法然や親鸞の偉いところは、念仏以外に何もしなくて良いと言ったことだ。
そして、さらに偉いところは、念仏以外に何もしなくても良いのではなく、念仏以外に何もしてはならないと言ったことだ。
ただ、法然が、起きている間中ずっと念仏を唱えよと言ったのに対し、親鸞は一生に一度だけでも念仏を唱えれば良いとか、一度も唱えなくても、唱えようとする気があれば良いと言って師の法然に怒られている。
確かに、親鸞は余計なことを言って信者達を混乱させたところもあるのだが、親鸞は庶民をよく知っていたのだろう。
普通の人は、法然が言うように起きている間中ずっと念仏を唱えるどころか、1日に10分唱えることも難しいというか、実際はほとんど誰も出来ない。岡潔博士が熱心に念仏を唱えていたといったところで、毎朝1時間で、それでも凄いと言えるのだから。
ところで、法然や親鸞と違い、偽物の指導者は、非常にたちが悪い。
「これを絶対にやりなさい。それから、これをやりなさい。そして、これもやりなさい。これもやるべきです。また、これもやるといいです」
と、あれもこれもと言い、教えを受ける方は、結局、何もしないのだ。
こんな指導者は、そもそもIQが低いので、相手にしてはならない。
教えが本一冊になった時点で、もう実践不可能なのだから、教えを本に書いている指導者は駄目と言って良いだろう。
ラマナ・マハルシは、「私は誰か?」以外の想念を起こしてはならないと言った・・・つまり、「私は誰か?」と自分に問いさえすれば良いと教えたが、他にも、人生を神に明け渡す道もあることを認めた。
ただし、どちらか1つをやれば良いのであり、決して両方やれとは言っていない。
ただ、問われるままに、僅かながら返答しているうちに、その返答まで、マハルシの教えということになってしまった。
そんな感じで、マハルシは、「採食にしなさい」とか「バガヴァッド・ギーターを読め」とかいろいろ言ったが、それらはあくまで二次的なことであり、特にしようとしなくて良い。
ただでさえ、「私は誰か?」と問うことすら続かない人が大半なのに、余計なことを教えても仕方がない。
親鸞が「念仏を唱えなくて良いから、唱える気持ちだけ持っていろ」と言ったのも、そんなふうに「まずは唱えることを憶えている」ことが凡人には必要だと分かっていたからだ。

AIアート215
「妖精のフリ」
Kay
真似させてもらえば、私も、「私は誰か?」と問いさえすれば良いと言いたい。
ただ、マハルシと違い、その意味は思考を消すことで、意識があるまま思考を消せば神になったも同じと言うのである。
ただ、思考を消せば良いという理由で、微かな呼吸をするのでも良いと言うのである。
そして、思い出すごとに、「私は誰か?」と問うか「微かな呼吸」をするかをすれば良い。
もちろん、どちらか一方で良い。
そのためにも、まずは、それをすることを憶えていないといけない。
思考が消えるにつれ、IQは上がり、幸運に恵まれ、引き寄せ能力が高まり、完全に思考が消えれば神になる。
だが、そんな余計なことは忘れ、「私は誰か?」と問うか、微かな呼吸をするかのいずれかを憶えておくと良い。
あるいは、他のことでも良いから、何か1つだけ、必ずやることを憶えていて、なるべく多く思い出し、なるべく多くやれば良いのである。
そして、さらに偉いところは、念仏以外に何もしなくても良いのではなく、念仏以外に何もしてはならないと言ったことだ。
ただ、法然が、起きている間中ずっと念仏を唱えよと言ったのに対し、親鸞は一生に一度だけでも念仏を唱えれば良いとか、一度も唱えなくても、唱えようとする気があれば良いと言って師の法然に怒られている。
確かに、親鸞は余計なことを言って信者達を混乱させたところもあるのだが、親鸞は庶民をよく知っていたのだろう。
普通の人は、法然が言うように起きている間中ずっと念仏を唱えるどころか、1日に10分唱えることも難しいというか、実際はほとんど誰も出来ない。岡潔博士が熱心に念仏を唱えていたといったところで、毎朝1時間で、それでも凄いと言えるのだから。
ところで、法然や親鸞と違い、偽物の指導者は、非常にたちが悪い。
「これを絶対にやりなさい。それから、これをやりなさい。そして、これもやりなさい。これもやるべきです。また、これもやるといいです」
と、あれもこれもと言い、教えを受ける方は、結局、何もしないのだ。
こんな指導者は、そもそもIQが低いので、相手にしてはならない。
教えが本一冊になった時点で、もう実践不可能なのだから、教えを本に書いている指導者は駄目と言って良いだろう。
ラマナ・マハルシは、「私は誰か?」以外の想念を起こしてはならないと言った・・・つまり、「私は誰か?」と自分に問いさえすれば良いと教えたが、他にも、人生を神に明け渡す道もあることを認めた。
ただし、どちらか1つをやれば良いのであり、決して両方やれとは言っていない。
ただ、問われるままに、僅かながら返答しているうちに、その返答まで、マハルシの教えということになってしまった。
そんな感じで、マハルシは、「採食にしなさい」とか「バガヴァッド・ギーターを読め」とかいろいろ言ったが、それらはあくまで二次的なことであり、特にしようとしなくて良い。
ただでさえ、「私は誰か?」と問うことすら続かない人が大半なのに、余計なことを教えても仕方がない。
親鸞が「念仏を唱えなくて良いから、唱える気持ちだけ持っていろ」と言ったのも、そんなふうに「まずは唱えることを憶えている」ことが凡人には必要だと分かっていたからだ。

AIアート215
「妖精のフリ」
Kay
真似させてもらえば、私も、「私は誰か?」と問いさえすれば良いと言いたい。
ただ、マハルシと違い、その意味は思考を消すことで、意識があるまま思考を消せば神になったも同じと言うのである。
ただ、思考を消せば良いという理由で、微かな呼吸をするのでも良いと言うのである。
そして、思い出すごとに、「私は誰か?」と問うか「微かな呼吸」をするかをすれば良い。
もちろん、どちらか一方で良い。
そのためにも、まずは、それをすることを憶えていないといけない。
思考が消えるにつれ、IQは上がり、幸運に恵まれ、引き寄せ能力が高まり、完全に思考が消えれば神になる。
だが、そんな余計なことは忘れ、「私は誰か?」と問うか、微かな呼吸をするかのいずれかを憶えておくと良い。
あるいは、他のことでも良いから、何か1つだけ、必ずやることを憶えていて、なるべく多く思い出し、なるべく多くやれば良いのである。