ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

親鸞

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

彼女にしようとするな。既に彼女であると知れ

江戸末期の神道家、黒住宗忠は「天照大神にまるごと任せれば嬉しいことばかりになる」と言い、親鸞は「阿弥陀如来に全て任せれば悪いことは消え、いいことばかりになる」と言った。
もちろん、天照大神と阿弥陀如来は、宗教的には違っても、異なるものではなく、今日流に言えば広義(広い意味)では潜在意識のことである。
インドの聖者ラマナ・マハルシも同じことを言っている。
「神の至高の力がすべてのものごとを動かしているというのに、なぜわれわれはその力に身をまかせず、何をどうすべきか、どうすべきではないかと思い悩むのだろう」
この神も、やはり潜在意識のことである。
荘子は、全く同じことを非常に簡潔に言った。
「いっさいをなりゆきにまかせよ」

このことは、たとえて言えばこんなものだ。
私がある映画で見たものだ。
まだ若い金持ちの紳士が高級レストランに入る。
紳士の目つきや立ち居振る舞いは、特に上品ぶっているわけではないが尊ぶべき人であることを現しており、スタッフは特に丁重に対応する。
普通、金持ちは、オーダーの際、細かい注文を付ける。
ところが、注文を聞かれた紳士は、ごく大雑把な注文の後こう言う。
「まかせるよ」
スタッフは、うやうやしく頷いて下がる。
紳士はスタッフにまかせたというより、状況にまかせた・・・つまり、なりゆきにまかせたのだ。
私は、実際に、そんなものを見たことがある。
政木和三さんとレストランに昼食に行った時のことだ。
そこは、政木さんが度々昼食を取るレストランだった。
政木さんは私にこう言った。
「私はね、ここで一度もオーダーしたことはないのですよ。黙って座っていれば、ちょうどいいものを作ってきてくれるのです」
実際、身体に良さそうな適度な量の美味しい昼食が出てきたのだった。
※その映画のような話が『マスターの教え』の中にもある。

この政木さんのようにやれば良いのである。
いちいち何かを願わなくても、潜在意識は、ちょうど良いものを与えてくれるのである。
何かを望めば、もう叶っているのであり、それをいちいち「これを下さい」と言わなくても良いのである。

放恣の空
AIアート666
「放恣の空」
Kay


まあ、ここまでは、言う人はいくらかいる。
だが、ここで大問題だと思ってしまうのは、「どうすれば潜在意識にまかせることが出来るか」「どうすればなりゆきにまかせられるか」だろう。
これに関し、インドの聖者の教えを変な日本語に訳してしまう人がいる。
「あろうとするな。ありなさい」
無茶苦茶な訳だ(笑)。
もっとマシな訳は、
「あろうとするな。あるのだから」
だ。
まかせることも同じで、
「まかせようとするな。もうまかせているのだから」
になる。
私は思いあたらないが、『マトリックス』で、モーフィアスがネオに、
「速く動こうとするな。速く動けると知れ」
と言ったらしい。
なら、やはり、
「まかせようとするな。まかせていると知れ」
である。
少しレベルを下げればこうだ。
「あの娘を彼女にしようとするな。もう彼女になっていると知れ」

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)いのちの教え―黒住宗忠に学ぶ自然体の生き方
(2)三帖和讃(現代語版)※親鸞の『現世利益和讃』収録
(3)ラマナ・マハルシの教え
(4)奇跡の実現―欲望を捨てれば不可能が可能になる(政木和三)
(5)マスターの教え

最大の攻撃とは無抵抗なり

私が好きな言葉が2つあるが、両方、子供の時にイギリスのテレビドラマで聞いたもので、原文は確認していないが、おそらくだが、翻訳は大体正しいと思う。
1つは、
「攻撃こそ最大の防御なり。最大の攻撃とは無抵抗なり」
で、もう1つは、
「爆発現場に近いほど生き残ることが出来る」
だ。

1人の人間でも、精神状態によってIQは変化する。
心が穏やかな時はIQは高く、怒ったり興奮したりして心が乱れている時はIQが低い。
IQが120以上の状態が長い人を頭が良いと言うだけのことだ。
つまり、冷静沈着な人ほど頭が良いのである。
上の2つの言葉は、IQが低い状態では深い意味が分からない。
そして、これらの言葉は、直観的に分かるものだ。

「最大の攻撃は無抵抗」は、老子や荘子の思想と言われる「無為の為」とか「無作為の作為」と似ていて、やはり、何もしないのが一番強い、あるいは、何もしないことが最大の効果・威力があるということだ。
頭が悪い人は「そんな馬鹿な」と言うだろうが、頭が悪い人に用はない。勝手に言ってろだ。
無為をマスターすれば無敵である。

引き寄せも高度なものでは無為で、願いを叶えるために何もしない。アファーメーションなどの引き寄せメソッドも含めてね。
一般的な引き寄せでは、アファーメーションならアファーメーションを唱えまくる。
「神様の奇跡が起こる」と唱えて宝くじで1億円を2回当てたという実話があるが、これは、あくまで、1日中、2週間ほど唱えたのである。それほどやれる人は、まあ、滅多にというか、ほぼいない。
高度な引き寄せでは、一度も唱えない。
神様の奇跡はいつでも起きているからだ。
だからまあ、確認の意味で「神様の奇跡が起きている」とたまに言うかもしれないが。

これは、法然の念仏と親鸞の念仏との違いと同じだが、仏教の専門家も分かっていない。
法然は、起きている間ずっと念仏を唱えよと説いた。
法然が書いた『選択本願念仏集』に実際にそう書かれている。
だが、親鸞は、1度唱えれば良い、さらに、唱えなくても良いと教え、師の法然を怒らせた。
法然が親鸞の意図を理解していたのかどうかは分からない。
法然は、仏(阿弥陀如来)に救ってもらうために念仏を唱えよと教えた。
だが、親鸞が、もう仏に救われているのだから、別に念仏を唱える必要はないとした。実は、これが正しい。
だから親鸞は、救ってもらったことへの感謝として、一度くらいは念仏を唱えることもあると言ったのだ。
これが親鸞の教えの神髄であるが、これを理解している専門家を私は知らない。
ただし、親鸞も、一足飛びにこの真理に至ったわけではないので、ちょっと違うことも言ったり書いたりはしているかもしれない。
まあ、こう言うと、「いや俺、全然救われてないんっすけど」と言う者がいるので、じゃあ、法然式に念仏を唱えよと、おそらく親鸞も言ったことも多いと思う。

法然式の引き寄せは、なかなか厳しい。
アファーメーションならアファーメーションを、自我が降参するまで唱える必要がある。
しかし、親鸞式では、願いは既に叶っているので何もしない。
「いや、叶ってないんっすけど」という者には、一応、
「霊的世界では叶っているので、物質世界でもその状態になる」
と言わないといけない。厄介だ(笑)。
しかし、霊的世界で叶っていることは、勝手に物質世界に現れると言うか、現れざるをえない。
だから、叶えるために何かする必要はない。
いや、何かする必要がないどころか、何かすると叶わない。
だって、何かするのは、叶ってないこと前提だから、叶ってないことにしてしまうのだ。
だからまあ、唱えるとしたら、「この願いを叶えるために俺は何もしないっすよ」だが、これすら、願いを叶えるために唱えるようではいけない。
マイク・ハーナッキーは、引き寄せの究極の秘訣は「願いを叶えるために、必要なことは全て自主的に実行すると決意する」だと教えたが、「必要なことを何でもやると決意する」って、つまり、何もしないことなのだ。
きっと、ハーナッキーも気付いていない。

薔薇の訴え
AIアート655
「薔薇の訴え」
Kay


ちなみに、「爆発現場に近いほど生き残ることが出来る」は、フランスの詩人ラ・フォンテーヌの寓話『猿と猫』から生まれたことわざ「火中の栗を拾う」に似ている。
ただし、『猿と猫』では、猿にそそのかされた猫が危険を冒して火中から栗を拾い、それを猿が食べるという、騙されて危険なことをする猫の馬鹿さを示したものだが、後の世では、「火中の栗を拾う」は、人のために進んで危険を冒すことの崇高さを示していると共に、「危険を冒してこそ勝利する」という意味がある。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)歎異抄
(2)選択本願念仏集(法然)
(3)ラ・フォンテーヌ寓話
(4)荘子〈1〉 (中公クラシックス)
(5)老子 (岩波文庫)

前世の記憶について

深呼吸をあるレベル以上やっていると、まずはぼんやりかもしれないが、前世を思い出すのではないかと思う。
『エイリアン・インタビュー』での、宇宙人エアルの話によれば、モーツァルトや二コラ・テスラの異常な才能は、輪廻転生での蓄積であり、ラマナ・マハルシも、深いスピリチュアルな理解力を持つ8歳の子供について、「前世の影響」と述べていたらしい。
だが、地球では、人間は前世の記憶を失くしてしまう。しかし、本来の魂はそのようなことはない。
これは太古の昔に、ある宇宙人グループが地球に仕掛けた装置のせいであると宇宙人エアルが語ったというが、事実は不明ながら、そう考えるとつじつまが合うように思う。

だが、前世を思い出すと、前世で自分がやった悪い行いを後悔して苦しむのではないかと思われ、あたかも、それが理由で前世を思い出せない仕組みになっていると主張する者もいる。
今世での自分の過去の行いすら後悔して苦しむのに、それとは比較にならない大きな罪を犯していて、それを思い出したら生きていられないといった論がまかり通ってしまうこともある。

だが、宮本武蔵は「吾、ことにおいて後悔せず」と言い、たとえ自分が何をしてしまっても、それを後悔しないと宣言し、ラマナ・マハルシは、たとえ自分が罪人でも「私は罪人だ」と思って苦しんではいけないと言った。
また、マハルシに「隣の奥さんが美しく、間違いを犯しそうだ」と相談してきた男に対し、マハルシは「たとえそうなっても後悔すべきではない」と言った。
この問題に対しては、親鸞が明解に答えている。
「思い通りに罪を犯したり、また、罪を犯さずにいられるのではない」
罪を犯すか、犯さないかは運命であり、避けられない。
罪を犯す運命であれば、どうしようと罪を犯すし、罪を犯す運命でなければ、どうしたって罪を犯すことは出来ない。
だが、これ以上のことは、マハルシも親鸞も言わなかった。
罪を犯す原因は、たしかにカルマ(因縁・業)であるが、カルマが作用して罪を犯させるのは思考である。
よって、思考を消せば、いかなるカルマも作用しない。
そして、思考を消せば、過去や前世で罪を犯したのは自分ではなく、思考であることが分かり、後悔は起こらないし、罰からも解放される。

薔薇色の乙女
AIアート441
「薔薇色の乙女」
Kay


思考を消せば、輪廻転生の中で得た知識や経験を思い出すし、完全に思考が消えれば、宇宙全体の知識や経験を得る。
そもそも、魂の中には宇宙の全ての情報があり、宇宙の全てのエネルギーと接触出来るのだから、魂は全知全能である。
だから、魂に一切をまかせてしまえば間違いない。
この魂を、それぞれの知識や慣習により、神、仏、道(タオ)、潜在意識、宇宙の意志、宇宙エネルギー、天などと呼ぶのである。
今朝も書いたが私は、宇宙の活力という呼び方を気に入っているが、それも時によっては変わるし、呼び方自体は何でも良いのである。








本当に偉い先生と駄目な先生の大きな違い

法然や親鸞の偉いところは、念仏以外に何もしなくて良いと言ったことだ。
そして、さらに偉いところは、念仏以外に何もしなくても良いのではなく、念仏以外に何もしてはならないと言ったことだ。
ただ、法然が、起きている間中ずっと念仏を唱えよと言ったのに対し、親鸞は一生に一度だけでも念仏を唱えれば良いとか、一度も唱えなくても、唱えようとする気があれば良いと言って師の法然に怒られている。
確かに、親鸞は余計なことを言って信者達を混乱させたところもあるのだが、親鸞は庶民をよく知っていたのだろう。
普通の人は、法然が言うように起きている間中ずっと念仏を唱えるどころか、1日に10分唱えることも難しいというか、実際はほとんど誰も出来ない。岡潔博士が熱心に念仏を唱えていたといったところで、毎朝1時間で、それでも凄いと言えるのだから。

ところで、法然や親鸞と違い、偽物の指導者は、非常にたちが悪い。
「これを絶対にやりなさい。それから、これをやりなさい。そして、これもやりなさい。これもやるべきです。また、これもやるといいです」
と、あれもこれもと言い、教えを受ける方は、結局、何もしないのだ。
こんな指導者は、そもそもIQが低いので、相手にしてはならない。
教えが本一冊になった時点で、もう実践不可能なのだから、教えを本に書いている指導者は駄目と言って良いだろう。

ラマナ・マハルシは、「私は誰か?」以外の想念を起こしてはならないと言った・・・つまり、「私は誰か?」と自分に問いさえすれば良いと教えたが、他にも、人生を神に明け渡す道もあることを認めた。
ただし、どちらか1つをやれば良いのであり、決して両方やれとは言っていない。
ただ、問われるままに、僅かながら返答しているうちに、その返答まで、マハルシの教えということになってしまった。
そんな感じで、マハルシは、「採食にしなさい」とか「バガヴァッド・ギーターを読め」とかいろいろ言ったが、それらはあくまで二次的なことであり、特にしようとしなくて良い。
ただでさえ、「私は誰か?」と問うことすら続かない人が大半なのに、余計なことを教えても仕方がない。
親鸞が「念仏を唱えなくて良いから、唱える気持ちだけ持っていろ」と言ったのも、そんなふうに「まずは唱えることを憶えている」ことが凡人には必要だと分かっていたからだ。

妖精のフリ
AIアート215
「妖精のフリ」
Kay


真似させてもらえば、私も、「私は誰か?」と問いさえすれば良いと言いたい。
ただ、マハルシと違い、その意味は思考を消すことで、意識があるまま思考を消せば神になったも同じと言うのである。
ただ、思考を消せば良いという理由で、微かな呼吸をするのでも良いと言うのである。
そして、思い出すごとに、「私は誰か?」と問うか「微かな呼吸」をするかをすれば良い。
もちろん、どちらか一方で良い。
そのためにも、まずは、それをすることを憶えていないといけない。
思考が消えるにつれ、IQは上がり、幸運に恵まれ、引き寄せ能力が高まり、完全に思考が消えれば神になる。
だが、そんな余計なことは忘れ、「私は誰か?」と問うか、微かな呼吸をするかのいずれかを憶えておくと良い。
あるいは、他のことでも良いから、何か1つだけ、必ずやることを憶えていて、なるべく多く思い出し、なるべく多くやれば良いのである。








本物の聖者の教えは全て現実的で実用的

聖者や賢人達は、解脱(真の自分になることと考えて良い)のための方法を教えながらも、目的はあくまで解脱だけで、それによって現世利益が得られるとはほとんど言わず、むしろ、現世利益のような欲を捨てろと教えた。
イエスは、現世利益についても、かなり言っているはずだが、イエスの教えが宗教になると、それが隠された。
だが、親鸞は『現世利益和讃』により、念仏を唱えることで、あらゆる現世利益が得られると説いたし、親鸞の師の法然も、控え目ながら、『選択本願念仏集』の中で、念仏を唱える者は、仏の大きな加護が得られることを保証している。
(『現世利益和讃』は『三帖和讃』の『浄土和讃』の中にある)
親鸞や法然は正しく、念仏を唱えれば、現世利益は思いのままだ。
ただ、それは、念仏に神秘的な力があるからというのではなく、念仏を唱えれば、思考をする暇がないので、精神が引き寄せ状態になるからである。
実際、妙好人と呼ばれる、在家の、教養がない者が多い念仏者が、仏の加護としか思えないような幸運や奇跡に恵まれた記録は数多くある。
だが、法然が言うように、絶えず念仏を唱えるには、強い信仰が必要で、それは難しいことだ。
それで親鸞は、それほどの数は要求しないが、仏(阿弥陀如来)への感謝の気持ちを持つよう教え、これは、法然には気に入らなかったが、これでうまくいったのが妙好人である。とはいえ、やはり、成功率はそれほど高くはない。

だが、我々は、多くの聖人の教えの情報を得られ、解脱、および、それに準じる状態になることが難しくなくなった。
そして、解脱に近付けば、現世利益は容易く得られる。
解脱の技術をちゃんと使えば、無理に欲望を抑えなくても、自ずと、慎み深くなる。なぜなら、解脱の方が、物質的利益より圧倒的に楽しいからだ。
とはいえ、現世利益を楽しむことも重要なのである。

解脱の方法はいろいろあり、人によって、合う合わないがある。
アファーメーションは、念仏やマントラと同じで、思考を止めると共に、肯定的な思考の性質を育むが、とにかく、それなりの期間、数多く唱えないといけない。
だが、これが向いている者は確かにいる。

一方、万人向きで、間違いのない方法は「今、この瞬間」を意識することで、この方法は巷では「今今メソッド」と呼ばれている、
やり方は、取り立てて言うほどのことはなく、ただ今をしっかり意識するだけで、何かをしているなら、そのやっていることをしっかり意識しながらやるのである。
歩いているなら、歩いていることをしっかり意識し、食べているなら、食べていることをしっかり意識する。
だが、どうしても分からないなら、「今、今、今、・・・」と心の中で唱えれば良い。ただし、少しでも、今を意識しながらね。
詳しく学びたいなら、エックハルト・トールの本が、一番うまく書かれていると思う。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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