ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

良寛

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

良寛、老子の光線銃

この世で生きるには武器が要る。
武器という言葉が嫌いだという人は甘いのかもしれない。
確かに、寡黙さや忍耐が最も強いのかもしれないが、聖人でない我々が、それに徹することが出来ようか?
この武器のことを、最近私は、光線銃と言っている。

良寛の光線銃は『荘子』だった。
良寛ですら、光線銃がなければ、この世の苦しみに耐えることが出来なかった。
ご存じのように、良寛は、子供達を集めて一緒に遊ぶのが好きだった。
しかし、昨日までいた女の子が、今日はいないということがよくあった、
貧しさのために身売りさせられたのだ。
良寛は、彼女達にどんな運命が待っているか分からないような世間知らずではない。
良寛は、エネルギーを失い、生命力が低下した。
その時、良寛の中で、『荘子』のエッセンスが動き出し、良寛の心と広大なる無意識をつないだ。
そこで、良寛ははっと悟った。
黙って耐えていたら、良寛は駄目になったかもしれない。
良寛は決して弱い人間ではなかったが、それよりも、良寛は優しい人だったからだ。

倶胝(ぐてい)という僧は、何を尋ねられても、黙って指を1本立てるだけだった。
門下の小坊主が、訪問者に「お前のところの和尚は、どんな教えをするのか?」と問われ、黙って指を1本立てた。
それを聞いた倶胝は、小坊主の指を切り落とした。
泣き叫んで走り去ろうとする小坊主を倶胝が呼び止め、小坊主が振り返ると、倶胝は黙って指を1本立て、小坊主は悟った。
倶胝は、臨終の際、「師の天竜にもらった一指禅を、一生かかっても使い切ることは出来なかった」と言って亡くなった。

この禅語に対し、難しい、訳の分からない解説をする人がいる。
無駄なことだ。
倶胝はただ、「光線銃を持ってないお前が持ってるフリをするな」と言っただけだ。
しかし、ここまでやらないと、光線銃の意義が分からないのだ。
この小坊主は、やがて、倶胝とは違う光線銃を手に入れたことだろう。

史上最高のプロレスラー、ルー・テーズは、その日の試合で苦戦していた。
最大のライバルの1人、ホイッパー・ビリー・ワトソンのタイミングの良い必殺のタックルを喰らって吹っ飛び、ダメージで身体が痺れていた。
さらに、もう一発喰らい、ほとんど戦意も喪失していた。
ワトソンがテーズに近付き、テーズの腕を掴んだ時だ。
テーズの手がゆっくりと伸び、刹那、その手が速く動いた。
ワトソンははっとしたが、もう遅い。
テーズは、ダブル・リスト・ロックでワトソンの左腕を捕えていた。
逃れようとするワトソンだが、テーズは離さない。
テーズはぐいぐい締め上げ、あと1cm、絞り上げれば、ワトソンの腕が折れただろう。
しかし、それは決してしないテーズだった。
テーズは、最後の力を振り絞り、エアプレン・スピンでワトソンを仕留めた。
テーズの光線銃は、このダブル・リスト・ロックだった。
彼が、師のジョージ・トラゴスからこの技を譲られた理由は、レスリングとトラゴスに対するリスペクト(敬意)のためだった。
畏怖とも言うべき敬意を持つ者のみが光線銃を手に入れるのである。

宇宙人の宇宙船には武器は搭載されていない。
だが、宇宙船には、ある種のエネルギーフィールドがあり、攻撃をそのまま相手に跳ね返す。
宇宙船の構造は、人間とほとんど同じだ。
だから、人間は、誰でも、そのようなことが出来る。
こちらが無になってしまえば、攻撃がそのまま敵に返るのだ。
シャーマンの間では、「呪い返し」として知られるものだ。
しかし、宇宙人は、威力を弱くして返す。
いや、本当は返す気もない。
ならばなぜ返すかというと、敵に、自分達を殺す罪を犯させたくないからだ。
だが、いずれかが滅ばねばならないとすれば、自分たちが滅びる方を選ぶのである。

老子の光線銃は、倹約と慈悲と目立たないことだ。
老子は、これを3つの宝と言う。

あなたも、早く光線銃を手に入れ、初音ミクさんの『千本桜』を聴いて、光線銃を撃ちまくるのだ。
光線銃を手に入れたいと熱心に思い、自分より優れた者への敬意を忘れなければ、必ずや手に入れることが出来るだろう。









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『ハチドリのひとしずく』を誤解するな

難しい家庭環境の子供がいるが、そんな子に対し、学校の教師も近所の大人達も行政も、ほとんど何もしてやれない。
『レ・ミゼラブル』で、実業家として成功し、マドレーヌ市長になったジャン・ヴァルジャンのような富があれば、少しはできることがあるのだが、彼だって、フォンティーヌ母娘を身受けはしたにしろ、他にも不幸な家庭や子供達は無数だ。
子供好きで、子供達を集めて一緒に遊んでいた良寛さんも、貧しい家のまだ幼い女の子達が次々に身売りさせられるのに何もできず、自分の無力を嘆くしかなかった。

富や権力があろうがなかろうが人間は無力である。むしろ、世間的な力がある方が、より自分の無力を感じるようになるに違いない。
そもそも、人間は、自分の心1つ自由にできず、よって、自分の身の面倒も見れない。まして、他人や世界に対して何もできるはずがない。
たまたま運命によって富を得、自分の人生や他人の人生、そして、自分の周囲や、さらには、かなり広い世界に対して影響を及ぼしたとしても、冷静に考えれば、それはあまりに卑小であり、もし、知恵というものが少しでもあれば、実際は自分は何もしていないことが分かるのだ。

だからといって、悲しんだり、嘆いたりしてはならない。
上に述べたように、良寛さんは、一緒に遊んでいた女の子達が身売りさせられる中で、自分は台風の中の蚊一匹ほどの力も無いことを思い知って絶望するが、中国の荘子が書いた『荘子』や、道元の『正法眼蔵』によって大悟し、苦しみを克服したらしい。
状況は何も変わらないが、良寛は、ものごとをあるがままに任せることができたのだ。
良寛が悟ることができたのは、苦しみがあったからこそだろう。

身売りさせられた先で、まだ幼い女の子達がどんな目に遭ったとしても、それは、彼女達が生まれる前から決まっていた運命である。それを自分にはどうにもできないことも、良寛の初めから決まっていた運命だ。それだけのことなのだ。
我々も全く同様だ。
朝起きたら、辛(つら)い自分の境遇を悲しむとしても、そんな苦しみを背負うことは、生まれる前から決まっていた運命だ。
あるいは、偉大な努力と素晴らしい能力を発揮することで大きな成果を挙げ、人々に賞賛されるとしても、それもただの運命であり、自分が偉い訳でも何でもない。
良いことがあれば喜び、悪いことがあれば悲しむことは、人としての情がある以上避けられないが、それに巻き込まれるから不幸なのである。
いかな恥辱を受けても、過ぎ去ってしまえば夢だったと忘れ、いかなる業績を上げてもそれに寄りかからず、あっさりと手放すことだ。
それができれば、苦しみを逃れ、幸福であることができるだろう。

別に、自分にできることを放棄せよと言うのではない。
しかし、それを行う運命であれば嫌でもやるし、やらない運命であるなら、決してやることはできない。
「もしあの時、あれに賭けていれば、俺は大成功したのに」と思ったところで、賭けないことが生まれる前から決まっていた運命なのであり、少しも嘆くに及ばない。
「あの時、あいつが金を貸してくれてたら、俺はこんなに不幸にならなかった」と思っても、貸してもらえないことが、誰にも変えられない絶対的運命であったのだ。誰かを恨むのは筋違いもいいところなのだ。

苦しければ、神仏に助けを求めるが良い。
助けてくれるから。
神仏に助けを求めるとはどういうことだろう?
それは、自分の敗北を認めるということだ。
つまり、自分は全く無力だということを完全に受け入れることだ。
仏教の何かの経典に、こんな話があるらしい。
『ハチドリのひとしずく』という酷似した話もあるが、どこの国にも似た話があるものだ。
森が大火事になった時、そこに住んでいたオウムが、長年棲家を与えてくれた森のために、火を消そうと、何度も池に飛び込み、大火の上で羽ばたいて水を撒き散らした。
『ハチドリのひとしずく』の場合は、ハチドリが小さなくちばしで水を運ぶのかもしれない。
そんなオウムを見て、神が、「お前の行いはけなげではあるが、その程度の水が何になる?」と言う。
するとオウムは、「恩に報いる行いが為らないはずがない。私は何度生まれ変わってもやり抜く」と言う。
感動した神は、オウムと協力して火を消した。
しかし、よく考えたら、オウムは(あるいはハチドリは)やはり、何もしていないのであり、火を消したのは、ただ神だけだ。
その肝心なことが、意図的にか、書かれていないのだ。
オウムが何を思ったところで、何の関係もなかった。火は適度な時期に、「もともと」神が消すことになっていたのだ。
もし、あなたが医学者で、エイズを克服したとする。しかし、あなたは何もしていない。あなたは、運命に従ってそれをさせられただけだ。
だから、誰よりも真理を知る釈迦はこう言ったのだ。
「行為はあるが、行為者はいない」
イエスもこう言った。
「神の意思でなければ、いかなる些細なことも起こらない」
釈迦やイエスが知ったことを我々も知れば、我々は死も克服するのである。
自分の無力を完全に認め、神仏にすがれば、必ず助けてもらえる。
法然は、「南無阿弥陀仏」とは、「阿弥陀様、お助け下さい」という意味であると言った。
「私は阿弥陀如来に帰依します」なんて難しい意味じゃあない。
素直に「助けて」と言えば助けてもらえる。
ただし、神仏は人に手は貸さない。
上にあげたオウムの話は、本当は、オウムが自分の無力を悟り、神に任せた時に、神が火を消したのだ。
だから、何もせずにただ念仏を唱えることが、最も確実なことなのだ。
とはいえ、運命であれば、余計なことをするかもしれない。それが人間というものかもしれない。しかし、それでも念仏をするのだ。









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災いを逃れるための本当に現実的な方法

良寛さんは、災難を逃れる優れた方法は、「災難に遭う時には災難に遭い、死ぬ時が来れば死ね」ことだと言ったらしい。
良寛さんは荘子を読んでいたらしいが、荘子は、起こることを起こるままに任せ、是非好悪の判断をせずに無心に受け入れれば、無限の自由を得ると述べていた。
良寛さんは、やはり荘子に学んだのだと思う。
ところで、良寛さんの子供好きはよく知られているが、実際に、子供達を集めてよく一緒に遊んでいたらしい。
しかし、昨日までいた女の子が、一人、また、一人といなくなっていく。家が貧しくて養っていくことができず、まだ幼いのに、身売りさせられたのである。
良寛さんは自分の無力を嘆き、寺に何日も引きこもったという。
だが、やがて、彼は、苦悩の中で悟ったのだろう。
天が定めた人の運命は変えられない。しかし、その運命を無心に受け入れ、天に身を任せて万物と共に流れる者には、鬼神も道を譲り、神々も地に伏してこれを拝するのだということを。つまり、それが最も貴い生き方なのだということを、言葉だけでなく、魂から分かったのだ。
それで悲しみや苦しみが無くなる訳でもないのだろうが、人生や世界を認めることができたのだろうと思う。
どんな人も、人間である限りは辛い人生を送っている。決して例外はなく、誰もそれを逃れる術はない。
だが、同時に、そのままで、自由と喜びを得ることもできるのだろう。
そのためには、イエスのように、悪魔である自我に、「我が後方に退け」と命じなければならない。
それは、自分よりも高い存在があることを認め、それに降伏し、人生全てを投げ出して、一切を任せるということである。
釈迦も、老子も、荘子も、法然も、親鸞も、黒住宗忠も、ラマナ・マハルシも、実質では同じことを教えたのに違いない。
我々は、誰でも、絶対に楽しく生きることができるのである。
その方法を、実にうまくコンパクトにまとめたものが、最初に取り上げた良寛さんの言葉「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬる時節には死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候」なのである。
そして、アインシュタインが言ったように、神は老獪ではあっても悪意はない。
仏は慈悲深く、全て任せて安心しておれば間違いはないのである。
イギリスのことわざでもあるのだろうか、イギリスのTVドラマで、ある立派な人物が、「爆発現場に近ければ近いほど生き残れるそうだ」と言ったのを覚えているが、良寛さんの言葉を味わうと、不思議とそれが納得できるのである。









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ガリレイの気持ちを分かったような気になってはならない

テレビCMやWeb広告を見ていると、知的、道徳的にあまりのレベルの低さに愕然とする。
大人が子供の真似をするように、幼い風を装って笑わせるというのは、緊張を解き、場を和ませるには良いことで、昔から行われてきたが、それらの広告はそんなものではなく、自分の中の良心や善意を完全に殺した者が作った異常なものである。
間違いなく、何者かの、我々の精神を幼稚なものにしようとする意図によって作られているのだろう。
特に、ダイエットや食品関係の広告に顕著である。
そんなものにひっかからないためには、厳しく食を節することであり、食を慎む限り心配はない。しかし、今や、少食、菜食であることに対し、否定的、あるいは、奇異なイメージを与えられるまでになってしまった。それもまた、連中の策略かもしれない。
注意深く精神を目覚めさせていなければ、あっという間に精神を幼児化させられ、肉体的な快楽のみ求める堕落した状態に陥ってしまうことだろう。
事実を言えば、テレビで放送されているCMで、まともなものはただの1つもない。ただの1つもだ。まずは、それに気付くかどうかだ。それに気付かないなら、あなたの精神はもう相当蝕まれていると言えるだろう。

人間はどう生きれば良いかというと、普通は道徳に従うことだ。
道徳とは、伝統としきたりである。
道徳で解決できないことに関しては、良心に従う。
良心は道徳より上位にある。
だが、道徳と良心が対立する事態となることがある。
イエスが言った「我々を試みに遭わせないで下さいと祈れ」と言った試みとはこれである。
ガリレイが地動説を捨てるよう要求されたことが、そのようなものだろう。
我々の立場で言えば、例えば、営業の仕事をしていて、お客様に不利益な商品であっても、売らないと仕事にならないといったものである。言うまでもなく、一生懸命仕事をすることは道徳に適ったことだ。
ただ、そのような場合、一律した答がある訳ではない。
そんな時には、悩むしかない。答はない。
だが、今の人は、学校で、何でも答があると思い込むようにさせられている。これが現代の教育の大きな、そして、救いようのない弊害である。
答は教師が知っていると愚かにも思い込み、その答を憶えるのが優等生がやる唯一のことである。優等生こそ、救いようのない馬鹿である。
優等生に悩みや苦しみはない。悩みや苦しみを避けるのが優等生への道であるのだ。
だが、我々は、道徳と良心の対立の中で、迷いに迷って苦しむ必要があるのだ。
それを避けてはならない。
ガリレイが何を考えたなど、誰も知らないのだ。
ただ、自分がガリレイになることだ。

子供好きな良寛さんは、子供達を集めて遊んでいた。それはそれで楽しかった。
しかし、昨日までいた女の子が、1人、また、1人といなくなる。
家が貧しいので身売りさせられてしまったのだ。身売り先で、幼い彼女達がどんな扱いを受けるかは明白である。
良寛さんは寺に引きこもり、自分の無力さを嘆き、悩みに悩んだ。
そして、『荘子』の中にあった真理が彼の内側から観応し、彼は悟り、苦しみを克服した。
彼に何が起こったのかを言葉で説明することはできない。
いずれにしろ、彼は現実を認めつつ、良心に従うことができたのだ。
彼に起こったことを正確に言うことはできないが、抽象的に言うなら自己否定である。
人生の課題とは自己否定を為せたかどうかである。









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主役は自分が泣いたりしないものだ

死ぬことを恐れない人が、他の人に親切に出来るのだろうと思う。
逆に、死ぬことに恐怖を持っていたら、人を敬うことも、寛容になることも出来ないだろう。
私は、この先、食べていけなくなって、餓死するとしたら、それで良いと思う。
しかし、眠るように死んでいきたいなんて贅沢は言わない。
飢えて死ぬのは苦しいかもしれない。しかし、何かの心の支えがあるなら、素直に苦しみたいと思う。
だけどね、本当は、餓死する運命だから餓死するというだけであり、そんな運命でなければ、望んだって餓死なんて出来ない。
逆に、どれほど食べたくても、餓死するのが定めなら、それを避けることは出来ないのだ。
どんなことも、自分で選択出来たりしない。ただ、起こるべきことが起こるだけである。
それを受容する時に、初めて人は救われるのだ。

どれほど大きな過ちを犯し、人に迷惑をかけたり、取り返しのつかないことになったとしても、ただ、あなたは、それが生まれる直前か百億年前かは分からないが、とにかく、ずっと前から完全に決まっていた運命のシナリオの通りに演じて見せただけのことなのだ。それは、あなたがどうしようと、決して変えられなかったことだ。
インドの偉大な聖者ラマナ・マハルシに、ある男が訴えた。
「私には妻子があるのですが、隣の家の娘が魅力的でたまらない。間違いを犯しそうです。どうすればいいのですか?」
マハルシは助言は与えたが、最後にこう言った。
「たとえどうなろうと、決して後悔してはならない」
あなたも今日、誰かにいやなことをしただろうし、弱い人を傷付けることを言ったかもしれない。
さらに、恥ずべき考えや行為を重ねたに違いない。
あるいは逆に、英雄のような行いをしたのかもしれない。
しかし、あなたは何もしていない。
アイルランドの詩聖W.B.イェイツは、「主役を演じるほどの役者は、自分が泣いたりしないのだ」と言った。
神がどのような意図で、こんな運命のシナリオを創ったのかは決して分からない。しかし、あなたは主役であり、神のシナリオを演じ切るしかなかったのだ。そして、あなたは泣いてはいけないのだ。
イエスも、荘子も、そして、釈迦も、それを明らかに認めていた。
そして、彼らのように運命を受け入れれば、何も恐くなくなる。そうなれば、限りない慈悲の心も持つことが出来るだろう。
なぜならば、受容性を持ったなら、その者はもう救われているからだ。
昨日まで隣で笑っていた幼い少女達が売られていき、自分の無力を嘆き、死ぬほど苦しんだ良寛さんも、そんな荘子の教えを知って救われたのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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