荘厳な目標や、高貴な願いといった立派なものではなく、こまごまとした希望まで、神様は面倒を見てくれるだろうか?
私が好きな引き寄せ関連の本である、『とんでもなく全開になれば すべてはうまくいく』では、著者のトーシャ・シルバーは、自信満々で、「その通り」と言っている。どこに書かれていたかは、ちょっと覚えていないが。
私の場合、むしろ、小さなことの方が不思議な流れでよく叶うように思う。
小さなことであれば、あまり切実でないために、執着がないからではないかと思う。
「こうなったらいいけどなあ」といった軽い気持ちで思ったようなことで、叶えばラッキーだが、駄目なら駄目でいいや・・・いわゆるダメモトというやつだ。
私以外にも、ダメモトと思っていたら案外に叶うのだと実感している人は多いのではないだろうか?
そして、多少大きなことでも、軽い気持ちで願えば、案外、あっさりと叶うものだと思う。
だが、大きな願いや切実な願いは、どうしても、執着してしまうもので、それだと叶い難いのであると思う。
つまり、願いの大きさというのは、あまり関係がないのかもしれない。
気楽にというか、平常心でいれば良いが、平常心というのは、落ち着いた、穏やかな状態の心のことだ。
だから、無心とか忘我の状態と言った方が適切かもしれず、そんな心でいれば、願いは叶い易い。
そして、イエスが言ったように、「神はあなたの願いなどとっくに知っている」のであり、しかも、「人間ですら、自分の子供に良いものをあげるではないか。まして、神が我々に良いものを下さらないはずがあろうか」と言う通り、落ち着いてさえいれば、それだけで良い結果になる。
では、どうすれば、落ち着き、無心になり、忘我になれるのか?
もちろん、真言を唱えることによってである。
真言は、心の奥の奥の、潜在意識よりも奥の、超意識とか純粋意識と呼ばれるところにある。
長い間、優れた人達が唱え続けたことで、そして、今も唱えていることで、そんな深い場所に浸透したのだ。
海の表面が荒れていても深海が静かなように、表面的な心が騒いでいても、深い心は静かだ。
真言を唱えれば、超意識に存在するエネルギーと同調し、心は透明になり、願いは容易く叶う状態になるのである。
それを知っていたから、親鸞、それに、岡田虎二郎は、「念仏さえ唱えれば、一切の問題が解決し救われる」と述べたのであるが、念仏も真言の1つである。
真言は個人の力ではなく、心の深淵に存在する強力な力であるのだから、別に、我々が、努力したり、忍耐したり、克己を心がける必要はない。
むしろ、努力なく唱えれば、すぐに、心の深淵の真言の実体と共鳴する。それは、とても楽しいことだ。
ただし、表面の心が、あまり雑であっては、深遠の心と同調し難いので、真言は、心の中で丁寧に唱えないといけない。だが、注意としてはその程度である。
つまり、改めて言うと、真言は、心の中で丁寧に唱えなければならまい。このことだけは、ほんの少し努力すべきである。
「南無阿弥陀仏」でも「南無観世音菩薩」でも「南無妙法蓮華経」でも、般若心経の呪文でも、様々な仏様の真言でも、優れた真言であれば、超意識の中に壮大な響きとして存在するのだから、何を唱えても、同じと言えば同じである。
日本人の場合、「いろは歌」や「ひふみ祝詞」との距離が近いかもしれないが、別に、仏教の真言が、問題があるほど遠いわけではない。
好きなもの、好ましいと感じるものを唱えれば良いのである。
家の宗派が何かなど、全く関係ない。
超意識は世界の創造の場でもある。
普段から数多く真言を唱え、超意識と同調していれば、願う前に叶うことも珍しくはない。
聖書に書かれているように、神は「呼ぶ前に答えてくれる方」なのである。
私が好きな引き寄せ関連の本である、『とんでもなく全開になれば すべてはうまくいく』では、著者のトーシャ・シルバーは、自信満々で、「その通り」と言っている。どこに書かれていたかは、ちょっと覚えていないが。
私の場合、むしろ、小さなことの方が不思議な流れでよく叶うように思う。
小さなことであれば、あまり切実でないために、執着がないからではないかと思う。
「こうなったらいいけどなあ」といった軽い気持ちで思ったようなことで、叶えばラッキーだが、駄目なら駄目でいいや・・・いわゆるダメモトというやつだ。
私以外にも、ダメモトと思っていたら案外に叶うのだと実感している人は多いのではないだろうか?
そして、多少大きなことでも、軽い気持ちで願えば、案外、あっさりと叶うものだと思う。
だが、大きな願いや切実な願いは、どうしても、執着してしまうもので、それだと叶い難いのであると思う。
つまり、願いの大きさというのは、あまり関係がないのかもしれない。
気楽にというか、平常心でいれば良いが、平常心というのは、落ち着いた、穏やかな状態の心のことだ。
だから、無心とか忘我の状態と言った方が適切かもしれず、そんな心でいれば、願いは叶い易い。
そして、イエスが言ったように、「神はあなたの願いなどとっくに知っている」のであり、しかも、「人間ですら、自分の子供に良いものをあげるではないか。まして、神が我々に良いものを下さらないはずがあろうか」と言う通り、落ち着いてさえいれば、それだけで良い結果になる。
では、どうすれば、落ち着き、無心になり、忘我になれるのか?
もちろん、真言を唱えることによってである。
真言は、心の奥の奥の、潜在意識よりも奥の、超意識とか純粋意識と呼ばれるところにある。
長い間、優れた人達が唱え続けたことで、そして、今も唱えていることで、そんな深い場所に浸透したのだ。
海の表面が荒れていても深海が静かなように、表面的な心が騒いでいても、深い心は静かだ。
真言を唱えれば、超意識に存在するエネルギーと同調し、心は透明になり、願いは容易く叶う状態になるのである。
それを知っていたから、親鸞、それに、岡田虎二郎は、「念仏さえ唱えれば、一切の問題が解決し救われる」と述べたのであるが、念仏も真言の1つである。
真言は個人の力ではなく、心の深淵に存在する強力な力であるのだから、別に、我々が、努力したり、忍耐したり、克己を心がける必要はない。
むしろ、努力なく唱えれば、すぐに、心の深淵の真言の実体と共鳴する。それは、とても楽しいことだ。
ただし、表面の心が、あまり雑であっては、深遠の心と同調し難いので、真言は、心の中で丁寧に唱えないといけない。だが、注意としてはその程度である。
つまり、改めて言うと、真言は、心の中で丁寧に唱えなければならまい。このことだけは、ほんの少し努力すべきである。
「南無阿弥陀仏」でも「南無観世音菩薩」でも「南無妙法蓮華経」でも、般若心経の呪文でも、様々な仏様の真言でも、優れた真言であれば、超意識の中に壮大な響きとして存在するのだから、何を唱えても、同じと言えば同じである。
日本人の場合、「いろは歌」や「ひふみ祝詞」との距離が近いかもしれないが、別に、仏教の真言が、問題があるほど遠いわけではない。
好きなもの、好ましいと感じるものを唱えれば良いのである。
家の宗派が何かなど、全く関係ない。
超意識は世界の創造の場でもある。
普段から数多く真言を唱え、超意識と同調していれば、願う前に叶うことも珍しくはない。
聖書に書かれているように、神は「呼ぶ前に答えてくれる方」なのである。