岡本太郎が『美の呪力』の中で述べていたが、彼が荘厳に語ったことを簡単に述べてしまうと、祭りというものは、エネルギー補充のためのものなのだ。
昔の人もいろいろ苦労があり、日常の生活の中で心身が疲弊するが、祭りで生きる力を回復させるのだそうだ。
精神分析学者の岸田秀さんも、やはり祭りが生命エネルギーを得るためのものだと著書の中で述べられていたと思う。
つまり、生命力というのは、無意識の中にあるのであり、祭りの狂気や興奮で意識を吹っ飛ばすと、無意識の生命力と通じるのである。
宗教というのも、本来は、無意識の中のパワーと結び付くためのものであったが、今日の宗教にはその力が無く、コリン・ウィルソンが言うには、その役割は、ある時から芸術に移ったらしい。かつては宗教を彩るために生まれた下僕である芸術が、主に取って代わったということである。それは一理あると思う。
我々も、単なるレクリエーション(気晴らし)や、美食、買い物といったケチなことではなく、根本的なエネルギー補充の方法を学ばねばならない。
本来、レクリエーションという言葉は、re-creationという言葉の通り、Creation(創造、芸術)のRe-(再生)であり、もっともっと大きなものであるはずだ。
では、最大のエネルギー回復はどうやるかというと、至高者に意識を合わせることなのである。
昔、法然上人や親鸞聖人が、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えると、死後、極楽浄土に行けると教えて、人々に希望を持たせたという話があるが、希望を持たせたというのは、早い話が、元気にしたということだ。
しかしね、死後、天国に行けるってだけで、人間は力がみなぎったりはしないのだ。
そうではなく、「南無阿弥陀仏」を唱えることで、至高の存在である阿弥陀如来(阿弥陀仏)に意識をフォーカス(集中)させることに意味があるのだ。無論、これは、今の理屈っぽい人には効果を発揮しにくいものだろう(素直な人なら十分であるが)。
有名な能力開発指導者のアンソニー・ロビンズのやったことは、NLP(神経言語プログラミング)を応用した方法で意識を沈め、無意識に入り込むことで、巨大な力をいくらかでも取り出そうとしたのだが、そういったテクニックによるものは、しばらくの間は効果があるが、すぐに元に戻るのが欠点、いや、欠陥だ。それは、実習者の多くも気付いていると思う。
有名なセミナーに行った人は皆言うのだ。
「1週間くらいは仙人にでもなったような気分で楽しいが、すぐに元の木阿弥さ」
ってね。
岡本太郎が言った祭りによるエネルギー供給も、次の祭りまで持つ燃料を入れることが目的なのだ。だから、皆、燃費を考えて、力の出し惜しみをしたがる。
芸術は爆発らしいが、それも、エネルギーの放出ではなく、宇宙に向かって意識を開く、つまり、無意識に入り込んでエネルギーを得ることで、むしろ、爆発と反対のことであるが、感情や行動、あるいは、雰囲気においては爆発なのである。そして、岡本太郎自身、爆発とは破壊的なものでないと述べている。
それで、真のエネルギー供給は、至高者に意識を集めることであるという話に戻る。
ジョージ・アダムスキーが会った宇宙人達は、数百歳であっても、女性であれば二十歳前にしか見えないのだが、これが、至高者に意識を合わせて、常にエネルギーを得ている成果だろう。
宇宙人達は、どの宇宙船、あるいは、家庭にも、神の絵とも言える、ある肖像画があるらしい。それは18歳くらいの、男性とも女性とも言えないが、美しいという言葉で言い表せない至高の美であるらしく、それを常に仰ぐことで、年を取ることが無くなったのだという。
アダムスキーは、その絵を見ることで、絶世の美女揃いの宇宙人の女性達の存在も忘れてしまうほどに恍惚となったらしい。
この話を信じるかどうかはともかくとしても、正しいヒントであると思う。世の中に、嘘のない真理はない。
これが、至高者に意識を合わせるための、極めて良い方法である。
恍惚とするほど美しい絵、音楽、物語は、意識を静め、無意識を表出させるのであり、間違いなく、エネルギーを回復させる。
問題は、そんなものを持っているかどうかだ。
アイドルに夢中になるというのも、非効率で限定的ながら、そんな方法の1つであることは分かると思う。
だが、もっとマシな方法を持たなければならない。
百万円で普通の自転車を買うような方法で満足してはならない。
スポーツ観戦で興奮したり、ロックコンサートで感情を発散させるのも、いくらかの生きる力を与えることは認めるが、やはり限定的だし、一人の人間にとっては、いつかは効果を発揮しなくなる。
「元気があれば何でも出来る」のは確かだが、そのための、永続的で最大の効果のあるやり方を知らなければならない。
方法は1つではないが、最大の方法の1つは、ニサルガダッタ・マハラジが教えた「常に存在の感覚にしがみつく」ことだ。
なぜなら、存在が無意識そのものだからだ。本当を言うと、意識に(顕在)意識と無意識の区別はない。巨大な意識の一部を勝手に顕在意識にしてしまっただけだ。
存在するという感覚に集中すれば、いわゆる無意識に入り込み、無限のエネルギーと接触する。
そして、存在の感覚とは、朝、目が覚めて、思考が入り込んでくるまでの間の感覚である。
宗教が、道徳的な考えや振舞いを薦める理由は、不道徳で放埓な心は、その感覚を乱すものであるからだ。
だから、釈迦もイエスも、戒律は重視したのである。
無目的に、ただ丁寧に腕振り運動をすることも、無意識に入り込む極めて優れた方法だ。だから、この方法は、生命エネルギー強化の効果から、武道家達からも愛好されたのである。
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昔の人もいろいろ苦労があり、日常の生活の中で心身が疲弊するが、祭りで生きる力を回復させるのだそうだ。
精神分析学者の岸田秀さんも、やはり祭りが生命エネルギーを得るためのものだと著書の中で述べられていたと思う。
つまり、生命力というのは、無意識の中にあるのであり、祭りの狂気や興奮で意識を吹っ飛ばすと、無意識の生命力と通じるのである。
宗教というのも、本来は、無意識の中のパワーと結び付くためのものであったが、今日の宗教にはその力が無く、コリン・ウィルソンが言うには、その役割は、ある時から芸術に移ったらしい。かつては宗教を彩るために生まれた下僕である芸術が、主に取って代わったということである。それは一理あると思う。
我々も、単なるレクリエーション(気晴らし)や、美食、買い物といったケチなことではなく、根本的なエネルギー補充の方法を学ばねばならない。
本来、レクリエーションという言葉は、re-creationという言葉の通り、Creation(創造、芸術)のRe-(再生)であり、もっともっと大きなものであるはずだ。
では、最大のエネルギー回復はどうやるかというと、至高者に意識を合わせることなのである。
昔、法然上人や親鸞聖人が、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えると、死後、極楽浄土に行けると教えて、人々に希望を持たせたという話があるが、希望を持たせたというのは、早い話が、元気にしたということだ。
しかしね、死後、天国に行けるってだけで、人間は力がみなぎったりはしないのだ。
そうではなく、「南無阿弥陀仏」を唱えることで、至高の存在である阿弥陀如来(阿弥陀仏)に意識をフォーカス(集中)させることに意味があるのだ。無論、これは、今の理屈っぽい人には効果を発揮しにくいものだろう(素直な人なら十分であるが)。
有名な能力開発指導者のアンソニー・ロビンズのやったことは、NLP(神経言語プログラミング)を応用した方法で意識を沈め、無意識に入り込むことで、巨大な力をいくらかでも取り出そうとしたのだが、そういったテクニックによるものは、しばらくの間は効果があるが、すぐに元に戻るのが欠点、いや、欠陥だ。それは、実習者の多くも気付いていると思う。
有名なセミナーに行った人は皆言うのだ。
「1週間くらいは仙人にでもなったような気分で楽しいが、すぐに元の木阿弥さ」
ってね。
岡本太郎が言った祭りによるエネルギー供給も、次の祭りまで持つ燃料を入れることが目的なのだ。だから、皆、燃費を考えて、力の出し惜しみをしたがる。
芸術は爆発らしいが、それも、エネルギーの放出ではなく、宇宙に向かって意識を開く、つまり、無意識に入り込んでエネルギーを得ることで、むしろ、爆発と反対のことであるが、感情や行動、あるいは、雰囲気においては爆発なのである。そして、岡本太郎自身、爆発とは破壊的なものでないと述べている。
それで、真のエネルギー供給は、至高者に意識を集めることであるという話に戻る。
ジョージ・アダムスキーが会った宇宙人達は、数百歳であっても、女性であれば二十歳前にしか見えないのだが、これが、至高者に意識を合わせて、常にエネルギーを得ている成果だろう。
宇宙人達は、どの宇宙船、あるいは、家庭にも、神の絵とも言える、ある肖像画があるらしい。それは18歳くらいの、男性とも女性とも言えないが、美しいという言葉で言い表せない至高の美であるらしく、それを常に仰ぐことで、年を取ることが無くなったのだという。
アダムスキーは、その絵を見ることで、絶世の美女揃いの宇宙人の女性達の存在も忘れてしまうほどに恍惚となったらしい。
この話を信じるかどうかはともかくとしても、正しいヒントであると思う。世の中に、嘘のない真理はない。
これが、至高者に意識を合わせるための、極めて良い方法である。
恍惚とするほど美しい絵、音楽、物語は、意識を静め、無意識を表出させるのであり、間違いなく、エネルギーを回復させる。
問題は、そんなものを持っているかどうかだ。
アイドルに夢中になるというのも、非効率で限定的ながら、そんな方法の1つであることは分かると思う。
だが、もっとマシな方法を持たなければならない。
百万円で普通の自転車を買うような方法で満足してはならない。
スポーツ観戦で興奮したり、ロックコンサートで感情を発散させるのも、いくらかの生きる力を与えることは認めるが、やはり限定的だし、一人の人間にとっては、いつかは効果を発揮しなくなる。
「元気があれば何でも出来る」のは確かだが、そのための、永続的で最大の効果のあるやり方を知らなければならない。
方法は1つではないが、最大の方法の1つは、ニサルガダッタ・マハラジが教えた「常に存在の感覚にしがみつく」ことだ。
なぜなら、存在が無意識そのものだからだ。本当を言うと、意識に(顕在)意識と無意識の区別はない。巨大な意識の一部を勝手に顕在意識にしてしまっただけだ。
存在するという感覚に集中すれば、いわゆる無意識に入り込み、無限のエネルギーと接触する。
そして、存在の感覚とは、朝、目が覚めて、思考が入り込んでくるまでの間の感覚である。
宗教が、道徳的な考えや振舞いを薦める理由は、不道徳で放埓な心は、その感覚を乱すものであるからだ。
だから、釈迦もイエスも、戒律は重視したのである。
無目的に、ただ丁寧に腕振り運動をすることも、無意識に入り込む極めて優れた方法だ。だから、この方法は、生命エネルギー強化の効果から、武道家達からも愛好されたのである。
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