「生きる意味」と「存在証明」は同じことだ。
それは、「自らの正義を貫く」ことだ。
では、「自らの正義を貫く」とはどういうことかというと、つまるところ、「お天道様に顔向けができる」ということだ。
これは、西郷隆盛が言った、人間にとって最も重要なことである「天に従う」ということだ。
ところで、「自らの正義」とは、あくまで個人的なものだ。
国家のスローガンでも、宗教の教義でも、会社や学校のモットーでも何でもない。
そんなものは、生ゴミに出し、水洗便所の中に渦を巻いて消えさせれば良い。
そんな下らないものを覚えているフリをするのは処世術として悪くないが、そんなものに平伏している者は死んだも同じだ。
国家や学校や会社は人々を殺したがっているが、あなたは自分の足で立たなければならない。
そのために、自らの正義・・・どうすればお天道様に顔向けできるかは絶対に知っておかなければならない。
水野南北とエマニュエル・スウェーデンボルグの正義は案外似ていた。
それは、「食を慎むこと」、「満腹するまで食べて自分を甘やかさないこと」だった。
彼らは、食を慎む限り、また、満腹するまで食べて自分を甘やかさない限り、お天道様に対して恥ずかしくなかった。
最も自らの正義を貫き通した者は木枯し紋次郎だ。
だから私は彼を崇拝するのだ。
あの笹沢佐保さんの小説の中に、自らの正義を貫き通す崇高な男の姿が書かれている。
あれに惚れなければ人間ではない。
一方、武士ってのは、お上の正義を崇拝し、自らの正義を知らないので、乱れていて弱い。
「サムライジャパン」など、恥の言葉以外の何物でもない。
自らの正義を持っている者、自らの正義を貫く生き方をしている者は滅多にいない。
だから、本当に生きている者はほとんどいない。
自らの正義を貫いていない人間は気色悪い。
自分にしか関心がなく、他人によっかかりたがる。
お天道様を意識していないので、不正なこと、不道徳なことを平気でする。
自らの正義を貫いていない者は自制が効かないのだ。
ある人が、
「私は閻魔様の前に出たら、『トイレの下駄だけはきちんと揃えていました』と言おうと思う」
と言った。
それが彼の正義であり、それを貫いている限り、お天道様は彼を助けるだろう。
法然が、
「善人になろうとしなくても、常に念仏を唱えれば、自ずと善い行いをするようになる」
と言ったのは、念仏を唱えることは、お天道様と等しい阿弥陀如来を常に意識することだからだ。
この善人は、世間的な善人とは必ずしも一致しない。
ただ、念仏をする者は、浄土仏教の正義を押し付けられる危険性も大きいのだ。
念仏者の大半が弱いのはそのためである。
宮沢賢治や日蓮は、それを鋭く感じ取ったので、念仏の教えを嫌ったのだろう。
あなたは、自らの正義を貫いているだろうか?
そもそも、自らの正義とは何か知っているだろうか?
上にも書いたように、トイレのスリッパをちゃんと整える程度のことでも良い。
あるいは、玄関の靴でも同じだ。
満腹するまで食べて自分を甘やかさないことなら、水野南北級、エマニュエル・スウェーデンボルグ級だ。
ジゴロ(フランス語のヒモ、男妾)であっても、学生や未成年の女に手を出さないことを自らの正義として貫いていれば、イカした天下のジゴロになれる。
精神的に幼い人間は、「私の正義は何でしょう?」と尋ねる。
そんなことは、自分にしか分からないのだ。
『木枯し紋次郎』を読めば、やがて分かるだろう。
『新世紀エヴァンゲリオン』のシンジや、レイ、アスカは自分の存在証明に随分苦しんだが、自らの正義を貫けばそれで良かったのだ。
それで一切の苦悩は消えるのである。
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それは、「自らの正義を貫く」ことだ。
では、「自らの正義を貫く」とはどういうことかというと、つまるところ、「お天道様に顔向けができる」ということだ。
これは、西郷隆盛が言った、人間にとって最も重要なことである「天に従う」ということだ。
ところで、「自らの正義」とは、あくまで個人的なものだ。
国家のスローガンでも、宗教の教義でも、会社や学校のモットーでも何でもない。
そんなものは、生ゴミに出し、水洗便所の中に渦を巻いて消えさせれば良い。
そんな下らないものを覚えているフリをするのは処世術として悪くないが、そんなものに平伏している者は死んだも同じだ。
国家や学校や会社は人々を殺したがっているが、あなたは自分の足で立たなければならない。
そのために、自らの正義・・・どうすればお天道様に顔向けできるかは絶対に知っておかなければならない。
水野南北とエマニュエル・スウェーデンボルグの正義は案外似ていた。
それは、「食を慎むこと」、「満腹するまで食べて自分を甘やかさないこと」だった。
彼らは、食を慎む限り、また、満腹するまで食べて自分を甘やかさない限り、お天道様に対して恥ずかしくなかった。
最も自らの正義を貫き通した者は木枯し紋次郎だ。
だから私は彼を崇拝するのだ。
あの笹沢佐保さんの小説の中に、自らの正義を貫き通す崇高な男の姿が書かれている。
あれに惚れなければ人間ではない。
一方、武士ってのは、お上の正義を崇拝し、自らの正義を知らないので、乱れていて弱い。
「サムライジャパン」など、恥の言葉以外の何物でもない。
自らの正義を持っている者、自らの正義を貫く生き方をしている者は滅多にいない。
だから、本当に生きている者はほとんどいない。
自らの正義を貫いていない人間は気色悪い。
自分にしか関心がなく、他人によっかかりたがる。
お天道様を意識していないので、不正なこと、不道徳なことを平気でする。
自らの正義を貫いていない者は自制が効かないのだ。
ある人が、
「私は閻魔様の前に出たら、『トイレの下駄だけはきちんと揃えていました』と言おうと思う」
と言った。
それが彼の正義であり、それを貫いている限り、お天道様は彼を助けるだろう。
法然が、
「善人になろうとしなくても、常に念仏を唱えれば、自ずと善い行いをするようになる」
と言ったのは、念仏を唱えることは、お天道様と等しい阿弥陀如来を常に意識することだからだ。
この善人は、世間的な善人とは必ずしも一致しない。
ただ、念仏をする者は、浄土仏教の正義を押し付けられる危険性も大きいのだ。
念仏者の大半が弱いのはそのためである。
宮沢賢治や日蓮は、それを鋭く感じ取ったので、念仏の教えを嫌ったのだろう。
あなたは、自らの正義を貫いているだろうか?
そもそも、自らの正義とは何か知っているだろうか?
上にも書いたように、トイレのスリッパをちゃんと整える程度のことでも良い。
あるいは、玄関の靴でも同じだ。
満腹するまで食べて自分を甘やかさないことなら、水野南北級、エマニュエル・スウェーデンボルグ級だ。
ジゴロ(フランス語のヒモ、男妾)であっても、学生や未成年の女に手を出さないことを自らの正義として貫いていれば、イカした天下のジゴロになれる。
精神的に幼い人間は、「私の正義は何でしょう?」と尋ねる。
そんなことは、自分にしか分からないのだ。
『木枯し紋次郎』を読めば、やがて分かるだろう。
『新世紀エヴァンゲリオン』のシンジや、レイ、アスカは自分の存在証明に随分苦しんだが、自らの正義を貫けばそれで良かったのだ。
それで一切の苦悩は消えるのである。
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