ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

若草物語

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

賢者達に見る引き寄せの秘訣

オールコットの『若草物語(原題:Little Women)』は、全く知らない人は少ないと思うが、インターネットもスマートフォンもYouTubeもなかった昭和の時代には、日本でも少女の愛読者が多く、四姉妹それぞれにファンがいたようだ。
次女のジョーが一番人気と思うが、長女マーガレット(メグ)も支持者が多かったと思う。
また、3女エリザベス(ベス)も、抜群の性格の良さから好感度が高かったが、わがままな末娘エイミーだって、体罰を受けながらも教師を睨み付けるあたりは新時代的だ(母親のマーチ夫人は体罰に敢然と抗議した。ちなみにその体罰は手のひらを鞭で打つことだった)。
私は高校生の時、気まぐれで『若草物語』を通読したが、最も印象に残っているのは、あまり裕福とは言えないマーチ家の母親であるマーチ夫人の次の言葉だ。
「足りない目くらいが丁度いいのよ」
スティーブ・ジョブズとなれば、ハングリー(全く足りない)のが良いとしたが、まあ、本当に「足りない目」くらいが良いかもしれず、少なくとも、あまりに若いうちから十分にあるのは、あまり良くないかもしれない。

お金が十分にあると、精神的なことに意識が向かなくなりがちで、まして、神秘に興味がなくなることが多い。
神秘など不要と思う人もいるかもしれないが、20世紀最大の詩人と言われたW.B.イェイツが言ったように、神秘を信じない人間は想像力が乏しいのだと思う。
そして、確かに、お金が出来るほど、想像力がなくなるのであると思う。
アインシュタインが言ったように、知識よりも想像力が大切である。
そして、アインシュタインはお金に執着が全くなかった。
アインシュタインがアメリカに亡命した時(1930年代)、プリンストン高等研究所ではアインシュタインを年棒2万ドルで迎えようとしたが、アインシュタインに希望を聞くと「千ドル」と言う。あまりの安さに担当者が驚くと、アインシュタインはもっと驚き「いえ、500でもいいです」と言ったそうだ。
そして、アインシュタインは収入を誰とでもおおらかに分かち合った。

水の妖精ウンディーネ
AIアート391
「水の妖精ウンディーネ」
Kay


もちろん、お金は十分に引き寄せるべきである。
しかし、歴代大統領を影で動かし、投資で莫大な利益も上げたバーナード・バルークに成功の秘訣を尋ねると、元々誠実な彼は「欲張らないことだ」と答えた。
引き寄せの秘訣もこれであると思う。
深呼吸をしっかりしていれば、必要なだけは十分に得られるが、不要なものを求めると、(せっかく深呼吸で消えた)思考が起こり、運も逃げていくだろう。








くれぐれも、くれぐれもスイッチを求めるな

体罰容認論があり、それが時に賛同を集めることがある。
しかし、そんな時、小市民的な人間が決まって言う、奇妙な意見がある。
それは、
「愛がある体罰なら良い」
だ。
愛のある体罰など、決して存在しない。
愛という偏見による体罰や、愛を言い訳にした体罰があるだけだ。
体罰はあっても良いかもしれない。
しかし、体罰が容認されるのは、道徳(倫理と言っても良いが)に著しく反した場合だけだ。
そりゃ、人間の道徳は完全ではないが、それに著しく反することは許されない。
ある宗教の信者が、
「我々は、我々の宗教の教義を道徳と見なす」
というなら、それは偽物の道徳だ。
道徳と宗教は何の関係もない。
かっとして一発殴るのは道徳に反しているが、これはまだ体罰の対象ではない。
しかし、泣いて懇願する相手を逃げられない状況にして、何発も殴ったとしたら、それをやった者に体罰を与えるのは正しい。もちろん、本当にやったと明らかに分かる場合だが。
もっとも、このような場合は、用いるのは体罰ではなく、警察である。
警察への依頼を回避する、わずかな救済としての体罰があるということかもしれない。

オルコットの『若草物語(原題:Little Women)』で、末娘(四女)の12歳のエイミーが学校で体罰を受けた時、姉妹の母親ミセス・マーチは、他の母親たちの協力を仰ぎ、体罰を与えた教師に対し、堂々と授業のボイコットを伝えた。
ミセス・マーチは「私はいかなる体罰にも反対です」と言うが、それは、エイミーがひどく道徳に外れたことをしないことを知っているから、そう言えたのである。

今は、あまりないと思うが、昔は、子供のテストの点が悪いという理由で、子供を殴るような親は結構いた。
そして、そんな親が称賛されることすらあったが、そんな親や、それを褒める者は阿呆である。
いつも成績の悪い子供を殴る親と言うのは、「成績が良くなるスイッチを押す」ことしか考えていないが、そんなスイッチはない。
しかし、その親は、子供を殴ることを「成績が良くなるスイッチを押すこと」だと思っているのである。
この親のような人間は、何ごとも「押しさえすれば解決するスイッチ」だけを求めている。
ダイエット出来るスイッチ、旦那の給料が上がるスイッチなどだ。
家の中がきれいになるスイッチや、洗濯をしてくれるスイッチは、いずれ出来るが、そんな時には、さらに「スイッチさえ」と思う人間が増える。
子供の成績を上げたければ、成績が悪い原因を考えないといけないし、子供が勉強しないなら、勉強しない理由を把握しないと何も始まらない。
そもそも、まず、子供に勉強の仕方を教えてあげないといけないのに、それをせず、子供は、どう勉強すればいいかすら分からない中で、良い成績を取れと言われるのだから、たまったものではない。
しかし、この子供の親は、そんな面倒なことをする気がない・・・つなり、当事者意識がない、責任を持つ気がないのである。

大阪のサムハラ神社の指輪が、開運を呼ぶというので話題になったことがあり、指輪を求める人が殺到し、神社では指輪の販売を見合わせたことがあったと思う。
指輪を求めて殺到した人達もまた、これさえ押せば得をするという、指輪というスイッチを欲しがっているのである。
「この祝詞の音楽を流すだけで幸運が来ますよ」と言うような者を信じてはならない。それもまた「あなたはスイッチを押せばいいのです」と言っているようなものである。
この世にスイッチはない。
「神様の奇跡が起こる」と唱え続けて2億円を当てたホームレスの場合も、この呪文はスイッチではない。
これを1日中、2週間の間唱えることによって、大きな力に身をまかせる気になり、また、余計なことを考えないようになったことで奇跡が起こったのである。
黒住宗忠に、「ありがたい」と1日1万回言えと指示された、ハンセン氏病の武士も、それを1週間やって完治したのは、「ありがたい」と唱えることで、自分が恵まれていることを自覚し、不満を持たなくなり、また、やはり、余計なことを考えなくなったから治ったのだと思う。








足りないことが幸せである

「ハングリー精神」というのは、常に餓えた状態で、食べ物を求めるエネルギーを維持していることだと思う。
食べ物に限らず、物質的、精神的に、足りないものがあるから、それを満たそうとがんばるのである。

だが、自分ががんばらなくても、親に何でも与えられたら、、そして、常に満腹に食べていたらどうなるだろう?
まず、性欲が肥大化するが、今は、アダルトゲームやアダルトビデオで、それらも簡単に満足させられる。
するとどうなるかというと、はけ口のないエネルギーが暴走し、逸脱して、残虐行為、変態的行為、不道徳行為など、エネルギーを無理矢理に消費させてくれそうなことに走るのである。

いじめなど、ロクでもないことをする者というのは、親に何でも与えられたり、公務員が法外な給料を与えられたりして起こる悲劇なのである。
いじめをなくしたかったら、子供に、最低限必要なもの以上は買ってやらず、満腹するまで食べさせず、マスターベーションは恥ずべきことだと教えれば良い。
学校の校長や、教育機関の偉い人が、痴漢などで度々逮捕されているのも、ロクに働きもしない者に高い給料を与えているからだ。
教師の生徒へのセクハラ、パワハラなんて、もうありふれ過ぎてどうにもならないらしいが、これも、教師の給料が高過ぎるからで、昔、教師が安月給だった時代には、有り得ないことだった。
教師の給料は、今の半分くらいが良いだろう。ハードに働く民間人で、それ(教師の給料の半分)よりもっと安い給料の人はザラである。
特に、校長は成果給にし、働かない校長は用務員のおじさんよりずっと低い給料にすべきである。
別に無茶な話ではなく、ごく当たり前のことだと思うのだが。

イエス・キリストが「貧しい者は幸せ」と言ったのは有名だが、「足りない者は幸せ」と言った方がピンとくるかもしれない。
「俺、全然モテないけど、不幸です」
って言うのは、マスターベーションばっかりしているからだ。
モテるけど、滅多なことで女に手を出さない男が勝つのである。
中国には、「立ち続ける男が勝つ」といった言葉があるらしい。露骨には解説しないが、最終的な満足をしないことで、エネルギーを維持するのである。
これは、仙人の秘法でもあるらしい。

『若草物語』で、賢明な母親が、「足りないめの方が幸せなのです」と娘達に言うが、実に素晴らしい教えである。
食欲、性欲だけでなく、あらゆることで、満たされ、ゆったりして「ゆるむ」ことがあってはならない。
つまり、いかなることであっても、決して、満足するまで満たしてはならない。
欠けていれば引き締まり、満ちればゆるむのである。
いつも言う通り、人間は、ゆるめば落ち、引き締まれば神に向かって昇っていくのである。
たっぷり貯金出来るほど収入のある者は、大抵、難病になったり、家族に問題が起こっている。
将来の不安というのも、解消してはならないと思う。
億単位の金があるのに、惨めなまま虚しく死んでいく人は多いはずである。
昔の話ではあるが、野村克也氏の奥さんが脱税した時、彼女は、「老後が不安だったから」と言ったが、不安があった方が、若返ってきれいになるのである。

足りないものはもう無い、もう無い
そうかい? そうかい、そうかい
~『アンハッピーリフレイン』(作詞・作曲・編曲:wowaka、歌:初音ミク)より~

足りないものを意識するが、それをあまり満たそうとせず、もっと大きな何かを求める。
それが真の幸福への道である。









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貴い贈り物

オールコットの『若草物語』は、原題は“Little Women'”であるらしい。
子供の時に読んだきりだが、それでも、なかなか良い教訓があったなと思う。
また、こんな内容を憶えている。
三女で13歳のベス(エリザベス)が、隣の大金持ちの家の老人ローレンス氏に、日頃よくしてもらっているお礼にと、スリッパを手作りしてプレゼントする。
しかし、ローレンス氏が何も言ってこないので、病弱で内気なベスは、自分が間違いをしたのではないかと思う。
あんなお金持ちに、粗末なスリッパをあげるなど、滑稽どころか、ローレンス氏を怒らせたかもしれない。
しかし、実際は、ローレンス氏はあまりに嬉しくて、どう応えて良いのか分からなかったのだ。

高橋弥七郎さんの小説・アニメ『灼眼のシャナ』で、高校1年生のやはり内気で可憐な少女、吉田一美は、カムシンと名乗る、人間をはるかに超える力を持つ不死の超人に、麦藁帽子をプレゼントする場面がある。
一美は、カムシンに沢山の大切なことを教えてもらったが、自分には何の力もないので、恩返しなどできそうにない。そんな彼女の、せめてもの感謝の気持ちだったのだろう。
その時、いつもほとんど表情を変えないカムシンの傷だらけの顔が、少し笑ったように見える。
カムシンは、元々、一美によって、少しは人間を見直そうと思っていたのだと思う。

折口信夫の小説『死者の書』では、屋敷の中の者以外には人目に触れることもなかった高貴な姫は、彼女の前に姿を見せた阿弥陀如来が肩や胸の肌を晒しているのを見て、「寒いだろう」と思い、大変な苦労をして、美しい着物を縫い上げる。

彼女達は、自分の素直な好意を純粋に示した。
相手は、彼女達の与えたものを、理屈の上では必要としていないだろう。
しかし、真に人間らしい心で見るなら、少女たちの行為はキリストの奇跡にも等しい。
そう感じる心を持つことが人間の義務なのであろう。
義務を忘れた人間が増えれば、天災も起こり、恐ろしい奇病も流行る。
理屈に合ったことではないが、心の深いところで、そう感じるのである。









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体罰を太陽の目で見る

バスケットボール部員の高校2年生の男子が自殺し、そこにあったことが確実とされる体罰というものについての議論が盛んなようだ。
だが、どんな問題だって、個々に分割して考えれば、複雑で的外れなことになる。
体罰だって、「体罰は必要か」だの「体罰で強くはならない」といった、体罰にばかり注目した近視眼的なことを言っていても、千年経っても何も解決しない。

重要なものごとは、数千年の、そして、人類全体のこととして考えないと本当には分からないが、少なくとも、今回のことは、教育の問題でも、スポーツの問題でも全く無いことは確かだ。
教育者も含め、誰も、子供を人間として高貴にしようと思っていないし、誰もスポーツを純粋に楽しもうとしていない。
それはなぜかということだ。

一言で言えば、問題は、現代の文明国に属する人類が、目に見えるものしか存在しないという幻想に絡め取られてしまったことが原因なのだ。
こう言うと、ひどく抽象的に感じる人が多いと思う。それこそが、幻想に取り込まれた人間である証拠なのだ。
体罰を行った顧問は、高校スポーツその他の指導で輝かしい実績があることが強調される。
そして、生徒の方だって、自分が積み上げてきたキャリアが傷付くことを恐れていたのだ。
そして、誰もが、その部分に関しては、何も問題にしない。
しかし、問題にすべきはそこだ。
そういった目に見えるものにしか価値を置けないというのは、外部から見れば、例えば、宇宙人から見れば、全く持って滑稽なことなのである。

戦時中、「我々はアメリカ人やイギリス人を殺さないといけない」と教育され、それに反対した生徒が教師に殴られたとする。
昔であれば、それは肯定されたかもしれない。
しかしね、当時だって、体罰反対論者はいたのだ。
だが、殴った教師は、教え子に有力者も多い実績ある教師として知られ、体罰は正当であると言う者が多いとする。
また、殴られた方も、逆らえば、親が期待している名門校への進学に障りがあると思って耐えているかもしれない。
そんな時に、体罰の是非を議論して何になる?
それどころか、いったい、その学校のどこに議論すべきことがあるだろう?
何にもない。問題はただ、我々の妄想だ。

このまま話を進めても、誰も解決の糸口も掴めないだろう。
ところで、私が初めて、体罰を明確に否定する人がいるのだと知ったのは、高校1年生の時、誰もが一度は読んだことがあるかもしれない、アメリカの女性作家オールコットの『若草物語』の中のお話からだ。
体罰を受けるのは、その4姉妹の末っ子のエイミーだ。12歳である。
おそらく、彼女に非があったのだろう。それで、教師が体罰を行った。
どんな体罰だったか知ってるかね?
エイミーは両てのひらを上に向けて差し出す。
教師は、ムチ・・・と言っても、しなる細い棒のようなもので、その手のひらを数回叩くのである。
確か、エイミーは、黙って教師をじっと睨みつけていたのだったと思う。それで、教師も叩く回数を増やした。
両者は憎み合い、戦っていたと言えるだろう。
明確に憶えていないが、エイミーの母親は、学校に乗り込み、エイミーを堂々と連れ帰ったのだったかもしれない。
「私はいかなる体罰にも反対します」
と、はっきりと意思表示をしてのことだ。

ではなぜ、エイミーの母親は体罰に反対なのだろう。
これを見過ごしてはならない。我々のように、個人的な観念だけで、あーだこーだ言っていては何も理解できず、何の解決にもならない。
まず、エイミーの母親は、決して子供の教育を学校に任せっきりにしているのではなく、自分も出来る限りのことをしているという自信があるのだろう。それも、決して子供に手を上げることなくね。
そして、子供との距離は自分の方がずっと近く、子供のことが分かっているので、子供も悪いことだってするだろうが、体罰を受ける必然性は全くないと確信しているのだ。
だから、何の躊躇もなく、自信を持って堂々と子供を連れ帰った。
日本のように、それが内申書に響くなんて心配もないだろうが、あったところで何の関係もない。
だが、エイミーの母親は、なぜそこまでの自己信頼を持てるのだろう?
それは、彼女が熱心なキリスト教徒だからだ。
だが、誤解しないで欲しい。
彼女は、決して、イエスの教えの文言を理屈で捉えて、それを考え方や行動の規範にしているのではないということだ。
もしそうなら、彼女にあれほどの自信は無いはずだ。
もしかしたら、彼女は、イエスの言うことを、論理的にはほとんど理解出来ないと思っているかもしれない。
だが、彼女は、そういった目に見えるものだけが大切なのではなく、それどころか、本当に大切なものは目に見えないということを知っているのだ。
そして、イエスの本当の教えとは、目に見えるものしか信じないという幻想を打ち破ることなのだ。
彼女は、真のキリスト教徒だった。だから、あの作品は、一見平凡な家庭の物語なのに、人類全ての心を惹き付けたのだ。

太古の人間に罪は無かった。彼らは、純粋で汚れがなかった。
だが、人類は熱情を持ち、欲望が生まれ、たちまちそれに取り込まれた。
だが、熱情や、その結果による欲望は悪いだけではない。
ところが、その後、人類は幻想に捉えられる。熱情を否定し、見えるもものしか存在しないと信じる幻想だ。
そして、見られなければいいと思った人類に罪が生まれた。
確かに、見えるものにだけが大切なのではなく、見えないものの方が大切なことが多い。
だが、見えるものにだって価値はある。例えば、ポルシェやBMWという車は、見える価値観の代表のようなものだが、良いものを造ることに価値があることも確かなのだ。
高校スポーツの成果だって、一定の価値はある。しかし、あくまで、比較的低い限度のある一定であり、まして、それが価値の全てではない。
イエスは、熱情も、見えるものも、共に大切で、それをバランスを持って扱えと教えたのだ。

エイミーは若い熱情で持って、何か間違いをしたのは確かだろう。
しかし、教師は熱情を否定し、冷淡な論理でエイミーを罰した。
教師はエイミーを見下し、エイミーは教師を睨みつけた。
そこには、敵対関係しかない。
まさにそれが人類の問題なのだ。
そして、現在の人類は、ますます、この教師のような思想に傾き、既にひどく偏っており、それが人類を絶滅させる恐れがあるのだ。
バスケットボール顧問は、全国大会出場という、目に見える成果に囚われ、生徒も、目に見える実績だけが導いてくれるはずの将来を信じていた。
だが、イエスは、実績も大切であるが、目に見えない熱情も大切だと言ったのだ。
だが、今や、人類は、熱情もまた、目に見える物質主義の足元に押し込んでしまったのだ。
だから、愛情や友情も論理的に証明できる、解析可能なことだと本気で思っているのだ。
それは、ある程度は出来るかもしれない。しかし、人間の心の大部分は永遠の謎なのだ。

教師は、エイミーの熱情を、ただ幼いという意味でなく、「情熱を持って」理解し、人として責められることで無い限り、おおらかに扱わねばならなかった。そして、自分もまた、エイミーのような熱情を持つことで、何かを得ることに気付くべきだった。
教師もまた、生徒から学ばなければ決して向上しないのだ。
そして、エイミーも、教師の知識や経験から来る優れた論理を敬う必要があった。それは、彼女のためになり、また、彼女がこれから先、人々のためにより良いことが出来るようになる重要な鍵であることを受け入れなければならなかった。
熱情だけで良いことをしようとしたら、ある限度を超えれば、それは必ず悪い結果になるのである。

アマチュアスポーツだって勝つことは重要である。勝つことで学ぶことは当然多い。しかし、アマチュアにとって大切なことは学ぶことなのだ。学べるから勝つのであり、学べない勝利、堕落する勝利なら避けるのがアマチュアである。
だから、勝つ意志があれば、結果として負けても、必ずしも悪くない。それどころか、負けて学ぶことは、むしろ、勝って学ぶことより多いのだ。
だが、それは決して、勝とうという熱情だけのことを言っているのではない。勝利の可能性を1パーセントでも上げる現実的努力も大切である。しかし、まずは熱情と言えるかもしれない。
だから、あまりに不相応な無茶でない限り、勝てない強敵に挑むのである。
そういったことを全くないがしろにする、利益と権力の思惑に支配されたスポーツが蔓延っていること、それが問題なのである。
そんなものからは、さっさと手を引くことだ。目には見えないかもしれないが、その見返りは大きく、また、結局のところ、それは現実的な相応の報酬にもなるだろう。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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