人間の何に価値が置かれているかで、どんな世の中であるかが分かる。
ただ、その価値は、男女によって異なる。
今の時代は、かなり前からだが、最も価値があるものは、男は経済力で、女は若いことだ。
多様な価値があるように見えて、実はこれに集約される。
こんな時代は、どんな時代かというと、あまり良くない・・・安定しない、不安と動乱の時代だ。
もっと別なことに価値が置かれるのが、豊かで安定した平和な時代である。
金持ちの男や、若くて可愛い女がもてはやされる時代(つまり今の時代)がどんなもので、では、豊かで平和になるためにはどうすれば良いかを簡単に述べる。
江戸時代、徳川幕府が安定して国を治めるようになると、武士の価値というものが随分変わった。
武士と言えば、本来、武勇に優れ、質素倹約であることに価値があった。
しかし、江戸時代の武士は、出世するかどうかは茶道にどれだけ通じているかで決まった。
茶道は、どんな場所で、どんな道具を、どんなふうに使うかなど、非常に複雑で、どれほど上手いのかの評価も難しい。
武士達は、この茶道の高い能力を得るため、また、良い茶の道具を入手するため、文字通り、命を賭けたのである。
特に、今の時代から考えれば、奇妙、奇怪、奇々怪々だ。
阿呆らしいとすら言える。
しかし、当時はそうではなく、今でも、その意味が分かる者もいるのかもしれない。
なぜ、そんなこと(江戸時代に茶道が武士の価値を決めた)になったのかというと、実はそれほど深い意味はない。
世の中が安定し、平和で、武士の実用的な価値である武勇がどうでも良くなったので、趣味で競うようになったのである。
徳川幕府の統治が抜群で、そんな仕組みを作った徳川家康は、やはり大変な知恵者であったのだ。
趣味が価値を持つというのは、良い時代である証拠なのである。
ところが、今の時代、いくらでも趣味が出来るはずなのに、男は金、女は若さが圧倒的な価値を持つ。
これが良い時代であるはずがない。
男は金を得ることに血道を上げ、そんな男に女が群がる。
そして、男は、とにかく若くて可愛い女を求める。
だが、そんな中に居る男や女が豊かになることはない。
この世界は、そんなふうになっているのだ。
豊かな人間とは、どんな人間かというと、男でも女でも、実用性とは違う高貴なものに価値を置く。
つまり芸術であるが、芸術と言ったら、権威や伝統で形骸化しているので、豊かな人間は、そんなものに背を向け、「風流」であろうとするのだ。
実のところ、昔から、真の芸術は「風流」であった。
茶道がなぜ、あれほど価値を持ったかというと、その複雑さや真の芸術性から、形骸化し難く、出世の道具に使われながらも風流であり続けたからだ。
そして、引き寄せの力を得て豊かになるためには、風流でなければならない。
引き寄せの法則でも、「金持ちになりたかったら、金持ちのように振舞え」というのをよく聞くかもしれない。
しかし、どんな振る舞い、態度が金持ちらしいのかが、ちゃんと言われない。
引き寄せについて語る者も知らないのだ。だから、そんな者達の本を読み、講演を聞いても成功しない。
金持ちらしさとは、風流であることだ。
もちろん、真の金持ちらしさという意味である。
一時的に成り上がっただけですぐに落ちぶれる者や、金はあっても貧しいという者は風流でないのだ。
勇猛な戦国武将で知られた伊達政宗すら、正室の息子には「これからの武士は風流じゃ」と教えたのだ。
政宗は、実は、武勇よりも慧眼(物事の本質や裏面を見抜く、すぐれた眼力)が随一であったのだ。
形骸化された芸術や、安っぽい流行の芸能ではなく、真に風流な芸術に親しめば、思いもよらなかった力を得るだろう。
なぜなら、真の風流とは、「今、この瞬間」にあることだからだ。
茶道、華道、あるいは、弓道も、本来は、「今、この瞬間」に在るために行うものなのである。
「今」を意識することが最も風流なのである。
「今」を意識することであれば、何でも風流であり、真の芸術である。
つまり、「具体的に何をすれば良いのか?」ではなく、何をしても良いのである。
つまり、(このブログでも何度も紹介した)今今メソッドをやれば良いのだし、そうすれば、適切な風流の道にも導かれるだろう。
ただ、その価値は、男女によって異なる。
今の時代は、かなり前からだが、最も価値があるものは、男は経済力で、女は若いことだ。
多様な価値があるように見えて、実はこれに集約される。
こんな時代は、どんな時代かというと、あまり良くない・・・安定しない、不安と動乱の時代だ。
もっと別なことに価値が置かれるのが、豊かで安定した平和な時代である。
金持ちの男や、若くて可愛い女がもてはやされる時代(つまり今の時代)がどんなもので、では、豊かで平和になるためにはどうすれば良いかを簡単に述べる。
江戸時代、徳川幕府が安定して国を治めるようになると、武士の価値というものが随分変わった。
武士と言えば、本来、武勇に優れ、質素倹約であることに価値があった。
しかし、江戸時代の武士は、出世するかどうかは茶道にどれだけ通じているかで決まった。
茶道は、どんな場所で、どんな道具を、どんなふうに使うかなど、非常に複雑で、どれほど上手いのかの評価も難しい。
武士達は、この茶道の高い能力を得るため、また、良い茶の道具を入手するため、文字通り、命を賭けたのである。
特に、今の時代から考えれば、奇妙、奇怪、奇々怪々だ。
阿呆らしいとすら言える。
しかし、当時はそうではなく、今でも、その意味が分かる者もいるのかもしれない。
なぜ、そんなこと(江戸時代に茶道が武士の価値を決めた)になったのかというと、実はそれほど深い意味はない。
世の中が安定し、平和で、武士の実用的な価値である武勇がどうでも良くなったので、趣味で競うようになったのである。
徳川幕府の統治が抜群で、そんな仕組みを作った徳川家康は、やはり大変な知恵者であったのだ。
趣味が価値を持つというのは、良い時代である証拠なのである。
ところが、今の時代、いくらでも趣味が出来るはずなのに、男は金、女は若さが圧倒的な価値を持つ。
これが良い時代であるはずがない。
男は金を得ることに血道を上げ、そんな男に女が群がる。
そして、男は、とにかく若くて可愛い女を求める。
だが、そんな中に居る男や女が豊かになることはない。
この世界は、そんなふうになっているのだ。
豊かな人間とは、どんな人間かというと、男でも女でも、実用性とは違う高貴なものに価値を置く。
つまり芸術であるが、芸術と言ったら、権威や伝統で形骸化しているので、豊かな人間は、そんなものに背を向け、「風流」であろうとするのだ。
実のところ、昔から、真の芸術は「風流」であった。
茶道がなぜ、あれほど価値を持ったかというと、その複雑さや真の芸術性から、形骸化し難く、出世の道具に使われながらも風流であり続けたからだ。
そして、引き寄せの力を得て豊かになるためには、風流でなければならない。
引き寄せの法則でも、「金持ちになりたかったら、金持ちのように振舞え」というのをよく聞くかもしれない。
しかし、どんな振る舞い、態度が金持ちらしいのかが、ちゃんと言われない。
引き寄せについて語る者も知らないのだ。だから、そんな者達の本を読み、講演を聞いても成功しない。
金持ちらしさとは、風流であることだ。
もちろん、真の金持ちらしさという意味である。
一時的に成り上がっただけですぐに落ちぶれる者や、金はあっても貧しいという者は風流でないのだ。
勇猛な戦国武将で知られた伊達政宗すら、正室の息子には「これからの武士は風流じゃ」と教えたのだ。
政宗は、実は、武勇よりも慧眼(物事の本質や裏面を見抜く、すぐれた眼力)が随一であったのだ。
形骸化された芸術や、安っぽい流行の芸能ではなく、真に風流な芸術に親しめば、思いもよらなかった力を得るだろう。
なぜなら、真の風流とは、「今、この瞬間」にあることだからだ。
茶道、華道、あるいは、弓道も、本来は、「今、この瞬間」に在るために行うものなのである。
「今」を意識することが最も風流なのである。
「今」を意識することであれば、何でも風流であり、真の芸術である。
つまり、「具体的に何をすれば良いのか?」ではなく、何をしても良いのである。
つまり、(このブログでも何度も紹介した)今今メソッドをやれば良いのだし、そうすれば、適切な風流の道にも導かれるだろう。