真言は効果があって当たり前・・・つまり、真言を唱えれば、幸運に恵まれ、安らかでありつつ活力に満ち、幸福になれる強力な理由が、また見つかった。

まず、3人の優れた人物の「人間が存在する理由」の見解を紹介しよう。
一人は、イエス・キリスト
一人は、神道家で形成外科医だった葉室頼昭氏。
一人は、私が大嫌いな(笑)、物理学者で合気道家の保江邦夫氏である。

イエスは、「モーセの十戒」という十条の戒律を、人間が守るべき法として重んじた。
ところが、誰かが、「最も重要な法は?」と尋ねると、「神を愛せよ。これが第一である」と即答した。
これはつまり、人間は何のために存在するかというと、神を愛するために存在するということである。

葉室頼昭氏は、なぜ神が人間を作ったのかということについて、沢山ある著書のどれかに、「神を褒めるため」と書かれていた。
ちなみに、葉室氏は、著書の印税は全て寄付しておられたようである。

保江邦夫氏は、YouTubeで公開されたセミナーで、人間は「神を認識するための存在」として作られたと言われていた。

「神を愛する」(イエス)、「神を褒める」(葉室頼昭)、「神を認識する」(保江邦夫)というふうに、後になるにつれ、やや熱意が弱くなる感じもあるが、いずれにせよ、神は、自分に意識を向けてくれる存在を欲しているのだ。
そして、本来であれば、イエスの「神を愛する」が最も良いが、現代は、人間が神を忘れて見向きもしなくなったので、保江氏が言うように、まずは神を認識する必要があるのだろう。
そして、人間が、その一番軽い「神を認識する」すらしなくなったなら、人間は、人間を存在させている神の目的と合わず、それなら、人間は不要であるので、保江氏が言うには、神は人類をリセットするスイッチを押す手前で、我々は最後のチャンスという危ない状況らしい。コロナも、そのために「作らせた」と考えると合点がいく。

ところが、真言はまさに、「神を認識し」、「神を褒め」、「神を愛する」行為なのである。
仏教の仏(あるいは菩薩)の真言は、まずは、仏の名を呼び、仏に想いを寄せるものであるから、仏の存在を絶対的に認め、さらに、仏を称賛し、愛を表現しているものなのである。
例えば、私が唱えている、阿弥陀如来真言、

オーン、アムリタ、テージェ―、ハラ、フーン(サンスクリット語)
オン、アミリタ、テイセイ、カラウン(中国語)

の意味は、「オーン、甘露(不滅)の威光ある者よ、救いたまえ、フーン」(『密教の聖なる呪文』参照)で、阿弥陀如来を大絶賛し、そして、愛していることも感じられるのである。
観世音菩薩真言であれば、

オーン、アーロリク、スヴァーハー(サンスクリット語)
オン、アロリキャ、ソワカ(中国語)

で、意味は、「オーン、蓮華をもつ者よ、幸いあれ」で、蓮華を持つ者は高貴な最高の存在であるのだから、やはり、最大に称賛しているのであり、「幸いあれ」と愛していることが分かる。
仏の真言はだいたい、このような意味で、仏の存在の認識は当然で、褒め称え、愛していることを表している。

日本神道の「十言神呪(とことのかじり)」と呼ばれる、天照大神の名を呼ぶ真言「アマテラスオオミカミ」は、その名を呼ぶことで、当然、天照大神の存在を認識すると共に、これだけで、自然に、称賛や愛を感じるものである。
これは、当然ながら、「アメノミナカヌシノカミ」や「オオクニヌシノカミ」でも同じと思う。
いや、それで言えば、本当は仏教でも、経典には「仏の名を呼べ」と書いてあるだけなのだから、「阿弥陀様」「観音様」でも立派な真言なのである。
まして、「南無阿弥陀仏」「南無観世音菩薩」であれば、「南無(帰依します:信頼しすがります)」を付けることで、信頼すべき存在として称賛し、愛するからすがることを意味する最高の真言であることが分かる。

そして、最近は紹介する頻度が減ったような気もするが、
「神様の奇跡が起こる」
という言葉も、神の存在を認識し、その力を称賛し、良き業を行ってくれる愛する存在であることをはっきり示している真言なのである。

般若心経の呪文というのは、実は、観世音菩薩を大絶賛し、最大の愛を叫ぶ言葉なのである。
たとえ我々は意味を知らなくても、人類共通の意識の深い部分にこれがあり、現在にいたるも多くの人が唱えて共鳴する巨大なエネルギーになっているので、唱えれば、即座に、無意識的に観世音菩薩や、その他の仏達(観世音菩薩をその代表としている)への称賛や愛に共鳴するのであるから、その力が小さいはずがない。

以上のように、真言は、神や仏が人間を作った目的に最大に合致するのであるから、真言を唱える人間を神や仏が不幸にしたり、ましてや、リセットするはずがない。
だから、法然や親鸞は、「念仏を唱える者(仏を認識し、称賛し、愛する者)を、無数の仏が何重にも取り巻いて守る」と言うのである。