ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

茶道

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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真に豊かな人間とは

人間の何に価値が置かれているかで、どんな世の中であるかが分かる。
ただ、その価値は、男女によって異なる。
今の時代は、かなり前からだが、最も価値があるものは、男は経済力で、女は若いことだ。
多様な価値があるように見えて、実はこれに集約される。
こんな時代は、どんな時代かというと、あまり良くない・・・安定しない、不安と動乱の時代だ。
もっと別なことに価値が置かれるのが、豊かで安定した平和な時代である。
金持ちの男や、若くて可愛い女がもてはやされる時代(つまり今の時代)がどんなもので、では、豊かで平和になるためにはどうすれば良いかを簡単に述べる。

江戸時代、徳川幕府が安定して国を治めるようになると、武士の価値というものが随分変わった。
武士と言えば、本来、武勇に優れ、質素倹約であることに価値があった。
しかし、江戸時代の武士は、出世するかどうかは茶道にどれだけ通じているかで決まった。
茶道は、どんな場所で、どんな道具を、どんなふうに使うかなど、非常に複雑で、どれほど上手いのかの評価も難しい。
武士達は、この茶道の高い能力を得るため、また、良い茶の道具を入手するため、文字通り、命を賭けたのである。
特に、今の時代から考えれば、奇妙、奇怪、奇々怪々だ。
阿呆らしいとすら言える。
しかし、当時はそうではなく、今でも、その意味が分かる者もいるのかもしれない。

なぜ、そんなこと(江戸時代に茶道が武士の価値を決めた)になったのかというと、実はそれほど深い意味はない。
世の中が安定し、平和で、武士の実用的な価値である武勇がどうでも良くなったので、趣味で競うようになったのである。
徳川幕府の統治が抜群で、そんな仕組みを作った徳川家康は、やはり大変な知恵者であったのだ。
趣味が価値を持つというのは、良い時代である証拠なのである。

ところが、今の時代、いくらでも趣味が出来るはずなのに、男は金、女は若さが圧倒的な価値を持つ。
これが良い時代であるはずがない。
男は金を得ることに血道を上げ、そんな男に女が群がる。
そして、男は、とにかく若くて可愛い女を求める。
だが、そんな中に居る男や女が豊かになることはない。
この世界は、そんなふうになっているのだ。
豊かな人間とは、どんな人間かというと、男でも女でも、実用性とは違う高貴なものに価値を置く。
つまり芸術であるが、芸術と言ったら、権威や伝統で形骸化しているので、豊かな人間は、そんなものに背を向け、「風流」であろうとするのだ。
実のところ、昔から、真の芸術は「風流」であった。
茶道がなぜ、あれほど価値を持ったかというと、その複雑さや真の芸術性から、形骸化し難く、出世の道具に使われながらも風流であり続けたからだ。

そして、引き寄せの力を得て豊かになるためには、風流でなければならない。
引き寄せの法則でも、「金持ちになりたかったら、金持ちのように振舞え」というのをよく聞くかもしれない。
しかし、どんな振る舞い、態度が金持ちらしいのかが、ちゃんと言われない。
引き寄せについて語る者も知らないのだ。だから、そんな者達の本を読み、講演を聞いても成功しない。
金持ちらしさとは、風流であることだ。
もちろん、真の金持ちらしさという意味である。
一時的に成り上がっただけですぐに落ちぶれる者や、金はあっても貧しいという者は風流でないのだ。
勇猛な戦国武将で知られた伊達政宗すら、正室の息子には「これからの武士は風流じゃ」と教えたのだ。
政宗は、実は、武勇よりも慧眼(物事の本質や裏面を見抜く、すぐれた眼力)が随一であったのだ。

形骸化された芸術や、安っぽい流行の芸能ではなく、真に風流な芸術に親しめば、思いもよらなかった力を得るだろう。
なぜなら、真の風流とは、「今、この瞬間」にあることだからだ。
茶道、華道、あるいは、弓道も、本来は、「今、この瞬間」に在るために行うものなのである。
「今」を意識することが最も風流なのである。
「今」を意識することであれば、何でも風流であり、真の芸術である。
つまり、「具体的に何をすれば良いのか?」ではなく、何をしても良いのである。
つまり、(このブログでも何度も紹介した)今今メソッドをやれば良いのだし、そうすれば、適切な風流の道にも導かれるだろう。








日本の伝統儀式の本質は「今今メソッド」である

日本古来からあるスポーツ(と言うのは適切ではないかもしれないが)で、よく知られているのは相撲くらいだが、プロフェッショナル相撲である大相撲は、試合だけではなく、様々な儀式や作法がある。
今や、それらの儀式や作法が何のために行われるのか知らない人がほとんどだろう。

華道、茶道にも様々な儀式や作法があり、特に茶道は、茶を飲むことそのものより、儀式や作法の方が重要と言える。
武家社会においても、茶道にどれだけ通じていて、どれだけ見事に儀式を行え、どれほど作法が見事であるかで武士の出世が大きく左右されるほど、茶道は重要視され、茶道の極意、秘伝、秘法が武士の名家に伝えられていたことが、たとえば、1986年の邦画『鑓の権三』(やりのごんざ)を見ると分かる。
だが、今の日本人が、茶の湯で茶を立てるのを見ても、やたらまどろっこしいことをやっているようにしか見えないところは、外国人観光客と似たようなもものである。むしろ、ごく新鮮な目で見る外国人の方が、茶道の美しさを感じるかもしれない。

だが、今や、相撲や弓道、そして、茶道、華道の儀式や作法が何のために行われているかは、その道にかなり関わっている者や、ひょっとしたら、師範的な人でさえ、分かっているのかどうか疑問である。
これらの儀式や作法は、神道的なものであることは想像が出来るが、その中でも「中今」に在ることも目指しているものだと私は確信する。
中今とは、辞書によれば抽象的な説明も書かれているが、単に「今、この一瞬」のことである。
中今こそ神の世界であり、武道や茶道などを通じ、神の世界に触れることが目的だが、目的を露骨に表に出すことはせず、あくまで、さげなく行うところが和の精神である。
今、「神の世界に触れる」と書いたが、これも真摯な表現を重んじる伝統に則ったもので、言って見れば「神と交流する」さらには「神になる」ということである。
では、神とは何かと言うと、『古事記』に登場する男神や女神ではなく、まるで一神教と誤解されそうな根本神とも言える宇宙意識である。
たとえば、江戸末期の神道家、黒住宗忠は天照大神を崇め祭っていたが、この天照大神も、『古事記』に登場する女神ではなく、宗忠は太陽神として扱っているように見えたが、やはり、根本神と考えて良いだろう。
ただ、『古事記』は、聖書と同じく象徴的に書かれているのであり、ただの歴史ではなく(歴史としては正しくない)、宇宙意識、あるいは、人間の本質的精神を描いたものである。

日本に伝わる伝統的儀式を行うことは、中今に潜入する優れた方法であるが、それらはほとんど専門家のためのものである。
しかし、普通の人も、専門家の儀式や作法の一部を借りることで、中今に入る手助けとすることが出来る。
それは、儀式や作法そのものではなく、その敬虔な様、優雅さ、静かで落ち着いた態度などである。
そして、それらのことは、万物に神が宿ると考えていれば、自然に出来ることである。

「今、この一瞬」に生きることは、個人の意識が宇宙意識にシンクロ(同調)し、その無限の知恵と力と一致する方法で、引き寄せのような実用的な力になり、今や、スピリチュアル界で「今今メソッド」などと呼ばれることもある。やや軽薄に感じるかもしれないが、一般人にとって、非常に良いものである。
万物に神が宿ると考えてあらゆるものを見れば、いつでも今今メソッドを行っていることになる。
神、つまり、宇宙意識に時間はなく、過去や未来はなく、ただ永遠の一瞬である「今」しかない。
幻想である過去や未来を妄想せず、あるいは、なるべく妄想せずに、今をしっかり捉えることで、我々は真の人でいられる。
そうなれば、結果として、人間は神のようなものとして在るのである。
つまり、俗っぽく聞こえるかもしれないが、引き寄せの力が自在になり、支配層が神を忘れた拙い社会になってきた中で、何も恐れず、安全、平安に過ごせるのである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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