「運命を呪う」なんて言葉があるが、不幸によって、自分の状況が運命であると自覚できるようになるのなら、それは良いことなのだ。
ものごとが上手くいって調子に乗っている時は、人間というものは、それを自分の力で起こしたと思い、それが運命だとは言わないものだ。
全ては運命だ。良いことも悪いことも。
あなたに選択の余地なんて全くない。
だが、それは言い換えれば、あなたには何の責任も無いということだ。
今の時代にこんな話は何であるが、あなたが駄目で、娘が身売りしたとしても、それがあなたの運命であり、娘の運命だ。
それは、初めから決まっていた必然であり、どうしようと変えることは出来なかったのだ。
舞台で、シェイクスピアの『リヤ王』の、欲深い姉娘を演じている役者が、「リヤ王に悪いことをしたくない。こんな役は嫌だ」と言ったとしたら間抜けな話であり、誰も誉めず、役者失格だと言われるだけだ。
我々も同様だ。我々も単なる役者であり、シナリオを作るのは役者の仕事ではない。
「もっといい人生が欲しい」と言うのも、役者が劇の途中で、「もっといい役をやりたい」と言うようなもので、ただ愚かとしか言いようがない話だ。
好きだろうが嫌いだろうが、リヤ王の姉娘役と決まったら、最後まで、シナリオ通りにそれを演じなければならないのだ。
『燃えよドラゴン』という、ブルース・リー主演の映画で、少林寺の武道家リーが良いことを言っていた。
「良き闘いは、少人数で真剣に演じる劇のようなもの」
「立派な武道家は緊張せずに闘いに挑む」
「私は打たない。拳自らが打つ」
闘いは劇のようなものどころか、劇である。
結果は決まっているのに、闘いに緊張しても仕方がない。
打つのは、ある意味、シナリオを書く作家であり、それは神だ。
勝つか負けるかは、神次第だ。緊張したり、「勝ちたい」と願っても無意味だ。なりゆきに任せ、冷静でいるべきなのだ。
いかに悪い役を演じる役者であっても、実生活とは何の関係もない。
我々も同様である。幼稚園の劇である程度の外の世界など、本当の世界の本当の我々には何の関係もない。
人間は、劇に夢中になり過ぎて、役になりきってしまっていると私が思ったのは、小学3年生の時、習い事から歩いて帰る途中だった。
笑顔で学校に通うような子供達を別人種だと感じるほど、あまり楽しくない学校生活であったが、そのことに気付くと、安らかな気分になったものだ。
そして、この外の世界には、ある約束事があるのだという想いが浮かんだ。
それが、呪文や祈祷や、あるいは、儀式になったのだが、それをすることで、苦しみから離れるようなものがあるということだ。
なぜそんなものがあるのかは分からないが、どうもそうなっているらしい。
だが、具体的に何をすれば良いのか、なかなか分からない。そして、ある程度は苦しい役をやらないと分からないという面は確かにある。
ある人にとっては、「世界人類が平和でありますように」という祈り言葉である場合もある。それを、見返りを求めず、欲望なく言えるならそうなのだ。
ある人にとっては、聖書の詩篇91であったり23であったりする。
また、般若心経や大祓詞であるかもしれない。
あるいは何かの奉仕活動であったり、武道であったり、楽器の演奏であったり、ビジネスであるかもしれない。
ポイントは、「決して得をしない」ということだ。
つまり、世間というのは、その大切なことを、あなたに気付かせないようにする役割を持っているのである。
だって、世間では、「これが得ですよ」「そんなことしたら損しますよ」ばかりじゃないか?
そんな雑音を無視し、欲望の想いなく、何の見返りも求めずに出来ることをしなくてはならないのだ。
そして、何をすれば良いかは、欲望を諦め、心を虚しくしていると自然に分かるものである。
そうなれば、平和は約束されていると言って良いだろう。
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ものごとが上手くいって調子に乗っている時は、人間というものは、それを自分の力で起こしたと思い、それが運命だとは言わないものだ。
全ては運命だ。良いことも悪いことも。
あなたに選択の余地なんて全くない。
だが、それは言い換えれば、あなたには何の責任も無いということだ。
今の時代にこんな話は何であるが、あなたが駄目で、娘が身売りしたとしても、それがあなたの運命であり、娘の運命だ。
それは、初めから決まっていた必然であり、どうしようと変えることは出来なかったのだ。
舞台で、シェイクスピアの『リヤ王』の、欲深い姉娘を演じている役者が、「リヤ王に悪いことをしたくない。こんな役は嫌だ」と言ったとしたら間抜けな話であり、誰も誉めず、役者失格だと言われるだけだ。
我々も同様だ。我々も単なる役者であり、シナリオを作るのは役者の仕事ではない。
「もっといい人生が欲しい」と言うのも、役者が劇の途中で、「もっといい役をやりたい」と言うようなもので、ただ愚かとしか言いようがない話だ。
好きだろうが嫌いだろうが、リヤ王の姉娘役と決まったら、最後まで、シナリオ通りにそれを演じなければならないのだ。
『燃えよドラゴン』という、ブルース・リー主演の映画で、少林寺の武道家リーが良いことを言っていた。
「良き闘いは、少人数で真剣に演じる劇のようなもの」
「立派な武道家は緊張せずに闘いに挑む」
「私は打たない。拳自らが打つ」
闘いは劇のようなものどころか、劇である。
結果は決まっているのに、闘いに緊張しても仕方がない。
打つのは、ある意味、シナリオを書く作家であり、それは神だ。
勝つか負けるかは、神次第だ。緊張したり、「勝ちたい」と願っても無意味だ。なりゆきに任せ、冷静でいるべきなのだ。
いかに悪い役を演じる役者であっても、実生活とは何の関係もない。
我々も同様である。幼稚園の劇である程度の外の世界など、本当の世界の本当の我々には何の関係もない。
人間は、劇に夢中になり過ぎて、役になりきってしまっていると私が思ったのは、小学3年生の時、習い事から歩いて帰る途中だった。
笑顔で学校に通うような子供達を別人種だと感じるほど、あまり楽しくない学校生活であったが、そのことに気付くと、安らかな気分になったものだ。
そして、この外の世界には、ある約束事があるのだという想いが浮かんだ。
それが、呪文や祈祷や、あるいは、儀式になったのだが、それをすることで、苦しみから離れるようなものがあるということだ。
なぜそんなものがあるのかは分からないが、どうもそうなっているらしい。
だが、具体的に何をすれば良いのか、なかなか分からない。そして、ある程度は苦しい役をやらないと分からないという面は確かにある。
ある人にとっては、「世界人類が平和でありますように」という祈り言葉である場合もある。それを、見返りを求めず、欲望なく言えるならそうなのだ。
ある人にとっては、聖書の詩篇91であったり23であったりする。
また、般若心経や大祓詞であるかもしれない。
あるいは何かの奉仕活動であったり、武道であったり、楽器の演奏であったり、ビジネスであるかもしれない。
ポイントは、「決して得をしない」ということだ。
つまり、世間というのは、その大切なことを、あなたに気付かせないようにする役割を持っているのである。
だって、世間では、「これが得ですよ」「そんなことしたら損しますよ」ばかりじゃないか?
そんな雑音を無視し、欲望の想いなく、何の見返りも求めずに出来ることをしなくてはならないのだ。
そして、何をすれば良いかは、欲望を諦め、心を虚しくしていると自然に分かるものである。
そうなれば、平和は約束されていると言って良いだろう。
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