ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

芸術

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「芸術とは?」に対する真の解答

「芸術か?猥褻か?」なんて言葉を聞かなくなったように思う。世の中が芸術に無関心になったからだろう。しかし、芸術は、本来面白い。「センセー」が言う芸術はちっとも面白くないが。
ある絵は「芸術」と言われるのに、大して違いがない(ように思える)別の絵は「猥褻」と言われる。
それで、「芸術は難しいなあ」、「専門家でないと芸術は分からないのだろう」なんて観念を持ってしまう。
だが、イタリアの画家モディリアーニの作品は、今では、まごうことなき芸術であるが、彼は散々、猥褻画家と呼ばれたものだった。
それで、「実は、芸術と猥褻の違い、あるいは、芸術かそうでないかの違いは、いい加減なもんじゃないの?」と、思う人も増えたが、これはこれで間違いではないと思う。
それこそ、「投資の対象になりえるのが芸術、そうでないのは非芸術」なんて考え方は、ある意味では正しい。
だが、別の意味では・・・気取った意味で言うのではないが、(特に、芸術は投資の対象という考え方は)愚かだ。

世界的版画家、つまり、大芸術家と認められている池田満寿夫は、芸術と猥褻の違いについて、著書で、「ソフィスティケートされているかいないかの違い」なんて、こまっしゃくれたことを書いていたが、彼はニューヨークに住んでいて、言葉の意味は、よく理解している。
辞書的には、ソフィスティケートは「都会的に洗練されている」だが、当時のニューヨークと東京は全然違った。今もだが、東京の人間がそんなにソフィスティケートされていた訳ではないし、では、ニューヨークはどうかとうと、手塚治虫さんが初めてニューヨークに行った時、そのがさつさが印象的だと言ったくらいで、それはやっぱり今も変わらない。
私は、池田さんは、割と下らないことを言ったのではないかと思う。
しかし、不思議と、池田さんが言うと、憎めないというか、悪い感じがしない。
池田さんは、「エロティシズム」なんて言葉を連発するほどエロ好きで、ポルノ雑誌の写真でコラージュ作品を作るほどだったが、やっぱり彼は芸術家だった。
だが、池田さんは、上手い画家でも何でもなかった。
東京芸大の受験は、3回落ちて諦めているし、食べるために似顔絵屋をしていた時は、町の似顔絵屋に、「お前みたいなのがいると、俺達のレベルも低く思われてしまって迷惑だ」と言われるほど下手だった。

さて、そろそろ、芸術とは何かを言おう。
いわゆる「先生」は、言ってくれない本当のことだ。
「芸術のセンセー」には芸術は解らない。
また、池田満寿夫さんが言った「ソフィスティケート」は多分、彼の思うソフィスティケートという意味では正しいのかもしれなが、やっぱり良い言い方ではない。
芸術とは、人間らしさでしかない。
では、本物の芸術家であった池田満寿夫さんはどうかとうと、これが全く人間らしい。
上に、生活のために似顔絵屋をやっていたことを書いたが、その時、池田さんは、営業上の理由で「東京芸大生」を名乗っていた。
完全に詐称であり、違法であるが、実に人間らしいではないか。
いや、詐称が人間らしいと言うのではない。池田さんがやると人間らしいし、芸術家がやると人間らしいのだ。
どいうことかというと、そんな詐称をして似顔絵屋をやっていると、本物の東京芸大生に遭遇してしまうことがあったが、そんな時、慌てて逃げ出したところが実に人間らしいのだ。
ここらへんの神経というか、はにかみというか・・・かわいいじゃないか?
要は、「ツラの皮が厚くない」のだ。
吉行 淳之介さんは、まさに、芸術家的作家だったが、彼は『不作法のすすめ』だったと思うのだが、その中で、紳士とは何かについて、だいたいだが、「恥ずかしいことを思い出した時に首がキュっとすくむこと」みたいなことを書かれていたと思う(中学2年の時に読んだので、記憶は定かではない)。
紳士であることも、芸術家であることと同じで、人間っぽい、人間らしい神経を持っていることなのだ。
そして、岡本太郎も、本質ではそう言っていたと思われるように、本来、人間は皆芸術家で、男は皆、紳士でなければならない。
池田満寿夫さんの、実に人間っぽいエピソードを挙げておく。
電子メール(当然LINEも)がなかった時代、池田さんに、女子高生達から、彼の工房を見学させて欲しいという手紙が届いた。
あんな猥褻な画家の工房なんか言ったらお嫁に行けなくなるぞと言いたいが、そんなこと、池田さんはよく解ってたのだろう。
池田さんは、「恥ずかしいから返事を出さなかった」と言う。
嗚呼、何と人間らしい。
スケベの塊であることを自覚しつつ、ちょっとした恥じらいも持っている。
吉行さんだって、紳士は「キュッと首がすくむ」のであり、グダグダと落ち込むとは書かれていなかった。
逞しさもまた必要なのだ、紳士には。
強さも優しさも人間には必要である。
どんな大先生が何を言おうが、芸術とは人間らしさである。これは絶対に間違いない。








株と恋愛の究極の原理/女の子にプレゼントをすれば99%フラれる

生物の細胞の1つが、その生物全体を含むように、あるいは、一人の人間の中に宇宙全体を含むように、いかなるものも、部分が全体を含むという構造をしている。
そういった構造を、とりあえず、ホログラム構造と言っておく。
詩でも、絵画でも、本物の芸術は、ホログラム構造を、なんらかの意味で表現している。
それは、科学でいうホログラムの形式はとっていないかもしれないが、もっと壮大な形で、ホログラムを表しているのである。
我々はそれが分からないから、その詩や絵が本当に良いのかと理屈では疑問に思いながら、大きなものを求め憧れる我々の魂が、そのホログラムの表現に惹かれてしまうのである。
そんなことを考えながら、タゴールやゲーテの詩、モローやセザンヌの絵を鑑賞すると、世界が見えて来る。
人間が情熱込めて創ったものは、どんなものでも、やはりホログラム構造をしている。
だから、本当に見る目のある人は、一流品を愛用するのである。

ところで、たとえば、好きな女の子を振り向かせるのも、株で儲けるのも、やっぱりホログラム感覚がある者はうまくいく。
もちろん、分かり易いので、こんな例を取り上げただけで、何事も同じなのだ。
株で何億、何十億円と稼ぐ人がいて、そんな人を羨ましいと思っている人も多いと思う。
だが、そんな人は、自分と株式市場とホログラフィックな関係にあり、自分の中に株式市場があるように感じるが、自分自身も株式市場に取り込まれてしまっている。
1つの細胞が生物を離れて生きられないように、彼は株式市場から離れられない。
株式市場は欲望渦巻く世界だ。
それほど楽しいものではない。
彼は、株式市場が見えてしまっていて、儲けを逃すことが恐くて仕方がないかもしれない。
彼は、別のものともホログラフィックな関係を持たないと、人生自体が辛く、楽しくないのである。

普通の人は株をやれば、間違いなく損をする。
株をやるには、情報を仕入れる。
それは、株式市場の動向の予想情報だ。
最近では、それをネットとコンピューターでやれるようになっている。
それでやると儲かるはずなのに、トータルでは必ず損をするのだ。
その種明かしをすれば、予想という過程は、株式市場に含まれるホログラムなのだが、ホログラムである以上、株式市場自体、予想の中に含まれている。
それに気付いた人が、大投資家になるのだ。
予想自体が、株式市場を動かしてしまうことを知っているのだ。
丁度、量子力学で、観察すれば、観察対象に影響を与えてしまい、正しい観察ができないようなものだ。
だから、大投資家というのは、予想を信じない。
それで、普通の人が予想することと全然違う投資をして、儲け全部をかっさらってしまうのだが、そのやり方が、普通の人にはどうしても分からないのだ。

話を変えて、女の子を口説くことを考えてみよう。
普通、男は、女性を口説くために、いろいろサービスするのだと思う。
荷物を持ってあげたり、雑用を片付けてあげたり、プレゼントをしたりとかね。
だが、この試みは絶対に失敗する。
サービスで女性を口説けた男はいない。
(女性が男を誘惑する場合も同じだ)
プレゼントを渡すってことは、株の予想と同じなのだ。
上で述べた通り、株の予想は、想定外の影響を株式市場に与える。
同じく、サービスは恋愛関係に想定外の影響を与えるのだ。

プレゼントを渡す者は、相手が喜び、自分の誠意を認めてくれて、自分を好きになってくれることを期待する。
そんな単純な影響が起こるはずがないのだ。
「この馬鹿」と言いたいほどである。
株と同じように、もっともっと複雑で、予想不可能な影響があるのだ。
そして、それは、ほとんどの場合、まずい結果につながる。
なぜだろう?
相手が好きになってくれる、あるいは、株が上がるというのは、沢山の動きの中の、たった1つのパターンでしかないのだ。
しかし、好きになってくれない、株が下がるという展開には、実に多くのパターンがあるのだ。
うまくいく方がおかしい。
女の子にプレゼントをすれば、しないより百倍悪い結果になると知っておくと良い。

ではどうすれば良いか?
株の方はともかく、女の子の方は、諦めてしまえばうまくいく。
それでマイナスの影響が起こらないということもあるが、ホログラムの循環の特質により、そうなってしまうのだ。
そのあたりは、言葉で説明するのは難しいが、直観で分かると思う。
そして、それは株も同じなのだ。
そのために、芸術を鑑賞したり、世間で芸術と言われるかどうかは関係なく、あなたが純粋に惹かれるものを熱心に見、世話をし、育てれば自然に分かることだ。









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あなたも本日ただいまより芸術家になれる

岡本太郎の著書『今日の芸術』は、やや以前の日本の芸術家なら、誰もが読んだものらしいし、今でもその価値は衰えないばかりか、ますます高まっている。
ところで、この本に、「あなたも本日ただいまより芸術家になれる」と書かれている。
このことに違和感を感じるなら、世間の偏見に染まり、一般大衆の教義、信念に平伏しているということだ。
人間は本来、芸術家であり、芸術家でないなら人間ではない。
そして、自分が芸術家であるかどうかの見極めだが、何かの行為を無償で熱心にやれるなら、何の問題もなく芸術家であると言える。
芸術とは無償の行為である。
ゴッホは1年365日、2日に1枚以上のペースで猛烈に描き続けたが、作品は1枚も売れなかった(1枚だけ、今日の数万円程度で予約があったらしい)。
宮沢賢治も、沢山の珠玉の作品を残したが、一度だけ、やはり今日の数万円くらいの原稿料を受け取っただけらしい。
ゴッホは全く働かなかった。
賢治も、病弱だったこともあるが、ほとんど働いていない。
だが、ゴッホは、弟テオが全面的に援助してくれたし、賢治は実家が金持ちで、経済的には不自由せず、ささやかではあったが美食を楽しんでいた。
これらも、芸術の神のご加護のように感じられる。
ピカソやウォーホールのように富豪になった例もあるが、それは、たまたまだと思った方が良い。

芸術は無償の行為だし、熱心に行う無償の行為は何であれ芸術だ。
極端に言えばだが、もし、泥棒行為自体が楽しく、報酬を問題としていなければ、彼にとっての泥棒は芸術である。
ある有名なミュージシャンが、「ミュージシャンというのは、街角でハーモニカを吹いていれば満足できるような者だ」と言ったが、これが芸術家の真の姿を完全に表している。
南方熊楠は、その天才的な能力で無償の研究を続けた。彼の科学は芸術である。
アインシュタインは高額の収入があったが、相手が誰であっても、金を無心されて(乞われて)断ったことがなかったし、彼自身は金をあまり必要としていなかった。
やはり、アインシュタイの物理学も芸術だった。
小説の話ではあるが、『木枯し紋次郎』のヒーロー紋次郎が、あてはないが、常に風に乗ったような速さで歩いて旅を続けたことが、本人には全く自覚がなくても、彼の人生そのものを芸術にしている。
『神様のメモ帳』に登場する、愛すべきニート達は、ニートであることを自覚しながら、ジゴロ(フランス語。男妾、ヒモのこと)、ギャンブラー、ミリタリーオタクを熱心にやっている。彼らはもちろん芸術家である。
今日見られる明晰な芸術は、初音ミクの楽曲や動画等の制作であると思う。

我々も無償と決め込み、自分のやるべきことを熱心にやれば良い。
それが芸術であり、人間であることである。
そして、芸術の神は慈悲深い。
芸術のためなら、生活の面倒は見てくれるだろう。









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芸術家になるために本当に必要なこと

絵を描こうと思ったら、描く対象をよく観察しなければならない。
良い絵になるかどうかは観察力次第だ。
逆に言えば、絵を描くことは観察力の訓練になる。
たとえ心の中の想像を描くのだとしても、それが少女であれば、実際の少女をよく観察しないと絵にならない。
抽象画を描くような場合も、その元となる何かは鋭く観察しなければならない。
そして、本当に心の中のイメージだけを描く場合であれば、心を観察するという難しいことをしなければならない。
そのためには、まずは外界をよく観察して、観察力を極めて高度に高めておかなくてはならないのだ。

絵に関することは、詩や文章にも全くあてはまるだろう。
優れた詩や小説を読むと圧倒されることは、それがたとえ抒情詩(感情を描いた詩)や空想的な小説であっても、光景や物の描写が実に繊細で生き生きとしていることだ。
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を読むと、その不思議な列車の中の様子や、列車の窓から見える風景が具体的に細やかに描かれていて、それが実に美しい。
読んでいて、描写されていることの実際の様子が分からない場合もある。今では使われていない物や、自分が見たことのないものが描かれている場合や、あるいは、文章自体が(時には欠陥があるのかもしれないが)、よく理解できない場合である。
しかし、それでも、何かを賢明に描写しようとしていることが分かるし、それが作品にリズムを与えているのである。
ダンテの『神曲』では、ダンテは、(おそらく見たことのあるはずがない)地獄や天国の様子を事細かに描写して見せる。
イェイツはダンテを「ルネッサンス随一の想像力の持ち主」と言ったが、ダンテには天才的な観察力があったから、あのようなものが書けたのだ。
観察力がなければ、あれほど真に迫った想像は絶対にできない。
つまり、いかなる詩や小説を書く場合であろうと、作者は高度な観察力を持ち、その能力を発揮しなければならないのだ。
まして、ドキュメンタリーや叙事詩(出来事を描いた詩)であれば、描写が優れていなければ話にならず、そのためには高度な観察力を発揮しなければならない。

絵画や文学はもちろん、記録文書でも、最終的には、その良し悪しを決するのは表現力である。
だが、観察力がなければ、優れた表現はできない。
作家志望や画家志望の者がしばしばよく犯す間違いは、表現力にばかり心を向け、観察力の重要さに気が付いていないことだ。
美大などでは、最初、猛烈にデッサンをさせられるらしいが、その目的が、観察することより、デッサンのテクニックに偏ってしまっていれば、いくら厳しいデッサンの修行をしても良い画家にはなれない。
画家が書いた絵の描き方の本でも、著者の画家が、自分には普通の人よりはるかに高度な観察力があることを忘れていたり、そもそも最初から気付いていなかったりで、技術的なことを書くのに終始して、結局、読者の役に立たないものが多いのだ。
実際、世の中には、描くテクニックはかなりあっても、観察力がないので画家になれない人は多いのだと思う。
同じようなことが、詩や小説の分野でも言えるのだと思う。

画家や作家になりたいければ、優れた推理小説(探偵小説)を読むと良いと思う。
そこには、探偵の繊細で粘り強い、集中された観察に関してよく描かれているからであり、その重要性に気付くと思うからである。
そして、観察力の大切さが分かれば、それを磨かなくてはならない。
つまり、作家、詩人、画家、その他の芸術家になるには、研ぎ澄まされた観察力がなくてはならない。
そして、実際は、作家や画家に関わらず、何をするにも、観察ほど大切なことはない。
作家や画家、そして、推理小説の中の探偵は、観察力がなければ全く成り立たないという意味において、いかなることをする場合でも重要な参考になり、貴重な示唆を与えてくれるのである。









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凡人には奇妙な、天才だけが知っているある感覚

長嶋茂雄さんが、バッティングの指導をされていた時、のってくると、「こう、くっとやって、すうすっ・・・だ!やってみろ!」とか言われた選手はさっぱり意味が分からず困惑することがよくあったらしい。
だが、普通の人は、こんな重要なことを、笑って見過ごしてしまうのだ。
ある天才的なヴァイオリニストに、演奏中はどんな感覚なのか尋ねたら、
「演奏が始まってしばらくは、頭の上の方で白くて丸いものが、ゆっくり回ります。その後は分からなくなるのですが」
といったようなことを言っていた。
これらから、天才と言われる人達には、凡人には理解し難い特別な感覚を持っていることが想像される。
それ(特別な感覚)を、能力を発揮すべき時にはいつでも呼び起こせるのだろう。
私は、これは、西洋のある魔法の秘儀と同じであることに気付いた。

私だって、子供の頃には、そんな「ある感覚」を知っていた。
その感覚を呼び起こすと、不思議なほど良い絵が描け、走り高跳びをやれば無敵で、その感覚と共に、庭で「にゃあにゃあ」言っていると、本当に猫が20匹も30匹も集まってきて壮観であった。
だが、親や教師は、そんな感覚のことを何も知らず、全く意味のない能力開発の方法を押し付けてくるので、やがて、何もする気がなくなってしまった。
あなたも、その感覚を掴めば、50mを8秒かかっていたなら6秒台の俊足になり、試験では、マークシートごときなら勉強していない問題でも百点が取れ、あれほどもてなかったのが、声をかけるごとに、どんな可愛い女の子でもみんなついて来る。
もっとも、我欲ばかりで使えば、その感覚を思い出すこともできなくなると思う。

その感覚は、呪文でも、呼吸の仕方でも、何かのポーズでもない。
そんなものとは全く違う。
言葉や形では、どうにも表現できないが、必ず存在するものだ。
それを、どうやって掴めば良いのだろう?

そのためには、芸術に親しむことだ。
荘厳な風景に出逢った時、我々は、心は澄み切って消えてしまい、全くの無思考の状態になる。
自然こそ、最高の芸術だからだ。
その、心が消えた処が、あなたがかつて持っていたはずの「あの感覚」の扉だ。
だから、あなたも、時間があれば、素晴らしい自然を見に行くのだ。
どんなに高額でも、宇宙飛行に参加したい人がいくらでもいるのはなぜだろう?
彼らは直感的に知っているのだ。そこに行けば、「あの感覚」と再び出逢えることを。
そのためなら数千万円はとても安いのだ。
岡本太郎は、フランスで初めてセザンヌを見た時、涙がとめどなく流れたという。
「あの感覚」が湧き起こり、これまで身に付いた汚れが、一気に浄化されてしまったのだ。
それから彼はまた汚れたが、30歳も過ぎて、18、19歳の若者達と一緒に、二等兵として中国大陸に送られてしごかれた時のことだ。
地面に倒れ、気が遠くなっていく時に見た、一輪の小さな花の美しさに心をかき消された。
それからだ。彼が目を剥くようになったのは。
岡本太郎の、あの異様な目を見開いた顔は、あの時の感覚を思い出すためのものなのだ。

あなたも、安っぽい娯楽はやめて、壮麗な風景に接し、至高の絵画や彫刻を観賞し、天界の音楽に心を溶け込ませるのだ。
そうすれば、忘れてしまっていた、あの大切な感覚を取り戻すことができる。
その感覚が強く、鮮明になり、馴染み深いものになれば、あなたには不安はなくなり、一切の恐怖を克服できる。
死すら恐くはなくなる。
あなたは、作り物ではない本当の自信に満ち溢れ、地球上を闊歩するようなるだろう。
もちろん、物質的なものなど、何でもなくなり、自由に手に入れるが、余計なものを得ようとはしないので、後悔もなく、落ち着いていられる。
あなたは、こんな重要なものを、世間の人達のように笑ってはならない。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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