ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

論語

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
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論語は孔子のウンコでしかない

人間は、「最低だ」という意味で、よく、クソと言う。下品ではあるが、最低であることを最も効果的に言うにはそれが一番なのだろう。
『僕は友達が少ない』という小説・アニメで、10歳の銀髪の美少女マリアが、彼女からみれば、世の中の大半のことは最低なのか、やたら「ウンコみたいだ」と言う。せっかく可愛いのに勿体無いと思う。

ところで、『荘子』にもこんなお話がある。
ある偉い人が本を読んでいたら、庭で仕事をした大工が上がってきて、「旦那様、何を読んでおいでですか?」と尋ねた。
偉い人は、「昔のとっても偉い人の教えが書いてあるのだよ」と大工に言う。
すると大工は、「なんだ、それじゃ、その本はウンコみたいなものですな」と言った。
2千数百年前の中国であるが、大工が簡単に書斎に入ってこれるのだから、良い旦那様ではあると思うが、そう言われて彼は、「大工ふぜいに何が分かる!たたではすまさんぞ」と激怒して言った。
だが、大工には、自分が言ったことは当たり前のことなので平気だ。大工は言う。「あたしゃ、息子もせいぜい仕込んだが、それでも、70もとおに過ぎた今になっても、私にしか出来ないことがあります。その経験からも、言葉で教えることなんか、たかが知れてると分かるのです」。
※これは、荘子の外編のお話で、荘子直筆ではないかもしれない。内編の本には基本的に載っていないが、下記に紹介する書籍には載っている。

『論語』を有難がって読んでいる人もいるが、それは、せいぜいが孔子のウンコである。
そりゃ、孔子は賢い人なので、教えがよく伝わるよう、最高の表現で書いたのだろうが、所詮、言葉である。
だが、ウンコからでも、それを理解する方法はある。それは、千回くらい読むことだ。そうやって、文字の間に潜む霊のようなものを感じることだ。
また、論語を偉そうに講釈している人より、それを一度も読まず、「孔子様、どうか知恵をおさずけ下さい」とずっと祈っている人の方が賢いことが多いのである。

そんなことをよく分かっていたのが釈迦だった。
自分が生きている間や、直接指導した弟子達が教えている間はまだいい。しかし、いずれ、自分の教えは何の効果もなくなることをよく知っていたのだ。
そこで、人間を理解し尽していた釈迦は、難しい教えなど無用の、英知を得る最高の方法を残し、「これだけで良い」と言ったのだ。それは、「仏様を褒め称え、いつも想え」ということだった。そのためには、仏様の国や仏様のお姿をイメージしろということだが、名前を呼ぶだけでもいいとした。それが、念仏という教えになった。
万巻の経典を読むより、「南無阿弥陀仏」を唱える方が良いということで、法然はそれを教え続けた。
念仏はウンコではなく、美味しい食べ物である。
一方、道元は座禅という形で、親鸞は、信心という心で、宇宙一体化の道を説いた。それらも、理屈無用の優れたものである。
至高の聖典『バガヴァッド・ギーター』でも、至高神クリシュナは、最終的には、ただ自分を拝めと教えているのだ。それで万事OKである。
尚、キリスト教では、詩篇という形で、それをしたと思う。詩篇は、繰り返し読むことで、言葉を超えた霊と感応し、至高の英知である神と1つになるためのものである。そして、間違うことのない方法である。
人間など、所詮、愚かなものだ。難しいことをやると、ろくなことにならないものだ。









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孔子VS荘子~論語のように生きられる訳ないだろ~

『論語』といえば、お釈迦様とほど同時代といわれる2500年前に孔子が書いた、人類の英知の極地とも言われる名著で、現在も、特に経済界などで信奉者が沢山いる。
ところが、孔子を徹底してけなし、ほとんど馬鹿にした人が、孔子より100年ばかり後の人と言われる荘子だ。

『論語』は、これを読み込んでいれば、いかなる場所でも、重々しく引用できる名言だらけだ。
仁義礼学という、道徳、知性、品格など、人間が人間たる価値とは何で、それをどう高めるかといったことが、人類最高の英知の持ち主が説いているのであえる。
一方、荘子の言葉も数多く引用されるが、どうも論語とは雰囲気が違う。あまり重々しくもないし、知られてはいるが、意味はよく分からないといったものもある。「無為の為」だの「無用の用」なんてのは、言葉として面白い程度に思われているかもしれない。

『論語』は、数多くの貴重な教えに満ちている。
一方、『荘子』に書かれていることは、つまるところ1つだ。それは、「なりゆきにまかせろ」だ。言い方を変えれば、「作為をするな」、「思慮分別を捨てよ」であるが、やはり、一見すると軽薄な感じもする。

荘子は、なぜ、あそこまで孔子を叩いたのだろう?
また、荘子は、友人だった、孔子的な思想を持った恵子(けいし)も、しょっちゅう、からかってやり込めていたようだ。

以下は、本には書かれていないことである。
荘子は、論語を熟読し、非常に感動し、孔子こそ、人類最高の英知の持ち主であると思ったのだ。論語に書かれていることは全く正しいと納得していた。
だが、ふと思ったのだ。では、私は、論語に書かれている通りに生きられるのかと。いや、自分はまだ恵まれた立場だし、努力くらいは出来るかもしれない。しかし、今の生活に追われ、学問などに全く縁の無い衆庶(しゅうしょ。庶民のこと)となると、全く絶望的だ。
立派な人間になるのに論語が良いものだとしたら、下々の人達は駄目な人間でいるしかない。しかし、論語を暗誦するまで読み込んだ愚か者もいれば、学問など知らなくても素晴らしい人間もいるではないか?
いわゆる、「論語読みの論語知らず」の者達だって、論語を誤解している訳でない。ちゃんと理解しているのである。
いや、くどくど言わず、簡単に言えば、論語は素晴らしいが、「こんなこと出来るかあ!」と言いたいのである。

同じことを悩んだのが法然だった。
浄土系仏教の経典である『観無量寿経』には、極楽浄土に行くために、常に良いことを、心からの行いとしてやれと書かれている。そりゃ、それができないなら、阿弥陀仏の名前を呼びさえすればいいとも書かれている。しかし、やはり、立派な行いをしろと長々と強調しているのだ。それも、心がこもっていないと駄目なのだ。
法然は、そんなこと、貧苦に喘ぐ一般庶民に教えられるかいと思ったし、正直言って、自分も完全に出来るとは思えなかったのだろう。
だが、彼が敬い、傾注していた、中国の偉大な僧であった善導も、『観無量寿経』の解説書に、道徳的な規律や心がけについては、やはり大切であるとはっきり書いているのである。
しかし、法然は、考えに考えた末、とんでもないことを言い出した。
『観無量寿経』や、善導による解説書には、いつも良いことを心から行えと書かれている。一方、それができない愚か者は、阿弥陀如来の名前を呼ぶだけでも救われると書かれている。つまり、結論はこうだ。
「観無量寿経には、結局、ただ、阿弥陀仏の名前を呼びさえすれば良いと書かれているのだ。厳しい行をしろと書かれているのは、実は、この厳しい行を捨てろという意味である」
なんとも凄い発想である。
私は、思わず、青池保子さんの大長編漫画『エロイカより愛をこめて』に登場する、大ナルシストの泥棒で、漫画のタイトルにその名を冠するエロイカ伯爵を思い出す。彼は、素晴らしい美術品を見ると、「これを私が目にしたということは、神が私に、これを得よと言っているということだ」として、堂々と盗むのである。なんとも自己中心主義、なんともご都合主義であるが、この「なんとも」がつくのと、ただの自己中心主義、ご都合主義とは、何か違うのである。

法然は、極楽浄土に行くためには、良い行いや心がけなど一切不要で、ただ、阿弥陀仏の名を呼べば良く、それは、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えれば良いということだとし、自分も、これ以外の考えは持たぬと言い、遺書にもそう書いた。
別に、法然は、良い行い、良い心がけを否定したのではない。それらは良いものだし、それをするのは望ましい。しかし、「できんだろ?あんたにも俺にも」と言ったのだ。
口先だけ立派なことを言っても、実際にやってることは全然違うセンセイ達とは偉い違いではないだろうか?
法然の弟子の親鸞となると、その念仏もあんまし楽しくないなあとまで言い出した。さらに、肉は食うし、子供は作る。しかし、親鸞は法然を超えたと言われる名僧だ。まあ、親鸞の話は今回は置いておく。

イエスは、人々に、律法(モーセが教えた規律)を守れと言った。盗むな、殺すな、嘘を言うな、親を敬え、夫や妻以外と性行為をするな・・・などである。
しかし、誰かがイエスに、「一番大切なのはどれですか?」と尋ねたら、イエスは「神を愛せよである」と即答した。
法然流に言えば、神を愛せよ以外は、それ(神を愛せよ以外の律法)を捨てるために、とりあえず言ったのだということになる。
とんでもない話と言われそうだが、その通り(法然の言う通り)ではないだろうか?
昨日も書いた、藤圭子さんの『命預けます』ではないが、「嘘もつきます、生きるため」で、嘘をついたことのない人はいないし、犯罪にはならなくても、事実上の盗みなら、いっぱいやっているはずだ。その自覚が無いことの方が悪い。

そうだ。イエスも、ただ、神を愛し、信じなさいとだけ言ったのだ。
具体的には、詩篇23や91の通りに祈れば良いのだし、それをやった人達は奇跡を起こしている。
それは、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えることと全く同じだ。

ただ、イエスも法然もこう言っているのだろう。
「それだけやれば、後のことは自然にできるようになる・・・はずだ。多分・・・」
まあ、堅いことは言わないことだ。人の本性は善なのである。多分・・・









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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