ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

芸術

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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元気になれる方法の原理

岡本太郎が『美の呪力』の中で述べていたが、彼が荘厳に語ったことを簡単に述べてしまうと、祭りというものは、エネルギー補充のためのものなのだ。
昔の人もいろいろ苦労があり、日常の生活の中で心身が疲弊するが、祭りで生きる力を回復させるのだそうだ。
精神分析学者の岸田秀さんも、やはり祭りが生命エネルギーを得るためのものだと著書の中で述べられていたと思う。
つまり、生命力というのは、無意識の中にあるのであり、祭りの狂気や興奮で意識を吹っ飛ばすと、無意識の生命力と通じるのである。
宗教というのも、本来は、無意識の中のパワーと結び付くためのものであったが、今日の宗教にはその力が無く、コリン・ウィルソンが言うには、その役割は、ある時から芸術に移ったらしい。かつては宗教を彩るために生まれた下僕である芸術が、主に取って代わったということである。それは一理あると思う。

我々も、単なるレクリエーション(気晴らし)や、美食、買い物といったケチなことではなく、根本的なエネルギー補充の方法を学ばねばならない。
本来、レクリエーションという言葉は、re-creationという言葉の通り、Creation(創造、芸術)のRe-(再生)であり、もっともっと大きなものであるはずだ。

では、最大のエネルギー回復はどうやるかというと、至高者に意識を合わせることなのである。
昔、法然上人や親鸞聖人が、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えると、死後、極楽浄土に行けると教えて、人々に希望を持たせたという話があるが、希望を持たせたというのは、早い話が、元気にしたということだ。
しかしね、死後、天国に行けるってだけで、人間は力がみなぎったりはしないのだ。
そうではなく、「南無阿弥陀仏」を唱えることで、至高の存在である阿弥陀如来(阿弥陀仏)に意識をフォーカス(集中)させることに意味があるのだ。無論、これは、今の理屈っぽい人には効果を発揮しにくいものだろう(素直な人なら十分であるが)。

有名な能力開発指導者のアンソニー・ロビンズのやったことは、NLP(神経言語プログラミング)を応用した方法で意識を沈め、無意識に入り込むことで、巨大な力をいくらかでも取り出そうとしたのだが、そういったテクニックによるものは、しばらくの間は効果があるが、すぐに元に戻るのが欠点、いや、欠陥だ。それは、実習者の多くも気付いていると思う。
有名なセミナーに行った人は皆言うのだ。
「1週間くらいは仙人にでもなったような気分で楽しいが、すぐに元の木阿弥さ」
ってね。
岡本太郎が言った祭りによるエネルギー供給も、次の祭りまで持つ燃料を入れることが目的なのだ。だから、皆、燃費を考えて、力の出し惜しみをしたがる。
芸術は爆発らしいが、それも、エネルギーの放出ではなく、宇宙に向かって意識を開く、つまり、無意識に入り込んでエネルギーを得ることで、むしろ、爆発と反対のことであるが、感情や行動、あるいは、雰囲気においては爆発なのである。そして、岡本太郎自身、爆発とは破壊的なものでないと述べている。

それで、真のエネルギー供給は、至高者に意識を集めることであるという話に戻る。
ジョージ・アダムスキーが会った宇宙人達は、数百歳であっても、女性であれば二十歳前にしか見えないのだが、これが、至高者に意識を合わせて、常にエネルギーを得ている成果だろう。
宇宙人達は、どの宇宙船、あるいは、家庭にも、神の絵とも言える、ある肖像画があるらしい。それは18歳くらいの、男性とも女性とも言えないが、美しいという言葉で言い表せない至高の美であるらしく、それを常に仰ぐことで、年を取ることが無くなったのだという。
アダムスキーは、その絵を見ることで、絶世の美女揃いの宇宙人の女性達の存在も忘れてしまうほどに恍惚となったらしい。
この話を信じるかどうかはともかくとしても、正しいヒントであると思う。世の中に、嘘のない真理はない。
これが、至高者に意識を合わせるための、極めて良い方法である。
恍惚とするほど美しい絵、音楽、物語は、意識を静め、無意識を表出させるのであり、間違いなく、エネルギーを回復させる。
問題は、そんなものを持っているかどうかだ。
アイドルに夢中になるというのも、非効率で限定的ながら、そんな方法の1つであることは分かると思う。
だが、もっとマシな方法を持たなければならない。
百万円で普通の自転車を買うような方法で満足してはならない。
スポーツ観戦で興奮したり、ロックコンサートで感情を発散させるのも、いくらかの生きる力を与えることは認めるが、やはり限定的だし、一人の人間にとっては、いつかは効果を発揮しなくなる。
「元気があれば何でも出来る」のは確かだが、そのための、永続的で最大の効果のあるやり方を知らなければならない。

方法は1つではないが、最大の方法の1つは、ニサルガダッタ・マハラジが教えた「常に存在の感覚にしがみつく」ことだ。
なぜなら、存在が無意識そのものだからだ。本当を言うと、意識に(顕在)意識と無意識の区別はない。巨大な意識の一部を勝手に顕在意識にしてしまっただけだ。
存在するという感覚に集中すれば、いわゆる無意識に入り込み、無限のエネルギーと接触する。
そして、存在の感覚とは、朝、目が覚めて、思考が入り込んでくるまでの間の感覚である。
宗教が、道徳的な考えや振舞いを薦める理由は、不道徳で放埓な心は、その感覚を乱すものであるからだ。
だから、釈迦もイエスも、戒律は重視したのである。
無目的に、ただ丁寧に腕振り運動をすることも、無意識に入り込む極めて優れた方法だ。だから、この方法は、生命エネルギー強化の効果から、武道家達からも愛好されたのである。









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あなたが不幸になるはずがない訳

世間の人が恐れることは、収入がなくなったり、世の中が乱れて、楽な暮らしができなくなり、最悪、惨めに餓死や凍死をすることだ。
だが、その心配はしなくて良い。
その理由を以下に説明する。

野生動物が餌を探したり、害を避ける能力は、実際は神秘的なものだ。それを本能と言うのだろうが、あまりにも驚異的な力なのであることをよく考えるべきだ。

世界的な量子物理学者のフレッド・アラン・ウルフが、シャーマンの力を借り、特殊な方法(変性意識に導く強い作用のある植物を使用する)で鷹と合体し、野生動物が行う狩の真実を体験した話がある。
鷹と融合したウルフ博士は、大空を滑空していたが、不意に地上のある一点に引き付けられ、そこにまっしぐらに下降すると、餌の小型動物がいて、それを捕獲したのである。
鷹の視力は優れているが、単に目で餌を見つけるのではない。それが餌であると分析的に判断する能力は鷹にはない。鷹が、それを餌と認識するのは、直感的な力であり、人間でいえば、ベテランのハンターがいくらか持っているものである。

ウルフ博士の話が本当のことかどうかはともかく、動物が、人間には奇跡としか思えない能力を持つことは疑いがない。いや、動物に限らず、魚や虫や植物もそうだ。
例えば、遠い距離を移動する蝶が、どうやって特定の日に、適切なコースを選んで見事に目的地にたどり着くことができるのかは、全くの謎である。実際は、渡り鳥の渡りも、本当のことはほとんど分かっていないのだ。

動物だって、生きるのに失敗することはある。天敵に襲われて食われるのは当たり前のことであるが、そうでなくても、餌が取れずに餓死したり、凍死や事故死もある。
しかし、そんな不慮の死に方でもなければ、数が増え過ぎて生態系を壊すのであるが、自然な状態では、そういった予想外の死も、実に見事なタイミングで起こり、生態環境を健全に保っているのである。これは、よく考えれば不思議なことである。
ルドルフ・シュタイナーは、動物は、1つの種族で1つの魂を持つと言ったが、確かに、1つ1つの個体ではなく、1つの種族に着目してみれば、それが完璧な生き方をしているのが分かるのである。

また、植物においても、その生態を調べると、根の伸ばし方、土地の性質や形状への対応の仕方などを観察すると、隠れた高度な知性を感じざるを得ないのである。
そして、植物もまた、1つ1つの個体が生存のために発揮する能力も素晴らしいが、種として必ず生存できるような、より大きな力が働いていると考えられるのである。

人間は、動物や植物と異なり、1人1人に固有の意識がある。
動物、虫、植物は、新しい種に進化するといった特別な理由が無い限り、種が絶対的に生き残るような力が働くのであるが、人間というのは、1人1人が非常に大切であり、1人1人が絶対的に生き延びることが出来る力が秘められているのである。
動物や植物は、種全体が滅びる時に恐怖のようなものを感じるのかもしれないが、人は、自分1人が死ぬ時にも恐怖を感じるのである。

再度述べると、動物や植物は、1つの種で1つの魂を持っているが、人間は、1人で1つの魂を持つのである。
だが、そのように、人は、1人で固有の魂を持ってはいるが、やはり、上位の大きな魂があるのである。そして、死んだ時には、その上位の大きな魂と融合するのである。ただ、その場合も、1人1人の魂は個性を保つのである。

固有の魂を持つ人間は、1人の人としても、決して死ぬことは無い。
生きている時でも、大きな魂が持つ無限の力により、必ず生かされるのである。
動物や植物すら、それぞれの個体が生きるための驚異的な力が働くのである。そして、たとえ部分である個が自然に滅びても、種としては絶対的に生き続けるのである(進化をする場合を除く)。
ましてや、人間が死ぬはずがないのである。だが、人間は、1人1人が創造力を持つがゆえに、自らの想像力を使って、病気になったり、死んだりが出来るのである。あるいは、絶えるはずのない、動物や植物の種を滅ぼすことも出来てしまうのである。

人間は、自然に生きている限りは、死ぬことも病気になることもない。また、1人1人の魂に想像の力が与えられており、何でもできるのであり、力強く、歓喜に満ち、豊かに生きることができるはずなのである。
だが、我々は、魂の力、創造力を誤って使って、貧しくなったり、病気になったり、あらゆる問題を引き起こして苦境に立ったり、最悪、自分が死んだり、他人を殺したりするのである。
我々は、大きな魂である、宇宙の英知、大自然の潜在力、聖霊、神と呼ばれるものの力を十分に使い、親である神のごとく立派に生きなければならないのである。

尚、芸術には、人間の創造の力が示されるのである。
岡本太郎が言ったように、あなたも、本日、ただいまより芸術家になれるのである。それには、内にある魂の叫びを感じ、それを表現するのである。上手い作品を創ろうとしても、魂の声は聞こえない。魂を覆い隠すものを捨て、無心で作品に向かったり、自ら作品を創ることで、自分が宇宙と一体になるのである。それは、個の魂が大きな魂と溶け合い、一緒になることである。それを、岡本太郎は爆発と言ったのだろう。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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