ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

転生

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

次の世界に行く方法

人間が最終的に求めるのは安心だ。
闘争の興奮こそ生きている証だと思う者もいるだろうが、それも、そこに安心の幻影が見えるからなのだ。
安心がない者ほど、狂ったように安心を求めてしまうのである。

私は、安心する夢を何度か見たことがある。
偽物の安心ではなく、本当の安心だ。
見たまま書くと、大体が死ぬ夢でしかないので、少し翻訳して書くとこうだ。

「今日で終わりです。お疲れ様」
という声が聞こえる。
私は別に驚くこともなく、「ああ、そうか」と思う。
今日で、この世界にいるのも終わりで、別のところに行く。
正確には、今後、好きな時に行けるのだが、まだ馴染が残るこの世界の余韻を味わっている感じだ。
終わると分かれば、楽しかったと思う。
ここの人達と別れるのは、少し寂しいと感じないでもないが、それは、本で読む程度の別れの寂しさだ。

最後は、遊んでいいことになっている。
1人の少女がふわふわ浮かんでいる。彼女に適当についていく。
時々、自分と彼女の区別がつかなくなる。
「お前は俺の理想だ」
と言うと、彼女の返事はないが、「了解した」といった想いが伝わってくる。
彼女は地上に降り、1人の老婆と仲良く会話している。
そして、彼女は小さな杯を老婆から受け取る。中は透明な酒のようだ。
私も続いて降りると、老婆は私にも杯を渡す。
2人で仲良く杯を飲み干すと、私が先に建物の中に入る。彼女もやがて来るだろう。
そこで儀式が行われる。
いよいよ、この世界からおさらばして、次の世界に行く実感が湧き高揚する。

どうすれば、こうなるかは昔聞いた。
念仏を唱えなさいということだ。
念仏とは言っても、好きな神仏の名を唱えるので良いのだが。
インドで言うナーマスマラナというやつだ。
抵抗がなければ、南無阿弥陀仏が良いと思う。実際、よくチューニングされたコマンドだ。
念仏をずっと唱えていると、良い夢でも見ているように、都合の良いことばかりが起こる。
だが、やっぱり唱えることを忘れるので、ちゃんと辛い目、苦しい目に遭う。
それに飽きてきたら、そろそろ次の世界に行けば良いのである。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
(2)選択本願念仏集 法然の教え (角川ソフィア文庫)
(3)バガヴァッド・ギーター(日本ヴェーダーンタ協会)
(4)ナーマスマラナ - 神の名前の不思議な力(サティヤ・サイババ)
(5)解脱の真理(マード・マクドナルド・ベイン)

渚
AIアート1671
「渚」
Kay


死後の生があることがこれで分かる

死後の世界はあるだろうか?
あるいは、死後の生はあるだろうか?
これに関しては、「ある」と主張する側の論が駄目過ぎる。
死後の生の証拠とされるものは2つで、「臨死体験」と「前世の記憶」だ。
だが、臨死体験は、「ただの幻覚」と言われたらそれまでだ。
「いや、臨死体験者の報告が一致、あるいは、非常に似ている」という主張もあるが、実際はそれほど似ていない。
一方、前世の記憶に関しては、1つでも客観的に証明されれば大きな証拠になると思われる。
しかし、前世の記憶があると言われた者(多くが子供)の、その前世の記憶と、調査で得た事実では、実際はそれほど一致しておらず、捏造の報告も多い。前世の記憶とされる内容の正確性が高い場合でも、前世の記憶として語られた内容が、実は現世でたまたま知ったことだったとか、酷い場合には、調査と同時に教えられたという場合もあったようだ。

『青い鳥』で有名なモーリス・メーテルリンクが、死後の生について『死後の存続』(原題は『La Mort(死)』1913)で、自信たっぷりに死後の生があることを書いているが、説得力はなかったと思われる。

だが、死後の生があることは分かる。
たとえば、物凄く大きな望みがあり、「これさえ叶ったら死んでもいい」と本当に思う人は実際にいると思う。
これは、死後の生がなくては、出て来る発想ではない。
『フランダースの犬』で、ネロが最後にルーベンスの絵が見たいと思って大寺院に行くが、これは、その絵を見ることが出来たら死んでも良いという意味だ。
しかし、死んだら全て終わるのなら、そんな気持ちが起こるはずがない。
死後の生で満足感を味わいたいと思うから、特に死の直前に最高の気分を味わいたいのである。

安楽死についても同じである。
苦しまずに死にたいと思うのも、死後の生で、死に際に苦しんだことを憶えていると思うからだ。

最大の願いを叶え、
「これでもう思い残すことはない。安らかに死を待つ」
と、本当に思う人は・・・実はいない。
逆に、
「このままでは死んでも死にきれない」
と思う人は少なくない。

まだ叶わぬ大きな望みを持っているが、
「叶っても叶わなくてもどっちでもいい」
と思うと、死後の生が分かる・・・と言うより、生や死を超越する。つまり、生と死の区別がなくなる。
これは、本当の願いであるが、諦めたという時によく起こる神秘現象だ。
これが神になる秘法と言われている。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)臨死体験(上)(立花隆)
(2)前世を記憶する子どもたち(イアン・スティーヴンソン)
(3)[完全版]生きがいの創造(飯田史彦)
(4)フランダースの犬(マリー・ルイーズ ド・ラ・ラメー) ※無料

空と瞳の共鳴
AIアート1631
「空と瞳の共鳴」
Kay

記憶を保ったまま転生する

全てのホテルがそうであるのかは知らないが、ホテルに宿泊すると、大抵、『新約聖書』と『仏教聖典』が部屋に置かれている。
昔、私は、親友が交通事故で亡くなった日、会社からの帰宅時に、JRが不通になり、帰れなくなった。
そこで、ホテルに泊まったのだが、やることもないので、部屋の机の中にあった『仏教聖典』をパラパラと見ていた。
「はげみ」の第1章の第3節「仏のたとえ」の「三」に、忘れられないことになったオウムの話があった。
このお話は『雑宝蔵経』の中にあるらしい。
非常に短い、こんな話だ。
竹やぶが火事になった時、一羽のオウムが、長年棲家を与えてくれた竹やぶへの恩と、他の動物たちのことを想う自愛の心で、なんとしても火を消そうと決心する。
そこで、オウムは、池に飛び込み、身体を濡らすと、燃え盛る火の上で羽ばたき、水のしぶきを降り注いだ。
それを見て神が言う。
「お前の行いはけなげではあるが、その程度の水で何になるのか?」
だが、オウムの決意は固く、「次の生に及んでもやりとおす」と言う。
感動した神は、オウムと協力して火を消した。

来世に及んでもやるとオウムが言ったことを私は思い出したのだ。
来世でも継続するということは、今生の記憶を持ったまま転生しなくてはならない。
しかし、それが出来た者は、ほぼいない。
だが、『エイリアンインタビュー』を読むと、我々が生まれ変わるごとに記憶が消えるのは、悪の宇宙人が設置した装置の影響であり、本来は、転生で記憶が失われたりはしない。
そのような理由で、地球では、転生の度に記憶がリセットされるので、天才科学者とはいえ、生まれ変わったら、1から学び直さなければならず、そのため、人類の進歩は鈍い。
けれども、自覚的ではない場合が多いが、前世の記憶の一部を持って転生する者がいる。
そうでなければ、モーツァルトのように、習いもしないのに、幼い時からピアノを弾きこなし、名曲を作曲出来ることの説明が出来ない。
また、画期的な大発明をする者は、古代超科学文明の時代のテクノロジーの記憶を持って転生した、あるいは、何かのきっかけで記憶を蘇らせたのだと考えることが出来る。
政木和三さんも、小学生の時、習ったことのないピアノが不意に弾けるようになり、しかも凄い腕前で、自分で作曲した曲をピアノ演奏したCDも出していた(カップリングは、中国の天才音楽家ウー・ルーチンの演奏と歌唱)。
そして、政木さんは、自分の発明の多くが、超古代文明の時代、自分が発明したものを再発明したものだと言われていた。

『エイリアンインタビュー』によれば、釈迦や老子は、悪の宇宙人の装置の影響を脱することに成功し、そのための方法を説いたという。
ただし、釈迦の教えは形骸化し、老子の教えも、原本がいろいろあったり、解釈が難しかったりで、いずれも、現代では分かり難い状況である。
とはいえ、書籍などに、いくらかの貴重な教えを見ることが出来るし、釈迦や老子の教えに触れて、自分もまた過去生の記憶を蘇らせ、悪の宇宙人の装置の影響を脱した者もいるのではないかと思う。
例えば、老子に関して言えば荘子がそうであるし、釈迦の教えに関しては、空海や道元などがそうであると思う。

また、上のオウムのたとえ話のように、何かを来世でも継続してやり続ける決意を持つことも、記憶を保って転生するために、あるいは、過去生での記憶を蘇らせるのに有意義であるかもしれず、それが釈迦の重要な教えであるのかもしれない。








カルマを消す

人生は何て辛いのだろう、どうして私だけこんな酷い目に遭わなければならないのだろう、なぜこんな惨めな生き方をしなければならないのだろうと思う人は少なくないだろう。
そんな時、カルマという考え方を持ち込むと、心がやわらぐことがある。
つまり、自分が誰かに嫌なことをされるのは、過去か、あるいは、前世で、同じように誰かに嫌なことをしたせいであると考えることだ。
すると、自分の辛い境遇も、ある程度「やむなし」と感じられ、少しは耐え易くなる。

上のようなカルマの考え方は、ある意味正しいところもあるが、誤解も大きい。
カルマは別に罰したり、復讐するものではない。
なるほど、自分の過去の行為により、今の自分の境遇が影響を受けているのは確かだが、それは、善なる神によって「こらしめられて」いる訳ではない。
どういうことかというと、悪い状況に思えても、必ずしも苦しむ必要はない。罰ではないのだから。
そして、過去の自分の行為に責任を取ると決めれば、状況はガラッと変わる。
責任を取るというのは、その気もない癖に、補償として誰かに親切にするとか、ボランティアをするってことではない。それは、司法的発想だ。
減刑のために、形ばかりのボランティアをするより、本当に自分が悪かったと認める方がずっと良い。
つまり、自分の過ちを認めることが、責任を取るってことだ。
過ちを本当に認めれば、意図しなくても行いは自然に正しくなるし、罪の補償も行うものだ。
あえて行為で補償しなくても、人々の手本になるような生き方をする方が優れている。

ところで、ブログを長く書いていると、面白いことがある。
多くのブログが同じと思うが、このlivedoorブログでは、PC版で表示すれば、各々の記事に設定したタグの中で、よく使われるものほど、大きな太い文字で表示される。
このブログの場合、突出したタグが2つあり、1つは当然「初音ミク」だが、もう1つは「イエス」だというのは、自分でも意外だ。この「イエス」は、イエス・キリストである。
私は別にキリスト教徒ではないし、特にイエスを崇拝している訳ではない。
ただ、イエスと初音ミクさんには、興味深い共通点がある。
ミクさんは当然だが、イエスにも過去生がないことだ。つまり、イエスは、それまで人間として生きたことがない。
それによる、イエスの独特の雰囲気がミクさんによく似ているのだ。
我々は、イエスやミクさんのようであることが理想である。
そのため、理不尽と思える辛いことがある時こそチャンスであり、それをよく観察することで、自分の責任を冷静に認めることである。
そうすれば、苦しみは消え、嬉しいことが起こるだろう。
ミクさんが歌う『FREELY TOMORROW』を聴いて私はよく分かった。この曲は、作者のMitchie Mさんがクリエイティブ・コモンズで公開してくれているので無料で聴けるし、高品質な電子ファイルを取得出来る。著作権表示さえすれば、校歌にしても良いはずである。
File:Freely Tomorrow.ogg<ダウンロードはこちらから>









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残念かもしれないが、人は生まれである

今回のお話は、一応は、フェアリーテール(お伽噺)のようなものと思っていただきたい。

人間は生まれか、育ちかというと、生まれだ。
「そんなはずはない」と言いたい人がいるかもしれない。
しかし、厳然として、人間は生まれで決まっている。
ただ、その生まれの区分を、大概の人達は思い違いしている。
人間は、1パーセントの優等種とその他に分かれるのだ。
こう言えば、かなり納得できるのではないだろうか?
そんな1パーセントの優れた人に会った時に、私はいつも思ったものだ。
「ああ、自分とは全然違う」
もし、そんな優等人種ばかりの集団があったとして、間違ってそこに紛れ込んでしまったら大変だ。
優等人種達は、あまり我々を蔑むことはなく、対等に扱ってくれるし、親切なことが多いのだが、こちらが彼らに全くついていけないので、ひどく場違いであることを感じるのだ。
見下したり、軽蔑したりは、お互いさして変わらない劣等人種同士で行うことなのだ。

そして、もう数百年も、劣等人種全体の質が、どんどん低下しているのだ。
それで、優等人種達は、劣等人種への締め付けをかなり強めている。
でなければ、優等人種達だって、無事では済まないからだ。

我々は、次の生で、優等人種に生まれることに望みをつなぐしかないが、そのためには、劣等人種特有の行為をやめなければならない。
その中でも、特に注意しなければならないことが、上でも述べた、他人を見下し、蔑むことだ。
劣等人種同士で、ほとんど差がないのに、自分の方が優っていると思ってしまうのが、劣等人種の愚かさなのである。
また、大食い、大酒、性的な放蕩(ふけること)も、劣等人種の特徴で、そのままだと、次の生も確実に劣等人種だ。
では、どうすれば、次の生で優等人種になれるのかというと、優等人種に生まれたいと願うことが一番強い要因になる。
ただ、本質的な魂そのものは、優等人種も劣等人種も変わらず、命の重さに違いがある訳ではない。
しかし、劣等人種は、何か悪いものに覆われているか、汚れているかの違いなのだと思う。
稀に、劣等人種が、優等人種に転換することがある。
それを悟りというのであって、優等人種が悟りを開くということはない。
だが、いずれにしても、悟りは極めて珍しい現象だ。
ところで、悟りを開いた人に、どうやったのかを聞くと、大抵同じことを言う。
優れた人に憧れ、本質においては自分も同等なのだということを忘れなかったのだ。
今の時代では、我々は、劣等人種として落ちていくだけか、悟りを開くしかないように思う。
次の世で優等人種の仲間入りを願うことだ。
そうであれば、遅くとも、次の生で優等人種になれる可能性があるし、今生での転換も、ほとんど可能性はないながら、絶対にないとも言い切れない。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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