道徳的、倫理的にやってはならないことだが、やったら楽しいし、やっても明らかに罰を逃れられる状況にある場合も少なくない。
そんな時、本当に、それをやってしまう者がいるし、最近は多くなっているようにも思う。
私が小学4年生の時、それが何だったかは忘れたが、悪いことでありながら、得だし、やっても誰にも咎められそうにない状況にあったことがあった。
私が、
「やってもバレないよね?」
と10歳年長の従兄に言うと、従兄は私を咎める風は全くなかったが、
「良心の問題だよ」
と言ったのを、私はよく憶えている。
その数年後、従兄は警察官になった。
ある時、下着泥棒を捕まえた後で従兄は、
「まあ、(下着泥棒の)気持ちは分かるがな」
と言ったことがある。
つまり、その犯人は良心が欠けていたのだ。
従兄は、表向きはあまり善人ではないのだが、良心の人だった。
ところが、世の中は、時が経つごとに、捕まるようなことは避けるが、捕まらずに済むと分かっていたら、良心に反したことをする者が多くなった。
多くの人間達が自分の良心を踏みにじっていた代表が、ナチス・ドイツだった。
自分の得や楽しさを選び、良心を捨てた人間達が、あまりに大きな悲劇を起こした。
我々は、ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』を読み、良心を捨てた人間がどうなるかをしっかり確認しなければならない。
今や、ナチスのことを知っても「彼らの何が悪いの?」と言う者が多そうで恐ろしいが。
良心は魂の声だ(心理学的には「超自我」の声と考えることがあるらしい)。
良心に反したことをやり続けたら、魂の声が聞こえなくなってくる。
魂の声は、神の声であり、直観でもある。
IQ200の者が(本当はIQは150程度以上の判定は出来ないらしいが)いくら理屈で考えても、例えば、フォレスト・ガンプの例だが、IQ75の者が直観で導いた答に遠く及ばない。
直観、魂の声、神の声は、人間の知性をはるかに超えて優れていて、それだけでなく、完璧である。
14世紀のインドの聖者ナーマ・デーヴァ(ナーム・デーヴ)が、直観で、つまり、魂の声を聞いて、つまり、神の声を聞いて書いたと思われるのが『聖なる名前の哲学』で、この短い聖典を発見したラマナ・マハルシは、これを自ら書き写し、生涯、手元に置いた。
その第2章を引用すると、
名前そのものが形であり、形そのものが名前である。名前と形に違いはない。
神は顕現し、名称と形態を装った。名前ゆえに『ヴェーダ』が確立されたのである。
名前を超えたマントラはないと知りなさい。これに異議を唱えるのは愚か者である。
ナームデーヴ曰く、「名前はケーシャヴァ(クリシュナ神)そのものである」。これは主の愛すべき帰依者にのみ知られる。
である。
(『あるがままに』、あるいは、『ラマナ・マハルシとの対話 第2巻』より)
神(あるいは仏)の名を唱えれば、神の声を聞くようになり、直観も強くなる。
これもまた、聖者達の直観、あるいは、魂の声が聞いたことだろう。
だが、神仏の名は、世俗の手垢がついてしまい、どうも抵抗がある場合も多いと思う。
例えば、「南無阿弥陀仏」の念仏も、神仏の名であり、それを唱えると、一切の問題が解決し救われるのだが、人によっては、この名に、宗教や葬式のイメージが強くて駄目だと言う者もいるかもしれない。
それなら、「ア」とだけ唱えると良い。
日本語は、一語一語に神が居る。その中でも「ア」は特別で、これだけで、あらゆる悩みが解決する。
最高神の名は「アウワ」である。
これは、古事記ではアメノミナカヌシノカミであるが、別の名もある。しかし、「アウワ」が根本の名である。
「アウワ」の周辺の神が、「トホカミヱヒタメ」の8神である。
「トホカミヱヒタメ」は、1つの呪文のようなものではなく、「ト」「ホ」「カ」「ミ」「ヱ」「ヒ」「タ」「メ」の8柱の神なのである。
「トホカミエミタメ」を祓詞として唱えることが流行っているが、おそらく、間違いである。
『言霊-ホツマ』を参照すれば、「トホカミヱヒタメ」の「ヒ」が「ビ」と発音されて「トホカミヱビタメ」となったが、今度は、「ビ」が「ミ」に変化してしまったのだと思われる。
例えば、「さびしい」を「さみしい」とも言うように、「ビ」は「ミ」に変化し易いからだ。
再度言うが、「トホカミヱヒタメ」は1つの呪文や祝詞、祓詞ではなく、8柱の神なので、その名を唱える時には、安易に続けて唱えるのではなく、一語一語丁寧に唱えなければならない。
言うなれば「ト・ホ・カ・ミ・ヱ・ヒ・タ・メ」といった感じだ。
YouTubeなどで「トホカミエミタメ」と唱えることがよく投稿されているが、私は良い印象を持たなかったので、調べてみたら、『言霊-ホツマ』の方が腑に落ちた。
各自で選べば良いことかもしれないが、参考になればと思う。
そんな時、本当に、それをやってしまう者がいるし、最近は多くなっているようにも思う。
私が小学4年生の時、それが何だったかは忘れたが、悪いことでありながら、得だし、やっても誰にも咎められそうにない状況にあったことがあった。
私が、
「やってもバレないよね?」
と10歳年長の従兄に言うと、従兄は私を咎める風は全くなかったが、
「良心の問題だよ」
と言ったのを、私はよく憶えている。
その数年後、従兄は警察官になった。
ある時、下着泥棒を捕まえた後で従兄は、
「まあ、(下着泥棒の)気持ちは分かるがな」
と言ったことがある。
つまり、その犯人は良心が欠けていたのだ。
従兄は、表向きはあまり善人ではないのだが、良心の人だった。
ところが、世の中は、時が経つごとに、捕まるようなことは避けるが、捕まらずに済むと分かっていたら、良心に反したことをする者が多くなった。
多くの人間達が自分の良心を踏みにじっていた代表が、ナチス・ドイツだった。
自分の得や楽しさを選び、良心を捨てた人間達が、あまりに大きな悲劇を起こした。
我々は、ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』を読み、良心を捨てた人間がどうなるかをしっかり確認しなければならない。
今や、ナチスのことを知っても「彼らの何が悪いの?」と言う者が多そうで恐ろしいが。
良心は魂の声だ(心理学的には「超自我」の声と考えることがあるらしい)。
良心に反したことをやり続けたら、魂の声が聞こえなくなってくる。
魂の声は、神の声であり、直観でもある。
IQ200の者が(本当はIQは150程度以上の判定は出来ないらしいが)いくら理屈で考えても、例えば、フォレスト・ガンプの例だが、IQ75の者が直観で導いた答に遠く及ばない。
直観、魂の声、神の声は、人間の知性をはるかに超えて優れていて、それだけでなく、完璧である。
14世紀のインドの聖者ナーマ・デーヴァ(ナーム・デーヴ)が、直観で、つまり、魂の声を聞いて、つまり、神の声を聞いて書いたと思われるのが『聖なる名前の哲学』で、この短い聖典を発見したラマナ・マハルシは、これを自ら書き写し、生涯、手元に置いた。
その第2章を引用すると、
名前そのものが形であり、形そのものが名前である。名前と形に違いはない。
神は顕現し、名称と形態を装った。名前ゆえに『ヴェーダ』が確立されたのである。
名前を超えたマントラはないと知りなさい。これに異議を唱えるのは愚か者である。
ナームデーヴ曰く、「名前はケーシャヴァ(クリシュナ神)そのものである」。これは主の愛すべき帰依者にのみ知られる。
である。
(『あるがままに』、あるいは、『ラマナ・マハルシとの対話 第2巻』より)
神(あるいは仏)の名を唱えれば、神の声を聞くようになり、直観も強くなる。
これもまた、聖者達の直観、あるいは、魂の声が聞いたことだろう。
だが、神仏の名は、世俗の手垢がついてしまい、どうも抵抗がある場合も多いと思う。
例えば、「南無阿弥陀仏」の念仏も、神仏の名であり、それを唱えると、一切の問題が解決し救われるのだが、人によっては、この名に、宗教や葬式のイメージが強くて駄目だと言う者もいるかもしれない。
それなら、「ア」とだけ唱えると良い。
日本語は、一語一語に神が居る。その中でも「ア」は特別で、これだけで、あらゆる悩みが解決する。
最高神の名は「アウワ」である。
これは、古事記ではアメノミナカヌシノカミであるが、別の名もある。しかし、「アウワ」が根本の名である。
「アウワ」の周辺の神が、「トホカミヱヒタメ」の8神である。
「トホカミヱヒタメ」は、1つの呪文のようなものではなく、「ト」「ホ」「カ」「ミ」「ヱ」「ヒ」「タ」「メ」の8柱の神なのである。
「トホカミエミタメ」を祓詞として唱えることが流行っているが、おそらく、間違いである。
『言霊-ホツマ』を参照すれば、「トホカミヱヒタメ」の「ヒ」が「ビ」と発音されて「トホカミヱビタメ」となったが、今度は、「ビ」が「ミ」に変化してしまったのだと思われる。
例えば、「さびしい」を「さみしい」とも言うように、「ビ」は「ミ」に変化し易いからだ。
再度言うが、「トホカミヱヒタメ」は1つの呪文や祝詞、祓詞ではなく、8柱の神なので、その名を唱える時には、安易に続けて唱えるのではなく、一語一語丁寧に唱えなければならない。
言うなれば「ト・ホ・カ・ミ・ヱ・ヒ・タ・メ」といった感じだ。
YouTubeなどで「トホカミエミタメ」と唱えることがよく投稿されているが、私は良い印象を持たなかったので、調べてみたら、『言霊-ホツマ』の方が腑に落ちた。
各自で選べば良いことかもしれないが、参考になればと思う。