので、読んでもうまく引き寄せが出来ない人がいるのかもしれない。

他にも難しいこととしては、「願いはもう叶っている」ことを、どう実感するかであると思う。
現代人は、どうしても、時間の観念があるので、願いは未来に叶うものだと思ってしまう・・・つまり、今は叶っていないと思ってしまう。
だが、我々が、過去と思う事象、現在と思う事象、未来と思う事象は、同時に今、存在している。

これに関し、鎌倉時代の禅僧、道元の『正法眼蔵』の『現成公案』にこうある。

灰は薪(たきぎ)が燃えたのちの姿、薪(たきぎ)は灰になる前の姿と見るが、とんでもない誤りである。
(中略)
前後があるといっても、その前後は断ち切れていて、あるのは現在ばかりである。
~『[新訳]正法眼蔵』(道元著、ひろさちや翻訳。PHP研究所刊)より~

天才発明家、中山正和は、旧制中学卒業の時、古典の教師に「『正法眼蔵』の『現成公案』だけ一生読め」と言われたことを感謝していたようだ。
中山正和が、画期的な発明を多数行い、また、能力開発の優れた教師になれたのも、このことがあったからであると思う。

具体的には、我々は、上に述べたことを理解してアファーメーション(呪文、まじない、口ぐせと言っても良い)を行えば良い。
「神様の奇跡が起こる」と唱える際、いつか奇跡が起こるのではなく、今、既に起こっていると思わないといけない。
何なら、「神様の奇跡が起こっている」と言っても良い。
最初は違和感を感じるかもしれないが、それが本当なのであり、やがて慣れるであろう。
「お金がある」を口ぐせにしていたら、2ヵ月ほどで億単位の資産が出来たという実話もあるらしい。
これ(「お金がある」)も、現在形の口ぐせであることに注意すべきである。
イケメンの彼氏が必要なら、「イケメンの彼がいる」となる。
金持ちであることも希望なら、「イケメンで金持ちの彼がいる」だが、あまり欲張らない方が良いかもしれない。いや、別に、欲張るのが悪いわけではないが、アファーメーションは短い方が唱え易いからだ。








腕振り運動は無になる最高の行法

新約聖書の福音書に、イエスがゲツセマネという場所で祈る話がある。
イエスが弟子たちに、「私は向こうで祈っているから、お前達はここで祈っておれ」と言い、弟子達から離れて祈ったが、帰って来ると弟子達は眠っていた。
イエスは、「少しの間も起きていられないのか」と弟子達をたしなめ、「今度はちゃんと祈っておれ」と言って、また祈りに行った。しかし、帰ってくると、やはり弟子達は眠っていた。
そして、三度目も弟子達は眠っていて、イエスも最後は「眠っておれ」と言って怒らなかった。

イエスの弟子達はだらしないと思うだろうか?
しかし、夜、眠い時に、祈れと言われても、眠ってしまうのは仕方がない。
12使徒とはいえ、普通の人間である。

だが、「腕振り運動をやっておれ」と言っていればどうであろう?
大半は、イエスが戻って来た時も、続けていたと思う。
私は、毎日4千回以上、特に、この3日は5千回以上、腕振り運動をやっていて、腕振り運動は祈りでもあると思った。
偉い先生が著書で、祈りの重要性を説き、祈ることを勧めているが、具体的にどうやるのかは、あまり書かれていないし、書かれていても、違和感を感じるものが多い。
先生方の個人的信条が強く、それに共感出来ないからだ。

私は、祈りとは、本来、無心になることであると思う。
道元は、仏教の目的は自己を忘れることだと言ったが、それが無心(無我、忘我、没我も同じ)になるということと思う。
そして、そのために坐禅をしろと言ったのだから、坐禅もある意味、祈りなのである。
西洋の祈りの究極が法悦であり、それがまさに忘我、没我になることである。
高度な法悦に達した人の様子を彫刻にした作品が、ベルニーニの『聖テレジアの法悦』である。
【画像リンク】聖テレジアの法悦
没我(エクスタシー)の状態の聖テレジアが、性的エクスタシーにあるようでエロいという人もいるが、その2つが同じ場合も確かにある。

そして、このような瞬間的な強烈さはないが、腕振り運動は、自己を忘れ、無心になり、没我に近付く優れた行法で、道元の座る禅に対し、「動禅」と言われることもあるが、「動く祈り」とも言えると思う。
腕振り運動は、ルーツは禅の開祖である達磨太師とも言われるが、禅としても、また、祈りとしても、合理的で高度なものであると思う。

手足のない達磨像は、達磨が座り続けて手足が溶けてなくなったという、坐禅修行の究極の象徴と言われるが、私はそうは思わない(馬鹿でない限り思わないと思うのだが…)。
あくまで個人的にだが、「座るだけではうまくいかない。腕振り運動をして無我になり、思うように生きよ」と言っているように思うのである。

春日大社の宮司であった葉室頼明氏は、自身、長い間、「大祓祝詞」という祝詞を1日中上げ、非常に良いから君達もやれと著書で強く勧め、ひらがな書きの「大祓祝詞」と、これを大勢で唱えている声が入ったCDをセットにしたものを出されていて、これはロングセラーを続けており、私も購入して、やってみたが、とてもではないが続かない。とはいえ、私は、一か月ほどは、大祓祝詞を、平日で2~3時間、休日は6~7時間上げたが、シンドくてストレスが溜まるだけで、正直、性格が悪くなった(いや、元々かw)。
つまり、やれる人というか、向いている人というのがあり、自分に出来るからと言って、こんなことを凡人に勧めるのは如何なものかと正直思う。

念仏も同じだ。
法然は、自分は念仏を毎日6万回唱え、誰にでも、念仏を「常に唱えよ」と勧めたが、出来る人は滅多にいない。
そう思ってか、弟子の親鸞は、「祈ろうという気持ちが大切である」と言って、念仏は1回でも良い、いや、唱えなくても良いと言ったが、法然に知られて怒られた。
しかし、出来ないものは出来ないし、かといって、親鸞が言うように、1回とか唱えても意味がない。

そこで腕振り運動である。
これなら、気持ちが良いので、根気さえあれば、毎日、かなりやれる。
私も、十年以上、回数は多くないが続けており、ついに、これに賭けることとし、毎日、数千回やるようになったのである。
また、腕振り運動は、全身運動としても優れているだけでなく、仙骨の調整にもなり、健康効果が高い。
さらに、関英男博士によれば、仙道の気や、ヨガのプラーナの正体であるグラヴィトン粒子を体内に蓄える働きがあり、生命力が充足し、難病が治った例も多い。
尚、『宇宙学序章 グラビトニックス』に書かれている、関英男博士の腕振り運動が、名古屋身体均整院のサイトにあったので、リンクを貼っておく。
『宇宙学序章 グラビトニックス』は、古書も高価なのでありがたいが、このサイトが、正式に許可を取って載せたものかどうかは私は確認していないので、ご了承願いたい。
【リンク】万病を治す腕振り運動 ~名古屋身体均整院サイト内~








自分に向いた行で楽に超人になる

法然や親鸞は念仏を唱えることを勧め、彼らよりほんの少し後に生まれた道元は「ただ座れ」と坐禅を勧めた。
昔であれば、ただ巡り合わせで念仏をやったり坐禅をやったりしたのだが、法然や親鸞と道元のどっちが好きかで、念仏か坐禅かを選ぶこともあるだろう。
だが、もっと重要なことは、自分が、念仏に向いているか坐禅に向いているかである。

近代のインドの聖者ラマナ・マハルシは、真我を実現する(簡単に言えば神になるという意味と思う)には、「私は誰か?」と問う以外にないと言い、多少のバリエーションとしては、「常に、自分に対し『私』と呼びかけよ」と教えた。
2011年に亡くなられたサティヤ・サイババは、いろいろなことを教えたと思うが、『ナーマスマラナ』という本では、やはり、「神の名を唱えることだけが人生の問題を解決する」と述べている。

宗教的、あるいは、霊的な修行を、俗っぽいこと・・・健康はともなく、お金や恋愛を目的とするのは卑しいとする向きもあるが、欲張らない限り、上に述べた行は全て、欲しいものを得る最も効果的な方法なのである(大抵の人は欲張って失敗するが)。

私も昔、ニート明けの時、最も務まりそうにない厳しい仕事である完全歩合制セールスの仕事をやったが、阿弥陀如来真言や観世音菩薩真言を唱えていたおかげでバンバン売れ、ベテランセールスマンを押しのけてセールスコンテストで優勝したりした。
その後も、良い方向にしかいかず、サラリーマン時代は全く仕事をせずに高い給料をもらっていた。
だが、考えてみれば、真言を1日平均では10分も唱えていなかったと思う。
それでも、私としては奇跡的なほどうまくいったが、それだけの時間しか出来ないということは、向いていないという面もあるのだと思う。

中村天風や岡田虎二郎は、それぞれ、常に肛門を引き締めよとか、常に腹に力を入れろというし、『気功革命』で著者の盛鶴延氏は、「1日トータルで1時間肛門を引き締めろ」と書いていたが、1日1時間でも私には全く無理で、私は「そんなこと出来るやついないだろう」と思っていたが、私が向いてないだけで、向いている人なら、常にというのはともかく、1日1時間なら出来るかもしれない。

それで、私は、3日前から、今度こそ本格的に腕振り運動を始めたが、こちらは私に向いているようである。
腕振り運動も、坐禅とは違うが、禅の一種で、「動禅(どうぜん)」と言えるものだと言える。つまり、坐禅のようにじっとしてやるのではなく、動きながらやるのである。
腕振り運動もまた、念仏や坐禅、ナーマスマラナ(神の名を唱えること)、あるいは、ラマナ・マハルシの真我の探求と同じく、簡単に言えば、神や仏になる方法で、実際に神や仏にはなれないまでも、人間を超えた力を得、(普通の)人間を超えることが出来る。

岡田虎二郎の弟子だった柳田誠二郎氏(日本航空社長、日本銀行副総裁その他の要職を歴任した)は、講演で、「私の場合は岡田虎二郎先生に教わった静坐だったが、何でもいいから心を締める鍵を持て」と言った。「心を締める鍵」とは難しい言い方をするが、分かり易く言ってしまえば、やはり人間を超えた力を得て、人生の問題を解決するための行のことなのである。
柳田氏は、自身は岡田式静坐法を百歳を過ぎて亡くなるまで続けたが、人々には「何でもいい」と言ったのである。
つまり、自分に向いたことをやれば良いのである。

ちなみに、私は、腕振り運動を、3600回、4700回、4700回と続けている。
1年365日、1日も欠かさず実施し、毎日の回数をExcelの表にでも登録しようと思う。
そのExcelに、その他の情報も登録すれば、機械学習で分析して、自己分析が出来るが、まあ、データやAIより、魂の声を信じようと思う。








やはり真言が最強だった

政治というのは、本当は、天才がやる仕事だ。
どんな仕事でも、能力と慈愛のバランスによって優れたものになる。
政治家ともなれば、能力は天才で、それに相応しい慈愛を持っていなければ務まらないはずだ。
そのためには、政治家の家柄というのも、あっても良かった。
若干、人間味には欠けるかもしれないが、優秀な家柄というのは、確かに存在するからだ。
しかし、今や、ほとんどの政治家が、凡人に毛が生えた程度・・・どころか、凡人にも劣る部分が多い政治家だらけになってしまった。
才能自体は、普通の人間よりも多少高くても、世間で修行しないのだから、最低限必要な能力すら身に付いておらず、あからさまなほどの愚昧さを隠せない。
そんな人間が政治をやって、国が発展するはずがなく、日本はすっかり三流、四流の国になってしまい、アメリカも堕落の道を一直線だ。

本来、国民とは、少しの能力と、それに見合った慈愛を持っていれば幸福になれたし、そうであることが政治家の甲斐性であったが、今の日本にそれは全くない。
軍部の時代にだって、もう少しマシな能力と慈愛があったのだ。

こんな時代には、国民自身が能力を高め、慈愛を持たねばならない。
そのために、何をすれば良いかというと、真言を唱えるしかない。
日本には、天皇家に伝わる真言(祝詞とか祓詞と呼ばれているが)があり、それにより、天皇は計り知れない能力と慈愛を持っているのだが、今は、天皇が政治を行う時代ではない。
時々、天皇家の真言を公開するとか言う者がいるが、それは我々には似合わない。効果がないとは言わないが、やはり似合わないのだ。
だが、真言というのは、何か特定の決まったものがあるのではなく、長く唱えるうちに作られていくという面もある。
「南無阿弥陀仏」は、昭和初期の頃には抜群の力を持っていたが、今は、葬式のイメージになってしまって、普通には力を発揮しない。
だが、独自に探究し、その意義を感じた者には、やはり強大な力の援助がある。
「南無阿弥陀仏」は有名であるがゆえに駄目になった部分もあるが、作られてしまった殻を砕いてしまえば、やはり途方もない宝なのである。

それと、真言は、声に出さず、心で唱えるものだ。
無論、僧侶は声を出さないわけにはいかないが、普通の人に声を出させるのは、支配するためと相場が決まっている。
世俗的な宗教教団は、信者が声を上げて教団のお題目や真言を唱えるのを聞き、うまく支配しているとほくそ笑むのである。
我々は、そんな愚かな罠にはまってはならない。
それで言えば、実は、耳や声帯の障害で声を出せない人の方が、むしろ、真言で大きな力を起こすのである。
空也上人(くうやしょうにん)の像では、口から仏が出ているが、あれは、別に悪くはないが、あまり良いとも思えない。
口で唱えた念仏では、確かに口から仏が出てくるかもしれないが、心で唱えた念仏は全宇宙に響き、心が仏となり、自分が阿弥陀如来となる。
世の中の、いかなる天才、超人、聖人と言えども、阿弥陀如来に比べれば、宇宙船に対抗する一匹のハエのようなものだ。
真言を唱える者がいかに優れているかが分かると思う。
ここでは念仏に関して述べたが、いかなる真言も同じであり、真言に上下優劣はない。

日本の仏教のスーパースターを3人上げるとしたら、いろいろ文句もあるかもしれないが、空海(774~835)、道元(1200~1253)、親鸞(1173~1263)を上げたいが、空海は当然、真言を重んじたし、親鸞は、念仏という真言だけを重んじた師の法然の教えを受け継いだ。
だが、道元は坐禅で知られ、「ただ座れ」と教えたように思われている。
しかし、道元は実は、常に、ある言葉を唱えよと教えており、それも真言と言えるだろう。
その言葉は、

南無帰依仏(なむきえぶつ)
南無帰依法(なむきえほう)
南無帰依僧(なむきえそう)

で、仏教の三宝である、仏、仏法、僧を深く信じ敬うという意味だ。
意味としては、一休さんがよく言ったという「南無三(なむさん)」と同じだ。
私は、子供時、どこかで、この「南無三」という言葉を覚え、常に唱えていた訳ではないが、いざという時に唱えた。
すると、奇跡が起こった。
今は、滅多に使わないが、思い出すと、これを唱えた時には本当に不思議なことが沢山起こっていることが分かるのである。
全く魔法の言葉である。

真言の力については、あらゆることから総合的に、そして、直観的に確信するのである。
皆さんも是非。
適当な真言を知らなければ、確実なものとして、観世音菩薩の真言である、「南無観世音菩薩(なむかんぜおんぼさつ)」か「オン、アロリキャ、ソワカ」をお勧めする。
私の場合、阿弥陀如来真言「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」であるが、これが気に入ったら是非どうぞ。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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