ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

親鸞

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

良い洗脳

引き寄せに限らないが、高次の力を使える者の特徴ははっきりしている。しかし、それを分かっている人は少ない。
その特徴とは、その力の指導者を完全に信奉(信じて尊ぶ)していることで、はっきり言えば、「教祖に洗脳されている」ことだ。
これは本当に間違いない。
その教えの内容が正しいとか高度であるとかは関係ない。
ロンダ・バーンを本当に信奉しているなら引き寄せが出来るし、バシャールを信奉しているなら、バシャールが言うようなことが出来る。
ただし、単に「ザ・シークレット」を有り難がっているだけで、ロンダ・バーンも、その教えもそれほど信奉していないなら、惨めなほど引き寄せは出来ない。
邪な宗教では、信者は恐怖や歪んだ洗脳で敬虔な信者を演じているだけで、本当に教祖を信奉しているわけではないので、信者達は無力である。

このことによって、引き寄せが出来ない理由が明確になる。
私の場合は、引き寄せはジョセフ・マーフィーで始めたが、実のところ、最初の頃は、かなりマーフィーを信奉していたが、常に疑いがあり、ある時期からは疑いがかなり大きくなった。マーフィーの本の中に多くの矛盾を発見したし、「愛を実践せよ」とか「実現を信じて疑うな」というのは最初から無理な話であった。
ロンダ・バーン自体は、それなりに一貫性があるように見えるが、『ザ・シークレット』の方は、個人的には矛盾だらけ、欠陥だらけに思えた。
それに、ロンダ・バーンの雰囲気は、個人的には信用に値する人物に思えなかった。

ましてや、新興のユニークさが売りの引き寄せの指導者達は、もう怪し過ぎて(笑)話にならない。「和の成功法則」だの「量子力学で引き寄せる」みたいなものだ。

ところが、私は、法然や親鸞には完全に洗脳されてしまった。
ただし、仏教や、浄土宗、浄土真宗といった仏教宗派に洗脳されたわけでは全くない。
仏教全体は、あまりに統一性がない。キリスト教であれば旧約と新約の聖書があるだけだが、仏教には無数の教典があり、それらの内容があまりにかけ離れている。だから、「仏教を信仰している」という言い方は実際には成立せず、「法華経を信仰している」「法句経を信仰している」といったように言うしかないと思う。浄土真宗の檀家だからといっても、浄土真宗を信仰しているというのとは全く別の話と言って良いと思う。

いわば私は、法然・親鸞教を信仰していると言える。
法然と親鸞の教えは違うと言う人もいるだろうし、私も両者の差異は知っているが、根本は同じと思う。
ましてや、法然は浄土宗で親鸞は浄土真宗であるといったことは全く問題にならない。
正直、浄土宗や浄土真宗には全く興味がない。
また、私が、法然の教えの全て、親鸞の教えの全てを知っているわけではない。
法然に関しては、『選択本願念仏集』と『一枚起請文』だけ。
親鸞に関しては、弟子の唯円が書いた『歎異抄』と『現世利益和讃』だけで、親鸞の代表作の『教行信証』は読んでもいない。
そして、正直言うと、『選択本願念仏集』となると、内容にかなりの無理も感じている。それでも、この本の根本思想は素晴らしく、私は、この本の内容の欠点を知りつつも目をつぶることが出来る。

そして、念仏が論理的、科学的に正しいことは個人的な理論構築によって理解しているのであり、正直、宗教やお坊様の念仏の教えは全く信じていない。
大数学者の岡潔が念仏を唱えていたのも、宗教を信仰していたからではなく、弁栄(べんねい)上人(山崎弁栄)という傑出した思想家・宗教家を信仰していたのであり、また、自分なりに理論を構築して納得していたからであると思う。いわば、岡潔も弁栄上人に洗脳されていたのである。それは良い洗脳である。
尚、私も弁栄上人の本は読んだが、私には合わないようだった。

イーロン・マスクは少年時代に『銀河ヒッチハイク・ガイド』を通して著者のダグラス・アダムスに洗脳されたと言えると思う。
彼は、イエス・キリストにも、ある程度洗脳されたのだと思う。
ビッグ・テックの創業者達も、SF好きが多いらしいが、それぞれに、特別にお気に入りのSF作家に洗脳されたということはあると思う。

大雑把には、私は『歎異抄』に洗脳されているのだが、別に、『歎異抄』の一字一句を絶対肯定しているというのではない。
『歎異抄』の中に、思想的感情的に大いに共感する部分があるというだけのことだ。
一休が、親鸞のことを指し「この男は信用出来る」と言ったらしいが、私もそんな感じである。

本当に洗脳されてしまうと、念仏を唱えると良いことしか起こらない。
皆、何か良いもの、本当に優れたものに洗脳されるべきで、何に洗脳されるかは自分で選ぶべきである。
しょーもないものに、ぬるま湯的に中途半端に洗脳されるのが最も不幸である。たとえば東大卒業者は偉いといったような。

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(1)新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
(2)選択本願念仏集 法然の教え (角川ソフィア文庫)
(3)銀河ヒッチハイク・ガイド(ダグラス・アダムス)
(4)新約聖書 福音書 (岩波文庫)

水遊び
AIアート1672
「水遊び」
Kay

善いことをするなという教え

念仏は、実際は夢の世界であるこの世に最も適合するための優秀なシステムであると思う。
夢の世界と言っても、実体は、コンピューターゲームのような仮想世界、あるいは、シミュレーション世界だ。
念仏のシステムのマニュアルの1つである『観無量寿経』を読むと、仏国土というのは高度に機械化された世界と言うよりは、どう見てもシミュレーション世界である。
イギリスの数理哲学者ニック・ボストロムや、近年何かと話題のイーロン・マスクは、この世界がシミュレーション世界であるとほぼ断定しているが、彼らも思いつきでそう言ったのではなく、否定し難いというところまで突き詰めてそう言うのであり、それは難しいことなのかと言うと、誰でもそう結論付けるしかないと思う。

念仏システムと近いのが、荘子の手法で、それは「なりゆきにまかせ、何もしない」というものだ。
現代でもよく言われる「あるがままに(Let it be)」「なんとかなる」「なるようになる」という言葉も、根は同じなのかもしれないが、荘子と似ている。
しかし、荘子以外は、「何もしない」が強調されておらず、人間は、つい何かしてしまう。
いくら「あるがままに」と思っても、何かして、あるがままに出来ないのが人間だ。
また、荘子以外は、「善いことをしろ。悪いことをするな」ということをを否定しない。
すると、人間は善いことをしようとすると同時に、同じくらい、悪いこともしようとするのだ。
荘子が言う通り、善いと悪いに違いはないからだ。
「善いと悪いの区別がつくのが大人だ」と言う者ほど、悪いことをするかもしれない。

だが、念仏システムは荘子を超える。
なぜなら、「善いことをしてはならない」「悪いことをしても構わない」と言うからである。
こう言うと、「平気で悪いことをやり放題のやつらが正しいのか?」と言いたい者がいるだろうが、この考えには誤解がある。
悪いことをする連中は、やりたくて悪いことをしているのではない。やらされているだけなのだ。
そして、悪いことをしようとしても悪いことが出来るわけではない。
思う通りに善いことも悪いことも出来ないことは『荘子』にだって書かれている。全てやらされているということも。
さらに、荘子は、善いことをする者を馬鹿にしている。
ここらを見ると、荘子もかなりのものなのである。
言ってみれば、機能的には同じだが、念仏は愚民にも親切な分かり易い製品のようなものだ。

善いことをしてはならないというのを納得しない人が多い。
しかしさあ(笑)、善いことをする者って、「自分が好きな善いことしかしない」のである。
だから、荘子は善いことをする者を馬鹿にするのである。
念仏システムを理解していた親鸞は、善いことをする者を馬鹿にしたわけではないが、困ったものだとは思っていたと思う。
親切の押し売りをする者を荘子は馬鹿にし、親鸞は、一応は褒めるが、ため息をつくのであると思う。
その対策として、荘子は、大きな善いことをした者を、善いことをしない神仙に合わせたらどうなるかを描いて見せた。
だが、親鸞はあえて「善いことをするな」「悪いことをしても構わない」と、誤解はされそうだが、当たり前のことを言ったのである。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
(2)新釈 荘子 (PHP文庫)
(3)浄土三部経(現代語版)(浄土真宗本願寺派総合研究所)

蜃気楼
AIアート1652
「蜃気楼」
Kay

システムとしての念仏

人間の悩みなんて、頭が悪いか、性格が悪いかの2通りで、その他の悩みに見えるものは全て、この2つが原因だ。
お金が儲からないのは主に頭が悪いからだし、モテないのは、頭が悪いか性格が悪い、あるいは、その両方である。
だが、実際は、問題は頭が悪いことだけで、性格が悪いのは頭が悪いからである。
では、頭が悪いとはどういうことかというと、余計なことを考えることである。
L.ロン.ハバードというカルト教団の教祖のように言われる作家が『科学の進化』という本に、人間の頭の中を部屋にたとえていたのが良かった。
駄目な人間、すなわち、頭が悪い人間というのは、ガラクタが転がりまくった部屋のようなもので、そのガラクタが余計な考えのことだ(ハバードの場合、正確には、余計な考えの原因をガラクタと言ったが、結果は同じだ)。
子供にロクでもない考えを注入すれば、その子供はあっけなく馬鹿になる。
たとえば、君主とか将軍様は偉大な人間であるとか、偉大なスポーツ選手を崇拝しなければならないとか、あの芸人は偉大な芸人である・・・などで、日本人の大半が馬鹿である理由がこれである。
部屋の中のガラクタのような考えの中には、「酒がやめられない俺は駄目なやつ」とか「いい大学を出ていない自分は低級だ」、あるいは、とても人に言えないようなことで持っている悩み、劣等感、引け目などがある。

こう言うと、そこそこ以上に頭が良ければ確実にそうだろう。
その点、本当の馬鹿は平和と言えば平和かもしれない。

ラマナ・マハルシは「自分が罪人であるからと嘆くべきでない」と言ったが、余程の馬鹿でない限り、それは難しい・・・いや、無理だ。
それで、法然や親鸞は、「どれだけ自分が駄目なやつでも、念仏を唱えれば、阿弥陀仏の無限のパワーで全部帳消しの上、加護も得られる」と教えた。
これは、法然、親鸞独特のものだ。
彼ら以前の、中国の、曇鸞、道綽、善導、さらには、彼らの教えの基と言える『無量寿経』や『観無量寿経』は、ある程度厳しい教えが含まれ、法然や親鸞のような甘々ではない。
親鸞の弟子の中には、教典を読んで立派な僧であろうと必死になった者もいたが、親鸞の教えからすれば、それは本末転倒である。
法然もそうだと思うが、親鸞の教えというのは、駄目なやつほど良いというものだ。

そして、科学的とか論理学的にというか、それらすら超えた知恵というものからすれば、案外に法然、親鸞の方が、教典や中国の念仏より正しいような気がする。
法然の方はまだ、念仏をしっかり唱え「なければならない」という厳しさはあったが、親鸞には一切の厳しさがない。それでいて、教えを成り立たせているのだから、親鸞は本物の天才だと思う。釈迦やイエスだって、そこまでは出来なかったと思う。まあ、時代背景の違いもあったが。

私が言う念仏とは、親鸞の念仏であり、普通に言う念仏とは全く異なるし、ましてや、葬式の念仏とは全く関係がない。私は葬式で念仏なんか決して唱えない。
言ってみれば、『エイリアン・インタビュー』の宇宙人のマインドコントロール装置を無効化するシステムが念仏である。
そのシステムは『歎異抄』を読めば手に入ると思う(30回程度読めば)。唯円(歎異抄著者)は良い仕事をした。
借金?復縁?
それも解決されると思う。ちゃんとやればだが。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
(2)三帖和讃(現代語版) ※『現世利益和讃』収録
(3)選択本願念仏集 法然の教え (角川ソフィア文庫)
(4)科学の進化(L.ロン.ハバード)
(5)ラマナ・マハルシの教え(山尾三省訳)

渾然一体
AIアート1648
「渾然一体」
Kay

念仏の偏見をごっそり落とす

親鸞の教えを取りまとめた『歎異抄』は、その素晴らしさと同時に、誤解される危うさ・・・と言うより、私の感覚では面倒臭さがある。
実際は、非常にシンプルな教えなのに、誤解されないことが珍しいくらいだ。
それは、念仏そのものも同じである。

まず、『歎異抄』や念仏を語る時、浄土真宗、浄土宗といった宗教、あるいは、仏教そのものとも離れなければならない。
阿弥陀如来というのは、絵や彫刻にあるような姿をした固有の仏ではなく、理解は出来ないが、宇宙そのもの、あるいは、宇宙を運営する力で、絶対的な知恵、力であるとしなければならない。
宗教で言うなら、絶対神のようなもので、我々が普通に言う神様と同じだ。
実際、『歎異抄』にだって、仏に、形、大きさ、色があるわけではないと書かれており、庶民が分かり易いよう、仮の姿を作っただけである。

「南無阿弥陀仏」という念仏は、「阿弥陀仏に帰依することです」なんて意味不明な説明をする先生が多いが、帰依なんて言葉を使う人なんていない。
「南無阿弥陀仏」とは、「阿弥陀仏に全部まかせますよ」という意味で、この「阿弥陀仏」とは、形も大きさもない絶対的な知恵と力で、あえて言えば大きさは宇宙と同じで、宇宙のあらゆる場所に存在する。

で、阿弥陀仏に何をまかせるかだが、宗教では、死後に極楽浄土に行くことだが、絶対的な知恵と力を持つ存在には何でも可能で不可能はない。
それで、親鸞も『現世利益和讃』で、いかなる望みも全て叶うと謳っているが、別に冗談で言ったのではない。
そして、阿弥陀如来にまかせる方法が、「まかせる」という宣言である「南無阿弥陀仏」という念仏である。
「なむあみだぶつ」だろうが「なもあみだぶつ」だろうが「なんまいだー」だろうが、何でも良い。「まかせる」という意思だけが重要である。
で、何回唱えれば良いかだが、ここで法然と親鸞の言葉上の教えが異なった。
法然は、多ければ多いほど、本当は1日中が良いと言ったが、親鸞は「1回でも」「いや1回も唱えなくても」と言った。
当然ながら、法然は庶民が分かり易いように言ったのである。だが、親鸞だって、本音で言ったのだと思う。だって、重要なことは「まかせる」って意思なのだから、その意志があれば、1回も唱えなくても良いのは当たり前の理屈である。

他の条件は何もない。
ひきこもりのニートでも・・・いやいや、人殺しでも詐欺師でも全く問題ない。
ただ、人殺しや詐欺師は、超越的な存在にまかせる気がないから、人殺しや詐欺をするのだから、少々厳しいかもしれない。
しかし、「俺は罪人だから駄目」という悩みは必要ないし、そんなことで悩む者は、普通の人より有望である。
だから、親鸞は、あの有名な言葉「善人でさえ救われるのだから、悪人が救われないはずがない」と言ったのだ。
宇宙最強の全知全能の存在に、「まかせる」という気持ちで、法然、親鸞に敬意を示して念仏を唱えれば十分である。
あるいは、そんな無限の存在に「全部まかせる」と決めれば、特に念仏を唱える必要もない。
ただ、念仏の効用というのも確かにある。
それは、念仏を唱えている間、思考が止まることで、思考が止まればそれだけで大きな力を得る。
その意味では、法然の「とにかく念仏」も非常に正しいのである。

ところで私は、浄土真宗の葬式で、お坊様に延々と念仏を唱えさせられてから、念仏がすっかり嫌いになった。
念仏は唱えさせるものでも、唱えさせられるものでもない。
まして、葬式で念仏を唱える意味など、本当は全くない(と私は思う)。
「私は(  )を願うが、どうなるかは〇〇(神、仏、主、宇宙、宇宙の活力等)にまかせる」と思うと良いと思う。これを短くまとめて「南無阿弥陀仏」と言っても良い。
本当にまかせたら、叶わなくてもがっかりすることはないし、むしろ後で、「叶わなくて良かったなあ」と思うことも多い。
それに、そこそこ以上には叶うものである。

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(1)新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
(2)三帖和讃(現代語版) ※『現世利益和讃』収録
(3)選択本願念仏集 法然の教え (角川ソフィア文庫)

白い朝
AIアート1647
「白い朝」
Kay

日本人はなぜロボットのようなのか

悩みや不安が大きくなり、自分の力で手に負えないと感じても、ほとんどの人は、それを自分で何とかしようとしたり、あるいは、見ないフリをして問題を先送りにしようとする。
すると、問題はどんどん大きくなる。
そこで、ごく一部の者は、修行をすることで解決しようとする。
だが、修行することで、自分の力で解決しようとすると、泥沼にはまることになる。
本当の修行とは、自力を捨て、自分より大きな者にまかせるようになることだ。

親鸞は法然の弟子で、法然は、ひたすら念仏を唱えよと教えた。
それで、阿弥陀如来という最強の存在にまかせてしまえるからだ。
しかし、親鸞は、その教えに今一つ乗り切れなかったのだと思う。
と言うのは、あまりに必死で念仏を唱えることで精神錯乱に陥り、幻想を見て悟りを開いたと勘違いする僧を沢山見たからだ。
かと言って、親鸞は念仏を唱えることは否定しなかった。
それで、「本当の念仏を1回唱えれば良い」とか、「念仏を唱える気になることが大事で、1回も唱えなくても良い」などと言い、法然に怒られたりもした。
やはり、ソフトタッチ(穏やかな態度)というものが必要なのである。
「俺は毎日、念仏を3千回唱えるのだ」と頑張ろうとすると、シンドくなる。シンドいことはうまくいかない。

ところで、本当に信仰があれば念仏も良いが、現代の葬式仏教(葬式や法要の時だけの仏教)を見ていたら、なかなか信仰は起きないかもしれない。
また、一説によれば、日本人をお金の信者にしてコントロールするために、日本人はアメリカに宗教を取り上げられたとも言われる。だから日本人は、ほとんどが無宗教なのである。
そのために、お金に限らず、日本人は、妙なものを信仰する・・・つまり、オタクになる傾向が強い。生産的なもののオタクになると、良さそうな成果も上げるが、アイドルオタクや軍事オタク、歴史オタク、アニメオタク、ゲームオタク等になる様は、まるで新興宗教を狂信しているようである。それがアメリカの狙いであったのかもしれないし、宗教を取り上げるとオタクになるというのは、想定外のことだったかもしれない。
つまり、昔から、日本人は、いろんなものの実験台にさせられた。
代表的なものが原爆実験とレプリコンワクチン実験らしく、偶然かもしれないが、無宗教実験も行われたわけである。

日本人が、オタクになり易いだけでなく、新興宗教や新興宗教に似た思想集団にハマり易いのも、やはり宗教を取り上げられたからかもしれない。
日本人から宗教が取り上げられたのは、もちろん、第二次世界大戦の敗戦によってであるが、それ以前も、新渡戸稲造は日本人は無宗教だと言っていたようだ。ただし、新渡戸が「だが日本には武士道あり」と思ったように、昔の日本人には何か確固とした信仰があり、おそらくそれはアニミズム(神霊信仰)のようなもので、それは神道から来ていたと思われる。

宗教を信仰することが良いのかどうかは分からないが、少なくとも、日本では、宗教団体の宗教には関わらない方が良いと私は思う。
イーロン・マスクも、これに関しては同じと思うが、私は16歳の時から聖書(私の場合は主に新約聖書の福音書だが)を読んではいたが、クリスチャン(キリスト教徒)になろうと思ったことは一度もない(イーロン・マスクは形の上ではクリスチャン)。
私の場合は、幼い時から奇跡体験が多いので、イエスの超能力めいた力には何か共感するとこもあったのだと思う。
もちろん、イエスの超能力は本物である。パラレルワールドには、そんな世界もある。
尚、イエスは、修行の方法を直接には言っていないように見えるが、やはり私には分かる。「これ」と単純には言えないが、要は、余計な思考はするなということだ。
世間の信念や教義に飲み込まれ、それに盲目的に従うロボットになるなということだが、アメリカはまさに、日本人をそれにしたのだと思う。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)新約聖書 福音書 (塚本虎二)
(2)聖書 新共同訳 新約聖書(日本聖書協会)
(3)新約聖書 新改訳(新日本聖書刊行会)
(4)武士道(新渡戸稲造著、 岬龍一郎訳)
(5)新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

現代の巫女
AIアート1378
「現代の巫女」
Kay

プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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