悩みや不安が大きくなり、自分の力で手に負えないと感じても、ほとんどの人は、それを自分で何とかしようとしたり、あるいは、見ないフリをして問題を先送りにしようとする。
すると、問題はどんどん大きくなる。
そこで、ごく一部の者は、修行をすることで解決しようとする。
だが、修行することで、自分の力で解決しようとすると、泥沼にはまることになる。
本当の修行とは、自力を捨て、自分より大きな者にまかせるようになることだ。
親鸞は法然の弟子で、法然は、ひたすら念仏を唱えよと教えた。
それで、阿弥陀如来という最強の存在にまかせてしまえるからだ。
しかし、親鸞は、その教えに今一つ乗り切れなかったのだと思う。
と言うのは、あまりに必死で念仏を唱えることで精神錯乱に陥り、幻想を見て悟りを開いたと勘違いする僧を沢山見たからだ。
かと言って、親鸞は念仏を唱えることは否定しなかった。
それで、「本当の念仏を1回唱えれば良い」とか、「念仏を唱える気になることが大事で、1回も唱えなくても良い」などと言い、法然に怒られたりもした。
やはり、ソフトタッチ(穏やかな態度)というものが必要なのである。
「俺は毎日、念仏を3千回唱えるのだ」と頑張ろうとすると、シンドくなる。シンドいことはうまくいかない。
ところで、本当に信仰があれば念仏も良いが、現代の葬式仏教(葬式や法要の時だけの仏教)を見ていたら、なかなか信仰は起きないかもしれない。
また、一説によれば、日本人をお金の信者にしてコントロールするために、日本人はアメリカに宗教を取り上げられたとも言われる。だから日本人は、ほとんどが無宗教なのである。
そのために、お金に限らず、日本人は、妙なものを信仰する・・・つまり、オタクになる傾向が強い。生産的なもののオタクになると、良さそうな成果も上げるが、アイドルオタクや軍事オタク、歴史オタク、アニメオタク、ゲームオタク等になる様は、まるで新興宗教を狂信しているようである。それがアメリカの狙いであったのかもしれないし、宗教を取り上げるとオタクになるというのは、想定外のことだったかもしれない。
つまり、昔から、日本人は、いろんなものの実験台にさせられた。
代表的なものが原爆実験とレプリコンワクチン実験らしく、偶然かもしれないが、無宗教実験も行われたわけである。
日本人が、オタクになり易いだけでなく、新興宗教や新興宗教に似た思想集団にハマり易いのも、やはり宗教を取り上げられたからかもしれない。
日本人から宗教が取り上げられたのは、もちろん、第二次世界大戦の敗戦によってであるが、それ以前も、新渡戸稲造は日本人は無宗教だと言っていたようだ。ただし、新渡戸が「だが日本には武士道あり」と思ったように、昔の日本人には何か確固とした信仰があり、おそらくそれはアニミズム(神霊信仰)のようなもので、それは神道から来ていたと思われる。
宗教を信仰することが良いのかどうかは分からないが、少なくとも、日本では、宗教団体の宗教には関わらない方が良いと私は思う。
イーロン・マスクも、これに関しては同じと思うが、私は16歳の時から聖書(私の場合は主に新約聖書の福音書だが)を読んではいたが、クリスチャン(キリスト教徒)になろうと思ったことは一度もない(イーロン・マスクは形の上ではクリスチャン)。
私の場合は、幼い時から奇跡体験が多いので、イエスの超能力めいた力には何か共感するとこもあったのだと思う。
もちろん、イエスの超能力は本物である。パラレルワールドには、そんな世界もある。
尚、イエスは、修行の方法を直接には言っていないように見えるが、やはり私には分かる。「これ」と単純には言えないが、要は、余計な思考はするなということだ。
世間の信念や教義に飲み込まれ、それに盲目的に従うロボットになるなということだが、アメリカはまさに、日本人をそれにしたのだと思う。
◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)新約聖書 福音書 (塚本虎二)
(2)聖書 新共同訳 新約聖書(日本聖書協会)
(3)新約聖書 新改訳(新日本聖書刊行会)
(4)武士道(新渡戸稲造著、 岬龍一郎訳)
(5)新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

AIアート1378
「現代の巫女」
Kay
すると、問題はどんどん大きくなる。
そこで、ごく一部の者は、修行をすることで解決しようとする。
だが、修行することで、自分の力で解決しようとすると、泥沼にはまることになる。
本当の修行とは、自力を捨て、自分より大きな者にまかせるようになることだ。
親鸞は法然の弟子で、法然は、ひたすら念仏を唱えよと教えた。
それで、阿弥陀如来という最強の存在にまかせてしまえるからだ。
しかし、親鸞は、その教えに今一つ乗り切れなかったのだと思う。
と言うのは、あまりに必死で念仏を唱えることで精神錯乱に陥り、幻想を見て悟りを開いたと勘違いする僧を沢山見たからだ。
かと言って、親鸞は念仏を唱えることは否定しなかった。
それで、「本当の念仏を1回唱えれば良い」とか、「念仏を唱える気になることが大事で、1回も唱えなくても良い」などと言い、法然に怒られたりもした。
やはり、ソフトタッチ(穏やかな態度)というものが必要なのである。
「俺は毎日、念仏を3千回唱えるのだ」と頑張ろうとすると、シンドくなる。シンドいことはうまくいかない。
ところで、本当に信仰があれば念仏も良いが、現代の葬式仏教(葬式や法要の時だけの仏教)を見ていたら、なかなか信仰は起きないかもしれない。
また、一説によれば、日本人をお金の信者にしてコントロールするために、日本人はアメリカに宗教を取り上げられたとも言われる。だから日本人は、ほとんどが無宗教なのである。
そのために、お金に限らず、日本人は、妙なものを信仰する・・・つまり、オタクになる傾向が強い。生産的なもののオタクになると、良さそうな成果も上げるが、アイドルオタクや軍事オタク、歴史オタク、アニメオタク、ゲームオタク等になる様は、まるで新興宗教を狂信しているようである。それがアメリカの狙いであったのかもしれないし、宗教を取り上げるとオタクになるというのは、想定外のことだったかもしれない。
つまり、昔から、日本人は、いろんなものの実験台にさせられた。
代表的なものが原爆実験とレプリコンワクチン実験らしく、偶然かもしれないが、無宗教実験も行われたわけである。
日本人が、オタクになり易いだけでなく、新興宗教や新興宗教に似た思想集団にハマり易いのも、やはり宗教を取り上げられたからかもしれない。
日本人から宗教が取り上げられたのは、もちろん、第二次世界大戦の敗戦によってであるが、それ以前も、新渡戸稲造は日本人は無宗教だと言っていたようだ。ただし、新渡戸が「だが日本には武士道あり」と思ったように、昔の日本人には何か確固とした信仰があり、おそらくそれはアニミズム(神霊信仰)のようなもので、それは神道から来ていたと思われる。
宗教を信仰することが良いのかどうかは分からないが、少なくとも、日本では、宗教団体の宗教には関わらない方が良いと私は思う。
イーロン・マスクも、これに関しては同じと思うが、私は16歳の時から聖書(私の場合は主に新約聖書の福音書だが)を読んではいたが、クリスチャン(キリスト教徒)になろうと思ったことは一度もない(イーロン・マスクは形の上ではクリスチャン)。
私の場合は、幼い時から奇跡体験が多いので、イエスの超能力めいた力には何か共感するとこもあったのだと思う。
もちろん、イエスの超能力は本物である。パラレルワールドには、そんな世界もある。
尚、イエスは、修行の方法を直接には言っていないように見えるが、やはり私には分かる。「これ」と単純には言えないが、要は、余計な思考はするなということだ。
世間の信念や教義に飲み込まれ、それに盲目的に従うロボットになるなということだが、アメリカはまさに、日本人をそれにしたのだと思う。
◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)新約聖書 福音書 (塚本虎二)
(2)聖書 新共同訳 新約聖書(日本聖書協会)
(3)新約聖書 新改訳(新日本聖書刊行会)
(4)武士道(新渡戸稲造著、 岬龍一郎訳)
(5)新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

AIアート1378
「現代の巫女」
Kay