1900年頃、インドのラマナ・マハルシが「私は誰か?」という大命題を発したと言われている。
ただ、マハルシは、インドの方言の1つであるタミール語で「ナン・ヤー」と言ったのであり、マハルシと同時代の聖者ニサルガダッタ・マハラジの弟子のラメッシ・バルセカールによれば、この言葉は、「私は誰か?」と言うよりは、「この自分とは何か?」という意味であるという(『誰がかまうものか』より)。
また、『ラマナ・マハルシの教え』を翻訳した山尾三省氏は「私とは?」という短い言葉にしていたようである。
しかし、「私は誰か?」でも「この自分とは何か?」でも、「私とは?」でも、答は同じで、もう分かっている。
伝統やしきたりでは、そんな答を明かしてはならないのかもしれないが、そうとは思えない。
答は、「私は存在するという感じ」だ。
まあ、この「感じ」のところが微妙で、いろんな言い方がある。
例えば、
「私は存在するという感覚」
「私は存在するという自覚」
「私は存在するというフィーリング」
「私は存在するという気分」
などだが、「気分」「フィーリング」などというのは個人的なもので、全ての人の共通の認識になり難い。
例えば、ベルリンフィル演奏の『新世界』を聴いた時の、各自の「フィーリング」「気分」などは千差万別とも言えるだろう。
また、さらに大きな問題にぶつかる。
それは、「存在する私とは何か?」である。
いったい、私の何が存在していると言えるのか・・・ということだ。
それに関しては、マハルシは、私とは身体ではなく、心でもないと言い切っている。
これでは、堂々巡りだ。
だが、ご安心を。
ラマナ・マハルシは、それについては答を示している。
それはこうだ。
たえず、「私、私、・・・」と思っていると、意識はハートに集まる・・・と。
このハートは心臓のことかというと、少し違うようだ。
マハルシは、ハートの位置は、胸の中央から指2本分右と言う。
ただし、それが経験的なものであることを、本人も認めている。
マハルシが言うには、人間が無意識に自分を指さす時、その部分(胸のやや右)を指さすのだそうで、そのようでもあるが、よく分らない。
ところで、『波動の法則』の著者、足立育朗氏は、『波動の法則 実践体験報告』の中で、自分や自分の研究所の人達は、心臓が胸の中央に移動していると言う。
それも何か関係があるのかもしれない。
『バガヴァッド・ギーター』には、神は心臓に棲むという記述もある。
いろいろ述べたが、結局のところ、存在する私は、意識のことであると言って良いだろう。
あるいは、胸のあたりを意識しながら「私」と思っても良い。
とにかく、「私は存在する」と感じることが重要だ。
それが、最上の瞑想であると思う。
初めのうちは、心の中で、静かに、ゆっくり、丁寧に「私は存在する」と唱えても良い。ただし、口で言ってはならない。
そうしていると、自ずと、「私は存在する」という感じが明確になるだろう。
そうすれば、信じ難いかもしれないが、眠っていても、「私は存在する」という自覚の記憶が残るようになる。これは、ニサルガダッタ・マハラジも述べていたことだ。
ヴァーノン・ハワードの書に、こう書かれている。
解脱すると、「あなたは誰か?」と聞かれても、黙って笑っているようになる。
答は「私は存在するという自覚」なのだし、それは幸福な感じなのだから、確かにそう反応するしかないだろう。
そのようになれば、全知万能ではあるが、どちうからというと、「何でも出来る何もしない人」みたいになるのだと思う。
しかし、実際には、何でも出来るのである。
ただ、マハルシは、インドの方言の1つであるタミール語で「ナン・ヤー」と言ったのであり、マハルシと同時代の聖者ニサルガダッタ・マハラジの弟子のラメッシ・バルセカールによれば、この言葉は、「私は誰か?」と言うよりは、「この自分とは何か?」という意味であるという(『誰がかまうものか』より)。
また、『ラマナ・マハルシの教え』を翻訳した山尾三省氏は「私とは?」という短い言葉にしていたようである。
しかし、「私は誰か?」でも「この自分とは何か?」でも、「私とは?」でも、答は同じで、もう分かっている。
伝統やしきたりでは、そんな答を明かしてはならないのかもしれないが、そうとは思えない。
答は、「私は存在するという感じ」だ。
まあ、この「感じ」のところが微妙で、いろんな言い方がある。
例えば、
「私は存在するという感覚」
「私は存在するという自覚」
「私は存在するというフィーリング」
「私は存在するという気分」
などだが、「気分」「フィーリング」などというのは個人的なもので、全ての人の共通の認識になり難い。
例えば、ベルリンフィル演奏の『新世界』を聴いた時の、各自の「フィーリング」「気分」などは千差万別とも言えるだろう。
また、さらに大きな問題にぶつかる。
それは、「存在する私とは何か?」である。
いったい、私の何が存在していると言えるのか・・・ということだ。
それに関しては、マハルシは、私とは身体ではなく、心でもないと言い切っている。
これでは、堂々巡りだ。
だが、ご安心を。
ラマナ・マハルシは、それについては答を示している。
それはこうだ。
たえず、「私、私、・・・」と思っていると、意識はハートに集まる・・・と。
このハートは心臓のことかというと、少し違うようだ。
マハルシは、ハートの位置は、胸の中央から指2本分右と言う。
ただし、それが経験的なものであることを、本人も認めている。
マハルシが言うには、人間が無意識に自分を指さす時、その部分(胸のやや右)を指さすのだそうで、そのようでもあるが、よく分らない。
ところで、『波動の法則』の著者、足立育朗氏は、『波動の法則 実践体験報告』の中で、自分や自分の研究所の人達は、心臓が胸の中央に移動していると言う。
それも何か関係があるのかもしれない。
『バガヴァッド・ギーター』には、神は心臓に棲むという記述もある。
いろいろ述べたが、結局のところ、存在する私は、意識のことであると言って良いだろう。
あるいは、胸のあたりを意識しながら「私」と思っても良い。
とにかく、「私は存在する」と感じることが重要だ。
それが、最上の瞑想であると思う。
初めのうちは、心の中で、静かに、ゆっくり、丁寧に「私は存在する」と唱えても良い。ただし、口で言ってはならない。
そうしていると、自ずと、「私は存在する」という感じが明確になるだろう。
そうすれば、信じ難いかもしれないが、眠っていても、「私は存在する」という自覚の記憶が残るようになる。これは、ニサルガダッタ・マハラジも述べていたことだ。
ヴァーノン・ハワードの書に、こう書かれている。
解脱すると、「あなたは誰か?」と聞かれても、黙って笑っているようになる。
答は「私は存在するという自覚」なのだし、それは幸福な感じなのだから、確かにそう反応するしかないだろう。
そのようになれば、全知万能ではあるが、どちうからというと、「何でも出来る何もしない人」みたいになるのだと思う。
しかし、実際には、何でも出来るのである。