ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

観音経

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
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信念を持てる方法

イエス・キリストの有名な言葉に、こんなものがある。
「山に向かって、歩いて海に入れと命じ、必ずそうなると信じて疑わないなら、そうなる」
だが、イエスは、「だから信じろ」と言ったわけではなく、可能性を示しただけだ。
そんなことを容易く信じられる者がいたら、その者が心配である(笑)。

ところが、アメリカの牧師ロバート・シュラーは、これについて、良いことを指摘している。
シュラーは、晩節を汚した感もないではないが、少なくとも、ある時期までは賢者であった。
シュラーは、こう言ったのだ。
「イエスは、どのくらい時間がかかるかは言っていない」
つまり、山に「海に入れ」と言い、そうなると信じたとしても、実現には時間がかかるかもしれないのだ。
確かに、億年単位の時間が経過すれば、地殻変動で、その山が海の中にあるかもしれない(笑)。
ところで、私が最近ハマっている『魔王学院の不適合者』に、こんなお話があった。
これと類似の話は沢山あり、やはり、大切なことを示していると思う。
レイという名の剣の達人の、子供の時の話だ。
母親に料理を教えてもらおうとしたレイが、不意に、包丁で鉄の鍋を切ると言い出した。
この母親の偉いところは(実際、偉大な女性であった)、レイに好きなようにやらせたことだ。
無論、何でも許すわけではないだろうが、直観的に止めてはいけないと思ったのだろう。
しかし、レイが、何度包丁で鍋を叩いても、切れるはずがない。
だが、レイは諦めずに続け、母親も黙って見ていた。
そうしたら、とうとう、レイは包丁で鍋を切ってしまったのだ。
これが、すぐに出来なくても、諦めなければ、いつかは出来るということであり、言い換えれば、「出来るまでやる」姿勢が最も大切なのだ。

さて、『ポケット 心の旅 法華経 入門 』という本に、法華経の25章『観音経』に書かれているように、真言が本当に奇跡を起こしたエピソードが沢山取り上げられている。
『観音経』では、観世音菩薩の名を呼ぶことで、あらゆる奇跡が起こることが書かれている。
呼び方は「南無観世音菩薩」(これも真言と考えて良い)でも良いし、また、この本では、「オン、アロリキャ、ソワカ」などの観世音菩薩の真言も紹介されている。
『観音経』の奇跡の話は、あくまでたとえ話で、本当のことではないと言う人は多いし、漫画家で宗教家の桑田二郎氏のように、「これは現実世界の話ではなく霊の世界の話なのだ」として解説する人もいる。
しかし、この本では、実例を挙げ、真実の話であるとしている。
だが、残念なことに、この本では「毛ほども疑ったら、観音様はそっぽを向く」と書いているのだ。
「毛ほども疑わない」なんて、洗脳でもされていない限り無理だろ(笑)。
だが、上の剣聖レイのように、出来るまでやろうとすることで、信念が高まるのである。
言い換えれば、信念とは無理に持つものではなく、出来るまでやる、効果が出るまでやるという心構えによって得られるのである。

いつも言うが、『観音経』に書かれている通り、真言を唱えれば無敵である。
しかし、そのためには、常に真言を唱える心構えが必要である。
あのレイのように、出来るまでやるかどうかが運命の分かれ目である。








必ず救われる観音様モデル

問題や悩みが消えない、願いが叶わないといったことで苦しんでいるなら、それを解決し、幸福になるための1つのシンプルなモデルがある。
それは、観世音菩薩に頼る方法である。
では、懸念は、観世音菩薩を信じるかどうかであるが、それはどちらでも構わない。
むしろ、世間の観世音菩薩への信仰はない方が良いかもしれないほどである。

どうやるかと、簡明に述べると、以下のようになる。
まず、『法華経』の第25章『観音経(観世音菩薩普門品第二十五)』を読む。
私は、十種類くらいの『法華経』を読んだが、『観音経』に関しては、庭野日敬氏の『現代語の法華経』が良いと思う。
とはいえ、基本、どれでも構わない。
ただ、全体としては優れている角川ソフィア文庫の『サンスクリット版縮訳 法華経 現代語訳』は、観世音菩薩という呼称を使っていない。それは、今回述べるのとは別モデルとしては良いが、今回のモデルには合わないように思う。

この『観音経』を読んで、観世音菩薩の力を認識する。
ただし、そこに書かれたお話は、漫画のようだと感じるかもしれない。
たとえば、観世音菩薩に救いを求めれば、あなたに切りつけた剣が、たちどころにバラバラに折れてしまうとか、理由によらず、手枷・足枷をはめられても(つまり、悪いことをして刑罰を受けてか、悪者につかまってのいずれでも)、その手枷・足枷が壊れて逃げられるとか、高い山の上から突き落とされても、地上にふわりと落下して大丈夫といったお話が沢山出てくる。
もちろん、それらは比喩であり、そのあたり、庭野氏の『観音経』では本文内で、さりげなく示唆してくれている。
例えば、手枷・足枷をはめられるとは、自分の妄念や執着でがんじがらめになっている状態だが、観世音菩薩は、そんな囚われた心を壊して解放してくれるということである。
ただし、とりあえずは、言葉通りに受け取っても良いと思う。
なぜなら、観音様なら、その気になれば、そのくらいは出来そうだからである。
まあ、あなたを殺そうとするナイフを粉々にしないまでも、不思議な偶然が起こってナイフが刺さらなかったといったという程度のことは実際に起きている。
観音様も、出来るなら、さりげなく救いたいのだろうと思う。

観音様の力が分かったら、後は、『観音経』に書いてある通り、助けてもらうためには、観音様の名を読んだり、観音様を念じれば良い。
その方法は、次のいずれかの言葉を唱えるだけである。
「南無観世音菩薩」
「オン・アロリキャ・ソワカ」
いずれも、観世音菩薩の真言である。
別に両方でも構わないが、1つに決めた方がスムースと思う。
お金に困っていたら、「観音様、お金を下さい」と言葉で言ったり思ったりするのではなく、これらの真言を唱えていればお金も入るに決まっていると心の中で楽に思って、ひたすら真言を唱えるのである。
それであれば、心に葛藤が生じず、楽しく真言を唱えられるだろう。

『法華経』は、高度な宇宙人が古代の地球人類に与えた教えと考えても良いと思う。
当時の地球人に分かるように脚色したと言えるが、案外に、宇宙人もこのまま読むのである。
なぜなら、いくら知性が高くても、理屈よりも物語のイメージの方がはるかに効率的に精神力を使えるからだ。
このあたりは、この先、いくら人類が進歩しても変わらないと思う。
元々、「アヴァローキテーシュヴァラ―(サンスクリット語の観世音菩薩の名前)」という名の力の主体が、観世音菩薩やGuanyin(英語の観世音菩薩)になることは予定されていたことで、英語では"Om mani padme hum"というマントラが使われることも仕組まれていたが、いずれも有効である。
幸い、「南無観世音菩薩」や「オン・アロリキャ・ソワカ」の真言が必ず力を発揮することは実証されていると言って差し支えないと思う(織田隆弘氏の『観音開運法』が信頼があると思う)。
そんなわけで、困った時は観世音菩薩を頼るのが賢明である。
後は、ただ、唱える真言の数だけの問題である。

尚、別に、観世音菩薩でなければならないなどと言うつもりは毛頭ない。
真言密教の大日如来でも、浄土仏教の阿弥陀如来でも全く同じである。
ただ、『観音経』は、ソリューション(問題解決)のためには、非常に分かり易く、整えられたモデルであるため、成功率が高く、昔から広く愛用されていると思う。








真言の奇跡

キリスト教でも仏教でも、あるいは、他のいかなる宗教でも、困難があれば神や仏に祈ることは勧めても、それで実際に、問題が解決する・・・つまり、病気が治るとか、お金が儲かるとかいったことは言わない。
言ったら、お祈りが効かなかった時に文句を言われるし、病気が治るなんて言ったら、それこそ薬事法に違反するかもしれない。
それに、世間では、そういった「現世利益」があることを謳うのは、怪しい新興宗教であるという観念があるようにも思う。
だが、ジョセフ・マーフィーは、キリスト教の牧師であることは確かだが、既存のキリスト教とは異なる考え方を明確にし、あらゆる現世利益が得られる方法を教えながら、宗教家としても成功した。
しかし、そういったことは、アメリカでもだろうが、特に、日本の宗教界では、なかなかやれないだろう。
日本の仏教は、葬式仏教と言われるように、お葬式のためにあるようなもので、その職分を失うようなことは出来ないのだと思う。

ところが、織田隆弘(おだりゅうこう。1913~1993)氏という真言宗の僧は、実際は、戦後間もない頃からだと思うが、1970年代には、奇跡や現世利益をかなり表に出し、織田氏の著書は今でもロングセラーを続けている。実際、奇跡の実績も凄いらしい。
ただ、私は、宗教自体のことは知らないし、織田氏についても、昔、本を1冊読んだ程度なので、正確な引用ではなく、私の理解を述べるが、根本的には間違っていないと思う。
織田氏の宗派である真言密教は、空海が伝えたもので、手で印を結んだり、正式な座り方で座ったりするが、主には、真言(マントラ)を唱えることで、仏に通じ、結果、不思議なことも起こるというものだ。
織田氏の教えは、一般の人にも分かり易く、織田氏はとても偉い僧ながら専門馬鹿ではないことが分かる。
例えば、織田氏は、『観音経』を「法華経の25章」といった一般に分かり易い書き方をしてくれている。普通の専門家は「25章」ではなく「25品」と当たり前に書くが、いったい誰が「25品」なんて分かるだろうか?専門家は、そんなことが分からないのだろう。
で、『観音経』では、「観世音菩薩の名を呼べば、いかなる奇跡も起こる」と書かれているが、専門家の多くは、「それはあくまで方便じゃ。まさか、本当にそんなことがあるわけがない」といったことを言うが、織田氏は、そのままで良いと述べる。
つまり、「南無観世音菩薩」「観音様」「観世音菩薩」と一心に唱えれば、願いは叶うし、おそらく、「オン、アロリキャ、ソワカ」ならさらに良いのだろう。
これらの言葉は全て真言であり、 「オン、アロリキャ、ソワカ」は特に正統な真言なのである。
大日如来の真言なども勧めているようであるが、そのあたりは私は分からない。

ところで、織田氏は、浄土真宗の親鸞聖人について、よく取り上げておられたと思う。
親鸞といえば、師の法然と共に、「南無阿弥陀仏」の念仏だけを勧めたことで知られている。
そして、これは私の理解だが、織田氏の教えでは、「南無阿弥陀仏」だって真言なのである。
だから、「南無阿弥陀仏」と唱えれば、病気が治るなんて当たり前なのである。
もちろん、病気だけでなく、あらゆることに効果があるが、浄土真宗や浄土宗では、まさか、そんなことは言わない。
だが、実は、親鸞自体が、『現世利益和讃』として、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えれば、あらゆる現世利益があることを15の歌に詠んでいる。
まさに、念仏のスーパーパワー振りを堂々宣言している。
実際、念仏により奇跡が起こったという話はいくらでもある。
だいたい、現実の問題に効果がないとしたら、仏に力がないということになってしまうじゃないか。

私は、宗教とは関係なく、真言でうまくやってきたので、真言をお勧めはするが、具体的に、どの真言をというのはない。
言ってはなんだが、どれを唱えても同じと思っている。
ただ、肯定的に感じるものが良いだろう。
「南無阿弥陀仏」や、それこそ「南無妙法蓮華経」でも全然構わない。
ただ、私の場合だが、何度か葬式に出るうちに、「南無阿弥陀仏」の念仏のイメージがすっかり悪くなってしまった。
それもあって、昔から、阿弥陀如来真言「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」を唱えている。
とはいえ、この真言も「南無阿弥陀仏」の念仏も、同じなのである(専門家は細かいことを言うだろうが)。
一般的なことを言えば、『法華経』の「25章」の『観音経』を読んで、観世音菩薩の驚くべき力を知った上で、「オン、アロリキャ、ソワカ」、あるいは、「南無観世音菩薩」と唱えることをお勧めする。
ただ、あくまで、自分の好きなやり方でやるのが一番である。
数をこなせば奇跡も起こるだろう。
「数ではない。信仰が大切じゃ」と言う方もいるだろうが、私は、数こそ信仰と思っている。
いつも言うが、野球のバッターの実力は素振りの数で決まる。
真言は、人生の素振りのようなもので、数が多いほどうまくいくのだと私は思う。








観音様への救いの求め方

『観音経』は、『法華経』の25品目で、『法華経』の中でも特に人気があり、『観音経』が単独で本になっていることも多い。
丁度、ベドルジフ・スメタナの『わが祖国』の第2曲『ヴルタヴァ』(モルダウ、バルタバ)が特に人気があって、単独で演奏されることも多いようなものだ。

ただ、『観音経』の本には、デタラメな・・・と言うのではないが、独断的な解説をする者が多くて困る。
なるべく素直に和訳してくれれば良いが、元々がサンスクリット語で、これに通じた人は少なく、日本語訳は大抵、中国語訳からの和訳である。
そうなると、どうも、中国風になってしまうのだろう。

『観音経』というのは、簡単に言えば、観音様こと観世音菩薩の凄い力(ほぼ万能)について書かれ、その力で救ってもらうにはどうすれば良いかが書かれている。
そして、大抵の日本語訳では、観音様に助けてもらうためには、観音様の名を呼べば良いと書かれ、その呼び方は「南無観世音菩薩」と唱えることだと書かれている場合が多い。
その、あまりの安直さに異を唱える人も多く、そんな人達は、独自の宗教観、道徳観などを厳しく説く傾向があるようだ。

確かに、『観音経』の原文には、「南無観世音菩薩と唱えよ」とは書かれていないだろうし、そもそも、観世音菩薩という名は、あくまで中国人がつけたもので、観音様の本当の名前は、アヴァロー・キテー・シュヴァラ―という。
アヴァロー・キテー・シュヴァラーが「自在に観る者」と言う意味らしいから、観世音菩薩、あるいは、観自在菩薩という名も、間違いとは言えない。
しかし、角川ソフィア文庫の『サンスクリット版縮訳 法華経 現代語訳』で、観音様の名前を、「”自在に観るもの”(観世音)」と記しているのが、とても良いと思う。
だから、観音様に助けを求める時には、「自在に観るものよ」と唱えても良いと思う。
観音様は、この世の全てを観、全ての音を聴く能力がある。それも、心の声も含めてである。
だから、口で、あるいは、心で、「自在に観るものよ」と唱えると良いだろう。
ただまあ、そこは凄い仏様なのだから、「南無観世音菩薩」でも「観世音菩薩よ」でも「観音様!」でも良いはずである。

ところで、私は、庭野日敬氏の『法華経の新しい解釈』に書かれていることがとても良いと思った。
『法華経の新しい解釈』は、「新釈」と略されることがあるが、昔、刑務所に入れられていた男が、刑務所でこの「新釈」を繰り返して読み、心を入れ替え、出所後、経営者として成功した話を、私はどこかで見たことがあった。
この「新釈」の中で、庭野氏は、観音様の名を呼ぶというよりは、観音様を念ずるというのが正しく、どう念ずるかというと、観世音菩薩のようになりたいと憧れることであるといったことを書かれていた。
誰しも、本当に憧れている相手は敬うものである。
これは、イエスであろうが、クリシュナであろうが、阿弥陀如来であろうが、天照大御神であろうが同じであると思う。
イエスのようでありたいと憧れることが、イエスに対する最もよい祈りであるのだと思う。
そして、本当に憧れるなら、それを敬い、そして、人は、憧れ、敬うものになるのである。

ただ、心を向ける言葉がなくては不便なので、私なら、観世音菩薩の真言「オン、アロリキャ、ソワカ」を唱える。
また、阿弥陀如来なら、「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」である。
サンスクリット語が脳に良い影響を与えるという脳科学の研究もあるそうだが、私もそのように感じる。
「南無観世音菩薩」でも全然悪くないが、個人的には、宗教とか、いろんな俗書の手垢が付き過ぎていて、やや抵抗がある。








観音経のご利益について

『法華経』の25章(法華経では「25品」という言い方をする)は人気のある『観音経』だ。
観音様こと、観世音菩薩の力が凄いことが滔々(とうとう)と語られる。
どんな災害に遭おうが、どんな怪物が襲ってこようが、処刑されかけようが、我々を救うことなど観音様にとってはいとも容易い。
また、いかなる幸運も与えてくれる。
そのために我々がすべきことは、ただ、観音様の名を呼ぶだけである(日本語の観音経では、「南無観世音菩薩」を唱えよと書かれている)。
あるいは、供養すれば良いと書かれていて、具体的にどう供養せよとは書かれていないが、例えば、観音像を拝んだり、それにお供えをするようなことと思うが、他にも、いろいろなやり方があると思う。
観音様を供養する功徳がいかに大きなものであるかも書かれている。

そういった観世音菩薩が与えてくれるとされるご利益について、それを「念彼観音力(ねんぴかんのんりき)」と称して、そのままの意味で受け取る者もいる。
一方、高名な漫画家で宗教家である桑田次郎氏(桑田二郎と改名したようだが、ほとんどの作品は桑田次郎のペンネームが表記されている)が、『マンガで解きあかす観音経』で、「いくらなんでも、それでは荒唐無稽」と言い、これは霊的なお話であるとして詳しく解説され、やや理屈っぽくて、読んでいて疲れるが、一応、納得出来る内容だったと思う。

念仏として代表的な「南無阿弥陀仏」は、死んでから極楽浄土に行くためのものであるが、親鸞は『現世利益和讃』(親鸞の和讃の中の一部)で、「南無阿弥陀仏」には現世利益の力も抜群であることを説く。しかし、これに関しても、宗教家には「即物的に考えてはならない。深い意味があるのじゃ」と言ったり、本に書く者もいるだろう。
法然の『選択本願念仏集』によれば、阿弥陀如来は、念仏を唱える者を手厚く保護するとあるので、結果、『現世利益和讃』の通りになるということと思う。

さて、では本当のところ、どうなのかというと、常識的には、文面通りに受け取る訳にはいかないだろう。
確かに、「やったー!南無漢音菩薩と唱えさえすれば何でも思い通りなんだ!万歳!!」というボケた馬鹿共が本当にうまくいくことは、まあないだろう。
一方、「宗教って馬鹿だな。そんなんでうまくいく訳ないじゃないですか」と言う者もまた、暗く沈んだ人生を送り勝ちだ。

敢えて断言すれば、真実は『観音経』に書かれている通りなのである。
確かに、「南無観世音菩薩!一千万円」と言って、一千万円がぱっと出てくる訳ではないだろうが、そうなる人もいる。
観音経に書かれているように、わざわざ高い山から落ちたり、海に飛び込む必要はないが、危機一髪の中、奇跡的に助かる人もいる。
どんな人かというと、『矢追純一は宇宙人だった!?』で描かれた、矢追純一さんがまさに、そのような人だ。まあ、矢追さんは「南無観世音菩薩」と唱えたりはしないだろうが、全く同じことなのだ。
簡単に言えば、大雑把に目標を定めたら、後は、宇宙というか、大きな力にまかせ切ってしまうのだ。
そうすれば、高校生が妹2人を養いながら深夜まで酒を飲んで遊んでいられるし、そんな感じで高校には全く通っていなくても、特に当時は難関だった、名門中央大学法学部に現役合格出来る。大きな力にまかせ切っているので、キャッシュフローなど一切気にせずに、本当に必要なら土地でも美術品でも買ってしまうが、それで困ったことは一度もないと言う。
コツは、矢追さんの本で確認していただければと思う。
ところで、Amazonの電子書籍へリンクするURLが得られない(Amazonサイトのスクリプトの異変)ので、紙の書籍へのリンクを貼っておくが、Kindke本もある。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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