ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

親鸞

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

生きる目的

人生の目的なんて、自分がこれだと迷うことなく思ったものである。
そして、目的自体に優劣はない。
優劣があるとすれば、迷いがあるかどうかだけだ。

大島弓子さんの漫画『裏庭の柵をこえて』(1981)で、明石信(あかししん。男性)は、一流大学に現役合格するも、大学での目的が見い出せず、6月で退学した。
信の隣の家の小学3年生の少女、田森とみこは、夏休みが終わる8月31日が誕生日だったが、毎年、夏休みの宿題がその日までに終わらず、誕生日は辛い思い出ばかりになっていた。
ちなみに、作者の大島弓子さん自身が8月31日生まれであるが、作品との関連は分からない。
明石信は、とみこの夏休みの宿題をするためだけに生きるようになり、とみこが中学生になったら、家を出て行った。
こんな目的も、本人に迷いがなければ立派な目的であり、そうであるなら、他のことはなんとかなるものである。

法然は、念仏を唱えることだけが目的であったが、親鸞は念仏(あるいは阿弥陀仏)を信じることだけが目的だった。
ただ、親鸞の目的は、法然あってこそだった。
法然は、念仏だけを目的にしていれば、後は仏様が面倒を見てくれると言い、親鸞も、念仏以外のことはする必要がないと言った。
だが、親鸞には迷いがあった。
親鸞は好きな女性がいて結婚したかったが、当時、僧侶の結婚は禁止だった。
しかし、法然は、結婚した方が念仏を唱え易いなら(つまり、目的を果たし易いなら)結婚すればいいじゃんと言って、親鸞は結婚したのだ。
これは、私もよく分る。
私は、プログラミングが出来るようになることや働くことを目的にしたことはないが、真の目的を果たすためには、プログラミングをマスターしたり、働く方が便利だったので、そうしただけである。
このように、目的第一にしていれば、他のことは不思議にうまくいくのである。

目的自体は何でも良い。
誰もが尊敬する偉人の本当の目的が、実は、普通の人から見たら実にくっだらないことだったというのは、珍しいことではない。
ただ、迷いがなければ良いのである。
タバコくらいは吸えるようになるという目的だけで、大事業家になった人も実際にいる。
そもそも、自分の目的が素晴らしいか下らないかなんて、大きなお世話にである。
そして、人の目的を詮索するのは、迷いがある証拠というだけでなく、そんなことをする者はずっと迷うのだ。
だから、スケベ心は控えるべきである。
ああ・・・ちなみに、一生の目的なんかでなくていい。
今の目的があれば良いのである。

「次元、お前が泥棒をするのは何のためだ?」
「美味い酒を飲むためさ」
「俺もそうだが、それだけじゃない」
いや、それだけで良いのだよ、ルパン君。
※『ルパン三世 血の刻印~永遠のmermaid~ 』より(多分…^^;)

※『裏庭の柵をこえて』は、『夏のおわりのト短調』に収録。








腕振り運動をやっているうちに信頼した人物達

私は、毎日、腕振り運動を7千回、8千回とやっているうちに、信頼出来るのは、法然、親鸞、岡田虎二郎、中村天風だと思った。
彼らは、簡単なことの徹底した繰り返しを説いたからだ。
人間が力をつけ、人間を超える道はそれしかないと思う。
言うまでもなく、法然は常に念仏を唱えよと言い、法然の弟子である親鸞は、時にややこれと違うことも言ったが、親鸞が書いた和讃(仏教に関する歌)を見ると、やはり、ひたすら念仏を唱えよという趣旨のことが書かれている。
岡田虎二郎は岡田式静坐法を教えたが、形の上では静坐をしていない時も常に、腹に力を入れることや、細く長い呼吸をするよう教えている。
中村天風は、ちょっと多過ぎることを教えたが、まず、常に肛門を引き締めよと教えた。
ただ、法然、親鸞、岡田虎二郎、中村天風らが言うようにやれる人は、まずいない。

私は、子供の時、会社の仕事というのは、延々とハンコを押すことだと思っていたが、ある意味、それで正しいのであると思う。
ひたすら、淡々とハンコを押すようにやれば、良い仕事が出来る。
私はシステムエンジニアとして、高度なシステムや大きなシステムをいくつも作ったが、ハンコを押すような気持ちでやるとうまくいくのだと思う。

また、私は、やはり子供の時、テレビで、ある西部劇の映画を観たのだが、銃を初めて持った若者が、銃の練習をする場面があった。
若者は延々と銃を撃ち続け、使い終わった弾丸の空箱が山のように出来るのを見て、私はとても感動した。これが、内なる力を引き出す、最高の方法なのである。
アニメ『MADLAX』では、若きエリート美女ヴァネッサが、ボディーガードに雇ったマドラックス(ヒロイン。17歳。凄腕エージェント)に銃を教えてくれるよう頼むと、マドラックスは銃と、山のような弾丸の箱をヴァネッサに渡し、全部撃つよう指示する。恐ろしいほどの弾丸の数だったが、ヴァネッサは顔色1つ変えず了承し、ひたすら撃ち続けた。

野球なら、素振りが多い者が優れたバッターになる。
日本の野球の歴史の中でも最高のバッターの1人であった落合博満さんが引退後、球団の幹部をしていた時、若い選手が、果敢に落合さんに指導を乞いに来ると、落合さんは、この若い選手に延々5時間、素振りをやらせ、それをずっと見ていた。
この若い選手は、結局、成功しなかった。
彼は、「調子が悪い時には、このことを思い出して素振りをするようにした」と言うが、それでは、落合さんに指導を乞うた意味がない。
調子が良かろうが悪かろうが、常に、1回でも多く素振りをしなければならなかったのだ。

私は、繰り返しの大切さを特に熱心に説いた、ある人物を知っている。
なんと、その人は、宗教による巨額の詐欺で逮捕され、6年ほども服役した宗教家だ。
彼は、著書に、昭和の大横綱、千代の富士が、誰よりも多く四股を踏んでいたことや、ある将棋の名人が、同じ将棋の本を、紙が変色して読めなくなるまで読んでいたという話を書いていた。
その宗教家が善人か悪人かは私は知らないし、理由を述べることは避けるが、服役したからといって罪人とは限らない。
ともあれ、その繰り返しの教えは、少し心に留めても良いと思っている。
この宗教家は、出所後、活動を再開し、著作も出している。

私は、剣の素振りには興味があったが、縁がなかった。
また、エアガンを撃ちまくることもしたかったが、これもいろいろ無理があった。
しかし、腕振り運動は、かなり前に知り、非常に熱心とは言えないが長く続けてきた。そして、最近、ようやく本格的に・・・つまり、毎日、延々と行っている。

コンピュータープログラミングをマスターするのも、延々と繰り返すに限ると思う。
本に載っている良質なプログラムを淡々と打ち込んで実行させることを繰り返せば、しっかり身に付くだろう。
私は、そのやり方で覚えたプログラミング言語や開発ツールは、かなりの実力が持てたと思う。








自分に向いた行で楽に超人になる

法然や親鸞は念仏を唱えることを勧め、彼らよりほんの少し後に生まれた道元は「ただ座れ」と坐禅を勧めた。
昔であれば、ただ巡り合わせで念仏をやったり坐禅をやったりしたのだが、法然や親鸞と道元のどっちが好きかで、念仏か坐禅かを選ぶこともあるだろう。
だが、もっと重要なことは、自分が、念仏に向いているか坐禅に向いているかである。

近代のインドの聖者ラマナ・マハルシは、真我を実現する(簡単に言えば神になるという意味と思う)には、「私は誰か?」と問う以外にないと言い、多少のバリエーションとしては、「常に、自分に対し『私』と呼びかけよ」と教えた。
2011年に亡くなられたサティヤ・サイババは、いろいろなことを教えたと思うが、『ナーマスマラナ』という本では、やはり、「神の名を唱えることだけが人生の問題を解決する」と述べている。

宗教的、あるいは、霊的な修行を、俗っぽいこと・・・健康はともなく、お金や恋愛を目的とするのは卑しいとする向きもあるが、欲張らない限り、上に述べた行は全て、欲しいものを得る最も効果的な方法なのである(大抵の人は欲張って失敗するが)。

私も昔、ニート明けの時、最も務まりそうにない厳しい仕事である完全歩合制セールスの仕事をやったが、阿弥陀如来真言や観世音菩薩真言を唱えていたおかげでバンバン売れ、ベテランセールスマンを押しのけてセールスコンテストで優勝したりした。
その後も、良い方向にしかいかず、サラリーマン時代は全く仕事をせずに高い給料をもらっていた。
だが、考えてみれば、真言を1日平均では10分も唱えていなかったと思う。
それでも、私としては奇跡的なほどうまくいったが、それだけの時間しか出来ないということは、向いていないという面もあるのだと思う。

中村天風や岡田虎二郎は、それぞれ、常に肛門を引き締めよとか、常に腹に力を入れろというし、『気功革命』で著者の盛鶴延氏は、「1日トータルで1時間肛門を引き締めろ」と書いていたが、1日1時間でも私には全く無理で、私は「そんなこと出来るやついないだろう」と思っていたが、私が向いてないだけで、向いている人なら、常にというのはともかく、1日1時間なら出来るかもしれない。

それで、私は、3日前から、今度こそ本格的に腕振り運動を始めたが、こちらは私に向いているようである。
腕振り運動も、坐禅とは違うが、禅の一種で、「動禅(どうぜん)」と言えるものだと言える。つまり、坐禅のようにじっとしてやるのではなく、動きながらやるのである。
腕振り運動もまた、念仏や坐禅、ナーマスマラナ(神の名を唱えること)、あるいは、ラマナ・マハルシの真我の探求と同じく、簡単に言えば、神や仏になる方法で、実際に神や仏にはなれないまでも、人間を超えた力を得、(普通の)人間を超えることが出来る。

岡田虎二郎の弟子だった柳田誠二郎氏(日本航空社長、日本銀行副総裁その他の要職を歴任した)は、講演で、「私の場合は岡田虎二郎先生に教わった静坐だったが、何でもいいから心を締める鍵を持て」と言った。「心を締める鍵」とは難しい言い方をするが、分かり易く言ってしまえば、やはり人間を超えた力を得て、人生の問題を解決するための行のことなのである。
柳田氏は、自身は岡田式静坐法を百歳を過ぎて亡くなるまで続けたが、人々には「何でもいい」と言ったのである。
つまり、自分に向いたことをやれば良いのである。

ちなみに、私は、腕振り運動を、3600回、4700回、4700回と続けている。
1年365日、1日も欠かさず実施し、毎日の回数をExcelの表にでも登録しようと思う。
そのExcelに、その他の情報も登録すれば、機械学習で分析して、自己分析が出来るが、まあ、データやAIより、魂の声を信じようと思う。








「愛」が分かる話

イエス・キリストに、「一番重要な戒律は何か?」と尋ねたら、イエスは、「神を愛すること」と答えた。
『バガヴァッド・ギーター』の中でも、神クリシュナは、「我を愛せよ」と述べている。
ここで、時代を超え、国を超えた普遍的な命題「愛とは何か?」「愛するとはどういうことか?」が問題になる。

男なら美女や美少女を、女なら美男や勇者や金持ちの男を愛するというのは、分かるような気がするかもしれない。
しかし、それは本当の愛ではない。
では、愛とは何かというと、実に簡単なことで、名前を呼ぶことだ。
多く呼べば呼ぶほど愛しているのである。
ピンと来ないかもしれないが、そうなのである。

キリスト教やユダヤ教では、神の本来の名はヤハウェであるが、神の名はみだりに唱えてはならないと言われている。
ただ、それは、口に出すなという意味で、心で唱えるのは大いに良いのだと思う。
ところが、イエスは、神のことを「父」「アバ(父の幼児語。パパに近いと思う)」と呼んでいたが、これは分かると思う。
自分の父や母を愛するとしても、実際の名前で呼ぶよりは「お父さん」とか「お母さま」などと呼ぶと思う。
それも名前なのである。
(ただ、イエスは、信者達に、自分の名を呼ぶようにも言っている)
江戸末期の神道家、黒住宗忠は、神のことを、「天照大神」と呼んだが、しばしば「親様」とも呼んでいる。
また、江戸末期から昭和初期の妙好人(在家の念仏者)、因幡の源左の父は亡くなる時に、源左に「これからは親様を頼れ」と言ったらしいが、この親様とは阿弥陀如来のことである。
念仏はまさに、阿弥陀如来の名を唱えることであるから、数多く唱える者は、それだけ阿弥陀如来を愛していると言うことが出来、法然は1日6万回も唱えたという。

インドでは、神の名を唱える行をナーマスマラナと言うが、クリシュナ神の「我を愛せ」の言葉通り、クリシュナの信者は、数多く「クリシュナ」の名を唱える。
ラマナ・マハルシの弟子だったブンジャジは、働きながら「クリシュナ」と1日4万回唱えたという。

ノーベル賞作家アルベール・カミュの代表作『異邦人』に、こんな印象深い場面がある。
若く美しい娘マリーが、主人公の青年ムルソーに、「結婚してくれる?」と尋ねると、ムルソーは「いいよ」と即答する。
喜ぶマリーは、ムルソーに「私を愛してる?」と尋ねるが、当然、マリーは、ムルソーの「そうである」を意味する答を期待したことだろう。
ところが、ムルソーは、「分からないけど、多分、愛してない」と答え、マリーをうろたえさせた。
そういえば、ムルソーは、亡くなったばかりの母親について、「ママのことは、多分、好きだった」と微妙な言い方をしていたものだ。
だが、マリーだって「愛する」という意味が、多分、分かっていない。
マリーを愛するとは、マリーの名を多く心で想うことなのだ。

アニメ『ツバサ・クロニクル』で、サクラがシャオランに尋ねる。
「シャオランは私のこと考えることある?私はシャオランのこと、ずっと考えてるよ」
すると、シャオランは、
「俺も、サクラ姫のことを考えているよ、いつも」
と答える。
2人とも気付いていないかもしれないが、これは、お互いが、いつも名を呼び合っているということなのである。

もう一度名前呼んで!
「初音ミク!」
~『39みゅーじっく!』(作詞・作曲・編曲:みきとP。唄:初音ミク)より~

Miku, Miku, you can call me Miku
(ミク ミク ミクと呼んでね)
~『Miku』(Anamanaguchi feat. Hatsune Miku)より~

14世紀のインドの聖者ナーマデーヴァ(ナームデーヴ)が、『聖なる名前の哲学』に、
「名前はケーシャヴァ(クリシュナ神)そのものである」
と書いた通り、名前と実体は等しい。
神の名は、神そのものなのである。
愛する人の名を、心で丁寧に数多く唱えれば、その人からも愛される。
神の名を、心で丁寧に数多く唱えれば、神に愛され、あらゆる恵を受け、救われる。
ユニティ教会のチャールズ・フィルモアが述べた通り、「神は与えたがってウズウズしている」からである。
親鸞も、念仏を唱えれば、利益に極みはないと述べている。








幸運を呼ぶ最後の方法

人間が持つ力には、いろいろなものがある。
極めて大きな力に、権威というものがあるが、今の日本で権威を持つのは皇室だけだ。
で、それ以外となると、富、健康、友愛となる。
富や健康はともかく、友愛が力だというのはピンと来ないかもしれないが、これほど大きな力はあるまい。ただし、本物の友愛であればだが。

そして、富も健康も友愛も、努力して得られるかどうかは分からない。
それらが得られるかどうかは、運次第だ。
つまり、結局のところ、人間が持つ一番大きな力は運であることが分かる。
皆、大なり小なり、心の中では、それを分かっている。
それで、「運を得る方法」が書かれた本は人気があり、そこそこ良いことが書かれているものもあるが、劇的な効果はない。

江戸時代の高名な観相家(顔や身体の相で運命を鑑定する者)であった水野南北は、
「運の良し悪しは、食の量で完全に決まる、即ち、食多ければ衰運で、食少なければ幸運である。これに万に一つの外れもなかった」
と断言した。
(ただし、「食べられない」のではなく、自主的に「食べない」ことが必要である)
水野南北の主張は、ほぼ正しいと思う。
よって、極端に小食にする必要はないが、食を慎むことはお勧めする。
だが、それでも、因縁の力は強く、悪因縁(悪業)が強い場合は、断食が必要なことがあり、それで命を落とすこともある。
これに関しては、新約聖書の福音書に、こんな話がある。
ある、悪霊に憑りつかれた男がいて、イエスの弟子達が、その男から悪霊を追い出そうとしたが、出来なかった。
イエスは、後で、「このような場合には断食が必要だ」と言った。
つまり、この悪霊に憑りつかれた男の悪因縁(悪業)が強過ぎ、イエスの弟子達の力ではどうにもならず、本来なら、この男は厳しい断食をする必要があった。
それこそ、死ぬほどの断食が必要な、あるいは、それでも足りないほどの悪因縁(悪業)だったかもしれない。
だが、イエスは簡単に悪霊を祓ってしまった。
ではなぜ、イエスにそれが出来たのかというと「格の違いだ」と言えばその通りなのだが、私は、福音書は、重要な記述が取り去られ、貴重な方法が隠されたような気がするのである。

親鸞は、深い悪因縁(悪業)を祓うには念仏だと言ったのである。
つまり、神仏の名を唱えるナーマスマラナが、そのやり方なのである。念仏もナーマスマラナの1つである。
ただし、普通の人では、かなりの数が必要である。
イエスは、磔になる直前に、「私の名で求めよ」と言い、自分の名を唱えることを教えたが、やはり、福音書には、これが曖昧な雰囲気で書かれ、「イエスの名を唱えれば良い」と気付いた人は少ない。
つまり、神仏の名を呼べば、必ず幸運を呼べるのである。ただし、心の中で、丁寧に数多く唱えれば。
イエスでも、南無阿弥陀仏でも、阿弥陀仏でも、南無観世音菩薩でも、観世音菩薩でも、アマテラスオホミカミでも良い。
自分の好きな神仏の名を唱えれば良いだけである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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