ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

萩尾望都

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

楽しい引き寄せ

引き寄せは楽しくなければならない。
実際に引き寄せられることはもちろん大切だが、子供の秘密の遊びのようなスリルとかトキメキがなければならない。
もし、引き寄せのつもりで、シンドイことや苦しいことをやっているなら、それは正しいことではないのだろうし、引き寄せも起こり難い。
引き寄せは、実感としては運の良さのように感じる。
こうすれば明らかに運がよくなるといった雰囲気があり、やはり面白いものである。

昔の引き寄せでは、「強く念じよ」というものが多かった。
だが、無理に強く念じても引き寄せは起こらない。
とはいえ、そんなことを言った人もデタラメを言ったのはなく、彼らは「自然に強く念じていた」ことを「強く念じよ」と言ってしまったのだ。
良い引き寄せはとても自然なもので、努力は全くいらず、普通は瞬間で行う。

引き寄せにやり方とかテクニックなどというものはない。
どんなやり方でも構わないし、究極は何もしない。
だが、これを言うと混乱する人が多い。
学校やテレビに洗脳された人というのは、自分が言われて一番嫌なことが「好きなようにやれ」だ。
正しいやり方を教わり、その通りにしないと不安なのだ。洗脳されたロボットは。
引き寄せのやり方は、デタラメでさえあれば何でも良いし、デタラメでなければならないというのに。

引き寄せは、ある種の意識状態が起こすのだが、それを至高体験とか超越意識状態とか表現するが、要は自我が消えた状態だ。
「20世紀最大の詩人」と呼ばれたアイルランドのノーベル賞作家ウィリアム・バトラー・イェイツは、芸術の目的はエクスタシーだと言ったが、エクスタシーこそ「忘我」の状態で、法悦とか悟りとか言うこともある。
で、エクスタシーに達する方法をイェイツは求めたのだが、根本は「愛している」状態であることは分かるが、イェイツの結論は「人は愛することは出来ない」だった。
「愛しろ」なんて言われても困る。
見せかけで愛することは出来るが、実際は、誰も意図的に自由に愛することは出来ない。
つまり、人間が見せる愛は偽りの愛だ。
それを正直に認めた時、イェイツは、「だが、憎むことをやめることが出来る」と思った。
人間には愛することは出来ず、せいぜい、憎むことをやめることが出来るだけだ。
なら、人間として出来る最高のことである「憎むことをやめる」でどれほどの効果があるかというと、イェイツは、それでエクスタシーに達し、奇跡を起こせると感じた。
だが、賢い人なら気付くはずだ。
人間には、「憎むことをやめる」ことも出来ないのだ。

これで何も分からなくなったが、世の中には、恐ろしく賢い人がいるものだ。
それは子供である。
子供は、あっさりと究極の答にたどり着く。
それは、人間は、「憎むことが出来る」「愛さないことが出来る」である。

萩尾望都さんの傑作短編漫画『半神』は読む価値がある。
ユージーは双子の妹ユーシーを憎んでいた。
だが、それは、深くユーシーを愛していることだった。
愛と憎しみは根本では同じだ。

人は、貧乏であることやモテないことを憎む。
それなら、貧乏やモテないことを愛しているのだ。
実際、貧乏な人が貧乏を、モテない人がモテないことを愛していることには感動する。
そして、人は愛するものを引き寄せる。
だが、貧乏を愛することをやめることなど出来ない。
それは、貧乏を憎むことをやめられないことと同じだ。
時々、「貧乏、案外悪くないぞ」と言ってひょうひょうとしている人がいるが、それは誤魔化しも入っている。

ある、凄く駄目な若者がいた。
その若者が「僕ってなんて駄目なんだ」と言った時、誰かが、
「君はちっとも駄目じゃない。自分でそう思っているだけさ」
と言ったのだが、それが若者に何かを感じさせ、しばらくしたら、若者は大物になった。
この話を書いたコリン・ウィルソンは、若者に何が起こったのかを書かなかった。彼にも分からなかったのだ。それで、ウィルソンは単に「啓示を得た」と書いた。
この若者は、「僕が駄目だというのは本当だろうか?」と、ちょっと疑っただけだ。
貧乏な人が、「私が貧乏だというのは本当だろうか?」と疑ったり、モテない人が「俺がモテないのは本当だろうか?」と疑えば、面白いことが起こる。
この話を憶えていれば、引き寄せは面白くなる。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)半神(萩尾望都)
(2)超越意識の探求(コリン・ウィルソン)
(3)右脳の冒険(コリン・ウィルソン)
(4)イェイツ詩集(対訳)
(5)ケルトの薄明(ウィリアム・バトラー・イエイツ )

朝の庭園
AIアート1173
「朝の庭園」
Kay

妖精が見える人達

萩尾望都さんの昔の漫画作品『塔のある家』で、ある一家が古い大きな家に引っ越してくるが、その一家の小さな女の子が、その家に妖精がいるのを見つけ、仲良くなる。
だが、その女の子が大きくなるごとに妖精が見えなくなり、やがて、妖精のことを忘れてしまう。
その女の子の人生は不幸なものになっていく。
これは、別にファンタジー(幻想的なフィクション)ではない。
人間は誰でも妖精を見ることが出来、アイルランドの詩人W.B.イェイツの作品には、妖精を普通に見ることが出来る人々の話があり、イェイツは「本当のことを言えば、妖精を見ることが出来ない人間の方に問題がある」といったようなことをしばしば書いていた。

つまり人間は、幼い頃は、中今(今この瞬間に生きること)の状態にあるが、大きくなるにつれ、過去の記憶や未来の空想(不安の場合が多い)の中に生きるようになってしまい、今を生きることをしなくなってしまう・・・つまり、中今でなくなってしまうのだ。
今を生きている限り、この世界は魔法の世界で、妖精みたいなものは珍しくもなく、また、意思がものごとを決め、思えばその通りになる世界であり、いかなる望みも叶う。
そして、本当は、大人もそうあらねばならない。

ZARDのボーカリストだった坂井泉水さんが作詞した歌を聴いていると、悪い意味で切なくなることがよくある。
その理由は、彼女の歌の中には、「あの頃のように、熱く激しく」といった感じの歌詞が多いからである。
恋人達が出会ったばかりの頃は、そりゃ、相手に感じる魅力は半端ない。
しかし、時が経つと、それほどではなくなり、やがて、相手がいかに美男美女だったり、素晴らしい人でも飽きてしまい、魅力を感じなくなることが多い。
だが、それが普通であるわけではなく、何十年も連れ添い、すっかり、オジサンオバサン・・・どころか、お爺さんお婆さんになっても、本当に仲の良い夫婦もいる。
これも、原因は今を生きているかどうかだけにある。
「あの頃のように・・・」と過去の記憶を懐かしみ、記憶の中に生きていたら、リアリティを感じなくなってしまう。実は、それが楽しくない理由なのに。
どれほど付き合いが長かろうが、今を生きているなら、楽しさは全く変わらない。

2400年前の中国の賢者、荘子は、今を生きることの大切さは直観では感じていたが、当時としては、表現の方法がなく、知的には分かっていなかったかもしれない。
しかし、彼が言う「道」とは、実は「中今」のことである。
だが、「道」が、中今、即ち、「今を生きること」と、荘子はシンプルに言うことが出来なかった。
彼も、時間が観念に過ぎないことは分かっていた感じはするのだが、やはり、厳しい封建制の時代に役人をしていた荘子には、いろいろな思考の制約があったのかもしれない。
とはいえ、彼は、「道に生きる」、すなわち、「中今」である方法については、当を得たことを書いている。
それは、「視線を自然にし、一切の思慮分別、是非好悪の念を捨てて見る」だ。
まあ、早い話、「何も考えず、ぼーっとして、目の前のことに集中しろ」という意味だが、人間は「ぼーっとしろ」と言われたら、妄想を始める馬鹿が多いのだ。
しかし、本当に何も考えず、何かをぼーっと見ていたら、今に心が引き戻され、世界の生の姿に触れることが出来る。
そして、実際は、何もせずに見ているだけではなく、仕事をしている時、スポーツをしている時でも、ぼーっと・・・と言ったら、やはり、妄想をするとかよそ事を考える人が多いので、逆に、一切の妄想やよそ事を考えることをせず、今やっていることだけに集中すれば、中今にあり、仕事でもスポーツでも、超人的な成果を上げることがある。
精神科医のミルトン・エリクソンは、仕事の山を前に、無意識状態になれば、気が付いたら仕事が片付いているといったことを言っていたが、彼のこの表現では、普通の人には全く分からない。
しかし、彼もまた、単に、今に全集中したと言ったに過ぎないのだ。
今に全集中する・・・これが中今なのだが、中今では、無意識と通じているのである。

私は、初音ミクさんのライブコンサート「マジカルミライ」に、2016年から毎年行っているが、2016年のマジカルミライが最も楽しく、2017年には早くも飽き、2018年からは、少しずつ、「今年は(行くか行かないか)どうしよう」と思い、昨年、2021年には「今年は行くのはやめよう」と思ったものだった。
それは、私が、今に生きていなかったからで、今年のマジカルミライで、ライブ中、中今にいるよう意識したら、むしろ2016年以上の感激であった。

中今にあるためには、単に、心で「今、今、今、・・・・」と言い続けても十分に効果がある。
とにかく、今に全集中するのだ。
「今、歩いている」「今、食べている」「今、読んでいる」「今、デートしている」「今、仕事をしている」などと敢えて思うのも良い。
過去の記憶や未来の空想に生きるのではなく、今に生きれば、自分の魂が神の魂と融合しているのであり、不可能はなく、望まずとも幸運に恵まれるであろう。








大人でも出来る子供の引き寄せ

昨日(3月31日)、私は、真の知性を持つことや、思考の現実化において、モラルが重要なものであることを確信した。
このことは、私が子供の時から頻繁に起こした奇跡現象とも符合する。

引き寄せと言われる、思考の現実化には、2通りある。
1つは、個人の潜在意識によるもので、もう1つは、人類に共通する集合意識によるものだ。
個人の潜在意識によるものは、規模が小さく、その影響は広く伝播しない。
これは、子供が得意なものであるが、大人でも容易く出来る。
例えば、私が子供の時の場合で言えば、欲しいと思った型の天体望遠鏡を、親に買ってもらうことも、労することもなく手に入れたり、天文知識もなく、満天の星から土星や木星を一発で特定したりだ。
また、これはなかなか信じてもらえないかもしれないが、テレビ放送の内容を、思うだけで決定したことが何度もあるが(以前見たドラマを、その場で再放送させた)、これも、他に影響が及ばないような仕組みになっていたのだと思う。
私でなくても、普通の子供は、そんなことが出来るのだと思う。
子供が皆、天使だとは言わないが、多くの子供は、そこそこに高いモラルを持っていると思う。
大規模な引き寄せを行うには、高いモラルが必要になる。高いモラルのない大きな引き寄せは、出来たとしても災禍となり、それは、引き寄せた本人に返って来て悲惨を生む。
確かに、子供であっても、堕落したモラルを持っていることはあるし、最近は、そんな子供は多いかもしれない。
子供でも、モラルの堕落振りが大きいと、それほど大きなものではないが、災いである引き寄せを行う可能性が高いと思う。
だが、多くの子供が見る、子供向けの物語や漫画、アニメなどは、制作者の善意により、ある程度はモラルがある場合が多く、それは、子供に、それなりに良いモラルを持たせる可能性が高い。
「それなり」とは、弱い者いじめをせず、困っている子がいたら手を貸し、友達に優しくすることを楽しいと思うようなモラルである。
そんな子供は、小さな範囲ではあるが、奇跡的な出来事も、当たり前のように起こすのだと思う。
そのコツを掴めると思うお話がある。

レイ・ブラッド・ベリの『みずうみ』という、非常に美しい短編がある。
主人公の12歳の少年ハロルドが、まさに、子供らしいモラルを持つがゆえに、魔法を発動させる。
ただ、いかなる魔法も、失った命までは取り戻せない。
だからこそ・・・彼の魔法は神秘になった。いや、なってしまったと言うべきか。
私だって、そこまでの魔法が出来ただろうかと思う。
彼は、同い年のタリーという少女に恋をしていた。
「肉とモラルが、意味を持ち始める以前の恋」とあった。
言い換えれば、「肉がモラルを貶める以前の恋」だ。
なぎさで一緒に遊んだり、彼女の教科書を運んであげるだけで満足な恋だった。
そして、ハロルドは、潜在意識の中に、タリーへの強い想いを残し、きっとそこに、錬金術のように黄金のモラルを作り上げた。
だから、その後も、彼は、いかなるモラルの危機も跳ね返せただろう。
この作品は、東京創元社の『10月はたそがれの国』に収録されている。
また、萩尾望都さんが、小学館文庫の『ウは宇宙船のウ』の中で、この『みずうみ』を、素晴らしい漫画作品にしてくれている。
私の予想であるが、いずれも、深く読めば、魔法の力を得られると思う。
なぜなら、天才作家が書いた、魔法の純粋な原理と思えるからだ。








忍び寄る侵略者に勝つ

日本も現在、侵略を受けている。
侵略と言っても、以前のようにドンパチ(ミサイルや戦闘機や機関銃)で攻めて来るのではない。
敵の攻撃は洗脳であり、侵略するのは我々の脳・心である。
その洗脳は、テレビ、新聞、学校、金融、映画、書籍を通して長年行われてきたが、いまや敵は、インターネット(SNSを含む)を手中に収めつつある。
その中で、我々の状況は、不利といった程度のものではない。
なぜなら、大半の者は、侵略を受けていることや、敵の存在にすら気付いていないのだから。
我々は何より、直ちに、敵の存在、敵の侵略事実を認識しなければならない。

どうすれば、それを認識出来るか?
何ごとも、まず、喩えが少しは役立つかもしれない。
萩尾望都さんが、レイ・ブラッドベリの『スは宇宙(スペース)のス』を中心に漫画化した作品、『ウは宇宙船のウ』の中の、『ぼくの地下室においで』を読むと良い。
ブラッドベリ自身の小説『スは宇宙(スペース)のス』でも良いが、これは売り切れのことが多く、何より、萩尾さんの漫画が良い。彼女は天才だ。
もちろん、この作品では、象徴的に描いているが、あの通りのことが、今、本当に起きている。
『ぼくの地下室においで』の中で、大学生のロジャーは、異常事態に気付いていた稀有な人間だった。
そして、彼は、ガールフレンドのマニーに警告するが、マニーは、いきなりだったこともあり、ほとんど理解出来なかった(だが、少なくとも真面目に聞いてくれた)。
最後にロジャーは言う。
「時間切れになるまえに…間に合ううちに…さもなきゃ僕らは…みな…おしまいだよ…!」
では、ロジャーはどうしろと言ったのか?
「気をつけろ」
「六感を・・・直観を働かせるんだ」
「頭の細胞全部使うんだ」

しかし、それではもう遅いかもしれない。
そこで、もっと良い方法を教えよう。
敵が手をつけられないものを使うのだ。
それは、神仏の名だ。
確かに、敵は、自分達の都合の良いように、神や仏の一般概念を穢し切り、歪めてしまった。
しかし、神仏の名には、決して手は出せない。
天照大神、阿弥陀仏、観世音菩薩、弥勒菩薩、イエス、クリシュナ・・・。
好きな神の名を、心の中で丁寧に唱えることだ。
神仏の名は、人がつけたものではない。
高次の魂が、高貴な人間の魂に伝えたものなのだ。それは、1つの神仏が、様々な言語での名前になる時にも、必ずそうだった。
そして、神仏の名を唱えると・・・心の中で丁寧に唱え続けるとどうなるだろう?
W.B.イェイツが『悪魔と野獣』で、

夜となく昼となく私を悩ませる
あの狡猾な悪魔とあの騒々しいい野獣が
少なくとも、ある瞬間だけは
私の視界から走り去ったのである。
~『W・B・イェイツ全詩集』(鈴木弘訳)より~

と述べたように、あるいは、T.E.ロレンスが『知恵の七柱』で

世界の物音、香り、彩が、思考の篩(ふるい)を通過せず、思考によって類型化されることなく、まさにそのもの自体として人間を直撃する
~『右脳の冒険』(コリン・ウィルソン著)より~

といったように、魂は神と融合し、全てが明らかになると共に、既に敵に打ち勝っているのである。
これが、神仏の名の神秘の力である。








さらば武蔵

愛とは何かは、私には一生解りそうにないが、愛と言えば、萩尾望都さんの超傑作漫画『半神』をいつも思い出す。
シャム双生児の姉妹の話だが、栄養のほとんどは妹の方に行く構造になってしまっていて、妹は天使のように可愛い美少女だったが、姉は老婆のようで、髪もほとんど生えない。
しかし、その天使のような妹は知能が低く、姉が全ての面倒を見なくてはならない。
ところが、実は、妹に回ってしまう栄養を吸収しているのは姉の方だったが、成長と共に、2人分の栄養の吸収は不可能になり、手術して切り離さないと2人とも死んでしまうが、切り離せば、自分で栄養を吸収出来ない妹は死んでしまう。
姉は手術を選び、幸い、それは成功して、自分だけ生き延びただけでなく、栄養を自分のものに出来るし、双子なのだから、自分も天使のような美少女になり、青春を満喫する。
そして姉は、自分が見捨てた、老婆のようになって死んだ妹のことを、こう言う。
「愛よりも深く愛していた。憎しみもかなわぬほど憎んでいた」

もっとも、私に言わせれば、姉のこの想いは、「後ろめたさ」だ。
妹に対する負い目は、どうしようと拭えない。
そして、これほど劇的でなくても、誰でも、そんな相手はいるに違いない。
では、そんな後ろめたさのある我々はどうすれば良いか?
せめて、立派な人間であろうとすることだ。
どうも、人間の愛というものは、実は、そこにしかないと私には思えてならない。
それ以外の、愛らしきものは全て、偽物の愛である。

8歳の娘を虐待死させた父親がいるが、あの父親がもし、娘に対する後ろめたさを感じ、立派な人間でいようとしたなら、それは、これまでは無かったはずの、娘への愛を持ったことになる。
ただ、そうなれば、この父親は生きていけないだろう。
まあ、それは、ほとんどあり得ないだろうが、万一、そんなことになったなら、それは「愛は世界を救う」などと口先で言う者より、よほど愛を持っているのだと思う。

吉行淳之助が、紳士とは、過去の恥ずかしい行いに対し、首がきゅっとすくむ者である・・・みたいなことを書いていたが、私はそれを読んだ中学生の時に、妙に納得したものだった。
恥ずかしい行いをしたことのない者は地球上の人間の中にいない。
しかし、それに対し、首がすくむ・・・つまり、本当に恥ずかしいと思う者が、本当の紳士であり、淑女だ。
この首がすくむ、本当に恥ずかしいという想いは、やはり、後ろめたさから来るはずだ。
では、「吾、ことにおいて後悔せず」と言った宮本武蔵は紳士ではない。
まあ、彼の場合、紳士なんてやってたら生きられなかったということもあるのだろうが、やっぱり彼は紳士じゃあないのだ。
紳士は、無理に剣豪になどならないものだ。
武蔵は、どんな汚い手を使ってでも勝つことを選ぶ者で、紳士でも騎士でもなかったし、間違いなく、武士でもなかった。

だが、そんな武蔵も、ひょっとしたら、過去に卑怯な手で葬った敵達への後ろめたさからか、生き延びる秘訣を『五輪書』にまとめ、後の人の手引きとした。
まあ、「不意をつけ」「むかつかせろ」などと書かれたそれを、学ぶべきかどうかは解らぬがね。
あの通りにして勝っても、まともな人間なら後ろめたさを感じるだろうし、それが一生の負い目になる。
生きていれば、嫌でも負い目は背負うのだから、わざわざそれを作ることはあるまい。
不意をつく必要も、むかつかせる必要も、もう無いのだ。
武蔵よ、やすらかに眠れ。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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