私が小学3年生の時、授業中に、年配の女性教師が私に、ぼーっとし過ぎているとクレームをつけたことがあった。
永井豪さんの1970年代の漫画作品『イヤハヤ南友(いやはやなんとも)』で、教師に「あなたの子供は授業中に帰ってしまった」と文句を言われた母親が「寄席でもつまらなければ客が帰るのと同じだ。面白くない授業をする教師が悪い」と言ったが、やや極端ながら、基本的にはその通りだろう。
「生徒を惹き付ける面白い授業が出来ない教師が無能」という考え方は、昔の日本ではほとんどなかったと思うし、今もかなりそうではないかと思う。
授業は寄席(落語、講談、漫談などの演芸)と同じ真剣勝負でなくてはならない。
学習塾の中には、生徒が教師を選んで授業を受ける方式のところもあり、生徒が来ない教師はクビになる。
それは学校でも当然、そうあるべきだろう。
いや、学校でこそやるべきである。
また、塾では、インターネットがなかった時代ですら、授業をカメラで監視するのが普通で、今は授業が保護者等に公開されるのも珍しくはない。これも、学校こそやるべきだろう。
まあ、今は、教師が忙し過ぎて、授業にエネルギーを注げない場合が多いらしいが、それでも、教えるのが下手過ぎる教師が多い。先輩教師も無能過ぎて、ちゃんとした授業のやり方を教えてもらえなかった教師が多いに違いない。だから、塾講師が学校教師に指導を行うということも行われている。
それで言えば、小学3年生の私が授業中ぼーっとしていたのは、授業に問題があった可能性が高く、教師は反省すべきなのに、私に文句を言うとは傲慢かもしれない。
まあ、今は、親が馬鹿過ぎて家庭の躾けが全く出来てなくて、授業中に座っていられない子供も多いらしく、有能な教師だって、優れた授業を見せることが出来ないのかもしれない。
だが、やはり、寄席で客が座っていないのは、落語への期待がないからで、教師も、生徒に座ってもらう工夫が必要なのかもしれない。
ところで、私がそこまで授業中にぼーっとしていたとすれば、なかなか見所がある。
あのアインシュタインも、高校まではそうだったというし、大学では講義には一回も出なかったそうだ。
そこにいくと、私は、授業そのものは聞かなくても、授業中は好きな本を読みながら授業を聞いているフリをするつまらない奴になってしまった(笑)。
『荘子』では、ぼーっとして何も考えないことを「坐忘(ざぼう)」と言うのだが、孔子が、坐忘が出来るようになった弟子を称賛する場面がある(あくまで荘子の創作だが)。
坐忘こそ人間の最高の状態で、引き寄せにおいても、最も高度なレベルでは坐忘を理想とする。
こう言ったら、1日中ぼーっとしていないといけないのかと難癖をつける馬鹿がよくいる。
そんなわけないだろ(笑)。
楽しいことや面白いこと、あるいは、掃除や片付けや仕事もしなければならない。
とはいえ、坐忘をするようになれば、あらゆる行動は自然に起こり、勝手に進んでいく。
彼氏彼女といちゃつくのは、さらに楽しくなり、仕事も別に嫌ではなくなる。
ある意味、あらゆる行動が坐忘の中にあるようになる。
そうなれば、確かに、1日中ぼーっとしているようなものだ。
坐忘が出来るようになるには、長く静かな呼吸をすることだ。
あるいは、なるべく多く「私」と唱える手もある。
今回は説明を省くが、知恵の呼吸法は非常に有効だと思う。そのやり方は、
(1)心で「私はこれではない」と唱えながら息を吐く
(2)心で「私とは何か?」と唱えながら息を吸う
(3)息を止め、心で「私は常に生成する者である」と唱える
である。
◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)新釈 荘子 (PHP文庫)
(2)天狗芸術論・猫の妙術 全訳注 (講談社学術文庫)
(3)ラマナ・マハルシとの対話 第一巻
(4)気の言葉 宇宙のエネルギーはバラの香りがする(望月勇)

AIアート1522
「黄昏の幻」
Kay
永井豪さんの1970年代の漫画作品『イヤハヤ南友(いやはやなんとも)』で、教師に「あなたの子供は授業中に帰ってしまった」と文句を言われた母親が「寄席でもつまらなければ客が帰るのと同じだ。面白くない授業をする教師が悪い」と言ったが、やや極端ながら、基本的にはその通りだろう。
「生徒を惹き付ける面白い授業が出来ない教師が無能」という考え方は、昔の日本ではほとんどなかったと思うし、今もかなりそうではないかと思う。
授業は寄席(落語、講談、漫談などの演芸)と同じ真剣勝負でなくてはならない。
学習塾の中には、生徒が教師を選んで授業を受ける方式のところもあり、生徒が来ない教師はクビになる。
それは学校でも当然、そうあるべきだろう。
いや、学校でこそやるべきである。
また、塾では、インターネットがなかった時代ですら、授業をカメラで監視するのが普通で、今は授業が保護者等に公開されるのも珍しくはない。これも、学校こそやるべきだろう。
まあ、今は、教師が忙し過ぎて、授業にエネルギーを注げない場合が多いらしいが、それでも、教えるのが下手過ぎる教師が多い。先輩教師も無能過ぎて、ちゃんとした授業のやり方を教えてもらえなかった教師が多いに違いない。だから、塾講師が学校教師に指導を行うということも行われている。
それで言えば、小学3年生の私が授業中ぼーっとしていたのは、授業に問題があった可能性が高く、教師は反省すべきなのに、私に文句を言うとは傲慢かもしれない。
まあ、今は、親が馬鹿過ぎて家庭の躾けが全く出来てなくて、授業中に座っていられない子供も多いらしく、有能な教師だって、優れた授業を見せることが出来ないのかもしれない。
だが、やはり、寄席で客が座っていないのは、落語への期待がないからで、教師も、生徒に座ってもらう工夫が必要なのかもしれない。
ところで、私がそこまで授業中にぼーっとしていたとすれば、なかなか見所がある。
あのアインシュタインも、高校まではそうだったというし、大学では講義には一回も出なかったそうだ。
そこにいくと、私は、授業そのものは聞かなくても、授業中は好きな本を読みながら授業を聞いているフリをするつまらない奴になってしまった(笑)。
『荘子』では、ぼーっとして何も考えないことを「坐忘(ざぼう)」と言うのだが、孔子が、坐忘が出来るようになった弟子を称賛する場面がある(あくまで荘子の創作だが)。
坐忘こそ人間の最高の状態で、引き寄せにおいても、最も高度なレベルでは坐忘を理想とする。
こう言ったら、1日中ぼーっとしていないといけないのかと難癖をつける馬鹿がよくいる。
そんなわけないだろ(笑)。
楽しいことや面白いこと、あるいは、掃除や片付けや仕事もしなければならない。
とはいえ、坐忘をするようになれば、あらゆる行動は自然に起こり、勝手に進んでいく。
彼氏彼女といちゃつくのは、さらに楽しくなり、仕事も別に嫌ではなくなる。
ある意味、あらゆる行動が坐忘の中にあるようになる。
そうなれば、確かに、1日中ぼーっとしているようなものだ。
坐忘が出来るようになるには、長く静かな呼吸をすることだ。
あるいは、なるべく多く「私」と唱える手もある。
今回は説明を省くが、知恵の呼吸法は非常に有効だと思う。そのやり方は、
(1)心で「私はこれではない」と唱えながら息を吐く
(2)心で「私とは何か?」と唱えながら息を吸う
(3)息を止め、心で「私は常に生成する者である」と唱える
である。
◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)新釈 荘子 (PHP文庫)
(2)天狗芸術論・猫の妙術 全訳注 (講談社学術文庫)
(3)ラマナ・マハルシとの対話 第一巻
(4)気の言葉 宇宙のエネルギーはバラの香りがする(望月勇)

AIアート1522
「黄昏の幻」
Kay