「もう、平安を得るには、引き寄せか悟りしかない」
などと言えば、残念なやつと馬鹿にされるかもしれない。
しかし、法然や親鸞は「念仏しかない」と言ったのであるが、それも実質では同じことである。
もちろん、当時の無知な人々に対しては、そのように言わないと分からないとか、当時の圧政の中での全く無力な庶民には、こうとでも言って、嘘の希望を与えるのも仕方がないという考え方もあるだろう。
だが、無知であることや力がないということに関し、当時の庶民と我々で、それほどの差があるだろうか?
スティーヴン・ホーキングは、「世界は亀の背中の上」と言う昔の老人と、文明人と言われる我々に差は全くないと言ったが、それ以上に差はないと思うのである。
そして、権力者の横暴に対し、ある程度モノが言える世の中かもしれないが、そうであるほど「ペンは剣より強し」というのは嘘・・・とまでは言わないが、極めて限定的であることを実感しているはずなのである。
法然や親鸞が言うように、念仏を唱えれば阿弥陀如来が救ってくれるというのは現代では無理があるかというと、むしろ、現代でこそ正しいと言える可能性がある。
つまり、脳科学、精神科学、量子力学的に、世界は主観的なものという考え方には信憑性があり、簡単な言い方をするなら、「そう思うならそうである」というのは、現代でこそ無理がないと思えるのである。
「いや、俺は現実的な努力で人生、あるいは、世の中を変える」というのは良いことである・・・というより、個人的主義として十分に尊重されるべきである。しかし、それだけのことだ。
そして、本当に意図が正しいのであれば、努力によってそれが成就する可能性もある。
だが、人間は不純なものであるし、弱いものであることも認めないといけない。
空海は、「仏陀である私が死ぬはずがない」と言って崖から飛び降りたり、当時の危ない船で中国に行ったのだという説がある。
ひょっとしたら、これは馬鹿ではなく、これこそ、叡智と言うべきかもしれない。
引き寄せも悟りも、真の自己の力を取り戻すという意味で全く同じことである。
皆、自分の責任で自分の好きなように生きれば良いが、引き寄せしかないというのも十分にまともであり、むしろ、難癖をつける者の方が怪しいというか危険なのだと思う。
引き寄せしかないという信念で生きている者が、周囲には現実的努力家であるように見えることも全く普通である。これは、見る側の問題なのだから。
親鸞はこう言っている。
「念仏は嘘で、幸福になる別の正しい道があるとしても別に構わない。私の能力では念仏以外は出来ないのだから」
念仏の部分は引き寄せと置き換えて構わないだろう。
神童、天才と言われた法然を超えたと言われる親鸞が言うのだから、なかなかの重みである。
◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)歎異抄(梅原猛)
(2)歎異抄(千葉乗隆)
(3)選択本願念仏集
(4)空海入門(ひろさちや)
(5)思考が物質に変わる時(ドーソン・チャーチ)
(6)投影された宇宙―ホログラフィック・ユニヴァースへの招待
AIアート1022
「花の微笑」
Kay
などと言えば、残念なやつと馬鹿にされるかもしれない。
しかし、法然や親鸞は「念仏しかない」と言ったのであるが、それも実質では同じことである。
もちろん、当時の無知な人々に対しては、そのように言わないと分からないとか、当時の圧政の中での全く無力な庶民には、こうとでも言って、嘘の希望を与えるのも仕方がないという考え方もあるだろう。
だが、無知であることや力がないということに関し、当時の庶民と我々で、それほどの差があるだろうか?
スティーヴン・ホーキングは、「世界は亀の背中の上」と言う昔の老人と、文明人と言われる我々に差は全くないと言ったが、それ以上に差はないと思うのである。
そして、権力者の横暴に対し、ある程度モノが言える世の中かもしれないが、そうであるほど「ペンは剣より強し」というのは嘘・・・とまでは言わないが、極めて限定的であることを実感しているはずなのである。
法然や親鸞が言うように、念仏を唱えれば阿弥陀如来が救ってくれるというのは現代では無理があるかというと、むしろ、現代でこそ正しいと言える可能性がある。
つまり、脳科学、精神科学、量子力学的に、世界は主観的なものという考え方には信憑性があり、簡単な言い方をするなら、「そう思うならそうである」というのは、現代でこそ無理がないと思えるのである。
「いや、俺は現実的な努力で人生、あるいは、世の中を変える」というのは良いことである・・・というより、個人的主義として十分に尊重されるべきである。しかし、それだけのことだ。
そして、本当に意図が正しいのであれば、努力によってそれが成就する可能性もある。
だが、人間は不純なものであるし、弱いものであることも認めないといけない。
空海は、「仏陀である私が死ぬはずがない」と言って崖から飛び降りたり、当時の危ない船で中国に行ったのだという説がある。
ひょっとしたら、これは馬鹿ではなく、これこそ、叡智と言うべきかもしれない。
引き寄せも悟りも、真の自己の力を取り戻すという意味で全く同じことである。
皆、自分の責任で自分の好きなように生きれば良いが、引き寄せしかないというのも十分にまともであり、むしろ、難癖をつける者の方が怪しいというか危険なのだと思う。
引き寄せしかないという信念で生きている者が、周囲には現実的努力家であるように見えることも全く普通である。これは、見る側の問題なのだから。
親鸞はこう言っている。
「念仏は嘘で、幸福になる別の正しい道があるとしても別に構わない。私の能力では念仏以外は出来ないのだから」
念仏の部分は引き寄せと置き換えて構わないだろう。
神童、天才と言われた法然を超えたと言われる親鸞が言うのだから、なかなかの重みである。
◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)歎異抄(梅原猛)
(2)歎異抄(千葉乗隆)
(3)選択本願念仏集
(4)空海入門(ひろさちや)
(5)思考が物質に変わる時(ドーソン・チャーチ)
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