ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

観音経

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

元気を出すには大きく息を吸うだけ

アントニオ猪木さんが、キャッチフレーズ(キャッチコピー)にもなったような「元気があれば何でもできる」と言うのを聞くと、誰もがそれなりに納得していたと思う。
しかし、問題は「どうすれば元気になれるか?」である。
これも猪木さんの有名な「いち!に!さん!だあ!」では、一瞬少し気分が高揚するが、その一瞬後現実に戻る。
どうすれば元気になれるかというと、空気を大きく吸うことによってである。
人間は、嬉しい知られがあった時、大きく息を吸うことをご存じだろうか?
受験に合格した時、告白の返事がイエスだった時、宝くじで大金を当てた時、誰でも必ず大きく息を吸うのである。
良いことがあった時に元気が出るのではなく、息を大きく吸い込んだ時に元気が出るのだ。
人間の身体は息を大きく吸い込んだ時に快感を感じる仕組みになっており、それにより元気が出る。
まるで、この良いことに対応するためにエネルギーを充填するようなものである。
逆に、悪いことがあった時は、「もう何もしたくない」「生きるのも嫌だ」と感じて呼吸は止まるのである。
ただし、予想外の悪いことがあった場合は、本当に呼吸が止まって死なないよう、必死で息を吸うが、その呼吸は浅くせわしなくて、大きく息を吸うことをせず、元気が出ないのである。

通常、良いことが起こって大きく息を吸い込んで元気が出る。
一方、大きく息を吸って元気が出ると、良いことが起こる予感がするのである。
人間は、願いとか想像が実現するのではなく、予感が実現するのである。
良い予感も悪い予感も的中する。
だが、希望や不安は実現しない。
しかし、大きく息を吸って元気を出せば希望は実現する。
大きく息を吸わず、元気がなければ希望は実現しない。
大きく息を吸わず、元気がない時の不安は実現する。
しかし、大きく息を吸って元気を出せば不安は実現しない。
世間で「不安の90%は起こらない」などと言われているが、元気がない人の不安は結構起こっているのである。

雨の放課後
AIアート486
「雨の放課後」
Kay


『法華経』の中の『観音経』には、観世音菩薩の名を唱えれば、悪いことは起こらず良いことが起こると書かれている。
本当かというと本当である。
だが、名の唱え方が問題である。
この「観世音菩薩の名を唱える」は、何を唱えるのかというと「観世音菩薩」「南無観世音菩薩」「観音様」「アヴァローキテーシュヴァラー」など、何でも良い。
そして、「声に出して唱えよ」と書かれている。
この「声を出す」は、隣の人にも聞こえない小さな声でも良い。
ただし、一回唱えるごとに息を吸っていては駄目である。
連続して、息が続く限り出来るだけ多く唱えなければならない。とはいえ、あまり無理をしてはならない。
一分で千回唱える気持ちで唱えれば良い。
そうすれば、自ずと、息が続く限り速く唱えることになる。
そして、息が続くギリギリまで唱えた後、自然に大きく息を吸う。
その時、元気が起こり、良いことを呼び、悪いことを遠ざけるのである。
華厳経などの古い仏教の教典には、仏の名を唱えることには力があると説かれ、特に阿弥陀如来の名を唱えることについて書かれていることが、念仏の教えになったと考えられるが、どの仏の名も良いのである。
大切なことは、大きく息を吸うことである。
観音経は、経験的にか科学的にかは分からないが、実用的な真理を語っているのである。

◆記事に関連した書籍のご紹介◆
(1)現代日本語訳 法華経
(2)観音開運法―実体験が明かす「念彼観音力」の不思議!
(3)龍樹 (講談社学術文庫)
(4)健心・健体 呼吸法―釈迦が開発した集中力、閃き、健康の極意

やっぱり深呼吸が最重要である

政木和三さんという人は、小学5年生の時、毎日1時間の深呼吸の特訓を一か月ほどやることで超人になった。
つまり、習ったこともないピアノを凄い腕前で弾けるようになり(老齢になってからCDも出した)、お経の意味が勝手に分かるようになり、その他のことでも人間離れした能力を発揮し、80歳過ぎて死ぬまで超一流の人生を歩いた。
だが、彼は、パラメモリという装置を発明し、それを使えば深呼吸の修行は不要であると思わせるようなことを言った。
ただ、彼は、自分がやったような特訓めいた深呼吸の修行はやらない方が良いと思ったのではないかと思う。
ある、能力も外見も性格も最悪の青年が、朝晩30秒の深呼吸で、それらを大きく向上させた実話があるが、そのくらいにやれば良いのかもしれない。
しかし、とにかく、深呼吸は重要である。

名前を出したくないが(理由は伏せる)、一頃は、国民的英雄と言えるようなスポーツ選手を何人も指導した能力開発のスペシャリストがいたが、彼は「釈迦もイエスも深呼吸で悟りを開いた」と言っていたのだが、こう言っては何だが、能力開発セミナーをビジネスにしようと思ったら、そんなことはバラさない方が良いと思ったのかもしれない。
そして彼は、彼独自の〇〇法なんていうメソッドを作ってセミナービジネスで一世を風靡した。

とにかく、深呼吸が全てである。
そして、深呼吸のやり方は、私もいろいろ書いたが、つまるところ、好きなようにやれば良い。
単に、沢山空気を吸えば良いのである。
それだけでは酸素の過剰摂取になると言いたい人もいるだろうが、そうならないようにやれば良い。その程度のことが自分で出来ない者に見込みはない。
ポイントは「なるべく長時間行う」ことだけで、そのためには、「楽であること」「気持ち良いこと」が必要である。
これが、あらゆることに共通な向上の鍵だ。
しかし、特に日本人は根性論が好きで、どんなことも苦しんでやってこそ効果があると思い込んでいる。
運動であれば、キツイ運動、厳しい運動、顔を歪めて頑張る運動、シンドい運動でなければ駄目だと言う者が多いが、正直、そんなことを言うのはIQが低い証明でしかないと私は思う。
運動は、続けてこそ成果があるのであり、楽で気持ち良くなければ続かない。
それを、お金のため、マッチョになったりナイスバディになってモテるためという欲望で、辛いことを無理にやれば心も穢すだけである。

深呼吸も一種の運動で、「運動何かやってます?」という質問に、「ジョギングやってます」「腕立て伏せやってます」「水泳やってます」と同様に「深呼吸やってます」でも全然おかしくないと思うし、むしろ、運動としても最上かもしれない。
まあ、個人的には、運動では、腕振り運動と佐川幸義流四股をお薦めするが、いずれにしろ、自分が楽にやれ、気持ちいいと感じることをやれば良い。私も、個人的には高速腕立て伏せは、純粋に気持ちいいのでかなり気に入っている。

そして、昨日も書いたが、念仏やマントラ、呪文、アファーメーションを声に出して唱えることは優れた深呼吸である。
もちろん、声に出さず、心の中で唱えることも、思考を消す効果があるし、心の中で言葉を唱えながら行う深呼吸もあるが、マントラを声に出して唱えることは優れた深呼吸である。
マントラや念仏の言葉自体に霊的効果があるかどうかは、実際には分からないし、なくて良いと思う。
また、声に出すと言っても、最上なのは、「隣の人にも気付かれない」ほど微かな声で唱えることで、実際は、声自体は出ていないかもしれない。ただし、無関係な人がいない場所では、聞こえる声で唱えたり、大きな声で唱えるのも、楽しければやれば良い。
やり方というほどのものはないが、基本は、鼻から大きく息を吸った後、連続して唱え、あまり苦しくないところで、また大きく息を吸うということを繰り返すのである。1回唱えるごとに、あるいは、肺に十分に息が残っているうちに吸うようなやり方は良くない。

花と星は語る
AIアート482
「花と星は語る」
Kay


中岡俊哉さんが、「朝晩、自分の干支の守護仏の真言を唱えれば加護がある」と言われていたが、実際の効果は深呼吸の効果であるのだと思う。だが、方便としては良い教えであると思う。
罰当たりだと思う人もいるかもしれないが、『法華経』の中の『観音経』で、「観世音菩薩の名を唱えていれば、一切の災難を逃れ、あらゆる功徳を得られる」と書かれているが、これも、なるべく多く唱えることで、それが、長時間の深呼吸になるから良いのである。
それに、「観世音菩薩の名を唱える」と言っても、「観世音菩薩」というのは、中国とか日本で勝手に決めた名であり、実際はアヴァローキテーシュヴァラという名である。
また、翻訳された観音経では、「南無観世音菩薩と唱えよ」と書かれてあることも多いが、原文にはそんなことは書かれていない。
しかし、どう唱えようが良いのである。
実際の効果は深呼吸にあるのだから。
個人的には、観世音菩薩の真言と言われる「オンアロリキャソワカ」が唱えやすいので、これを愛用している。
じゃあ、念彼観音力というものはないのかというと、何ごとも同じで、あると思えばある、ないと思えばない、それだけである。
私は、おそらく半分くらいはあると思っている・・・というか、あればいいなあと思っている。

とにかく、肝心で大切なことは深呼吸である。
世界は地獄の季節に入った。
なおさら深呼吸が必要である。








信じられなくても願ってみる

思考する心より深い心は途方もなく巨大で、その中に、世界をどのようにでも作り変えることが出来る万能の力が秘められている。
その深い心を潜在意識と呼ぶ。
潜在意識は、思考する心が信じている通りに世界を作る。
自分が無力だと思っていれば、潜在意識の力によって無力になるが、多くの人は、幼い時に、親から、自分は無力だと教えられている。親だけでなく、学校やテレビや新聞は、直接的にではないかもしれないが、人々が、自分を無力だと思うような情報を流している。
あなたが無力だとあなたに教えた親だって、その親や学校やテレビや新聞等に、やはり自分は無力だと教えられたのである。
しかし、実際は、潜在意識の中には、万能の力が秘められており、思考する心が信じている通りに世界を作るのであるから、実際のあなたは無限とも言える力を持っている。
そして、どうやって、潜在意識の力を使うも何も、あなたは今すでに、その力を使っており、あなたが思う通りに世界は出来ている。

問題は、あなたが、自分の潜在意識の中に神のごとき力があることを知らないことだ。
だが、潜在意識の力について分かり易く書かれた本が沢山あるので、それを読めば、潜在意識の力について知ることが出来るだろう。
とはいえ、そんな本を読みながら、潜在意識の力があることを無理に信じようとしてはならない。
無理に信じようとしてはならないが、一方、頭から否定すべきではない。
だが、多くの人は、疑ったり、否定したりする。なぜなら、それが、親や学校やテレビの教育なのだからだ。
しかし、ただ淡々と読めば、それは真実であるのだから、自然に信じるようになる。
そして、うまくいく秘訣は、たとえ信じられなくても「そうであればいいなあ」と思うこと、つまり、自分の中に万能の力があることを願うことだ。
誰だって、そう願うはずである。
願うことすら出来ない人というのは、偽の力を信じてしまっている人なのである。
偽の力とは、世間の力のことで、例えば、権力とか、学歴とか、地位とか、お金などである。
それらは、刹那ではあるが、力や幸福を感じさせてくれる。しかし、偽の力は、所詮、悪魔の力、幻想の力で、いつかこっぴどく対価を支払わされる。
そんなものより、真実の力、潜在意識の力を願い、期待することだ。
そうすれば、やがて、信じられるようになり、信じれば、正しく考えるようになる。
正しく考えれば、望まなくとも幸運に恵まれる。

『法華経』の第25章の『観音経』に、万能の力を持つ観世音菩薩が登場する。
観世音菩薩は、本当は、外部にいる存在ではなく、我々の内部にいる力だ。
つまり、潜在意識の無限の力を観世音菩薩と呼んでいるのである。
そうであれば、観世音菩薩は確実に存在し、いかなる願いも叶う。
それを、誰にでも(子供にでも)分かるように書いたものが観音経である。








常識を消せば超能力は発現する

神仏に、願いが叶うことをお祈りをした時、どんな人の願いが叶うのだろうか?
それは、祈る人が、祈りを捧げる神仏について、
「どれだけ大きな力を持っているか?」
「どれだけ自分を愛してくれているか?」
と考えているかで決まる。
「愛してくれているか」について言えば、こんな問題がある。
特に、イスラム教徒がそうで、キリスト教徒やユダヤ教徒もだが、彼らは、神様に対して「天上にいる気難しくて怖い老人」というイメージを持っている。
彼ら(イスラム教徒など)にとって神様は、自分が悪いことをしたり、神が決めた掟を守らなかったり、神への供え物を怠ったら罰を与える恐ろしい存在だ。
しかし、どうしたって、人間は悪いことをするのだし、なかなか掟を守れないし、供え物をするのも面倒臭い。
それで、人間は、罪の意識を持ったり、自分は神に愛される資格がないなどと思ってしまうのである。
そういったところを権力者が利用して人民を支配することについてはよく分かっているが、そのことは今回は触れない。
本題はあくまで、どうすれば願いが叶うかだ。
上に述べたような気難しい神を信仰している者の願いは、あまり叶わない。
どうしても、そんな恐い神様が自分の願いを叶えてくれるとは思えないからだ。

ところが、仏教の仏は、本来、決して人間を罰しない。
特に、阿弥陀如来はそうで、どんな悪人でも慈悲をかけ、全面的な愛を注ぐのである。
だが、やはり多くの人々は、仏だって、悪い人は罰すると思い込んでびくびくしているのである。これは、親が子を、権力者が人民を支配するために、そう思い込ませたからだ。
だが親鸞は、「阿弥陀仏は、掟を守れず、善いことが出来ず、悪いことをしてしまう我々凡人を哀れんで救ってくれるのだから、我々駄目人間でも全然OKなんだ」と言ったのである。
それは非常に正しい。
なぜなら、理解は難しいのだが、実のところ、自分の心が仏で、それゆえ心は無限の力を持っているのだからだ。
自分の心が仏であるということが分かり難ければ、心の中の深いところに仏がいると思えば良い。
そして、阿弥陀仏に関して言えば、「南無阿弥陀仏」とか「阿弥陀仏」と唱えれば、即ち、念仏を唱えれば、心の中の阿弥陀仏が表に出てくるのである。
つまり、表面の心が悪くても、内なる仏は全く関係なく、無限の愛と力に満ちている。
これは、宗教というよりは、心の科学で、未来の科学であり、宇宙科学である。
現在は、精神科学や量子物理学が、ようやくその入り口に達した程度だが、いずれ明晰に分かるようになるだろう。

そして、どれだけ簡単に速く願いが叶うかは、祈る神仏が、どれほど大きな力を持っていると考えているかで決まる。
多くの人は、案外に神仏の力を見くびっているものだ。
イエスは「神に出来ないことはない」と何度も言い、『観無量寿経』では、阿弥陀仏や観世音菩薩が、想像を絶するという言葉では全然足りないほど凄い存在であることを壮大に語っている。
また、『観音経』(『法華経』25章)では、観世音菩薩の偉大さ、観世音菩薩が持つ力の大きさ凄さを、釈迦が大いに語ってくれている。
仏教の経典は、宇宙人が書いたと思われるほど(もちろん、人間のために、比喩的・象徴的に書かれているが)、思考の限界を叩き壊し、イメージが無限に広がるよう工夫されている。
それは、数ある経典の中でも、特に『法華経』や『浄土三部経』について言えるが、超能力というのは、世間的常識を壊せば(あるいは消せば)出てくるのだから、これらの経典を熱心に読めば超能力だって得られる。
中国の『荘子』は、『法華経』や『浄土三部経』ほどの破壊力(常識の破壊力)はないが、その分、分かり易い。とはいえ、『荘子』でも、なかなかついていける人は少ないのだが。

確かに、こういう俗っぽい言い方はどうかとも思うが、超能力を得たければ『法華経』(『観音経』だけでも良い)や『浄土三部経』(『観無量寿経』だけでも良い)を読むと良い根拠はこうである。
そして、超能力(極めて広い意味で願望達成能力も含む)を発するコマンドが真言である。
『観無量寿経』や『観音経』で言えば、「南無阿弥陀仏」や「南無観世音菩薩」がそうである(「阿弥陀仏」「観世音菩薩」でも良い)。
もちろん、経典を読まなくても、集合無意識の中にパワーが充満しているので、真言を唱えるだけで十分である。
ただ、若干、力の出方が弱いだけである。
そして、昔と違い、経典が簡単に手に入る時代なのだし、我々は支配者に思想統制や情報統制を強力にされているので(早い話が重い洗脳を受けているので)、万全を尽くした方が良いかもしれない。








聖典のすゝめ

真言を、より楽しく、快適に唱え、ひいては、早く願いを叶えるために、関連の聖典を1つ読んでおくと良いと思う。
聖典の多くは、本来、子供でも読めるほど易しいもので、それに、おとぎ話のようで面白いものだ。まあ、難しく翻訳したい先生がいるから、少し困るのであるが、聖なる書は、誰でも簡単に読めてしかるべきものである。

主に、念仏と、観世音菩薩について述べる。

念仏の場合、元々、法然の『選択本願念仏集』と、親鸞の弟子、唯円が親鸞の教えを書いた『歎異抄』があり、特に、『歎異抄』は短くて読み易いので、これ1冊でも十分である。
ただ、念仏の場合、『浄土三部経』と呼ばれる、『無量寿経(大無量寿経)』『観無量寿経』『阿弥陀経』の3つが、根本聖典になっている。
(龍樹の『十住毘婆沙論』を挙げる人もいるだろうが、これも、主に『観無量寿経』を元にしている)
この中で、私は、『観無量寿経』をお勧めする。
理由は、短くて、おとぎ話のようで面白いということもあるが、阿弥陀仏や観世音菩薩、それに、勢至菩薩について、釈迦が詳しく、素晴らしい説明をしてくれているので、念仏を唱える時に、良いイメージが持てるからである。
尚、念仏というのは、一般的には「南無阿弥陀仏」であるが、本来は、仏を念じることで、そのためには、名を呼ぶことが最も自然なのである。
だから、特に、「南無阿弥陀仏」でなくても、「阿弥陀」「阿弥陀仏」と唱えても良い。好きなら、サンスクリット語で「アミターバ」と唱えても良い。
また、阿弥陀如来真言である「オン、アミリタ、テイセイ(テイゼイ)、カラウン」も同じと考えて良いと思う。
私は、「阿弥陀仏」と唱えることが多い。そして、その際、『観無量寿経』に書かれた、釈迦が語る阿弥陀仏の印象が微かに心にあり、これが実に良いのである。
私も、『観無量寿経』を、それほど熱心に読み込んではいないが、それでも十分と思う。
また、『観無量寿経』を読むと、阿弥陀仏や観世音菩薩の名がどれほど貴く、その名を唱えることが、どれほど威力があることかも分かるのである。

次に、観世音菩薩の名を唱えることに関しては、『法華経』の25章『観音経』を読むことをお勧めする。
『法華経』全体は長いが、『観音経』だけなら短い。
『観音経』には、観世音菩薩が、どれほど凄い力を持っているかだけでなく、観世音菩薩が、想像も出来ないほど偉い仏(呼び名上は菩薩だが)であるかが釈迦によって語られており、やはり、観世音菩薩の名を唱える時に、わずかでも、その印象があると、やる気が違ってくる。
観世音菩薩の名の唱え方は、「南無観世音菩薩」「観世音菩薩」だが、好きなら、サンスクリット語で「アヴァローキテーシュヴァラ」と唱えても良いし、「観音様」でも良いと思う。
また、観世音菩薩の真言である「オン、アロリキャ、ソワカ」も良い。
ところで、般若心経の呪文、
「ギャテイ、ギャテイ、ハラギャテイ、ハラソウギャテイ、ボウジ、ソワカ」(中国語)
「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」(サンスクリット語)
は、観世音菩薩を讃える意味が大きいので、これを唱える時も、観世音菩薩の印象があるのは、やはり良いと思う。
(中国語、サンスクリット語、いずれを唱えても良く、効果も同じである)

必ずと言うわけではないが、長いものではないので、おとぎ話でも楽しむように、『観無量寿経』や『観音経』を読むと、大きな利益があると思う。
願い事が叶い過ぎて恐くなるかもしれない(笑)。

尚、イエスの名を唱える場合は『新約聖書』の『福音書』を、クリシュナの名を唱えるなら『バガヴァッド・ギーター』を読むと良いだろう。
天照大神の名を唱えるなら、『古事記』の上巻だけでも読んでおくと良いと思う。
ちなみに、私は、『古事記』では、大国主神(おおくにぬしのかみ)と火遠理命(ほおりのみこと)のファンであることを明かしておく(笑)。












プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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