ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

観世音菩薩

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

信じられなくても願ってみる

思考する心より深い心は途方もなく巨大で、その中に、世界をどのようにでも作り変えることが出来る万能の力が秘められている。
その深い心を潜在意識と呼ぶ。
潜在意識は、思考する心が信じている通りに世界を作る。
自分が無力だと思っていれば、潜在意識の力によって無力になるが、多くの人は、幼い時に、親から、自分は無力だと教えられている。親だけでなく、学校やテレビや新聞は、直接的にではないかもしれないが、人々が、自分を無力だと思うような情報を流している。
あなたが無力だとあなたに教えた親だって、その親や学校やテレビや新聞等に、やはり自分は無力だと教えられたのである。
しかし、実際は、潜在意識の中には、万能の力が秘められており、思考する心が信じている通りに世界を作るのであるから、実際のあなたは無限とも言える力を持っている。
そして、どうやって、潜在意識の力を使うも何も、あなたは今すでに、その力を使っており、あなたが思う通りに世界は出来ている。

問題は、あなたが、自分の潜在意識の中に神のごとき力があることを知らないことだ。
だが、潜在意識の力について分かり易く書かれた本が沢山あるので、それを読めば、潜在意識の力について知ることが出来るだろう。
とはいえ、そんな本を読みながら、潜在意識の力があることを無理に信じようとしてはならない。
無理に信じようとしてはならないが、一方、頭から否定すべきではない。
だが、多くの人は、疑ったり、否定したりする。なぜなら、それが、親や学校やテレビの教育なのだからだ。
しかし、ただ淡々と読めば、それは真実であるのだから、自然に信じるようになる。
そして、うまくいく秘訣は、たとえ信じられなくても「そうであればいいなあ」と思うこと、つまり、自分の中に万能の力があることを願うことだ。
誰だって、そう願うはずである。
願うことすら出来ない人というのは、偽の力を信じてしまっている人なのである。
偽の力とは、世間の力のことで、例えば、権力とか、学歴とか、地位とか、お金などである。
それらは、刹那ではあるが、力や幸福を感じさせてくれる。しかし、偽の力は、所詮、悪魔の力、幻想の力で、いつかこっぴどく対価を支払わされる。
そんなものより、真実の力、潜在意識の力を願い、期待することだ。
そうすれば、やがて、信じられるようになり、信じれば、正しく考えるようになる。
正しく考えれば、望まなくとも幸運に恵まれる。

『法華経』の第25章の『観音経』に、万能の力を持つ観世音菩薩が登場する。
観世音菩薩は、本当は、外部にいる存在ではなく、我々の内部にいる力だ。
つまり、潜在意識の無限の力を観世音菩薩と呼んでいるのである。
そうであれば、観世音菩薩は確実に存在し、いかなる願いも叶う。
それを、誰にでも(子供にでも)分かるように書いたものが観音経である。








霊験の高い仏・菩薩の名

本来、日本は、天皇陛下が護ってくれる国で、一般庶民が祝詞や祓詞を唱える必要がなかったというより、庶民が、そのような高貴な真似をするのは、身の程知らずかもしれない。
だが、天皇の力が弱まったというよりは、元々がそうだったが、現在は過去にないほど、支配層の徳が著しく低下し、庶民も穢れてしまった。
そのため、天皇の力で日本は維持されているが、庶民の幸福を守るには必ずしも十分でなくなったのかもしれない。
しかし、大昔にそれを見越していたかのように、聖徳太子は中国から仏教の経典を取り寄せて布教を行い、仏教は神道と融合していったが、仏教は、庶民自ら霊的に向上する教えである。
ただ、仏教や、その源流であるヴェーダ哲学でも分かっていたことだが、人々の心があまりに暗くなり、ヴェーダでは、神の名を唱えるナーマスマラナ、仏教では念仏以外には、人々が救われる道がなくなった。
ナーマスマラナと念仏は、神の名を唱えるか、仏の名を唱えるかの違いだけで、同じである。
もちろん、日本の神の名を唱えるのも良いことであるが、最初に述べた通り、日本は天皇が護ってくれる国だったので、庶民に、高貴な神の名を唱える伝統がない。
それで、庶民は、慣れ親しんでいる念仏がやりやすいが、実を言うと、神の名を唱えようが、仏の名を唱えようが、行き着く先は同じなのである。

念仏の代表的なものは、「南無阿弥陀仏」の念仏であるが、『法華経』の25章『観音経』にある通り、「南無観世音菩薩」などと唱えるのも馴染みがあり、霊験あらたかと思う。
ところで、阿弥陀仏の念仏、観世音菩薩の念仏について、ちょっと知っておいた方が良いことがある。
経典には、あくまで、「阿弥陀仏の名を唱えよ」「観世音菩薩の名を唱えよ」と書かれているのであり、「南無阿弥陀仏」や「南無観世音菩薩」という唱え方は、後から決めたもので、そのように唱えよとは経典に書かれていない。
そして、阿弥陀仏の名は、インドでの元々の名前であるアミターバを中国で音写されたもので、それが、日本に入ってきている。
アミターバは「無量の光」という意味で、実際、阿弥陀仏には、「無量光仏」「無辺光仏」という名もある。
また、アミターバには、アミタ―ユスという別名もあり、アミタ―ユスは「無量の寿命」という意味であることから、やはり、「無量寿仏」という名も、阿弥陀仏の別名とされている。
アミターバとアミタ―ユスの共通の「アミタ(無量の)」を音写して阿弥陀としたらしいが、それならなぜ、「アミタ」ではなく「アミダ」なのか分からないが、それはこだわる必要はないだろう。
阿弥陀で定着すれば、これが、阿弥陀仏の名で間違いない。
一方、阿弥陀仏と反対のような経緯で付けられた名前が観世音菩薩である。
観世音菩薩は、インドでの元々の名は、アヴァローキテーシュヴァラなのであるが、この名の意味が「音を観る者」という意味であることから、中国で観世音菩薩と名付けられ、それが日本に入って来た。
なぜ、アヴァローキテーシュヴァラの音写の名にならなかったのかというと、単に、この名が長くて難しいからだろう。
それで、意訳である観世音菩薩という名になった。
ところが、玄奘三蔵は、アヴァローキテーシュヴァラを観自在菩薩と訳し、般若心経の中でも、こちらの訳を使った。
観自在菩薩とは、「自在に観る」という意味で、むしろ、こちらの方が正しい訳にも思える。
発明家で、能力開発のスペシャリストであった中山正和氏は、観自在菩薩の名の方を採用し、この「観自在(自在に観る)」という意味を重要視した。
とはいえ、観世音菩薩、観自在菩薩、いずれもよく知られているので、どちらを採用しても良い。
ただ、念仏として唱える時は、観世音菩薩の方が良いかもしれない。

それで、正しい念仏はむしろ、阿弥陀仏の場合、「阿弥陀仏」「阿弥陀」、観世音菩薩の場合、「観世音菩薩」「観世音」になると思う。
しかし、定着していることなので、「南無阿弥陀仏」「南無観世音菩薩」で、全く問題ない。
ただ、私は、「阿弥陀仏」「観世音菩薩」と唱える。
元々は私は、阿弥陀仏の真言である「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」をずっと唱えてきて、それで一切がうまくいったし、観世音菩薩の真言「オン、アロリキャ、ソワカ」も唱えてきた。
実感として、これらの真言は、現世利益に強い気もするが、実際には、「阿弥陀仏」「観世音菩薩」と唱えるのと違いはないと思う。

いかなる悪がやってこようが、阿弥陀仏や観世音菩薩の力に全く対抗出来るはずがない。
阿弥陀仏は宇宙最強であるし、観世音菩薩も、本来は、高位の仏であったのだが、庶民を救うために、わざわざ菩薩の位に下りてきてくれたのであるし、『観無量寿経』を見ても分かる通り、阿弥陀仏とすら、それほどの差はないのである。
そして、実を言えば、阿弥陀仏と言い、観世音菩薩と言い、その他の神仏の名と言い、名前は実体である力と等しいのである。
そのことが、ナームデーヴ(ナーマデーヴァ)の『聖なる名前の哲学』で説かれているが、深遠なので、理解が難しい。
ただ、我々は、その名が、神仏そのものであることを知り、その名を唱えるべきである。
その他には、やるべきことは何もない。








唱えれば勝ち

こんな話を見たり聞いたりしたことがあるかもしれない。
我々は誰でも、現実を自由に創造出来る力があり、それどころか、実際に、常に、そうしている。
今、目の前にある現実は、完全に自分が作ったものである。

この話は全く正しいのであるが、多くの人にとっては、とんでもなく間抜けに感じるに違いない。
なぜなら、現実がちーっとも楽しくないからだ。
だから、知りたいのは、そんな信用詐欺のような理屈ではなく、どうすれば、お金がザクザク入って来て、素敵な彼氏や、可愛い彼女が出来るかだろう。

そこで、それを実践する方法を謳う動画を見てみた。
その動画で言ってること自体は正しかった。
それはこうだ。
「あなたの中で、愛と恐怖を融合させよ」
そして、そのやり方を、ふにゃふにゃした抽象的な言い方で説明しているのである。
そのメッセージの送り手は、進化した宇宙生命体(平たく言えば宇宙人)であるのに、なぜそんな役にも立たない説明をするのだろう?
それは、受け取り側の人間の問題だ。
私にも、宇宙人のメッセージを受け取る知人がいるが、メッセージの翻訳は難しい。なぜなら、メッセージを伝えている宇宙人が持っている経験のほとんどを持っていない人間が翻訳するのだからだ。
あなたは、5歳の子供と会話は出来るだろうが、伝えられることは極めて少ない。それと似たようなものだ。

では、好ましい現実を創造する方法を簡単に言う。
それはたった1つ。
真言を選んで、それを唱えることだけだ。
簡単過ぎると思うかもしれないが、誰もそれをやらないのだ。
TM(超越瞑想)では、お金を出せば、自分に合った真言を教えてくれる。
真言宗では、「オン、アビラウンケン、バザラダト、バン」という真言を唱えよと言われるかもしれない。
しかし、それを唱えても、効果は限定的な場合が多い。
自主的に唱えているというよりは、唱えさせられているという印象があるからだ(多い少ないはあるが)。
真言は自分で選ばないといけない。
でないと、完全に自主的に唱えることは難しい。
自主的に唱えることが何より大切なのである。
では、どうやって真言を選べば良いのか?
何でも良いのだ。
何でも良いが、とにかく、自分で選ばないといけない。
言い換えれば、自分で選びさえすれば何でも良いのだ。
「オン、アビラウンケン、バザラダト、バン」と唱えよと言われたのだとしても、自分でそれを選べば、それで良い。
しかし、その場合、いったん、保留した方が良いかもしれない。
とはいえ、保留するかどうかも自分で選べば良い。

仏や菩薩が嫌いな人は、まあ、滅多にいない。
ならば、「南無阿弥陀仏」や「南無観世音菩薩」を選んで間違いないのだが、宗教のせいで、特に「南無阿弥陀仏」に悪いイメージがある人が多いと思う。
また、「南無阿弥陀仏」を唱えると、唱えさせられているような気になってしまうかもしれない。
私がそうだった。それで、私は、「南無阿弥陀仏」を保留し、後で、自分で選んだのだ。

そこで、いったんは、観世音菩薩に頼ることをお勧めする。
もちろん、そのまま一生頼ることもお勧めする。
そのための真言は、以下のどれか(2つ以上でも構わない)。

「南無観世音菩薩」
「観世音菩薩」
「オン、アロリキャ、ソワカ」
「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」(般若心経の呪文:サンスクリット語)
「ギャテイ、ギャテイ、ハラギャテイ、ハラソウギャテイ、ボウジ、ソワカ」(般若心経の呪文:中国語音写版)

観世音菩薩に関する別の真言でも構わない(千手観音菩薩の真言など)。
出来れば、『観音経』(『法華経』の25章)を読むと良い。

「南無阿弥陀仏」は、家が浄土宗や浄土真宗だからとか、お坊様が唱えているからというのでも別に良いが、『歎異抄』を読んでから選ぶことをお勧めする。

ただ、真言は、自分が選びさえすれば、本当に何でも良い。
真言は、基本1つだが、2つでも、3つでも、それ以上でも構わない。それも自分で選ぶのだ。
そして、唱えれば勝ちである。








真言の威力実践編

真言について、日本人に馴染み深いものについて、参考までに、私の実践体験を交えて述べる。
真言は、
・阿弥陀如来真言
・観世音菩薩真言
・般若心経の呪文
・弥勒菩薩真言
である。

◆阿弥陀如来真言
法華経よりも古い経典である華厳経(けごんきょう)に、既に、阿弥陀如来の名を唱えることの効能が書かれている。
その経典では、阿弥陀(原語ではアミターバ)の名を唱えよとあるだけである。
奈良時代の伝説の人物である中将姫(ちゅうじょうひめ。747~775)が、阿弥陀経を写経し、念仏を唱えていたと伝えられているが、当時は「南無阿弥陀仏」という念仏はなく、中国語の阿弥陀経に倣い「アミタホトケ」と唱えていたのだろうと想像される。
浄土三部経の中の観無量寿経にも、釈迦は阿弥陀如来を「アミタと呼べ」と言ったと書かれている。
阿弥陀如来の真言は「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」または「オン、アミリタ、テイゼイ、カラウン」であるが、サンスクリットの原語から言えば、「オン、アミリタ、テイゼイ、カラウン」の方が近い。しかし、いずれで唱えても構わない。
私は、「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」で唱えている。
他にも、「南無阿弥陀仏」「アミターバ」と唱えても良いと思われる。
阿弥陀如来は万能の仏と考えて良く、また、いかなる罪も許し救う慈悲深い仏である。
私は、数年のニート生活の後、性格的に最も向かないと思われるセールスマンになったが、中岡俊哉氏の本を見て、阿弥陀如来真言「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」を唱え始めた。
それほど熱心に唱えていたわけではないが、それなりには唱えた。
すると、皆が親切にしてくれ、仕事を助けてくれたおかげで、私には困難なはずの仕事も苦労なくうまくいき、同時に、二十歳の彼女や、十代の非常に可愛い女の子の友達が次々に出来た。
その後、『歎異抄』を読み、念仏の力も知ったが、念仏もまた真言であり、「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」と変わらないと思う。

◆観世音菩薩真言
織田隆弘氏の本を読み、観世音菩薩の真言である、「オン、アロリキャ、ソワカ」や「南無観世音菩薩」の真言を唱えるようになった。
観世音菩薩は、身近に居て救ってくれる、人間の現実問題の面倒を見てくれる菩薩として知られている。
唱えていると、抱えていた問題が自然に消え、何もかもうまくいくようであった。
観世音菩薩は、西洋では、東洋のマリアと呼ばれるほど、慈悲深い存在として知られているが、まさに、そのイメージ通りと感じられる。

◆般若心経の呪文
紀野一義氏の『「般若心経」を読む』を読み、これはもう、般若心経の呪文を唱えるべきと思った。
「ギャテイ、ギャテイ、ハラギャテイ、ハラソウギャテイ、ボウジ、ソワカ」(中国語)
でも、
「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」(サンスクリット語)
でも、いずれでも良い。
私は、紀野氏の本に書かれていたサンスクリット語版を覚え、これを唱えている。
発明家で、能力開発研究家の中山正和氏の本をよく読んでいたが、中山氏も、般若心経を著書でよく薦めておられ、この呪文を唱える意義も書かれていた。
唱えていれば、自然に幸運が舞い込むように思われるし、驚くほど、インスピレーションが湧くことを感じる。

◆弥勒菩薩真言
京都の広隆寺にある、「宝冠弥勒」と呼ばれる「弥勒菩薩半跏思惟像」は、海外のVIPもひそかにお参りに来る霊験あらたかな仏である。
この質素な像が、1951年(昭和26年)、国宝第一号に指定されてからの日本の発展は凄く、日本は予想外の早さで主権を取り戻し(それまではアメリカの占領国であった)、以降、奇跡の復興を遂げた。
五島勉氏の『未来仏ミロクの指は何をさしているか』には、破損したこの「宝冠弥勒」の指を修復した名工が、「南無弥勒仏」と唱えて良いかと尋ねると、弥勒像は、それで良いと答えてくれたという。
弥勒菩薩の真言は「オン、マイタレイヤ、ソワカ」とシンプルで、サンスクリット語で「オーン、マイトレーヤ、スヴァーハー」と唱えても良いと思う。
もちろん、「南無弥勒菩薩」という最も知られた真言でも良いし、五島氏の本にある通り「南無弥勒仏」でも良い。
私は、あまり唱えることはないのだが、唱えれば大きな恵があったように思う。

以上、何かの参考になればと思う。








必ず救われる観音様モデル

問題や悩みが消えない、願いが叶わないといったことで苦しんでいるなら、それを解決し、幸福になるための1つのシンプルなモデルがある。
それは、観世音菩薩に頼る方法である。
では、懸念は、観世音菩薩を信じるかどうかであるが、それはどちらでも構わない。
むしろ、世間の観世音菩薩への信仰はない方が良いかもしれないほどである。

どうやるかと、簡明に述べると、以下のようになる。
まず、『法華経』の第25章『観音経(観世音菩薩普門品第二十五)』を読む。
私は、十種類くらいの『法華経』を読んだが、『観音経』に関しては、庭野日敬氏の『現代語の法華経』が良いと思う。
とはいえ、基本、どれでも構わない。
ただ、全体としては優れている角川ソフィア文庫の『サンスクリット版縮訳 法華経 現代語訳』は、観世音菩薩という呼称を使っていない。それは、今回述べるのとは別モデルとしては良いが、今回のモデルには合わないように思う。

この『観音経』を読んで、観世音菩薩の力を認識する。
ただし、そこに書かれたお話は、漫画のようだと感じるかもしれない。
たとえば、観世音菩薩に救いを求めれば、あなたに切りつけた剣が、たちどころにバラバラに折れてしまうとか、理由によらず、手枷・足枷をはめられても(つまり、悪いことをして刑罰を受けてか、悪者につかまってのいずれでも)、その手枷・足枷が壊れて逃げられるとか、高い山の上から突き落とされても、地上にふわりと落下して大丈夫といったお話が沢山出てくる。
もちろん、それらは比喩であり、そのあたり、庭野氏の『観音経』では本文内で、さりげなく示唆してくれている。
例えば、手枷・足枷をはめられるとは、自分の妄念や執着でがんじがらめになっている状態だが、観世音菩薩は、そんな囚われた心を壊して解放してくれるということである。
ただし、とりあえずは、言葉通りに受け取っても良いと思う。
なぜなら、観音様なら、その気になれば、そのくらいは出来そうだからである。
まあ、あなたを殺そうとするナイフを粉々にしないまでも、不思議な偶然が起こってナイフが刺さらなかったといったという程度のことは実際に起きている。
観音様も、出来るなら、さりげなく救いたいのだろうと思う。

観音様の力が分かったら、後は、『観音経』に書いてある通り、助けてもらうためには、観音様の名を読んだり、観音様を念じれば良い。
その方法は、次のいずれかの言葉を唱えるだけである。
「南無観世音菩薩」
「オン・アロリキャ・ソワカ」
いずれも、観世音菩薩の真言である。
別に両方でも構わないが、1つに決めた方がスムースと思う。
お金に困っていたら、「観音様、お金を下さい」と言葉で言ったり思ったりするのではなく、これらの真言を唱えていればお金も入るに決まっていると心の中で楽に思って、ひたすら真言を唱えるのである。
それであれば、心に葛藤が生じず、楽しく真言を唱えられるだろう。

『法華経』は、高度な宇宙人が古代の地球人類に与えた教えと考えても良いと思う。
当時の地球人に分かるように脚色したと言えるが、案外に、宇宙人もこのまま読むのである。
なぜなら、いくら知性が高くても、理屈よりも物語のイメージの方がはるかに効率的に精神力を使えるからだ。
このあたりは、この先、いくら人類が進歩しても変わらないと思う。
元々、「アヴァローキテーシュヴァラ―(サンスクリット語の観世音菩薩の名前)」という名の力の主体が、観世音菩薩やGuanyin(英語の観世音菩薩)になることは予定されていたことで、英語では"Om mani padme hum"というマントラが使われることも仕組まれていたが、いずれも有効である。
幸い、「南無観世音菩薩」や「オン・アロリキャ・ソワカ」の真言が必ず力を発揮することは実証されていると言って差し支えないと思う(織田隆弘氏の『観音開運法』が信頼があると思う)。
そんなわけで、困った時は観世音菩薩を頼るのが賢明である。
後は、ただ、唱える真言の数だけの問題である。

尚、別に、観世音菩薩でなければならないなどと言うつもりは毛頭ない。
真言密教の大日如来でも、浄土仏教の阿弥陀如来でも全く同じである。
ただ、『観音経』は、ソリューション(問題解決)のためには、非常に分かり易く、整えられたモデルであるため、成功率が高く、昔から広く愛用されていると思う。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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