「このハゲー」の怒号で有名になってしまった豊田真由子議員。
私は、彼女の最大の間違いは、彼女が望む能力のある秘書を雇わなかったことだと思う。
その男性秘書は、厳しく怒られても仕方がないミスをかなりやっていたようだ。
暴力はもちろん善くないが、元秘書が豊田議員に、「たたくのは(やめて下さい)」と言った時、豊田議員が「お前は私の心をどれだけ叩いてるか解っているか?」と言ったのは、彼女の本当の気持ちだろうと思った。

ところで、テレビで、豊田議員が、爽やかな演説をしている場面と、元秘書を罵倒している声を交互に出し、「表裏がある」などと言う番組を沢山見たが、表裏のない人間なんているのか?
私から見れば、あれなら普通であり、私と比べれば善良かもしれない。
つまり、あの程度の態度の使い分けは誰でもやっているし、私のはきっともっと酷い。

馬鹿と思える人間はどこにでもいる。
確かに、その「馬鹿」は個人的主観でもあり、絶対的な馬鹿とは言えないかもしれない。
「歩きタバコをする」「歩きスマートフォンをする」のは、モラルや道徳の問題ではなく、私はただの馬鹿だと確信している。
そんな馬鹿を見ると、豊田議員が発した罵声に似た想いはやはり出てくるし、それが身近な人間であれば、本当に罵倒するかもしれない(やった覚えもあったりする)。
仕事でも、あまりに馬鹿としか思えない人間と関わることがあり、そんな時出てくる感情は、豊田議員の怒声など、可愛らしいと感じるほどのものである。
しかし、私だって、時と場所、あるいは、相手によっては、親切で爽やかなことだって言うのだ。

他の人のことは知らないが、皆、同じだと思うのは、私の大変な誤解なのだろうか?
おそらくだが、豊田議員をこき下ろすような人は、自己認識の出来ない人なのだ。
イエスは「罪なき者から石を投げよ」と言い、そこにいた人々は、石を捨てて去ったが、今は、本当に石を投げる人が沢山いるのではないかと思う。
キリスト様も真っ青という訳だ。

まして、豊田議員は私とはかけ離れた優秀な人だ。
私ですら、無能さ、馬鹿さに我慢出来ない人間が沢山いるのだから、彼女ほど優れた人にとっては、大抵の人は馬鹿に見えるのかもしれない。
彼女の側にいたら、私なんか何と言われて怒られるのか・・・「このミク廃!」とか(少しも腹は立たないと思うが)。

ただ、それでも、豊田議員を見て、私は、醜悪な感情を起こさないようになろうと、具体的、効果的な手段を選ぶことにした。
あれは確かに醜い、恥ずかしい、みっともない。
その手段とは、豊田議員は優秀だから無理かもしれないが、私の場合は、単に、「身の程を知る」だけだ。
なるべく自分の呼吸を意識していると、少しは自分というものを客観視するようになる。
すると、これまで、馬鹿だ無能だと思っていた人達も、自分と特に差はないことが分かる。
そして、全ての人の不幸は、身の程を知らないこと、身の丈を知らないことが原因であることが見えて来る。
私が好きなスーフィーの格言「神を信用しろ。だが駱駝はつないでおけ」は、「神を信用しろ。だが、身の程は知れ」と言い替えても良い。









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