ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

荘子

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

『老子』(80/81)「内なる静寂」

今回は『老子』第80章である。
いよいよ、残り2章だ。
この章を一言で言えば「内なる静寂」である。

この章は、表向きは、文明や進歩を否定し、昔のままの生活をしろと書かれている。
老人であれば、これを喜んで肯定する者が多いだろうが、若者は、こんな論を馬鹿にするだろう。
しかし、老子は、これを物質世界のこととして言ったのではない。

あのH.G.ウェルズ(イギリスの作家。『宇宙戦争』の作者)の原作で、ウェルズ自ら脚本を書いた映画『来るべき世界』で、テクノロジーが高度に発達した未来社会で、世界のリーダーの男がこう言う。
「このまま進むか?戻るか?」
答は出ていないが、現実世界でも、やがてこのことを考えなければならなくなる。

桃の節句
AIアート27
「桃の節句の初音ミク」
Kay


そして、老子の後継者とも考えられる荘子は、こう述べている。
「本当の知恵者は太古の人であった。彼らは一切の区別をしなかった。やがて、人々は区別はするようにはなったが、まだ、優劣はつけなかった。だが、優劣をつけるようになってから、世界はおかしくなった」
外的なことで区別や優劣があるのは当然だ。
しかし、内面においては、そうであってはならない。
例えば、こんな感じだ。
大谷翔平は優れた選手だ。
しかし、内的には、どの選手も同じなのだ。
そのことを一番分かっているのが大谷翔平であろう。

優劣をつけるのは思考である。
そして、優劣をつける思考が、あらゆる不幸や災難を生む。
だが、思考を消し、余計なことを考えず、つけるべきでない優劣をつけないようになれば、魂は蘇り、あらゆる障害を克服する。

『世界に一つだけの花』というヒット曲があったが、これも同じで、外的にはナンバー1はやっぱり存在する。
しかし、内的には、そんなものはないのだ。
もし、この歌の作者に善意や知恵があるなら、「外的な価値を内的な価値より上位に置くな」と言ったのだ。

外的には、何をしても構わない。
テクノロジーが進歩するならさせれば良い。
しかし、内的には変わってはならない。
なぜなら、内なる真の自分は、全知全能の無限の魂(=神)なのだからだ。
ところが、地球上の人間は、外的な進歩ばかり重要視し、内的には低下する一方・・・そしてついに、神から虫けらになってしまった。
だが、今こそ、「私は誰か?」と自分に問い、自分が本当は何であるか思い出せば、我々は再び太古の知恵者のようになる。
そうなれば、不可能はない。








『老子』第63章を一言で言えば「何もせずに全てをなす」

今回は『老子』第63章である。
この章を一言で言えば「何もせずに全てをなす」である。

この章には困惑させられる。
なぜなら、一般的な処世訓に見えるし、しかも、処世訓として、あまりにも優れているからだ。
しかし、老子が、そんなことを教えたりするだろうか?
それで、私は、この章は、かなり改ざんされているのではないかと疑った。
たとえば、
「難しいことは易しいことから起こり、大きな問題も些細な問題から始まる。だから、易しいうち、些細なうちに処理しろ」
「安請け合いするな。安請け合いすると(うまくいかないこともあるから)信用を失くす」
など、まるでビジネスの金言である。
いや、あらゆることに忘れてはならない戒めのようではないか?

だが、これらのことは、仕事の理念として掲げて、大きな文字で書いて壁に貼っておいたところで、やっぱり出来ない場合が多い。
後に大事になる小事を見逃し、つい気前よく安請け合いをしてしまう。
なぜだろう?
それは、愚かな思考をするからであり、人間の思考は全て愚かだからだ。
だから、思考せず、無意識であれば、いかなることも自然にうまくいく。
たとえば、他の人達が皆、見過ごしてしまう小さな異変を感じ、普通の人なら安易に引き受けることを、何か嫌な感じがしてすぐに返答をしない・・・という、真に賢いことが出来る。
だが、世の人は「分かっちゃいるけどやめられない」のである。
一方、道を究めた人・・・即ち、自然に従う者は間違いを起こさない。

UFO
AIアート10
「青く輝くUFO」
Kay


よって、やはり、『老子』全章と同じく、この章も、自然であることの重要性を説いているのであり、太陽が思考せずに昇るように、自然であるためには思考を消さないといけない。
そして、思考を消す最高の方法はやはり「私は誰か?」と自分に問うことである。
ラマナ・マハルシは、どんな思考が起こった時でも、勤勉に「私は誰か?」と問い、思考を刈り取るよう教えている。
勘違いしてはならないのは、勝手に起こる思考をどうこうしようとしてはならないことだ。
「思考するな」と言ったら、眠ることだと思う愚か者が多い。
そうではない。
思考は生きている限り、脳が働いている限り起こる。当たり前だ。
しかし、起こった思考を追いかけず、その場で撃ち殺すことが重要である。
そのためには、いつも「私は誰か?」と問い、「私は誰か?」以外の想念を持たないことが理想である。
もちろん、なかなかそうはならないが、そうなるよう努めることが大切だ。
そして、「私は誰か?」と問い続ければ、自分が全知全能の無限の魂(=神)であることを思い出す。
それにつれ、自分は何もしなくても、全ては自動で成される。
この章の最初に、
「無為を為し(何もしないことをする)」
と書かれていることが、それで実現するのである。
何もしないことが、あらゆることをすることなのである。

この章は『荘子』的とも思える。








『老子』第16章を一言で言えば「心を静かにせよ」

では、『老子』第16章に入る。
この章を一言で言えば「心を静かにせよ」だ。

心を静かにするとは、想念を起こさないことであり、それは、無我、忘我、没我になるということで、それを「無になる」ことと言って良いと思う。
そして、老子は、無になれば真理が見え、真理が見えれば一切を公平に見ることが出来、一切を公平に見る者は真の王であり、真の王であれば万物が従うので無敵であると言う。
これは、老子、荘子、列子などの道教の根本的な思想でもある。

ラマナ・マハルシも言っている。
「全ての聖典には、つまるところ、心を静かにせよと書かれている。それが分かれば、もう聖典を読む必要はない」

ただ、問題は、「では、どうすれば、心を静かに出来るのか」ということであることが分かると思う。
もちろん、老子は『老子』の全章に渡って、それを教えようとしたが、教えを抽象的に感じ、無になる方法が理解出来ない人が多い。
荘子は、もう少し、初心者向けに易しく語ったが、やはり、「思慮分別を離れ、是非好悪を捨て・・・」といった、掴みどころのない教えが多いように思う。

そこで、私は、ラマナ・マハルシの方法と、ニサルガダッタ・マハラジの方法をミックスすれば良いのだと思う。
ラマナ・マハルシは「私は誰か?」と問えと言った。
しかし、それは少しの間は誰でも出来るが、長く続けることが出来ない。
「私は誰か?」と問う意義が分からず、そして、続けていても何も起こらなければ、モチベーションが続かないからだ。
一方、ニサルガダッタ・マハラジは、師に「あなたは至高の実在だ」と言われたことを憶えているだけで解脱が出来た・・・つまり、究極的に心を静かにし、無になったと言っているのである。
だが、「私は至高の実在だ」ということの意味が分からず、憶えていられる人は少ない。
また、「至高の実在だ」という言葉は、宗教的で馴染みが薄く、ピンと来ない。
だから、もっと単純に「私は神だ」で良い。
それを信じられるかどうかはどうでも良い。
「私は神である」という言葉だけを憶えていれば良いのである。
そして、時間があれば、常に「私は誰か?」と問うのであるが、その答は「神である」だと、思わなくていいから意識する。
すると、ある時、突然、自分が神であるという実感が起こり、その時は、あなたは神のようになっている。
そうなれば、老子が言うように無敵である。
神であるのだから当然だが。








個性的になる本の読み方

荘子は、道(タオ。荘子は説明していないが、宇宙意識、宇宙の活力、潜在意識などと同じものだと思う)と一体化した状態を「坐忘(ざぼう)」と呼んでいるが、具体的に、どうすればそうなれるかについては、抽象的に述べているように感じると思う。
しかし、『荘子』の中で一箇所、隠語だらけながら、実は、極めて簡明に語っている場所がある。
それは、内編の「大宗師(だいそうし)」の2話で、かなりの年齢なのに、若者より若い女性が言ったこととして書かれている。
それは、一言で言えば、本を何度も繰り返して読むというだけのことである。
「それだけでまさか」と思うかもしれないが、良い本を気に入り、何度も何度も繰り返し読む者なんて百人に一人もいないのだから、十分に個性的だ。
だが、言っておくが、本を繰り返し読んでも見込みのないタイプがいる。
とはいえ、そんなタイプの人間の真似をしなければ良いだけである。

どんなタイプが見込みがないのか?
それは、「あの」まるでダメ男がまさにそうだった。
彼に、ディール・カーネギーの『人を動かす』を百回読むよう指示したら、幸いやる気になってくれた。
ところが、翌日から、「昨日は30ページ読みました」「一度目、読み終えました」などと、毎日言ってくる。
最初の内は、私もちゃんと聞いてやったが、ずっとそれが続き、「やっぱりこいつは駄目だ」と分かった。
私は、彼に、「百回読んだら教えて。後はいい」と言うと、彼は、しばらくしたら読まなくなったようだ。
だが、「〇〇を百回読みました」と言ってくる者も同じなのだ。
「それが何?」である。
百回読んで、お金が降って来るようになりましたとか言うなら別だが、ただ百回読んだだけで、本当に、「それが何?」である。
それって、単に、承認欲求を満たしたいというだけで、そんなケチな目的のために読むなら時間の無駄である。
それなら、何を百回読もうが、単なる暇人で、個性的でも何でもない。
しかし、黙って淡々と読む者は希少で、非常に個性的であり、そんな者なら、引き寄せもさぞや自在だろう。
無心に淡々と読むなら、5回かそこらでも、突き抜けた力がつくことがある。
そして、ある程度良い本なら、どれでも同じである。
私は、単に面白いから福音書(新約聖書)を読んでいるが、面白いと思わない人にお薦めはしない。
自分が面白いと思うものを読めば良いのである。

尚、荘子の今回の話に関する詳細に関しては、やや難しいが、講談社学術文庫の『荘子内遍』(福永光司著)に詳しい解説がある。
また、個人的に、百回読む値打ちがあると思う本を、『荘子』を含め4冊だけ挙げる。








最も励むべきこと

何かに励むと言う時は、良い行いや努力をすることだと思われることが多い。
勉強に励む、筋トレに励む、読書に励む、ボランティアに励む・・・等だろう。
泥棒に励むとか、犯罪に励むというのは、イメージは悪くても、言葉としては成立する。
なぜなら、犯罪にだって、「励む」の必要条件と思われる「意思」と「行動」があるからで、ある意味、「積極性」が見られるからだ。
しかし、飲酒に励むとか、(下らない)遊びに励むとは、普通、言わない。
これらには、行動は見られても、意思や積極性に欠けるからだ。
つまり、励むというのは、意思と積極性が必要なことだ。
まあ、積極的意思とか、単なる意思でも良いのだが、とりあえず、意思と積極性としておこう。
行動に関しては、必要ならついてくるもので、特に強調しなくて良いだろう。

では、人間の、最も良い励みとは何だろう?
それは、「思考停止に励む」ことだ。
だが、言うまでもなく、「思考停止」という言葉のイメージは悪い。
学校や社会では、「自分の頭で考えることが出来る」という人間が立派な人間だと「大誤解」している。
凡人は、「何も考えないやつが自分を駄目にし、周囲に迷惑をかける」と言う。
だが、それなら、どう見ても与太者(要はどうしようもなく駄目なやつ)である者に、「何も考えるな」と言って見ると良い。
すると、そいつが少しはマシなら、「そんなことは不可能だ」と言うだろう。
自分が考えているか、考えていないか分からないほど愚かな与太者の場合、脳波を測定すれば良い。
すると、「考えるな」と言われても、与太者の脳波は、思考状態のベータ派や、さらに思考活発なガンマ波に近いような脳波になっている。
一方、一般には、「物凄く考えている」と思われる、将棋の名人の対局中の脳波は、まさに、思考停止のアルファー波や、睡眠時のシータ波の状態である。

思考停止に近付くほど、良いアイディアが閃き、良いアルゴリズム(問題解決手順)が自動的に浮かんでくる。
そして、目覚めたまま、完全に思考停止したシータ波になれば、不可能はなくなる。
引き寄せが出来るのは、アルファー波からで、シータ波だと奇跡的な引き寄せが起こることもある。
逆に言えば、シータ波でなければ奇跡は起こせず、アルファー波でなければ引き寄せは出来ない。

普通は、なかなか自分の意思で思考停止出来ないので、アファーメーションやマントラを唱えたり、呼吸数を落としたり、何かに集中したりして、思考停止に近付く。
(あるいは、ヘミシンク効果を利用したり、 ソルフェジオ周波数の音楽を聴くという方法もある)
こういった、アファーメーションや呼吸制御等のメソッドは、あくまで、思考停止の手段である。
だから、自分に合ったものであれば、どれを選んでも同じである。
だが、本当は、自分の意思で思考停止出来るのが一番良い。
だから、『荘子』の中で、荘子は、孔子が弟子の顔回に「坐忘が出来るようになった」と言われた時、孔子は顔回を褒め、孔子は自分が顔回を見習うと言わせたのである。
坐忘とは、仏教用語になっていて「雑念を去り、我を忘れる」ことで、忘我とか没我ということだが、元々は、この『荘子』から出ている。
そして、坐忘とは、まさに、思考停止の状態だ。
坐忘の状態になれば、それは神人であり、宇宙と一体であり、神仙であり、万能である。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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