『荘子』の『大宗師』という章に「坐忘(ざぼう)」というお話がある。
そこに、このブログで最近中心の話題である「無(想念が消えた状態)になれば不可能はない」を暗示することが書かれている。
荘子は、これについて、孔子と、その弟子である顔回(がんかい)との対話として述べる。
孔子の教えは、仁義(道徳の根本)・礼楽(礼儀と音楽)を重んじる。それは、儒教独特の、高尚な、お堅い教えだ。
その孔子に以下のような問答をさせるのは、荘子特有のジョークであるが、非常に意味深いジョークだ。
ある時、顔回は孔子に、自分の修行の成果として、
「私は仁義を忘れました」
と言う。すると、孔子は、
「それは良い。だが、まだ足りない」
と答えた。
それからしばらく経ち、顔回は孔子に、
「私は礼楽を忘れました」
と言うが、また孔子は、
「それは良い。だが、まだ足りない」
と言う。
それからまたしばらく後、顔回が孔子に、
「坐忘が出来るようになりました」
と言うと、孔子は今度は改まり、
「坐忘とは何か?」
と尋ねた。
顔回は答える。
「五体から力を抜き去り、いっさいの感覚をなくし、身も心もうつろになりきって、『道』のはたらきを受け入れることです」
これを聞いて孔子は大いに感心し、「私もお前に後れを取らないようにしなければ」と言った。
これは、徳間書店の岸陽子訳であるが、PHP文庫の西野広祥訳では、もっとくだけて坐忘について、
「からだも感覚も思考力もなくなったみたいになり、大宇宙の『道』と一体化した状態になることです」
と述べ、孔子が「お前を見習おう」と言う。
簡単に言えば、やはり、坐忘とは、無になること、想念を消すことだ。
『荘子』では、第1章の『逍遥遊』に続く第2章の『斉物論』の最初で、南郭子キ(なんかくしき。「キ」は常用漢字以外の漢字)が、坐忘を実演する様子が描かれている。
机に寄りかかり、空を仰いで静かに呼吸を整え、全身から生気が消え去り、魂の抜け殻のような姿になり、傍らにいた弟子を驚かせる。
南郭子キは、その弟子に(坐忘の意味について)手ほどきをするが、この『斉物論』は、それを詳しく説明する。
『荘子』は、全体を通じ、無になることについて深く述べている。
結果、自由になると説いているが、時代の違いもあり、現代のように、それで引き寄せが出来るとは述べないが、それを示唆することは述べていると思う。
『荘子』は、引き寄せの、あるいは、魔法の最上級のテキストであるが、一般には、老子と共に「老荘思想」と言われ、無為自然の、欲望を捨てた、まるで仏教のような教えと捉えられることが多く、実際、中国でも、荘子の教えが仏教に取り入れられていることがある。
日本にも、昔は、『荘子』は仏教の一部のようにして入ってきていたので、仏僧が読んでいた。
あの良寛さんもそうだった。
そして、良寛さんは、苦しい想いをしていた時、荘子の教えに救われている。
良寛さんと言えば、子供達と遊ぶのが好きで、よく子供達を集めて遊んでいたが、女の子がある日不意にいなくなることに気付く。
家が貧しくて売られたのだと分かると、良寛さんは自分の無力を嘆き絶望する。
そんな良寛さんを救ったのが荘子の教えだった。
これについて、難しいことを言う先生は多いが、良寛さんは、想念を消せば良かったのである。それが現実の解決ももたらす。
そこに、このブログで最近中心の話題である「無(想念が消えた状態)になれば不可能はない」を暗示することが書かれている。
荘子は、これについて、孔子と、その弟子である顔回(がんかい)との対話として述べる。
孔子の教えは、仁義(道徳の根本)・礼楽(礼儀と音楽)を重んじる。それは、儒教独特の、高尚な、お堅い教えだ。
その孔子に以下のような問答をさせるのは、荘子特有のジョークであるが、非常に意味深いジョークだ。
ある時、顔回は孔子に、自分の修行の成果として、
「私は仁義を忘れました」
と言う。すると、孔子は、
「それは良い。だが、まだ足りない」
と答えた。
それからしばらく経ち、顔回は孔子に、
「私は礼楽を忘れました」
と言うが、また孔子は、
「それは良い。だが、まだ足りない」
と言う。
それからまたしばらく後、顔回が孔子に、
「坐忘が出来るようになりました」
と言うと、孔子は今度は改まり、
「坐忘とは何か?」
と尋ねた。
顔回は答える。
「五体から力を抜き去り、いっさいの感覚をなくし、身も心もうつろになりきって、『道』のはたらきを受け入れることです」
これを聞いて孔子は大いに感心し、「私もお前に後れを取らないようにしなければ」と言った。
これは、徳間書店の岸陽子訳であるが、PHP文庫の西野広祥訳では、もっとくだけて坐忘について、
「からだも感覚も思考力もなくなったみたいになり、大宇宙の『道』と一体化した状態になることです」
と述べ、孔子が「お前を見習おう」と言う。
簡単に言えば、やはり、坐忘とは、無になること、想念を消すことだ。
『荘子』では、第1章の『逍遥遊』に続く第2章の『斉物論』の最初で、南郭子キ(なんかくしき。「キ」は常用漢字以外の漢字)が、坐忘を実演する様子が描かれている。
机に寄りかかり、空を仰いで静かに呼吸を整え、全身から生気が消え去り、魂の抜け殻のような姿になり、傍らにいた弟子を驚かせる。
南郭子キは、その弟子に(坐忘の意味について)手ほどきをするが、この『斉物論』は、それを詳しく説明する。
『荘子』は、全体を通じ、無になることについて深く述べている。
結果、自由になると説いているが、時代の違いもあり、現代のように、それで引き寄せが出来るとは述べないが、それを示唆することは述べていると思う。
『荘子』は、引き寄せの、あるいは、魔法の最上級のテキストであるが、一般には、老子と共に「老荘思想」と言われ、無為自然の、欲望を捨てた、まるで仏教のような教えと捉えられることが多く、実際、中国でも、荘子の教えが仏教に取り入れられていることがある。
日本にも、昔は、『荘子』は仏教の一部のようにして入ってきていたので、仏僧が読んでいた。
あの良寛さんもそうだった。
そして、良寛さんは、苦しい想いをしていた時、荘子の教えに救われている。
良寛さんと言えば、子供達と遊ぶのが好きで、よく子供達を集めて遊んでいたが、女の子がある日不意にいなくなることに気付く。
家が貧しくて売られたのだと分かると、良寛さんは自分の無力を嘆き絶望する。
そんな良寛さんを救ったのが荘子の教えだった。
これについて、難しいことを言う先生は多いが、良寛さんは、想念を消せば良かったのである。それが現実の解決ももたらす。